孤憤 (original) (raw)

Chapter3のテーマは日本を出てのグローバル展開だから、日本に閉じこもっていても良い原稿は書けない。てなことは全く考えていなくて、全くのリゾート!リゾリゾ・リゾートである。

ずっと、香港に行った時、せっかくこれからバンバン海外に行くぜ!と5000円高い方の10年パスポートを取得したのに、そのハンコだけで期限切れになりそうなのを悔やんでいた。本当はハワイに行きたいのだが、旅費も日程もかかるので、なかなか難しい。妻は、グァムでもいいんじゃない?と言うが、私は、グァムをそれほど評価しておらず話は進まなかった。

そんな時、実は、パスポートのハンコの数なら10は超えている旅レンジャーである娘が「グァムを舐めたらあかんで。旅費が安い分、ハワイよりずっと楽しめるというメリットも有るねんで。」と言う。そして、その週末には、ガイドブックを持って来て、数日以内に、やりたいことや、行きたいところを決めておくように言われた。どうやら、彼女も行こうとしていて、同行者を探していたようだ。

数日後その回答をする頃、私たち夫婦の気分は、すっかり「Hafa Aday(ハファ デイ)」(グァムの言語:チャモロ語で「アロハ」と同じだが、発音が難しい)になっていた。

1 オードブル=飛行機。エピソードの無かった旅が無い

空港の駅に着くと、娘は全く迷わず、トランクの預かりカウンターに向かう。CAですか?と、突っ込みたくなる。しかし、どんなに旅慣れしていても、国際便は、2時間前から手続きすると言うルールは守った方が良いと娘は言う。この日も、予定便の離陸が10分早まったとか、乗り場が突然、空港内列車を使って移動するほど別の所に変わったとか、しっちゃかめっちゃかだった。(遅れることは有っても、早まるってのも有るのか?)

3時間の飛行だが、機内食が出た。 国際線の機内食は、必ず「CHICKEN(チキン)or ほにゃらら」だ。私は、鶏肉は食べられないのだが、いつも、このチキンじゃない方の発音が聞き取れない。しかし、今日は、字幕なしで洋画を観る娘がついている。

「チキンじゃない方はなんて言うてるん?」

「いや、よくわからんねん。」「サンドウィッチて言うてない?」と妻が言う。

「うん、そうやねんけど、それは、ターキーが入っているって言うねん。ターキーって鳥じゃなかった?」

クリスマスに七面鳥を食べる習慣は日本では根付かなかった。彼女が聞き慣れていないのは当然だろう。

小学校の2学期最終日は、クリスマス・イブ。給食で無駄にターキーが出るので、私はせっかくのクリスマス・イブに、毎年居残りだった。ということで、とっても嫌な顔で首を振った。

「三つ目もあるみたいやけど、NASO FLYって聞こえるねん。なんやろう?」 私のボキャブラリ2500単語を探索しても、全くわからん。

「さすがに、三つ目も鳥ってことはないやろう。それにしたら?」

いや、そのNASOというのが、鳥以上に食えたもんじゃなかったらどうすんねん。と思いながらも、まあ、旅行の醍醐味の一つ、恥はかき捨て

「Please NASO FLY. But What’s NASO?」と言ってみたら、

「Oh、NASO is NASO.Japanese NASO.」食べてみたら、ナスビの天ぷらだった。Eggplantと言え!

眼下には、果てしなく広がる太平洋が続いていた。

本当に、上から見ても“ひつじ”のような、小さな雲が、海面スレスレを、群をなしてゆっくり滑っていくように浮かんでいた。上空1万メートルから見ているからそう見えるのだろうが、あれでも高度500メートルはあるのだろう。 何度か、国際線に乗ったが、太平洋を渡るのは初めてだった。

だだっ広い海面は、穏やかで、ウユニ塩湖のように鏡面効果を現し、羊どものお腹を映していた。絶景とは意外と簡単に見られるものだ。

2 スープ=力を入れ過ぎても行けないし抜くことも難しい

旅行、特に海外旅行に行って、「お土産」問題に時間を取られた経験はある人は多いと思う。こっそり出かけても、何日かは休みを取り同僚には多少負荷をかけるわけで、滅多に行けないところだけに、自分に対するお土産も欲しい。

しかし、私のように、「マカデミアナッツなら別に要らんから。」と言われてしまうと、それが「お土産のことは考えなくて良い。」という意味であっても、「洒落の効かないやつ」になりたいものであり、余計にハードルを上げてしまう。

