indiagoose’s diary (original) (raw)

日本の社会主義17

剰余価値学説史を読んでいたらびっくりしたことがある。管理労働者つまり経営者は労働者だとマルクスはいっている。

剰余価値学説史Ⅲ
635
このような、利潤の利子と産業利潤とへの最後の分裂では、剰余価値の(したがってまた資本の)本性は、ただ消し去られているだけではなくて、明らかに、全く別なものとして示されている。(略)

他方、この利子という形態は、利潤の他方の部分に、産業利潤という質的な形態を与える。すなわち、資本家としてのではなく労働者(産業従事者)としての産業資本家の労働に対する労賃という形態を与える。資本家が資本家として労働過程で行わなければならないところの、そしてまさに労働者とは区別された彼にこそ属するところの、特殊な諸機能は、単なる労働機能として示される。彼が剰余価値を創造するのは、彼が資本家として労働するからではなく、彼、資本家もまた、労働するからである。
(略)
このような、利潤の一部分の産業利潤への転化は、われわれが見るように、他方の部分の利子への転化から生ずる。(中略)さらにこれがいろいろな小賢しい理由によってどんなに正当化されるかは、利潤を監督労働だとする弁護論的な説明についてさらに詳しくみられるべきである。(略)

ところで、利潤を監督労働の賃金として労賃に帰着させるこの弁護論は、方向を変えて弁護論者たちに立ち向かうことになる。というのは、イギリスの社会主義者たちは今や正当にも次のように答えたからである。では、君たちは今後はただ普通の支配人の賃金だけを受け取るべきだ。君たちの産業利潤は、名目上ではなく事実上、労働の監督または管理の賃金に帰着させられるべきだ。
(略)
そして、さらに彼ら(イギリスの社会主義者たち)は次のようにいう。管理職は、監督労働は、今ではすべての他の労働能力と同様に市場で買うことができるし、相対的に同様に安価に生産することができ、したがって買うこともできる。管理労働が、自分の資本のであれ、他人のはほんのであれ資本所有から完全に分離されて、街上をうろついているということは、資本主義的生産そのものが成就したことである。この管理労働が資本家たちによって行われるということは、全く無用になった。』

関東軍参謀の池田純久は満州国の国づくりにあたって、資本主義と社会主義のいいとこ取りをしようと考えたそうだ。

優秀な経営をしなければ国も産業も成り立たない。経営者を大事にしなければならない。労働者は味方だ。しかし株主=ケインズの言う無機能資本家は不労所得者、寄生虫だというのが日本型経営のキモだ。

株主はカネを出しているのだから利息は払わないわけにはいかないが、かれらは一種の借金取りなのだから、借金の利息は少なければ少ない方がよい。
株主に対する配当は極力減らして会社の利益は経営者と労働者のあいだで配分する。
企業は働く者の共同体だということになった、と日本型経営が解説されていた。

これはマルクスの労働者国家、プロレタリア独裁ではないか。

日本の社会主義17-2
前回の投稿に♦️左派&革新系♦️議論の部屋「赤の会」のメンバーの方から次のようなコメントを戴きましたので、

「日本帝国の関東軍が、社会主義と資本主義のハイブリッド、つまり夢の国を創ろうとしたのは、事実だったのか 」

次のようなものをお送りしました。皆様のご参考になりますでしょうか。

「日本の曲がり角」 池田純
(池田は元関東軍参謀。なおこの部分タイプミスが多いのですが、本を図書館に返してしまったので直せません。――矢島)
p269
2 資本主義と社会主義
資本主義がよいか社会主義がよいかの理論闘争は、古くから学者などの間におこなわれてきたが、今以て万人が認めるような結論を得ていない。私は学者ではないが、満州経営の経験から見て、市小井の見通しを得たので、それについて述べてみたいと思う。

私は関東軍参謀副長として五カ年間、満洲経済を手塩にかけたし、それ以前にも陸軍省の政策班長として満州政策に口ばしを入れていたので、満州問題は、私にとっては修正の仕事であった。そして偶然にも、資本主義か社会主義か、その利害得失を身をもって経験することにもなったのである。

