私説 「持統天皇;春過ぎて夏来にけらし考」① (original) (raw)

私説 「持統天皇;春過ぎて夏来にけらし考」①

このところ柿本人麻呂の「ひむがしの野に~」を考察しているうちに、人麻呂の背後に見え隠れする女帝・持統天皇の存在が僕の中で次第に大きな位置を占め、関心が膨れ上がるのを止めがたくなってきました。彼女の父は天智天皇、それが父の弟の大海人皇子(のちの天武天皇)のもとに嫁ぎます。叔父と結婚させられたわけです。当時としてはけっこう普通なんですかね。しかし運命の展開はまことに不思議で、壬申の乱の折には嫁いだ大海人皇子と共に、自分の実兄である大友皇子と生きるか死ぬか皇位を賭けた戦いを繰り広げることとなり、ついに勝利して夫は天武天皇として即位することになります。彼女はその後の働きぶりも目覚ましく、夫とともに日本に初めて律令制度を導入し、古事記日本書紀の編纂を開始し、藤原京を造営するなど、日本を近代的な統一国家に作り変えていきます。思うにこの人は日本の政治史を画期する稀有な国家プランナーでプロデューサーでもあったなあ、と改めて敬意を表さざるを得ません。ただ、男勝りな辣腕な政治家で、自分の血脈へ権力を集中させる執念の深さやライバルへの酷薄なまでの対応は、空恐ろしいほどです。そう言う人は血が騒ぐのか、歌人としても才能豊かで、万葉集にもいくつもの歌を入集させています。今回は彼女の権力への執心と言う視点で、百人一首でも有名な次の歌を読み解いてみます。

春過ぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山 持統天皇

この歌の理解は一般的に、「春が過ぎ、夏が来たらしい。夏になると白い衣を干すという天の香具山に真っ白な衣が干されている」として、何の過不足もないでしょう。ここで思うのは、実景としてはその通りとして、そこに湛えられた持統天皇の含意です。女帝は若いころ壬申の乱で命をかけた戦いに従軍し、幼い子供を抱え夫を督励しながら転戦し、ついに実の兄の皇軍との戦いで首を取って、夫を権力の座に座らせた、と言うのは上に書いた通りですが、まあ夫の天武天皇とは共同統治者と言っていいでしょう。その夫亡きあとはみずから政権を握って女帝として即位し、年若い草壁皇子や、その子の軽皇子を支え、自分の血統を守り抜きます。その辺を知ると彼女にとって歌を詠むことは、間違ってものちの清少納言のようなインテリめいた清楚な自然鑑賞や生活スナップではありえない。上記の歌に秘匿された気分には、安堵のなかにも権力を持った側の何か毒気を含んだ自負のようなものも窺えるような気がしてならないのです。

もしそう読むならば,この歌はいつ詠まれたのか?気になるところではあります。僕はこの歌は少なくとも藤原京の完成後でなくてはいけないと考えています。夫の遺志を継いで完成させた藤原宮。孫の即位の折の立派な都になるよう念じて工事を進めたのかもしれないです。今や王宮からは香具山をはじめとする三山が手に取るように間近に見えて砦のごとく都城を守り、実に頼もしい。山は生気あふれる緑の輝きを濃くして、眼下には整然と直交する街路が広がり、官吏たちの住居が軒を連ねている。そこで風に翻っているのはもはや昔のように禍々しい軍旗ではなく、平和きわまりない儀礼用の白い服・・・。と言う風に想像して読んで行くのも可能でしょう。歴史を知ったうえで読むからそうなるのかもしれませんが、そのつもりで理解すると、この歌がいつできたのか、制作の時期まで明快に推理することができました。

僕の考えでは、この歌は、697年(持統天皇11年)の5月に詠まれています。そう推測する理由はまず、年表をご覧ください。

689年 草壁皇子(持統と天武天皇の息子)死去

690年 持統天皇即位

692年 軽皇子(10歳)の狩りに人麻呂が同行し、「ひむがしの~」の秀歌を詠む

694年 藤原京完成

696年 高市皇子(たけちのおうじ)死去

息子の草壁皇子には若くして死なれたものの、孫の天皇即位に向けて着々と遅滞なく、シナリオが進捗しているのを感じます。とくにこの年表では、最後の高市皇子の死去が大事です。長くなるので続きを次回に。

岩佐倫太郎(240703)