でも、あまり力を入れ過ぎるともらった方も引くし、軽すぎるとマカデミアナッツになってしまう。時折、このお土産問題のために旅のテンションを下げられるのは残念なことだ。

今回、自分の土産の方は決まっていた。先日失くしたサングラスだ。南の島に行くのだ。サングラスはいくらでも売っているだろうよ。と言う読みだ。

我々が宿泊したホテル周辺は、グァムきっての繁華街・タモン地区と呼ばれているが、そこに、「T galleria」という、世界でも有数のブランド店が結集しているショッピングモールが有る。

その建物には、滞在中何度も行ったが、2回目に行った時、とんでも無い景色を見た。

他のショップで言うと4つから5つ分のスペース、乙事主やモロが、すっぽり入るくらいのスペースに、数千本もサングラスが並べられていた。T galleriaに集結したブランド店が、競い合って展示しているものだった。「やってくれるぜ、南の島!」と感激した。

女性やちょっと世話になっている人に渡すものは行く前に決まっていた。旅レンジャーからの情報では、当地では、日焼けキティという当地限定のアイテムが販売されているとか。「当地限定」となるとテッパンである。

実際現地でいくつものショッピングセンターを回ったが、どこも日焼けキティとサンリオグッヅが置かれていて、もはや、サンリオが完全にグァムをジャックしていた。おかげで、土産問題に時間を取られることはなかった。

3 ポワソン=来て良かったと思わせるものを

私が一つ不安に思っていたのは、妻が果たしてマリンアクティビティーに興味を持ってくれるかという点だった。子育て中、海に行っても、プールに行っても、水に入ることはなかった。もう30年くらい水着姿を見ていない。

韓国や香港のように、ショッピングでも十分楽しめる島ではあるが、やっぱり「海」に入らなければ、グァムを選ぶ意味の半分を失うように思っていた。

ところが、グァムの海は別だったようで、ガイドブックに紹介されているマリンアクテビティーを、前のめりで選んでいた。まあ、ラッシュガードというあまり肌を露出しないスタイルも流行っていることもあって、全然OKなようだ。

2日目の早朝、娘が手配したオプショナルプランが始動する。

迎えに来たマイクロバスは、すでに参加者で満席だった。 私たちが最初に選んだのは、月面探査の時の宇宙服のヘルメット部分のようなもの、私たちは終始「金魚鉢」と呼んでいたが、を被って海中を散歩する、「アクアウォーク」というものだ。

私も娘も、スクーバーの経験は有る。海が荒れた(シケ)日の翌日にスクーバをすると、魚に会えないといういわゆる「ハズレ」を引くことがあるが、私も娘もその経験があり、高価な上に、沖まで出て、フル装備で「ハズレ」を引くのはうんざりだった。

しかし、このアクアウォークに関しては、まず初体験だし、自分たちで、勝手に金魚鉢と名付けている時点で、もうハズレ無しなのだ。しかも、ママさんの日頃の行いがよろしいのか、私としては体験したことのないほどの魚群に囲まれた。

金魚鉢は前面だけがガラスなので、なかなか互いの顔は見えないのだが、海から上がってそれを外した顔を見るだけで、ずっと笑っていたことがわかる。実際、当該アクティビティの主催者のインスタには、後日記念写真が飾られる。私たち3人は、耳まで口角を上げて魚に紛れながら、並んでピースしていた。

次に選んでいたのは「パラセーリング」だった。これも、3人とも未体験で、このツアー最大の楽しみでもあった。前日から、「明日は空にぶち上げられて、嫌なことも困ったことも全部吹っ飛ばしてやろうぜ!」と意気込んでいた。

満席だったマイクロバスから乗り換えると、参加者は、半分以下の7人になっていた。人気がないわけではない。他の参加者は、娘と同世代か少しだけ若い目のペアが2組。つまり、親子で参加するのは難しいということだ。

友達のような、兄弟のような、仲の良い親子。とよく言われてきた。親が二人揃ってガキのような性格だから、子供がまともになったとも言われたなあ。「真実は当事者しか知らないものだ。」などと考えているうちに、バスは、モーターボート専用の小さな港に着いた。

2組のペアが先に出発して、それと交代に私たちが出航。妻と娘はかっ飛ばすモーターボートは初体験のようで、キャピキャピ言っていたが、当然そんなものは序の口。沖について、パラシュートに固定され、あっという間に空に舞い上がって行った。嬉々として手を振っている。きっといろんなものが吹っ飛んで行くのだろう。それがたまらなく嬉しかった。

