前例主義と未来志向 : 池田信夫 blog (original) (raw)

今週のニューズウィークに書いたように、鳩山政権の破綻は、首相の優柔不断な性格もさることながら、内閣制度の欠陥によるところも大きい。しかし首相官邸の機能を強化しても、前例を極端に重視する霞ヶ関の風習が直らないと、このような悲劇が繰り返されるだろう。

経済学では前例(sunk cost)は無視して未来志向コスト(forward-looking cost)だけを考えろと教えるが、法学では逆に前例を守るべきだと教える。特に最高裁の判例には法律と同じぐらいの重みがあり、たとえば解雇についての最高裁判決は下級審の基準となる。解雇の違法性についての解釈が裁判所によってまちまちだと、訴訟が頻発してビジネスに支障をきたすので、判例は法的な予測可能性を高めて不確実性を削減するのである。

官僚の行動様式も同じで、各省折衝で法律が経済的に正しいかどうかを議論することはなく、「前例ではこうなっている」というのが論争に勝つ最大の武器だ。このように法律やその解釈が安定していると、それにもとづく行政指導もやりやすい。

これに対して経済学では予測可能性は100%だと考え、不確実性も確率的に計算可能だと仮定し、時間整合性を重視して期待効用を最大化する。たとえば

企業が労働者を雇用するとき、解雇規制が強いと採用を抑制する
→労働需要を増やすためには雇用コストを下げる必要がある
→雇用コストを下げるためには解雇を容易にする必要がある

と結果から遡及し、規制改革によっていま雇用されている労働者が解雇される短期的コストと、労働需要が増えて生産性が上がる長期的便益のどちらが大きいかを考えて政策を決める。ところが、こういう後ろ向き推論は経済学のトレーニングを受けていない人にはひどくむずかしいらしく、先日は公明党の国会議員に説明しても納得してもらえなかった。

これはGilboaも指摘するように、われわれの脳が後ろ向き推論に向いていないからだろう。進化の過程で生き残るためには目の前の敵にどう対処するかがすべてで、その結果が長期的にどうなるかを考えるようには人間の脳はできていないのだ。状況が大きく変わらないかぎり従来の行動様式を守ることは、認知コストを節約する上でも合理的である。

他方、経済学では未来の予測可能性は100%だと考え、不確実な出来事についても事前確率は既知だと想定するが、これは心理的には不自然だ。このため政治家も有権者に迎合して、時間非整合的なバラマキを約束する傾向が強い。首相を苦しめたジレンマは、前例を踏襲する前向き推論(進化的合理性)と未来志向の後ろ向き推論(論理的合理性)の矛盾といってもよい。

このように矛盾した約束をあちこちにして、それが守れなくなったときはトップの首をすげ替えるのが日本的な約束を破るメカニズムだが、このコストは非常に高く、政治への信頼を失わせる。予測可能性と時間整合性のどちらを重視するかはケース・バイ・ケースで、法的な「事後の正義」も無視できないが、前例を踏襲しすぎると環境変化に対応できなくなるので、バランスが重要だ。少なくとも官僚は前例だけでなく、未来のコストも考えてほしい。

まして民主党の政治家は、政権交代したのだから自民党時代からの約束はリセットして、サンクコストは忘れるべきだ。事業仕分けは、従来の増分主義的な査定ではなく、未来志向のプロジェクト評価の実験として意義があった。それが鳩山政権で評価された唯一の政策だったことは、今後の政権運営にも大きな教訓となろう。