天竺宗の老人たち (original) (raw)

にあばらルイス神父は薩摩を訪問した際に、天竺宗と呼ばれる人々のもとに調査に行った。このことをジョアン・ジラン・ロドリゲスは1608年2月25日発信の『日本年報』に記録している1。要約すると以下のような話である。

要約

二人の老人を調べていくと、その宗派が渡来した時点と、彼らの返事と生活様式から見て、ザビエル神父がこの地に来て祖先に福音を述べ伝えたことがわかった。彼らがまだ守っているキリシタンの事柄が、他の異教徒(仏教徒)と異なるから天竺宗と呼ばれている。神父は彼らが見せたのはキリシタンに特有のものであるから、彼らの祖先はキリシタンであると確信した。ザビエル以降、イエズス会士宣教師は二度薩摩を訪れたが、坊主が妨害したので、同地のキリシタンは説教を受けることができなかった。

神父は二人の老人とその妻と、マリアと名付けたかなり高齢であった老婦人に教義を説明し、洗礼を施した。神父はなにか聖物を持っていないか尋ねたところ、老婦人はかなり古いロザリオを二つ持っていた。彼女は誰から貰ったか、いつからそれを持っていたのかをもう覚えてはいなかった。

たまたま地元の人びとが神父に、あの老婦人はたいへんな魔術師であって、異教徒のいろいろな儀式をしながらたくさんの病人を救った、そのために彼女は昔から奇跡の女として尊敬されてきた、と言った。神父は老婦人に、なぜそのようなことをするのかとたしなめたところ、彼女は異教徒の儀式をやったことはなく、ロザリオを病人の上に置きながら、デウスが彼らに健康と無事を与え給うように祈っただけだ、他には何の儀式もせずに、病人はこれだけで治ったと答えた。

老婦人は他にもアニュス・デイやヴェロニカなどの聖遺物を持っていた。こうしてその善良な老婦人はこれを用いていたが、私たちの御主も彼女がまだ異教徒であったにもかかわらず、彼女に協力し、病人に健康を与え、それによって聖遺物の力とともに、これを残しておいた者の聖徳を明らかになし給うたのである。

分析

この話はキリスト教のひとつの受容形態と民間信仰に関する興味深い内容を含んでいると著者は考えている。内容を詳しく検討しよう。

ザビエルの布教の際にはキリスト教は仏教の一派だとみなされた2。この話でも何かよく分からない外来と思われる宗派を指して「天竺宗」という呼称が用いられている。

彼らが守っていた「キリシタンの事柄」が具体的に何かは分からないが、隠れキリシタンとの類推から、十字を切ることやオラショのようになった若干の聖句を唱えることだろうと想像される3。薩摩の一部ではずっと宣教師による布教が行われなかったことによって、宣教師が伝えたキリシタンの信仰が土着の信仰と習合するという段階を超えて、土着の信仰にかすかにキリシタンの習俗の痕跡が残っているという忘れキリシタンとでも言うべき状況が生じていた。

薩摩では反キリシタンの影響が強かったが、天竺宗の人々が他の仏教徒である村人と共存していることを考えると、そもそも天竺宗は迫害されるべきキリシタン(切支丹、伴天連)とは別物とみなされていたと推測される。天竺宗は文字通り「異教」ではなく「異宗」なのである。そもそも老人たちは自分たちがキリシタンの子孫であることすら知らなかった。この点は祖先と自分たちの信仰を強く意識していた潜伏キリシタンとは異なる点である。

ロドリゲスはこの話をキリスト教的な奇跡譚として報告している。しかし、地元の人々の証言からは、老婦人は様々な儀式を行う呪術師として捉えられ、尊敬を受けてきたことが分かる。地元の人々の証言は、実際の老婦人の活動が、デウスの名を唱え聖遺物を病人にかざすだけではなかった可能性を示唆する。老婦人の活動はイエズス会の認めるキリスト教的な奇跡の枠組みの外にあり、迷信だとして否定されるような呪術である可能性がある。

神の名を唱えることで病人が癒やされたというのはキリスト教奇跡譚においてよくある型である4ことを考慮すると、老婦人がデウスの名を唱えただけだと書かれていることの信用度は高くはないだろう。

参考文献

H.チースリク、キリシタン時代の日本人司祭、キリシタン研究第四十一輯、教文館、pp.33-57、2004.

パチェコ・ディエゴ、鹿児島のキリシタン、春苑堂書店、 1975.

岡 美穂子、キリスト教の伝来と日本社会、上島亨・佐藤文子編 日本宗教史 第4巻 宗教の受容と交流、吉川弘文館、pp.297-324、2020.

岡 美穂子、大航海時代キリスト教と東アジア、染谷智幸編 はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流 文学通信、pp. 85-94、2021.