そこで私は職務上この問題と取り組むこととなったので、日本の政財界の有力者の腹蔵なき意見を聞いて歩いた。いろいろ有益な意見を聞き枝が、なかんずく東大教授河合栄次郎博士と経済評論家の高橋亀吉氏との意見は、いかにも対照的で興味があったので次に掲げてみよう。

河合教授は、満州では社会主義をとるべきことを力説し、
「陸軍が率先して進歩的政策に進むべきである。もはやいたずらに、軍が資本家のかいらいとなっている時代ではない」

と、学者らしい理想論を述べた。

これと対照的なのが高橋亀吉氏の現実論である。高橋氏は、
「先ず資本主義的進出を図り、日本の資本家の自由な開発に任せるのがよい。いたずらに統制しては開発は遅々として進まず、ついに軍はお手上げになるであろう」
そこで私は、
「先生の考案では、軍が資本家の手先となり帝国主義的侵略に手を貸したという非難を蒙るから、まずいのではないか。これでは心ある人々は軍に協力してくれまい」
と応酬したら、
満州を開発することこそ、先決問題ではないか。それには資本家を利用することが賢明である。資本家にソッポを向かれては満州は枯渇してしまう」
「それじゃ帝国主義になるではないか」
「やむを得まい。しかし開発が成功したら、資本主義経済を社会主義経済に切り替えるのが賢明である」
そこで私は、
「資本主義の根強い地盤を覆すことは、容易ではない。革命が必要であろう。先生は左翼政党に関係していながら、今日まで日本の資本主義に一指も染め得ないではないか」
と、反駁すると、氏は、
「日本と満州では、違う。満州ではそれは容易なことだ。絶対の権力を持つ軍がやる気になれば、切り替えることは、朝飯前の仕事だ。別に革命の手段に訴えるには及ぶまい」

私は現実的な高橋氏の意見に大いに共鳴したが、さりとてと維持一部でようやく盛んであった左翼理論に正面衝突するような資本主義経済を、そのまま満州に持ち込むだけの勇気はなく、また逆に、開発を犠牲にするような河合博士の理想論を採ることにも躊躇せざるを得なかった。私は両者の板挟みとなって迷わざるをえなくなった。
そこで私は、資本主義の本筋はそのままにして、その弊害はなるべく避け、社会主義の長所だけを取り入れるという虫のいいことを考えた。それは私有財産の廃止を避け、統制の度合いを甘くし、資本を日本から導入することを、容易にすることを考えたのである。
私は昭和十五年南方から満州関東軍の参謀副長になり、赴任してみて、この実情に驚いた。経済に創意も工夫もない。非能率も甚だしい。この種国営的企業は総じて能率の悪い物である。

左翼の連中は、すぐに国有だとか国営だとかを唱え出すが、これは全くの認識の不足である。イギリスのトーマス・ヒル・グリーンは「人間が神様にならねば社会主義は実現困難である」と喝破しているが、まさにその通りである。
即ち人間が、物欲とか名誉欲とか、一切の欲望を断ち切り、自己の良心に従って働く場合においてのみ、社会主義は初めて能率よく運営することができるものだ。
人間が一切の欲望を断ち切って超然たる境地になり得るであろうか。それは人間が神様にならぬ限りできないことだ。