そう、私たちは、周囲からいつも幸せな家族と言われて来たが、家族だから知っている。お互いが、重い荷物を背負いながら、互いに心配をかけないように引きつった笑顔を見せていることを。

空から降りて来た彼女たちの、ピカピカの笑顔こそが、本当の笑顔。心が揺れた。 さて、私も舞い上がる時が来た。正直、高い所もジェットコースターも平気な私には、バンジージャンプくらいしか感激はもたらせないだろうと考えていたが、なるほど、ゆるいハーネス以外装着せず裸同然で空を飛んでいると、確かに頭の中を解放できるように思えた。

頭の中で曲が流れる。どの曲というわけではない。自分で作っているのかよくわからないが、この感覚が起きる時、私の脳は強烈に感動している。説明すると長くなる。いずれ人工知能と人間との致命的な違い「天然知能」について、語ろうと思っているのでその時にしよう。

とにかく、二つのアクティビティーは大当たりで、これだけでもグァムに来た甲斐があったと思わせるものであった。

4 ソルベ(口直し)=ベタが結局一番トラディショナル

3日目。ホテルのプールサイドで半日を過ごす。そのホテルのプールは海にも出られるようになっていたが、グァムの砂浜は、珊瑚礁の粉でできているので、ちょっと日本人向きでは無かった。それに、娘に何がしたいと聞かれた時、以下のイラストを書いて、この写真が撮りたいと言っていたので、それを実現させることにした。

deck chair

娘は、多忙で来られなかった息子(弟)に、いろんな写真を送っていたようだが、これの実写版が一番ウケていたらしい。

3泊4日だった割には、かなりゆとりのある旅行だった。

飛行機もホテルもアクティビティも、全て娘がセットアップしてくれた。その娘から一つだけ依頼が来た。「市内の交通機関を予習しておいて欲しい。私、これだけは苦手やねん。」と。「パパは、英語が読めないので予習できない。」とトボけて返すと、「一つくらい役割を持った方が楽しめるで。」と嗜まれた。舐められたもんだ。時刻表や地図がアナログだった時代から、国内なら新潟以外の全都道府県を制覇している元旅レンジャーだ。1時間ほどネットで調べて、市内を巡回する「赤バス」と言うサービスについて、このサイトを見れば攻略できるというURLを3つほど送ってやった。

娘の言うように、グァムというところは、お手軽で面白いところだ。何にも無いと思っていたが、逆にハワイに有ってグァムに無いのは、火山くらいだろう。しかも、全てがコンパクトに収まっていて、移動時間が少ない。と感心しながら、もしかして、私は娘の術中にハマっている?と考えていた。

大方の旅程が定まってきた頃、遠足のしおりのような、かわいい旅程表が送られてきた。

ベタな演出だが、これを作るには、現地の交通についての知識が欠かせない。

5 ヴィアンド(メインディッシュ)=旅は一食一食が勝負

旅レンジャーによると、旅の成否は食事にかかってくるという。一食一食が勝負だそうだ。

そういえば、旅程表では、食事・アクティビティー・食事・買い物・食事・フリー・食事、食事がやけに強調されていてきっちり場所も書いていた。食べてばっかりかよ、と思わせる旅程表の中に、彼女の綿密な計算が仕組まれていたようだ。

初日は飛行機の都合を考えると予約は難しい。そこで、グァムきっての歓楽街、タモン地区に宿を置き、飲食店を探す戦略を採ったわけだ。娘にとっては、これだけが賭けだったようだが、最終的に、机が広くてわかりやすいという理由で、イタメシ屋に決めた。ところが、この店が大当たりで、非常にサービスが丁寧で、食事もビールも美味しかった。入った時はガラガラだったのに、出る頃には、行列ができていた。娘はほっと胸を撫で下ろしていたようだ。

2日目は、一番遠いところにあるが、外すことのできないショッピングセンター、の近くのステーキハウス。あちこちのテーブルで、誕生日か何かのお祝いが始まるような店だった。よほど、格式が高いのだろう。もちろん、ステーキは最高級で、ウェルダムに焼いても全く固くならず、脂身を残すこともなかった。

極め付けは、3日目の夕食。 「ザ・ビーチ」と、赤バスの停留所名にもなっているくらいの店。 浜辺に佇むログデッキに木版張りの屋根、もうこれは「南国」と言わざるを得ないカクテルバー。 トム・クルーズの「カクテル」を知っている人なら、「おう、あの一度は行ってみたいと思う、ザ・南国のカクテルバーってやつやな?」と言うだろう。

