20240514 (original) (raw)

新規の登場人物が全体にまんべんなく出てくることに注目してほしい。この小説では物語の新展開は新規の人物によって持ち込まれることになっている。閉じた人間関係が時間とともにだんだん煮つまって……という小説とはつくりが違うのだ。
この小説は文庫本にして二百ページ強ぐらいだが、その長さの小説で主要な人物(ゴシック体)がこれだけ登場するのもやや異例の多さだと思うが、後半になっても新規の人物が出つづけるのはかなり異例と言えるのではないか。小説が進行していく過程で新規の人物を出しつづけるというのは難しいことなのだ。
テクニックとして難しいのではなく、書いているときの気持ちのありようとして難しい。その証拠(?)のひとつとして、私が新人賞の選考委員をやった範囲で、登場人物の数が多く、後半になっても増えつづけたという小説は文藝賞を受賞した岡田智彦の『キッズ アー オールライト』(河出文庫)しか記憶がない。人物が途中から増えると小説の結構としてはどうしても緩くなるが、その緩さゆえに得られるものが当然ある。
その最大のものが、〝内面との距離〟ないし〝内面の相対化〟ではないか。ここで注意してほしいのは、内面が相対化されるのは登場人物にとどまらないということだ。登場人物たちの内面が相対化されるのは副産物のようなことであって、もっと内面が相対化されるのは書き手自身なのだ。
小説を書くという行為には、書き手自身の気持ちを集中させて一点に向かって絞り込むような求心的な力学が働きがちなのだが、新規の人物を登場させることによってその力が緩む。
小説には、「何人かの人物に出来事という力が加わるとその人たちはどうなるか?」という物理や化学の実験に似た側面があるのだが、閉じた人物群の中でそれをやってしまうと書き手自身が閉じた人間関係の原理の外に立てなくなり、その関係の中で働く力学だけがリアルであるかのような錯覚にはまってしまう。
新規の人物を登場させることには、自分で作り上げて自分ではまってしまった錯覚=力学から書き手自身を救い出す効用がある。小説を書いたことのない人には奇妙に見えるというか納得しにくいことかもしれないが、途中で新規の人物を登場させることが書き手にとっては一種外的な力として作用する。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.72-73)


8時15分起床。トーストとヨーグルトとコーヒの朝食。
10時から二年生の日語基礎写作(二)。「断片的なものの社会学」第二回。さすがに二年生にはちょっとむずかしかったかもしれない。後半になるにつれて、レベルが高くかつ授業態度もまじめな子しかついてこれていないようにみえた。このクラスでこれだったら、現一年生が二年生になったときの授業で扱うのはとても無理だ。別の教案を用意したほうがいい。
授業時間が20分以上あまったので、前列組と雑談して過ごす。ぼちぼち班导を決める時期ではないかとたずねると、希望者はまだひとりもいないという返事。忙しいのでみんなやりたくないのだという。このままだれも立候補しないようだったら、班長であるR.Hさんが担当することになるとS先生から言われたという話だったが、現三年生もぎりぎりになって立候補者が名乗り出てきたわけであるし、たぶんこのクラスもそうなるんではないか。男の子だったらC.Rくんは性格的にとても向いていると思うのだが、彼は学生会の仕事が忙しいので立候補するつもりはない(ちなみにC.Rくんはこれまでずっと最後尾に座っていたのに、今日はどういう風の吹きまわしかひとりで最前列に座っていた、もしかしたらK.Kさんから授業をしっかり受けるように言われたのかもしれない)。宝くじの話をする。中国でもっとも当選金額の高いやつは7億元? 8億元? ちょっと忘れてしまったが、日本のサマージャンボや年末ジャンボよりもはるかに高額だった。あと、上海の大学にいるという日本人女性教師が、両親が資産家であるために2億円の貯金を有しており、婿入りしてくれるのであればその貯金を全額夫にあげてもいいと言っているという、いったいどこで得たのかよくわからん情報をR.Iさんが教えてくれた。ちょっといまから上海行きの高铁の予約とるわ! というと、みんな笑った。
今日は授業中にうんこしたくなることはなかったが、授業後にうんこしたくなった。なぜ! 毎週! 火曜日だけ! 教室でうんこがしたくなるのか! それで授業後に四階の便所でうんこした。すっきりしたところでケッタにのって寮にもどる。新校区の湖のそばで水色のシャツと黒いスカートを着用した女子学生らが集団で写真撮影をしている姿を見た。ぼちぼち日本語学科の四年生も卒業写真の撮影をおこなう時期だと思うのだが、いまのところ連絡はない。連絡があるにしても、だいたいこっちの学生らははやくて前日、場合によっては当日に微信を送ってくる。これまで卒業生の写真撮影の場には皆勤賞で参加しているので、今年もできれば参加したいのだけれども、撮影時刻と授業がかぶる可能性はおおいにある。
第五食堂の一階で閑古鳥の広州料理を打包。帰宅後、メシ喰うないや喰う。その後ベッドに移動し、気絶するように眠りに落ちる。一時間半の昼寝。きのう寝たのがずいぶん遅かったので、これはしかたない。
覚めたところで洗濯機をまわす。きのうづけの記事の続きを書き、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2012年5月18日づけの記事。