資本主義は、長所といえば、利潤を追求するために能率を上げ、創意工夫をめぐらすことにある。しかし、それも度が過ぎると搾取という資本主義の弊害が生まれてくる。
共産主義のように、弾圧とノルマだけで生産を上げようとしてもそれは駄目である。
農民に例をとると、与えられた私有地(一世帯二百坪)の耕作に力を注ぎコルホーズとかの共同耕作には一向努力を払おうとしない。これは人情当然のことである。ソ連五十年の共産主義は、我々に何を教えたか。それはフルシチョフ首相が先年ソ連共産党中央委員会総会において「社会主義社会でも利潤を考えねばならぬ」といって、共産主義の弊害を指摘している。社会主義では利潤など念頭にないはずであるが、利潤を考えねばならぬということは、大変な変化であり、修正主義といわれるゆえんである。
これに対し中京は、マルクス=レーニン主義を堅持しようとしている。いわゆる教条主義である。勿論利潤などは考えもしない。ソ連中共とが互いに反目抗争する原因はそこにある。おそらく中共も五十年の経験を積めば、目が覚めてソ連と同じように、修正主義になってくることは必然である。ソ連共産党では中共を批判し、「中共ソ連の失敗を繰り返してはならぬ」と忠告している。損得に敏感な中国人が無味乾燥な共産主義をいつまでも堅持するとは考えられない。必ずいつかはソ連のように修正主義に転向してくると思う。最近人民公社の成績が芳しくないのは、これを立証している。

私は満州の実情を見て、これは改革せねばならぬと痛感した。そこで昭和十八年秋、満州重工業総裁高橋達之助氏及び総務長官式部六蔵氏に所信を披瀝し、持株会社を解体してはどうか。石炭に例をとるならば、あの山は三井、この山は三菱という具合に分轄し、それぞれ責任を持って能率を上げてもらうこととし、労働搾取の弊害が起これば、国家が監督是正すればよい。国家が会社の経営にまでタッチすべきではない。

即ちこれが資本主義の長所利点と会主義の利点とをふくめた名案ではなかろうか。
私の提案を受けた両氏は直ちに賛成し、思い切ってやろうということに一決し、まず製鉄、石炭を分轄するに至ったのが昭和十九年春であった。今少し時間がほしかったが、結果が実らずして終戦になってしまったのは、まことに残念であった。
(昭和四十三年一月二十五日『国民新聞』所載)

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。1

かつて竹中元大臣が「セーの法則があるのだから、もっと市場を信頼して… 」と国会で答弁したそうだけれど、セーの法則があるとなぜ市場経済はうまくいくのか。

こんな風に説明される。

たとえば10億円の商品が市場にもたらされたときには、収入も10億円発生する。これはすべての商品についていえる。商品をすべて買い切れるだけの収入が発生するのだから過剰生産は起こりえない。いま欲しいものがないという人は収入をお金のままで持っているよりは誰かに貸して利子を取る方がよいはずだ。利子を払ってお金を借りた人はその金を何かに投資するだろう。したがって収入は必ずすべて支出される。

全世界の商品の総額と収入の総額は等しい。収入がすべて支出されればすべての商品が売り切れる。これがセーの法則の意味だと私は理解した。すると、銀行がお金を無から生み出すと、商品がもたらされずに収入だけが発生することになる。これはニセガネ作りではないのか。

私の理解がおかしいのだろうか。

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。2

ちなみに森嶋通夫は「ケインズの経済学」序論でこう書いている。

「経済学には二つの根本的に対立する考え方がある。第一は経済全体としては過剰生産は不可能であるということ、すなわち総生産額が決められると、それらに等しいだけの総需要が常に作り出されるという見解であり、第二は総産出額が総需要を決めるのではなく、その逆、すなわち総需要が総生産額を決めるという見解である。第一の見解はセイの法則と呼ばれ、第二のそれは「有効需要の原理」といわれる。19世紀前半まで経済学界に君臨していたリカードセイの法則を承認していたから、それはケインズによって古典派の公準と呼ばれた。このような公準一般均衡が成立するために必要であるから、ワルラスはじめ一般均衡論者はセイの法則を認めたが、19世紀中期以後にはセイの法則を否認する学者(例えばマルクスおよび彼の追随者)が現われ、このような反対者の思想は最後にケインズの「有効需要の原理」として結実した。ケインズの『一般理論』が出版されるまでの約百年間の経済学史の主題はセイ法則の世界(リカード経済学)を転覆させて、反セイ法則の体制(ケインズ経済学)を構築することにあったと考えうる… 」