ちょうど、日が沈んですぐの西の空が豪快にオレンジを放つ中、テラス席に座り、出た!と言いたくなるあの、バレーボールが入りそうなカップにフルーツが刺さったグラスでカクテルを飲む。映え過ぎ。

ここで初めて、娘が、「旅は、一食一食が勝負やねん。それで、楽しい思い出も体験も、確定するねん。」と熱く語る。逆に言うと、どんなに楽しい1日を過ごしても、夕食の店を誤ると、全てがひっくり返ってしまうと言うことだ。確かに、何度か経験が有る。金言だね。

最高の旅をコーディネイトしてくれた娘に感謝すると共に、こんな夜を迎えられるまで、変人についてきてくれた妻にも感謝する。

6 デザート=また行こうと思わせるもの

最終日は、未明にホテルを出発し、朝一番の便に乗る。寝たければ、飛行機でも、「はるか」でも寝られる。昼前に帰宅し、洗濯を3回。今回は、明日から仕事なので、お土産を分けて、トランクを空にして、収納場所に戻す。夕飯は、帰路で買った弁当かパン。そこで、初めて草鞋を脱ぎ、旅行モードを切る。後始末が終わるまでが遊び。その習慣は、若い頃から変わらない。

さっぱりと切り替えた後になって、「また行きたいな。」と言う余韻が訪れるのが心地良い。

「Hello Kitty HARUKA」 by Sanri♡

海外旅行の始まりは、ハネムーンの時からいつも関空快速「はるか」だったが、今回は嬉しいことに、キティコーデの「Hello Kitty HARUKA」が迎えに来てくれた。サンリオが、共催NG無しというのは有名であり、特急とコラボしたところで珍しいことでは無いが、グァムでブレイク中との情報を得ていたので、とりわけ、今回の旅行の出だしとして最高の演出だった。

ハローキティは生誕50周年を迎えるとのこと。なんの変哲も無いこのキャラクターが長きに渡り愛され続けたのは、マニアでも数えきれないであろう、コラボ作品の数々に起因すると思われる。

サンリオの企業理念は、「One World, Connecting Smiles.」(笑顔で世界を一つに)だとか。

そう言うキティちゃんは、永遠の微笑ならぬ「永遠の無表情」なんですよねえ。しかし、だからこそ、彼女は、誰ともコラボができる。

無地こそ最強のパーツとする日本文化の一例として挙げても良いだろう。

1 前稿の再考
前回の投稿は、どうも、かなり不評だったようだ。
内容が悪いと、♡が貰えない。結構皆さん、中身を読んでいるんだなあ。

紛争が絶えない最貧国において、人を野生から切り離すため、基本教育を施すことが肝要と考えたが、「勉強すれば、配給を多めに与える。」とは、バカな提言をしたものだ。
彼らは、8歳で、自分一人分の作物を育てる事ができる。10歳で、マシンガンの使い方を学び始める。足し算や割り算より、ずっと、手っ取り早く収穫を得られる。このような社会において、学問はあまりに不毛だ。
「衣食足りて礼節を知る」。まず、治安の安定が国家を栄えさせ、万民に衣食が行き届いた時、初めて、教育のプログラムを始めるべきなのだろう。

また、前稿では殊更に権威主義国家を擁護した。弾圧される人たちにとっては、気分の悪い表現だったかもしれない。ただこれについては、自説が有る。
民主主義は絶対ではない。とある大国は、権威主義国家にスパイを送り込んで、国民を啓蒙し、民主化の嵐を起こそうとしているが、うまくいっていないようだ。それもそうだろう、民の持つ正義はまちまちだ。そもそも、そこに住む国民は生まれながらにしてその環境が当然であり、世界中がそうだと信じていて、それなりに自分達は幸福だとも考えている。従って、そんな社会で、一部のインテリを育て、内紛を起こしたところで、無駄な血が流れる一方なのだ。

ただ近代において基本的人権を守れない国は明らかに劣っている。これだけは世界共通の善と考えている。常に、基本的人権を守る事が、国際社会において発言権を得る最低条件であると定めても、地球温暖化より疑念を抱く国家は極めて少ないだろう。

「人はそれぞれに「正義」があって、争い合う事は仕方ないのかもしれない。
だけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね」(SEKAI NO OWARIDragon Night」)