カフカ『ミレナへの手紙』が面白い。一日に三通の手紙+電報みたいな、どうしようもないキチガイストーカーっぷりを発揮していたりして、あーやっぱりこのひとだいぶアレだわと思う。カフカをユーモアのひととして、あるいは分裂症的な性質の持ち主としてとらえるというのは、たぶん、それまでの病のひと、実存のひとみたいなカフカ解釈にたいして反旗をひるがえすべく企てられた戦略としての面が強くて、実際その戦略によってきりひらかれた地平は甚大なんだろうけれど、しかしこういうのを読んでいるとやはり、少なくともカフカ当人にかんしていうならば、大いに神経症的な、パラノイアックなところがあったことは否定できないと思う。たとえば『城』の中盤から後半にかけての破綻にしたって、あれは分裂症的な感性が一方的に生み出したものというよりは、言葉に導かれて、ほとんど筆がすべるようにして、たいした考慮もなく衝動的に書き進められてしまった展開に対して、どうにかそれまでの辻褄をあわせようと、あらかじめぼんやりと想定してあった意味の体系に何とかおとしこもうと、そう試みる必死の、とりあえず手を動かしているうちに何とかならないだろうか方式の、量にものいわせた悪戦苦闘の痕跡のように見えなくもないというか、意味の体系におとしこむにはもうとっくに手遅れで、ボツにするなりさかのぼって書きなおすなりしなければどうにもならない、完全に引き際を見失ってしまったその状態にあってなお、いやいやまだどうにかなるのではないかと執拗に粘ってみせる、まとまりをつけようと偏執狂的にこだわってみせる、そんな闇雲な悪あがきからうまれた奇形のテクストという印象を受ける(そしてそんな『城』の「こだわり」とはほとんど無縁の、行き当たりばったりのエピソードをただまっすぐにつなげるというきわめて単純無垢な、もっとも力の抜けた作品として『アメリカ』があるんじゃないだろうか。『アメリカ』第一部の「火夫」はたしかにまとまっているが、それは正確には、偶々まとまってしまったものであるというべきだ。作品の感触がその成り立ちをはっきりと物語っている)。やけくその行き当たりばったりで書きすすめる一息の衝動と、それでもなおひとつの体系におさめてみせようとする舵取りの、そこで生じる摩擦熱の度合いによって、『城』から『アメリカ』への振れ幅が生まれる、みたいな。

以下はグスタフ・ヤノーホの『カフカとの対話』より。

別の機会に――私がドクトル・カフカに青少年犯罪のあるケースを話したとき、話題はふたたび小篇『火夫』のことに及んだ。
私は、十六歳のカルル・ロスマンの姿には、なにかモデルがあったものかどうかをたずねた。
フランツ・カフカは言った。「モデルは多いといえば多かったし、ないといえば、まったくありませんでした。しかし、もうすべては古い話ですからね」
「若いロスマンの姿も、火夫の姿も、じつに生きいきとしています」と私は言った。
カフカの顔付きは曇った。
「それは副産物にすぎません。私が描いたのは人間ではない。私はひとつの出来事を物語ったのです。これは一連の形象です。それだけです」
「でも、やはりモデルがなければなりません。形象は見ることが前提です」
カフカは微笑んだ。
「人が写真を撮るのは、ものを意味の外に追っ払うためなのです。私の書く物語は、一種肉眼を閉じることです」

