シャルル・ルヌヴィエ評 (original) (raw)

Gunnによるシャルル・ルヌヴィエのレビューで個人的に気になった部分について、特に他の思想家との比較をまとめたものである。ルヌヴィエ自体に興味が湧くことはなかったものの、ざっくりとした理解はできた。
デュルケームが師と書き残しているように、ルヌヴィエの著作をデュルケームは熟読していたようではある。同時代性や当時の流行を今から知ることは難しいが、デュルケームがルヌヴィエのどのような部分に影響を受けたかという点については、Gunnによるレビューではよくわからなかった。


ルヌヴィエの思想は、カントの批判哲学を継承しつつも、独自の視点から発展させたものである。彼は「自由」と「人格」を中心に据えた思想を展開し、すべての知識や確信には意志の要素が関与していると主張した。彼の哲学は、個々の意志の断言が知識や信念の確立において重要な役割を果たすという点で、伝統的な理性中心の認識論とは異なる特徴を持つ。以下では、ルヌヴィエの思想と他の代表的な哲学的立場との比較を通じて、その独自性を明らかにする。

1. カントとの比較

ルヌヴィエはカントの影響を受けながらも、いくつかの重要な点で異なる立場を取った。カントは知識の成立において「純粋理性」と「カテゴリー」の役割を重視し、経験を超えた「物自体」については認識の限界を示すものとして捉えた。カントのアンチノミー論は、理性が無限や自由などの問題に直面する際に相反する命題を同時に支持することができるという理性の限界を示すものであった。これに対し、ルヌヴィエは物自体や無限数の存在を否定し、知識はあくまで意識に現れる表象に限られるべきと考えた。彼は、無限の概念を不合理で矛盾したものとみなし、カントが提示したアンチノミーは成立すべきではないと主張した。この点で、ルヌヴィエの立場はカントの批判哲学に対する一種の修正を試みたものである。

2. メーヌ・ド・ビランとの比較

ルヌヴィエの「意志」に対する強調は、メーヌ・ド・ビランの「Volo, ergo sum」(「我意志す、ゆえに我あり」)という立場と通じるところがある。ビランは、デカルトの「Cogito, ergo sum」(「我思う、ゆえに我あり」)が思考の存在確認には十分ではないとし、存在の確立には意志の行為が不可欠であると主張した。ルヌヴィエもまた、知識や信念は単なる知的な判断だけでなく、意志の働きに依存していると考えた。彼にとって、確実性は意志の断言によって初めて達成されるものであり、この点でビランの思想と共通する。ルヌヴィエは、思考する自己と存在する自己をつなぐものとして意志を見なし、意志の行為こそが自己の統合と確立に必要な「生きた火花」であるとした。

3. ヘーゲルとの比較

ヘーゲルは、カントのアンチノミーに対する解決策として弁証法を提案した。ヘーゲル弁証法は、対立する命題(テーゼとアンチテーゼ)をより高次の統合(ジンテーゼ)へと導くことで矛盾を超越しようとするものである。ヘーゲルの哲学では、矛盾や対立は発展の原動力として積極的に評価され、理性の自己展開を通じてすべての対立が統合される。この立場は、矛盾そのものが自己解決の可能性を内包していると見るものであり、ルヌヴィエの矛盾を回避するための無限の否定とは異なるアプローチである。ルヌヴィエは、無限や物自体を否定することで矛盾を回避しようとしたが、ヘーゲルはむしろ矛盾を受け入れ、それを超えていくための理性の働きを強調した。

4. プラグマティズムとの比較

ルヌヴィエの「意志が関与する知識や信念の確立」は、プラグマティズムの立場とも近い。プラグマティズムは、知識や信念の真理性をその実践的な有用性に基づいて評価する哲学であり、ウィリアム・ジェームズなどの哲学者によって発展された。プラグマティズムでは、信念は知識が実際の行動や結果において機能するかどうかによって正当化されると考えられる。ルヌヴィエも、知識や信念には感情や意志が伴うとし、それらが知識の成立にとって重要であるとした。ルヌヴィエの立場では、信念の確立は意志の決定と密接に関連しており、純粋に知的なプロセスとしてではなく、実践的な選択の結果として捉えられる。この点で、彼の思想はプラグマティストの立場と重なる部分がある。

5. 終末論とパーソナリズム

ルヌヴィエのパーソナリズムは、個々の人格や意識の尊厳を重視する立場であり、社会や倫理の問題を人格の価値を基準にして考えるべきだとする。この思想は、終末論的な要素も含んでおり、人格の価値は現世に限らず、未来や超越的な視点からも評価されるべきだとされる。これは、個人の人格が無限の可能性を持ち、物質的な制約を超えて自己実現を追求する理想を含んでいる。ルヌヴィエの終末論的な視点は、個々の人格が持つ価値を超越的に捉え、倫理的・社会的な実践の中でその価値を尊重しようとする点で、他の哲学的立場とは異なる独自の視点を提供している。