どのような思想や正義も否定することはできない。しかし、その手段に暴力が関与することは許されない。
憲法前文で言うところの、「専制」については、その国家の正義を尊重せざるを得ないと考えるが、これに続く「隷従、圧迫と偏狭」については、これを否定する。

2 吏を治めて民を治めず
韓非子・外儲説篇「吏は民の本綱なる者なり。故に聖人は吏を治めて民を治めず。」
法治国家における「正義」は、民にとっては他人が決めた正義である。民が個々に持つ正義はあまりにまちまちであり、とてもまとめることは困難である。そこで、民が、その法律が決めた正義を自ら湧き出したかのように感じさせるため、民がそれを手本として真似をしたくなる「本綱」を設けることで、非常に効率的に、社会正義が共有される。
私は、この理念の実現経験が、日本の江戸幕府にあると感じている。つまり、サムライという行政官が、慄然と統治されていたことにより、民もまたこれに従った。太平は長きに渡り保たれ、同時に日本の文化だけでなく、学問も独自の進歩を遂げており、開国により天下が回天しても、民は秩序を保ち、150年以上は遅れていたはずの技術を、10数年で習得するに至った。
私はこれを、天下布法の重要な要件として、戦略に組み込むことをずっと検討していた。
このChapter3は、日本の良きスペックを世界に波及させることを目的としている。
その一つに、日本のサムライ制度の何が良かったのか?そして、どうすればそれを再現できるかを示すと言う目標が有った。前稿では、教育の重要性を語りたかったがために、少しズレた戦略を語ってしまった。

3 民の本綱なる者への道は遠きにして
さて、現在の日本の役人が、江戸時代のサムライのように、「花は桜木、人は武士」と言われるほど、「民の本綱なる者」と言えるだろうか?残念ながら程遠いように思う。
民が簡単には「法」を理解できないように、上層部はともかく、末端の役人の中には、どうにも、自分に課せられた課題が理解しきれていない者が居る。
これより、ある官庁の例を挙げて、「民の本綱なる者」への道の険しさを表現する。

⑴ 税務調査手続法
平成25年。国税通則法が改正され、税務調査手続きの法制化がなされた。
その背景には、行き過ぎた任意調査がある。
税務調査は、原則任意であるが、「正当な理由がない限りこれを受忍する(通称:受忍義務)という規定があり、この正当な理由というのが曖昧で、受忍義務が優先されてきた。
税務当局としても、相手が開示を拒むものほど問題があるケースの確率が高く、不正を行っている者ほど、体調を壊す傾向が有るわけで、ここで引き下がっていては、真の社会正義は保てないと考えてのことなのだが、警察と同じように、その疑念に対し、一定の信憑性がなければ、国民の財産を勝手に検査したり、体調が優れないという対象者または経理担当者に対し、質問して情報を引き出すことはできない。
しかし、この改正がなされるまで、その疑念に確証がなくとも、ほとんど質問・検査ができるという、言ってみれば、警察官より強い権力を持っていたわけだ。
これに対し疑問を抱く国民が、いくつかの行き過ぎと思える調査について訴訟を起こした。当初、裁判所も、そもそも、税務調査の手続きが、刑事事件で言うところの刑事訴訟法のように具体的に定められていなかったため、判断に苦慮していたが、あまりに無法というものも見受けられたようで、「不正発見のためには何をしても良いというわけではない。」という判断が出始めた。
税務当局は、いくつかの敗訴を受けるうちに、強引すぎる手法では、たとえそれによって不正を把握できたとしても、国民の支持を得られないと考え始めていた。
だから、当該手続法が定められた時の対応は早かった。即座に、全管にその趣旨を通達し、以降同様の事の無いように手順を守らせるためのチェックシートを作成し、手続法に定められた記録が残せるためのテンプレートが整備された。
私が、日本の行政官庁なら、民の本綱となり、ひいては世界に範たるを示す組織となりうると考えるのは、このように、行き過ぎた行為について、シビリアンコントロールが働くと、司法が介入し、三権分立の原則通り、中央の上級官庁が、積極的に非を正してくれることだ。
しかし、残念なことに、インフラはアッという間に整備されたとはいえ、現場の職員はなかなか即応できなかった。
末端の職員は、とてもじゃないが、中央の上級官庁員ほど、天下の情勢、国民の信用状況を理解できていたわけではない。おそらく、自分たちの組織が、提訴され、幾度か敗訴していることを知らない者、急な変化についていけない者、手続法をいくら読んでも、何が、どこまでが適正なのか理解できない者などが多く存在し、手続法の普及と完全なる運用に至るには困難を極めたようだ。