「絵をお描きなのですね」
ドクトル・カフカは微笑って言訳をした。「いや、これはいい加減ながらくたです」
「見せていただけますか。僕は――ご存知のように――絵に興味があるんです」
「しかしこれは、人に見せられるような絵ではありません。まったく個人的な、だから読み取ることのできぬ象形文字にすぎないのです」
彼は用紙をつかむと、両手でくしゃくしゃに丸めてしまい、机の脇の屑篭に投げ込んだ。
「私の図形には正しい空間の比例がない。それ自身の水平線というものがない。私が輪郭に捉えようとする形象のパースペクティヴは、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に――つまり私の内部にあるのです」
彼は屑篭に手を入れ、つい今しがた投げ込んだ紙玉を取り出し、皺を伸ばすと細かく切れぎれに破って、烈しい勢で屑篭に捨ててしまった。

「予期しない訪問を邪魔だと感じるのは、どう見ても弱さのしるしです。予期されぬものを怖れて逃げることです。いわゆる私生活の枠に閉じこもるのは、世界を統御する力に欠けているからです。奇蹟を逃れて自己限定に走る――これは退却です。生活とは、とりわけものとともにあること、つまりひとつの対話といっていい。これを避けてはいけない。あなたはいつでもお好きなときに来ていいのです」

「それほどあなたは孤独なのですか」と私はたずねた。
カフカはうなずいた。
カスパル・ハウザーのように?」
カフカは笑った。「カスパル・ハウザーよりもはるかに惨めです。私は孤独です――フランツ・カフカのように」

以下は2023年5月14日づけの記事より。『ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村愛子)の抜書きとそれを受けての感想。

スティグレールは、マクドナルド的主体の問題を、「象徴の貧困」の概念で記述する。
スティグレールによれば、「象徴の貧困」は、「シンボル(象徴)」の生産に参加できなくなったことに由来する「固体化の衰退」を意味する。スティグレールによれば、「シンボル」とは、知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。
「ハイパーインダストリアル時代」とされる情報化が進んだ社会において、計算という営みは生産の分野を超えて拡大している。マクドナルドの労働者のように、サービス労働まで計算され、管理されるようになり、何もかも計算可能性の中に放り込まれる。そして、それに相関して産業の領域は拡大していく。それは、今までなら考えられなかった領域にまで拡大し、例えば、ちゃちな心理学的計算は、人事管理や教育の領域にまで拡大する。
スティグレールはそのことにより、以下のようなプロセスが起こると指摘する。

人間の注意は、未来把持(現象学の用語で、未来が現在に先取りされている状態。過去把持と対。樫村注)によって前に向かって張りつめられている。対象への先行する期待が、対象を注意の対象として構成している。(略)が、ハイパーインダストリアル時代のハイパーシンクロニゼーションは、期待を過去把持の装置によって計算された結果に変えてしまう。その装置は、原則として唯一、特異なものであるはずの過去把持の蓄えを規格統一し、画一化してしまう。本来ならば、その蓄えが唯一の特異なものであるというまさにそのことによって、注意深い意識は自分について何かを学ぶ。意識が他に向ける注意とは、自身のもつ他性、他のものに変化する可能性、自分の個体化が未完成で開かれた状態でいることを映し出す鏡である。