ちなみにマルクスは「資本論」で、ジャン・バチスト・セーの愚論、と書いているけれど、なぜセーの法則が成り立たないかというと、資本主義は「売り」は強制されるが「買い」は強制されない、だから資本主義の世界はつねに「売り」に対して「買い」が不足する世界なのだ、と。

「商品の総額=収入の総額=支出の総額」がセーの法則の前提だという私の理解は正しいのではないか。

とするならば、銀行がお金を無から生み出して誰かに貸し出し、そのお金が購買力として市場に登場すると、市場では商品の総額よりも需要の方が大きくなってしまう。これでいいのだろうか。

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。3

総産出が百俵の米、1俵1ドルだとして総収入が100ドルの世界があったとして、誰かが10ドルの偽金を作って米を買うと、1ドルでは約0.91俵の米しか買えなくなる。ニセガネ使いがすべての人から計9.1俵の米をくすねたのだ。

国家がお金を発行してその金で商品を買うと、その分はすべての国民に税金をかけたのと同じことになる。そのお金で公共事業を、たとえば鉄道建設をすればその鉄道は「国鉄」に、国民の物になる。(もし使われないで眠っている貯蓄があるなら、その貯蓄で国債を買ってもらって公共事業をすれば雇用が維持できる。)

銀行がお金を発行すると、銀行という私企業が全国民に税金をかけたのと同じことになる。そのお金を借りた人が商品を買えばそれは私的な財産になってしまう。そのおかねで事業をすると、たとえば10億ドルを借りて商品を作り、11億ドルで売り、1億ドルの利潤を出したとすると、その1億ドルは増えたのではない、国民が11億ドル出したからこそ商品が11億ドルで売れたのだから、1億ドルの利潤は国民から企業に移動しただけだ。その1億円から返済時に銀行に利子を支払うと、その利子と預金者に支払う金利の差は銀行が国民から奪ったことになる。

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。4

ガルブレイスが「マネー」の中でアメリカの開拓時代の金融事情について書いていた。

西部の小さな地方銀行が無からマネーを生み出して開拓民に貸し付け、開拓民がその金で農機具を買い、無料で手に入れた土地で作物を作るとその作物(商品)は無から生み出されたことになる。全体としての商品が増えたのだ。

普通はこうはいかない。商品を生み出すためには資源(鉄、砂、木材等)を消費しなければならないのだから、その商品は資源が移動、移行しただけだ。無から生み出されてその分増えたというわけではないし、それを売って得た収入(お金)も買い手から売り手に移動しただけだ。収入全体が増えたわけではない。

資源が火星からでも降ってきてそこから商品が生み出されたなら、商品が無から生み出された分、マネーを無から生み出しても意味があるだろうけれども。

最近 MMTと言うのが話題になっているらしいけれど、近代経済学において、マネー、お金、貨幣、はかなり混乱して使われている。

月給10万円の世界で、企業が銀行から10万円を引き出して労働者を雇い、労働者は一ヶ月で10万円の購入をし、売り手はそれを銀行に持って行き… とやっていくと、この世界では10万円の貨幣があれば経済をずっと回転させることができる。

年俸制の世界では120万円の貨幣を回転させることになるが、12倍の貨幣が世界を12倍豊かにしたり、12倍のインフレを生んだりするわけではない。貨幣の量は世界が習慣的に必要とするだけあればよいのであって、経済の大きさとは関係がない。

「貨幣」と言わず「収入」・「購買力」という言葉を使えばこの混乱はなくなる。

「商品の総額」イコール「収入の総額」が経済の基本だとすれば、銀行はお金無から生みだしたり減らしたりしてそのぶん購買力を増減すると世界をデフレにもインフレにもすることができることになる。これは銀行による計画経済だということではないか。私的利潤を目的とする私企業にそんな権力を与えてよいのだろうか。

「銀行がお金を無から生み出している」とはどういうことか。5

一万円で商品が売れたとすると、商品の額は一万円、発生した収入も一万円。商品の金額と収入の金額は等しい。これはすべての商品についていえることだから、全世界の商品の総額と収入の総額は等しい。これは当たり前だ。だから世界の収入のすべてが支出されると世界のすべての商品が売り切れる。