⑵ 組織理念の制定
2018年(平成30年)「財務省再生プロジェクト」(以下、再生プロジェクトという)が発足する。https://www.mof.go.jp/about_mof/introduction/saisei/index.html参照。
きっかけは、有名な森友問題における決裁文書の改ざん問題であり、その目的は、失った国民の信用を回復させることにあったのだが、翌年には、障害者雇用者の水増し報告問題が発覚し、手続法は、導入から5年も経っているのに、未だ時代に乗り遅れていて、いわゆる「コンプライアンス」「内部統制」の早期改善も求められており、例年財務省から報告される進捗状況を見ても、未解決問題は山積のようだ。
令和3年4月、再生プロジェクトの提案を受け、国税庁は、「組織理念」なるものを発表した。噂では、どこかで外国の偉いさんに、「組織理念の無い組織に明日は無い。」と言われたからだとか言われているが、国税庁は、財務省設置法の定めにより設立された、「官庁」である。従って、組織理念に当たる「設置の目的」は、同法において明確に列記されている。具体的には3つあるのだが割愛する。
要するに、法に基づき設立される「官庁」に、組織理念などというものは必要ない。法に則り、通則に定める手続きを公正に行えば良い。
にもかかわらず、敢えて本庁がこれを掲げたのには理由がある。
当該組織理念には、概ね財務省設置法に定められた国税庁の使命が掲げられているが、その中で、“組織として目指す姿”と題して、「信頼で 国の財政 支える組織」という言葉が出てくる。これは、当該法規には記されていない。そのほか、細則として示されている内容の中で、同様に法規に記載のないものがいくつか有るが、それらは皆、かの省庁が犯した過ちを自省する文言である。
面白いのは、それまで、再生プロジェクトは、「信用の回復」と表現していたのに、ここで、「信頼」という言葉に変わっている点である。
ちなみに、国語辞典によると、「信用」とは、過去の実績に対する評価に使われ、「信頼」とは、将来に向けての行動に対する期待を表すそうな。
この言い換えを見ているだけでも、この組織理念を策定した人達の想いのようなものを感じる。
昔は、東大卒はみんな財務省を目指したものだが、天下り改革のおかげで、ずいぶん人気が減ったという。しかし、どうしてどうして、まだまだ、頭の切れる者がいるもんだ。こういう役人が、「民の本綱なる者」になり得るのだろうな。
しかしながら、このような機微まではともかくとして、この新しい組織理念、果たして末端の役人まで届いているだろうか?
行政機構の上下の温度差を描いた伝説のドラマ「踊る大捜査線」でも表現されていたように、中央には中央の、現場には現場の理想・理念というものがあり、その軋轢を埋めることは難しい。
再生プロジェクトは、発足当時から「根付いた組織風土を改革する事は、一朝一夕というわけには行かず、地道で息の長い取組が必要となる。」と論じている。そして、直近の2024年進捗報告においても、「引き続き組織風土改革を継続」という課題が挙げられている。

私には、国税庁の掲げた「組織理念」が、その組織のあるべき姿を宣言したと同時に、「まだ未解決の問題が、叶えられていない理想が、これだけ有る。」という悲痛な叫びにも見えてくるのである。

剱岳にも道は有り
民を直接統べる事は不可能に近い。そこで役人を統制し、その資質を上げて、これを「民の本綱(手本)」とすることで、効率よく、社会正義を共有させるという韓非子の思想は有効と考えるが、末端の役人の統制となると、前述の如く容易ではないようである。しかし、国税庁の失敗は、どうも、上意下達がもっと有効に機能するという甘い観測から来たものと考えられる。国税庁もおそらく今や気づいているだろう。
理想には常に戦略が必要だ。そして、複雑化した現代では、もっと緻密な戦略が必要だったようだ。しかし、果たしてその緻密な戦略とはどういうものなのか?私の見る限り、国税庁は、ここで思考が行き詰まっているように見える。