例えば、自分が読んできた読書歴の記憶は、その人にとって唯一無二の経験であり、その人のアイデンティティを形作るものである。が、ウェブ書店のアマゾンは、この個人の記憶を規格化された情報として扱い、同じ本を読んできた人たちの情報と形式的同一性をもつものとして、彼らが他にも読んだ本を推薦する。
そのリストは、確かにある種の蓋然性をもつ情報を提供するかもしれない。が、むしろそのリストにない次の本の選択が、創造性や固有性を生むだろう。
スティグレールのいうように、予測不能性をはらんだ未来への期待こそが、個人の実存性を支える。すなわち、不確実な未来に対して、計算可能性を超えて想像し、行為することが、個人の生の固有性を形作る。が、情報の氾濫は、主体のこのような労働を節約しようとするあまり、主体にとって創造性を意味する行為そのものも奪ってしまう。
アマゾンが単純なリストの提示でしかないのに比べ、SNSミクシィなど)に入って、日記検索やコミュニティ検索をすれば、同じ本を読んできた多数の人々の、より私的で固有の経験に出会えると思われるかもしれない。
しかし、結果は同じである。もしそこで提供される情報を分析して自己の経験と関係づける作業を放棄し、ただ大多数の意見に同化してしまったら、「固体化」はやはりなくなってしまう。
どんなに大多数の他者の経験が指し示されたとしても、「自身のもつ他性、他のものに変化する可能性」による選択は、固有のものである。なぜなら、人間の記憶や経験の多様性と複雑性により、一つとして同じ経験を生きた人生がないように、一人の人の生はいかに情報社会になっても固有のものだからである。
また、たとえ、ある人の選択が結果的に多数の人々の選択と一致したとしても、選択に至るプロセスが、その人の行為にとって重要である。
これに対し、現在の商品戦略は、この個人的な行為や知的行為そのものを面倒な労働として捉え、この労働を節約し商品化する。「動物化」する主体とは、この労働の節約にのってしまう主体であり、資本にとって都合のいい消費者である。しかし、その便利さにのることは、もっと重要なものを失うこととなる。
(92-95)