三面等価」という考え方があって、一万円の商品が売れたときは、一万円の支出がされたからであり、それによって一万円の収入が発生する。だから全世界の商品の総額と支出の総額と収入の総額は等しい。

しかしこれは「だから商品のすべては売りきれることになっている」わけではない。このときに発生した一万円の収入が必ず一万円の支出になる、かどうかはわからない。

日本で一年で生産された商品の総額は約500兆円。国民の総収入も500兆円。商品の総額と収入の総額は常に等しい。この二つは違うことが出来ない。だからすべての収入が支出されればすべての商品が売り切れる。

ここで、三面等価の原則(統計上の原則)を、三面等価の法則だと思っている人がいるけれど、

国民の総生産=国民の総収入=国民の総支出

なのだが、これは、500兆円の商品がすべて必ず売り切れるといっているのではなくて、この場合490兆円しか注文がなくて10兆円の商品が売れ残ったとすると、その10兆円の在庫品は企業が支出して買ったことにして総支出の中に含める、という会計学上の操作、トリック(by石川秀樹先生)によって成立しているのだそうだ。

石川秀樹 フリーラーニング

https://www.youtube.com/watch?v=2MvGz3paIkw

何年か前ビデオニュースドットコムで 神保さんが野口悠紀雄に、貯蓄されたらその分売れ残るのではないか、と問いかけると、野口悠紀雄は、三面等価の法則というのがあって売りきれることになっている、と答えていた記憶がある。

貯蓄と貧困(shn)

ケインズと反ケインズ派との間で何が対立点だったのかというと、ケインズが貯蓄は必ずしも投資されるとは限らない、だから収入のすべてが支出されるとは限らない、とセーの法則を否定したのに対して反ケインズ派は貯蓄は必ず投資される、だから総収入は総支出に等しくなる、としている点だと思われます。

以下引用―――――

ケインズハイエク ニコラス・ワプショット

P173

ケインズはまず、経済学を支配する法則として広く認められているもののひとつである”セイの法則”を否定した。これは、供給は自らの需要を作り出すという法則である。ケインズはこう記している。「〔この概念は〕いまだに古典派の理論全体の基盤であり、これなしでは同理論は崩壊する。(中略)これは『人々がある方法でお金を使わなければ、別の方法で使う』という概念で、現代の思想はいまだにこの考え方にどっぷり浸っている」。ケインズの指摘によると、これは古典派のもう一つの誤解、すなわち「個人の貯蓄行動は必然的に、それに対応する投資行動を招く」という思想に結びつくという。

セイの法則の否定は『一般理論』の斬新な発想の核心であり、「流動性選好」という、貯蓄が自動的に投資に転換されないことのケインズ式の説明につながるものだった。

―――――引用ここまで。

いまでも、「家計の貯蓄が1400兆円なのに国の借金は1000兆円を超えている。国の借金が1400兆円になった時点で日本は崩壊する。」などと言っている自称エコノミストがいる。

貯蓄が貯蓄されたままで、投資されなくてもよいのだなどと言ったまともな経済学者はいないはずです。

以下は、10年ほど前から発信しているものですが、いまだに意味があると思いますので、こちらにも投稿します。

なお、これは http://indiagoose.la.coocan.jp/jokyo1.htm と同文です。

「貯蓄と貧困」

サラ金だって、「ご利用は計画的に」というのに、計画経済ではなくてなぜ自由主義市場経済は可能なのか。

神の見えざる手という有名な言葉があって、経済は市場の自由な運動に任せておけば需要と供給の関係でおのずから最適な位置に落ち着くのだということのようですが、でも供給と需要は全然別のものじゃないか、おコメを百俵作った人がそれを売りに出したがそのコメを必要とする人には金がなくて、コメは売れ残り人は餓死するでは最適な状態とは言えないのではないか、というと、そういうことではなくて、セーの法則、もしくは販路の法則というのがあって、供給それ自体が需要を生み出す、のだそうです。これは経済学上ではあたかも物理学におけるエネルギー保存の法則といえるものなのだそうで、どういうことかというと…