現在私は二つの視点から、その戦略案の構築に挑んでいる。(単に趣味としてだが。)
その一つは、またまた韓非子の,利益誘導法を活用すること。今やサラリーマン化した役人に対しては、組織理念をよく理解し、これに従うほど、効用を得られる仕組みを作ることが重要だ。残念なことに、上層部と軋轢を持つ組織では、上層部の理念を理解する者ほど冷遇されるということが、あってはならないのに、ありがちだ。
数字や業績ではなく、「善く吏たる者」を厚遇する仕組みをつくれば、「能能わざる者」は、沈黙しよう。
今一つは、新撰組の局中法度に見られるような、度が過ぎるほどの、士道への憧れを醸成する教育だ。安定や、清潔さでなく、国に殉ずる者を採用し、彼らを「本綱」とし、憧れの存在にしていく。
いずれも、まだ、ぶつ切りの材料を鍋にブチ込んだレベルの状況で、まるで形になっていないが、Chapter3の終わりまでには、成形して、披露したいと考えている。

ミロのヴィーナス(古代ギリシャ彫刻)

ミロのヴィーナスの写真を探していると、ほとんどが、彼女がこちらを向いているものが多い。Wikiでも、それが「正面」で、この写真のように横を向いているものは、「横向き」と表現している。しかし、最近の研究では、この方角から見るのが正しいようだ。そして、おそらく壁を背にして建っていたと考えられている。
ところで、先日、このヴィーナスの評論について面白い話を聞いた。
「ミロのヴィーナス」は、なぜ美しいのか?どこが美しいのか?
そうではない。この彫刻は、「美しい」を表現したものなのだ。つまり、人体や彫刻の美しさは、いかにこの彫刻に近いかで決まる。この彫刻自体が、「美しさのモノサシ」なのだという。
19世紀初頭、彼女がミロス島の農地から発見され、保存状態の良さから、翌年には、ルーブルに展示されて以来、多くの芸術家が彼女を手本にしてきた。まさに彼女は、「美の本綱」だったわけだ。

人はそれぞれに、思想・信条・正義を持っているのだろう。しかし、そこに共通項が無いとは誰も証明していない。その共通項を見定め、「民の本綱」となる。人としてのモノサシとなっていける集団を作ることができれば、世界はもう少しマシになるだろう。

1 天下万民の法
世界にはさまざまな国が存在する。地理的な要因、歴史的な要因、宗教的な価値観、様々な背景を持って、現在に至っている。いずれの国家もその現状に至った経緯は、概ね複雑なものであり、それによって形作られた、国体というものは、容易には変わらない。
経済力がついて、国力が上がってくると、大体、「自国の制度こそ絶対だ。」と考えるようになりがちだが、豊かであることだけが、国体の良し悪しを決めるものでもなさそうだ。
日本なんぞは、これほど平和で治安が良くて自由なのに、2022〜24年度世界幸福度ランキングでは、143カ国中51位だった。

これは、近年急成長した国が発祥の、とても有名な昔話。「昔々、天に使える軍隊の猛将だっった、斉天大聖・孫悟空は、厳しい鍛錬の末、一息で10万8千里(秒速40万キロ=光より速い)を飛ぶ、觔斗雲(きんとうん)を手に入れた。すると、お釈迦様が競争を挑んできたので、これを受けた。エイッと、一っ飛び、あっという間に地の果てと思われる不思議な柱に至ったので、これに落書きをしたところ、それは、お釈迦様の指だった・・・。」
どのような武器を持とうと、技術を持とうと、すべからく万国を統べることなどないのだ。にもかかわらず、多くの国家元首が、觔斗雲を手に入れる事に夢中になっている。では、万国を統べる制度なら存在するのか?いや、民主主義にも欠陥が有り、権威主義にも利点が有る。制服がない学校より制服のある学校に行きたがる人がいるように、自由や平等だけが全てでもない。

おそらく釈迦の指を超えるものは、まだ見つかっていないと考えるべきなのだろう。

従って、我々は、どのような国体も否定できない。だから、国際法では、どのような国家であっても、「内政不干渉」の原則が存在するわけである。
しかし、個人の自由同様、国家の行動について、すべてを自由として肯定することはできない。それは万国の万国に対する闘争を意味し、弱肉強食の「野生」の社会へ至る道である。
一定の秩序ある国際社会を維持するためには、どのような事情を抱えていようとも、国家として、守るべきルールや侵してはいけないルール、すなわち、「天下万民の法」というものが存在するのも事実である。
その中の一つを端的に表している名文があるので紹介しよう。