6. 現象学との比較

現象学は意識がどのように物事を経験するか、その現れ方を詳細に記述することを目指す哲学である。現象学は、意識の意図性(すべての意識は何かに向けられている)を強調し、現象が意識にどのように現れるかを探求する。このアプローチは、経験の質や主観的な視点を重視し、客観的な世界の存在を直接扱うのではなく、意識の中での現れ方に焦点を当てるものである。

ルヌヴィエの哲学と現象学は、いずれも意識に現れる現象を重要視する点で共通している。しかし、両者のアプローチには明確な違いがある。ルヌヴィエは、知識や信念は意志の行為によって確立されると主張し、意志が知識の成立において中心的な役割を果たすと考えた。一方、現象学は意識の意図性や現象の構造を記述することに専念し、意志の要素をそこまで強調しない。

また、ルヌヴィエは無限の概念や超越的な存在を否定し、認識は意識に現れる表象に限定されるべきだと考えた。これに対し、現象学は「現象そのものへ」というスローガンのもと、意識がいかに世界を経験するかの記述を通じて、物事の本質的な理解を目指す。現象学は、超越的な概念の存在を前提にするのではなく、意識の経験に忠実であろうとする点で、ルヌヴィエの厳密な実証主義的アプローチとは異なる。

このように、ルヌヴィエの意志の哲学は、意識の能動的な側面を強調し、確実性や信念が意志の決断によって支えられているとする一方で、現象学は意識の経験そのものの構造を解明しようとするアプローチを取る。その結果、ルヌヴィエは意志の重要性を強調することで独自の立場を確立しており、現象学とは異なる認識論的な視点を提供している。

7. アンチノミーと無限数についての比較

カントのアンチノミーは、理性が無限や自由などの問題に直面する際に相反する命題を同時に支持することができるという理性の限界を示すものである。カントは、無限を扱う際に発生する論理的な対立をアンチノミーとして整理し、理性が自然に導かれる矛盾を解明した。この問題は、無限の概念をどのように認識するかに深く関わっている。

ルヌヴィエは、カントのアンチノミーに対して、無限数の存在そのものを否定することで応じた。彼は、無限数は矛盾していると考え、数は有限でなければならないと主張した。ルヌヴィエは、無限の概念を取り除くことでアンチノミーの発生を避けようとしたが、このアプローチは現代の数学的理解とは異なる。現代数学では、無限数は厳密に定義され、カントール集合論などを通じて数学的整合性を持って扱われる。したがって、ルヌヴィエの無限に対する否定は、その時代的背景や実証主義的な枠組みに基づくものであり、アンチノミーに対する完全な解決策ではないとされる。

現象学においては、無限やアンチノミーは意識の経験としてどのように現れるかが問題となる。現象学は、これらの対立を単に理性的な矛盾としてではなく、意識の中での現象の現れ方として捉え、無限がどのように意識に現れるかを分析する。現象学のアプローチでは、無限は意識の中での一つの現象として扱われ、必ずしも論理的な矛盾を解決しようとするものではない。したがって、ルヌヴィエが無限を否定しようとするのとは異なり、現象学は無限を経験の一部として受け入れ、それが意識にどのように現れるかを探求する。

このように、ルヌヴィエのアンチノミーに対する立場は無限の否定を通じて矛盾を回避しようとするものだが、現象学は無限やアンチノミーを意識の経験の一部として捉え、その現れ方を重視するアプローチを取る。両者の違いは、無限に対する態度の相違だけでなく、理性や意識の役割をどのように見るかという哲学的視点の違いを反映している。


journals.sagepub.com本稿は、デュルケムの社会学的方法論における「規準」とシャルル・ルヌヴィエの『論理学』との関係について論じたものである。デュルケムの著書の各章が、ルヌヴィエの論理学的・科学的体系の特徴を特定の方法で利用していることを明らかにしている。ルヌヴィエの『論理学』の分析によって、デュルケムの思想の謎の一部は解明され、完全に説明することはできなくとも、その謎の一部は解明される。

www.degruyter.com本稿では、デュールケムを新カント派的社会思想家、そして感情伝染論の源として紹介する。『宗教生活の原初形態』は、デュールケムの新カント主義の典型的な事例として検証される。まず、フランスの新カント主義の知的背景と、その代表的人物であるCharles Renouvier、Émile Boutroux、Octave Hamelinについて考察する。彼らは、デュールケムの形成期に大きな影響を与えた人物である。デュルケームの『宗教生活の原初形態』における新カント主義は、Emin LaskとHans Kelsenの法哲学における新カント主義と対比される。デュルケームの歪曲と感情伝染の概念が、新カント主義への彼の主要な貢献であるという主張である。

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