このくだりを読んでいて、まずはものすごく単純に、やっぱりほかのひとがあんまり読んでいないような本を読んだほうがいいよなと思った。いや、そんな簡単な話でもないのだが、でも、だれも読まないような本ばかりずっと読み続けている人間というのは、やっぱりそれだけでちょっと別種の力をもっていると思う。YouTubeなんかもアルゴリズムでガンガンおすすめ動画が表示されるようになっているから、実際、YouTubeのトップ画面に飛ぶたびにものすごく窮屈な印象を受ける、じぶんの体臭でいっぱいになっているような風通しの悪さを毎回感じることになる。一時期それがたいそう嫌で、なにかの都合でキャッシュを全消ししたタイミングだったろうか、わざと全然興味のないような動画や再生回数の少ない動画ばかりをザッピングしまくっていたことがあり、結果、本当にわけのわからん、どこの国のだれがなんの目的で撮ったのかマジで不明なものばかりがトップに表示されるようになって、あれはいまおもえばけっこう面白かった。本でいえば、大学生を卒業するまではなぞのブックオフ縛り——本はブックオフで売っている100円のものしか買ってはいけないというルール——をしていたわけだが(当時は図書館を利用するという発想がなかった)、ブックオフの100円コーナーというある意味では大衆性の極地みたいなスペースだけを根城にしていたあのいとなみは、大衆の最大公約数的なものの摂取を強いるアルゴリズムにのっとっていたといえると同時に、それでもなんらかのバグやエラーのような出会いがいちおうはあった。というか、それをいえばそもそも、じぶんにとって重要な作家であるムージルもオコナーもマンスフィールド梶井基次郎も、全員、出会いはブックオフの100円コーナーだったんではないか。
そんな話はどうでもいい。とにかくここでスティグレール樫村愛子が語っている個体化の議論——特異的な生成変化の道筋を維持し続けること——というのはよくわかる。こちらがたびたび「外圧」や「受動性」という言葉を使って語ってきたことと根本はおなじだ。ほかでもない自分自身の身体、つまり、この生を実験的に生きること、生を管理しすぎないように、計画しすぎないように、外圧が招き寄せられる余地をつねに設けておくこと、外部から機会がおとずれるのをじっと待つこと、そしてその機会がおとずれたら、それをいわば「啓示」としてでっちあげ、それがフィクションであることを自覚しながらあえて倒錯的にのっかること。Kと円町のあばら屋で二人暮らしをはじめたのも、そこにTさんが加わって三人暮らしになったのも、タイ・カンボジア旅行をすることに決めたのも、英語の勉強をはじめたのも、(…)で働くことになったのも、中国に渡ることになったのも、とどのつまり、19歳以降の人生はほぼすべてといっていいほど外からやってきた流れに乗っただけでしかない。じぶんから主体的に動いたことといえば読み書きだけで、あとはもうおまけだからどうでもいいとうっちゃっておくがままにしておいた、その結果としていまのこのでたらめな来歴があるわけであり、二十代の半ばごろ、読み書きをたしなむひとびとの界隈に属したほうがいいのではないか、バイトをするにしても就職するにしてもそういうのと関係のあるところに行ったほうがいいのではないかと周囲から言われたことがたびたびあったし、じぶんでもそうかなと考えたこともあった、しかし三十代になるころには、これはこれでよかった、こんなふざけた経験ばかりできる人生だとは思わなかった、と「すべて、よし!」(大江健三郎)の肯定感を得るにいたった、そういう認識の変化もあり、だからいまも、この外圧、換言すれば、偶然性やランダムネスということになると思うのだが、そういうものが生じる余地、そういうものがおとずれるスペースを確保しておくことが大切だという、ほとんど直感に近いアレがある。Kさんが将来を見据えて日本語学を専門とする大学院に進学すると決断したとき、Mくんもそうしておいたほうがのちのちのためになるんじゃないかと、当のKさんからだったかあるいは別の人物だったかもしれないが、そういうことを言われたこともあったが、そのときこちらのあたまによぎったのは、そんなことをしてしまえばそっち方面に可能性がしぼられてしまうという危機感だったし、レベルの高い有名大学からの誘いに食指が動かないのもやっぱりおなじかもしれない、そんな深いところにまでもぐりこんでしまえば外に出れなくなってしまう、ぴかぴか光るキャリアがあったらおそらくこの業界でずっと余生を過ごすこともできるだろうが、それは逆にいえば、ある日いきなりフロント企業でヤクザといっしょに働きはじめる、ある日いきなり中国にわたって大学で働きはじめる、そういうとっぴな出来事が今後の人生で生じる可能性が低くなってしまうことにほかならず、それはやっぱり嫌なのだ。なんせこちらは基本的に腰の重い人間なので、いちど腰をおろしてしまうとそこに延々といすわってしまう(実際、これまでの職場は三つとも閉店および閉館をきっかけに辞めているわけであり、自発的に辞めたわけではない)、そういう自覚があるからこそ、下手に有名大学になどいってしまうとマジでずっとそこで働き続けることになってしまいかねない、それはやっぱりダメでしょ、いつ取り潰しの憂き目にあうかわからんようなレベルのところにいたほうが「移動」を強いる外圧と隣り合わせになっていいでしょうという計算が実際マジであるのだ。何重にもまどろっこしいことを言ってるなと思われるかもしれんが、じぶんの行動原理は実際こういう感じだ。自発的には決してあちこち動きたくない、しかし外圧によってあちこち動くよう強いられることを受け入れる覚悟はあるし、むしろ適度にそうなることを望んでいる。これはつまり責任をとりたくないということなのだろうか? 自発的な行動の結果おとずれる事態をじぶんの選択に起因するものとして引き受けたくない? あるいは真逆かもしれない。なにもしない、ただただそのときが来るのを待つ、その結果おとずれたものをそれがどういうものであろうといわば運命——これは選択の対義語だ——としてあますところなく引き受ける、そういういわば寝たきりの——あるいは寝そべりの——勇気だろうか? 運命愛を知ったバートルビー