ある樵が山林地主に一万円をはらって木を切り出し、二万円で材木屋に売った。それを家具職人が三万円で買い、テーブルを作って四万円で売りに出した。各人の収入はそれぞれ一万円で、四人の収入の総計は四万円である。左側には四万円の収入があり、右側には四万円の商品がある。

もし樵の取り分が五千円であれば三万五千円の総収入に対して三万五千円の商品になり、材木屋が自分の収入を一万五千円にすれば四万五千円の総収入が四万五千円の総商品に対することになる。さらに一人の商人が現れてそのテーブルを買い五万円で売るとしても同じで一方に五万円の総収入があり反対側には五万円の商品がある。全世界の収入の総額と商品の総額は常に等しい。この二つは違うことができない。だから収入のすべてが支出されればすべての商品が売り切れる。

これは非常に優れたシステムで、もし商品が売れ残るとすればそれはその商品が市場にとって不要なものだったからであり、必要な商品である限り必ずそれが売り切れるだけの収入がおのずからもたらされていることになる。

ただしここで肝腎なのは「収入のすべてが支出される」ということで、(マルクスケインズが批判したのもここですが)

このとき、収入の一部が支出されずに貯蓄に回されるとするとその分の商品が売れ残ることになり、その商品が売れればもたらされるはずの収入が実現しないことになる。そこに発生する貧困の量は貯蓄の量と等しい。使われずに残った貯蓄は世界の反対側に自分と等しい量の「実現しなかった収入」・貧困を生み出す。

一方で、貯蓄するということはもう消費に金は使わない、消費財はいらない、と市場がいっているわけなのだからそれだけ資本財、生産財に資源を振り向ける余裕を手に入れたのだともいえる。

資本主義の初期においてはブルジョワジーという偉大な種族がいて利潤をすべて投資に次ぐ投資に振り向け資本財、生産財を拡充し世界を豊かにしたというふうに昔習った記憶があるのですが、今の日本はカネ余りとか言って産業育成のための投資に振り向けられずに漫然と溜め込まれたままになっているのだそうで(というよりは投機目的で溜め込まれている)、するとその巨大な貯蓄の分だけ消費が不足し、実現されない収入・巨大な貧困が生まれる。

自由主義市場経済完全雇用が実現するのは貯蓄がゼロのときで、貯蓄が存在するときは貯蓄と同じ大きさの投資をしなければ失業と貧困が発生する。

もはや投資に次ぐ投資で事業を拡大した偉大な種族が滅びてしまった現在、国づくりがあらかた終わってしまったといわれる現在では、この巨大な貯蓄を何とかするには、貯蓄している人に何とかものを買ってもらうとか、軽いインフレ状態にして今使わなければ損をするぞと脅かすとか、貯蓄分は税金で没収するぞといって強制的に支出させるとか、それでも使わなければ本当に没収して国が代わりに使ってやるとか、もしくは安い金利で借り上げて国づくりに使うとか、多く貯蓄する富裕層からあまり貯蓄のできない貧困層に所得を移転するとか、または、使わないで貯めこむだけの人がいるなら、貯めないで使う人がいればいいわけだから誰かが巨大な赤字を出して借金経営の事業をするとか、とはいってもそれだけの赤字に耐えられるのは民間にはいないだろうから国が赤字財政で何かをするとか、またはそもそもカネがしまいこまれてしまっているのだからその不足分のカネを印刷するとか、が必要になる。

投資しきれないほどの貯蓄が眠っているということはそれだけのお金を持つ資格と能力のない人の手にお金が集まっているということであり、一方にはお金がなくて失業、ホームレス、餓死、自殺が発生しているということは現在の貯蓄のシステムが重大な欠陥を抱えていということだ。失業、ホームレス、餓死、貧困…は自己責任ではない。