以下も『ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村愛子)の抜書きとそれを受けての感想。

例えば、庭にきれいな桜が咲いていて、母親が「きれいな桜だね」「桜」とくり返し、子どもが指さされる目の前の映像に「桜」という音声を記憶において結合させていくとしよう。
次に子どもは、目の前をひらひら飛んでいく蝶を見て、花びらとの類似性から「桜」というかもしれない。このとき母親は、「あれは桜じゃなくて蝶だよ」と訂正するだろう。こうやって言葉は獲得されていく。
すなわち、このとき子どもは、桜の映像に対し、桜は「ひらひらしたもの」であり「蝶ではない」という情報をつけ加えていく。しかしこうやって追加情報をつけ加えられるのは、桜は「ひらひらした」「蝶ではない」「X(何か)」と措定できる、「X(何か)」という空項があるからである。
これに対し、ある種の統合失調者はこの空項が作れない。彼らは、「桜は蝶でない」とするか、「桜はひらひらしている、蝶はひらひらしている、桜は蝶だ」という三段論法をとってしまう。「X」という空項がなければ「桜は蝶のようである」という「留保的な措定」ができない。
何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤の中で間違いが否定され、その中で真実が成立していくのが人間の言葉や情報の獲得過程である。ここでこの否定はいきなり外に現れるのではなくて潜在的なものであることに意味がある。
ところが、ある種の統合失調症者では否定が顕在化する。これに対し健常者では、先に見た留保的措定があるので、「桜は蝶ではない」という顕在的否定にはならず、「桜は蝶ではない」という潜在的否定に留まり、何か別のものという留保、存在の肯定と保持がなされる。
人間において言葉が何とでも結合し、驚くほどの可塑性をもつのは、カストリアディスも示唆していたように、このXという留保的措定ができるからである。留保的措定は、他者によって支えられる(今はわからなくてもすべてを知っている母がいつか教えてくれるという期待において)。また、現実的には時間によって支えられる。未来とは他者であり、だからこそ他者が解体すると時間が解体するのである(時間とはフィクションであるから)。
(129-130)

ここでは、留保的措定能力の失われている人間として一部の統合失調症者があげられているけれど、度を超えた、ほとんど荒唐無稽なことを口にしている、エクストリームな陰謀論者たちもある意味にこれに当てはまるよなと思う。「何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤の中で間違いが否定され、その中で真実が成立していく」「人間の言葉や情報の獲得過程」がほとんど失効しているというか、留保的措定能力そのものは残っているにしてもごくごくわずかにすぎず、全然辛抱が足らんことになっとるというか。わからないということに耐えられない。判断の宙吊り、結論の先延ばしに耐えられない。白と黒のコントラストに目を奪われ、グレーゾーンとグラデーションを審美することができない。

作業の途中、Lに微信で今学期の夏休みの開始時期について質問した。もともとの予定では7月4日からということになっているが、今学期は悪天候が原因で開始が一週間遅れた、ということは夏休み入りするのも一週間遅れることになるのだろうか、と。LからはK先生に確認してもらったほうが確実だという返信がとどいたので、K先生におなじ質問を今度は日本語で送ってみたところ、もともとの予定どおりだろうという返事。しかしいちおうY.M先生に確認してもらったほうがいいというので、ほかでもないその当人からK先生に確認してもらったほうがいいと言われたのだと事情説明。K先生は会議の最中らしく、のちほど教務室の先生にスケジュールを確認してみると言った。

今日づけの記事をここまで書くと時刻は16時半。明日の授業で使用する資料を印刷。昨夜卒業生のS.Fさんから送られてきた修論にざっと目を通し、冒頭数ページを修正するが、30分ほどかけても数ページしか進まない。全部で60ページある。なんでおれがこんなことせなあかんねんとイライラする。
17時をまわったところで第五食堂で打包。メシ喰うないや喰う。食後、チェンマイのシャワーを浴びる。あがると、一年生2班のC.Eさんからめずらしく微信がとどいている。夏休み中に家族で日本旅行をするつもりなのだが、大都市以外でいいところはないだろうか、と。滞在期間をたずねると8日間という返事。父君が「大阪漁具展」に興味をもっているので、少なくとも大阪に滞在することは確定らしい。バタバタしたくないのであれば、大阪・京都・奈良・神戸あたりで目的地を固めたほうがいいだろうが、せっかくであるし東京もおとずれたいというのであれば関西4日間、関東4日間で分けたほうがいいと助言。関東であれば中国人観光客になによりも人気があるのは鎌倉だろう。北海道や沖縄も人気があるが、国内といえども飛行機での移動が要請される距離になる。関東をなしとするのであれば、山口が最近外国人に人気があると聞いたことがあるが、なんで人気があるのかは知らん。関西で自然の風景を楽しみたいというのであれば、やはり熊野古道あたりに行くのがいいのではないか。8日間あるのだし、和歌山で一泊というのも十分アリだと思う。と、だいたいそんな感じのことしかいえない、なぜならこちらには旅行をする趣味が全然ないからだ!
図書館で書見したかったし、そのつもりで街着に着替えて保温杯にコーヒーまでそそいだのだったが、月末までに作文コンクールの応募用原稿をすべて添削し、かつ、S.Fさんの修論を全面改稿する必要があるとなると、これはなかなか厳しいのではないか? で、なんでこんなことせなあかんねん! と死ぬほどイライラしつつも修論に目を通すことに。
が、その前に『ディスタント』(ミヤギフトシ)の「アメリカの風景」だけ最後まで読み進めておいたのだった。複数の時空間(記憶)を特定の語・特定の人物・特定の場面などを媒介として行き来する記述。クロード・シモンほど過激ではないが、シモンのように錯綜(的記述)それ自体を目的としているわけではなく、時空間(記憶)の移動のたびごとに行空けがさしはさまれる律儀さからもわかるように、こうした錯綜=移動はそれ自体が目的ではなく、あくまでも語られるべきテーマ群を語るために用いられている(「技術」が「内容」に従属するという意味で、ここではある種の「物語」が導入されているといえる)。下手をすれば文学的後退とそしられかねない造りなわけだが、そうした印象は特に受けないのはおそらく、「沖縄(島と那覇)」「アメリカ」「戦争」「差別」「セクシャリティ」——そうした(ある意味では典型的といってもいい、大文字の)キーワードに集約されるもろもろが、結論から逆算するかたちでこれ見よがしな意図のもとに配置されているのではなく、交わされる会話、描写される風景、懐古される記憶のなかでごくごく自然にあらわれる、その自然さの質感が、作家の分身を語り手とする一人称小説という形式の効果もあって、この作家がそうしたテーマに対してむきあってきた時の厚み——大文字のテーマについて考えているのではなく、大文字のテーマをまさに生きてきた作家の肖像——を伝えるからだろう。つまり、これらは付け焼き刃の文学的意匠などでは決してない。あと、語り手が自身のセクシャリティについて直接的に言明しないのもすばらしくいい。たとえば異性愛者の語り手が自身が異性愛者であることをいちいち読者に対して断ることがないように、この小説で語り手は自身のセクシャリティについて語ることはない。読者はただ、語り手の視線が同性の人間をとらえてなぞるときの動きやためらいを通じて、あるいはパーティーメンバー全員が男性で固まっているRPGのプレイ画面を通じて、その欲望のありかをうっすらと察することになる。
21時に書見を切りあげて修論の添削にとりかかるも22時に中断。一時間かけてほんの10ページしか進んでいない事実に猛烈にイライラする。単純計算しておれはこの仕事にあと5時間捧げる必要がある! 5時間タダ働きをする必要がある! やってられるかボケが! S.Fさん曰く、論文は指導教官に一度チェックしてもらっているとのことだったが、文章はふつうにボロボロであるし意味のろくに通らない箇所だって少なくない、ゆえにほぼ全文とまではいわないにしても七割か八割はこちらの手で書きなおすかたちにならざるをえないわけで、作業量そのものよりもなんでおれが全文書きなおさなかんねんというイライラがしんどい。去年Y.Eくんの修論添削をたのまれたときも思ったが、来年以降はマジで引き受けたくない、少なくとも無料でやるような仕事では絶対にない。
作業の途中、めずらしくS先生から微信。彼は彼で卒論の指導中なのだろう、学生から踊り字について質問されたようす。「いくども/\たのみました」という文章の写真が送られてきたので、「いくどもいくどもたのみました」と繰り返して読めば問題なしと返信したところ、それについては知っているようす。ただ踊り字に別の意味はないだろうかと学生が気にしているというので、こちらの知るかぎりはないと応じる。
MちゃんからLINEがとどく。ボランティアで日本語を教えている中国人女性からWeChatPayや支付宝を日本でも使用することができると教えてもらった、Tくんも一時帰国中はそれで買い物したほうがいろいろお得なんではないか、と。中国国外でWeChatPayや支付宝での支払いができるのは中国人だけであり、われわれ外国人はできないのだと返信。これについてはマジですぐにでもできるようにしてほしいわけだが。
夜食のラーメンを食ってベッドに移動したのち、『ディスタント』(ミヤギフトシ)の続きを読んで就寝。