日本国憲法十三条「すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
基本的人権の尊重。そして、大方のことは「自由」。freedom!ただし、それは、公共の福祉に反しない(分かりやすく言うと、他人に迷惑をかけないこと)、と言う制限を持つ。
国家も同じ、まず、基本的人権は尊重する。奴隷的扱い、非人道的扱い、裁判なしでの服役・監禁はしない。ただし、それ以外は自由だ。内政不干渉、どの国も自分の国の運用に口を出される筋合いはない。私の家のカーテンのデザインに文句を言うことはできない。
次に、他国に迷惑をかけたらアウト。外国船が行き交う狭い海峡近くにいかつい基地を作るのもアウト。私の家のカーテンも、街の風紀を乱すような淫らなものや、または、通行人が気分を害するようなおぞましいデザインだったらアウトだ。
これで良い。これが一番分かりやすい。

2 人間は考える葦である
西洋では、人間には食欲・睡眠欲・性欲という三大欲求があり、これら本能的欲求は、抑制するのが非常に難しいとされている。そして、時に人間は弱く、欲望に負けて罪を犯す。しかし神は、正直に告白し贖罪を誓えば許すという。
どうも、我慢強い東洋人の私には、考えが甘々に思える。オリンピアンクラスなら9割、庶民の我々でも、6割はこの程度の本能を制御できないとは思えない。

一方、韓非子は「人間は利益を追求するもの」と説いた。親が子を育てるのは、老後の助けを期待してのこと、家臣が君主に仕えるのは給料を得るため。孔子の「孝」や「忠」も、利益追求が目的であると断じた。そのため、彼は、非情の思想家と呼ばれた。
しかし、欲望に負けた人間を、悔い改めたからといって簡単に許してしまう西洋の神とやらは、被害者から見れば非情を超えて無情だろう。

また、韓非子の言う「利益」とは、本能を満たすだけでなく、文化的な「冨貴」「名誉」「権益」を指す。つまり「孝」や「忠」も利益追求の一環であり、本能よりも高次の思考だ。

「人間は考える葦である」というパスカルの名言について、多くの人は「人間はか弱いが、考える力を持つ」と理解しているだろう。

しかし、この言葉が出てくる著書「パンセ」を読み進めると、彼はもっと壮大な主張をしている。「人間は考えることで大宇宙から隔離された。大宇宙とは一線を画する存在である。」らしい。彼が伝えようとしている事は、人間は偉いという事ではもちろんなく、「考えることができる人間は、大宇宙、つまり何も考えの無い、いわば「野生」とは一線を画せ。」と言っているのである。

本能には勝てない?笑わせないでくれ。数百万年かけて大脳皮質を育んできたのはなんのためか。私たちは、武器を作り集団を統率できるようになった時から、理性を持ち、「野生」から一線を画さないと、自らの種を絶滅させかねない存在となったのだ。

「大いなる力には、大いなる責任が伴う」(スパイダーマンより)

考える力は偉大だ。だからこそ、「野生」とは一線を画し、せめて「利益」を求めるくらいの文明性を持つべきなのだ。そうすれば、「法治」を支える計算が生まれる。その次元まで来て、初めて「考える」ことが偉大と言えるようになるのだ。

3 教育は天下百年の大計
以前にも話したことがあるが、法治主義の難しい点は、法は他人が決めた正義であり、必ずしも個々、個人の正義には一致しないことが問題となる。
しかし、第1項で掲げた、基本的人権や、制限付きの自由の概念は、私たちなどから見れば、当然としか思えない。
しかし、多くの国家で、この当然のルールをひた隠し、教えず、学ばさない。という卑劣な政策が取られている。自分の支配の礎にヒビを入らせないためだ。だから、抑圧された人民が、暴発してクーデターを起こし、その国主を倒しても、長い間、内戦が続くのだ。

その昔、ソビエト連邦という大国が崩壊した。
世界は、空席となった利権や資源を奪い合い、必ず大規模な内戦になると危惧した。
しかし、ソビエト連邦は、粛々と解体されていった。
指導者が偉大であったこと、当時、連邦を統率していたロシアが弱体化していたことや、もともと解体を望んでいた国が多かったことなど、さまざまな要因が考えられているが、それにしても、本当に暴力行為、略奪行為、虐待行為ということがほとんどなく、まるで、とてつもなく大きな集会が終わっただけかのように、粛々と彼らは解散していった。
当時大学生だった私は、悲しくも最後のマルクス経済学の講師となってしまった教授から、こんな話を聞いた。
「彼らのチャレンジは失敗した。私は、この資本主義の末路を知りながら、これを避ける方法をまた探さなければならない。だが、彼らのチャレンジは無駄ではなかったようだ。彼の国の国民は、イデオロギーの対決と競争の中で、たくさんの偉業を成し遂げ、誇りを持てるだけの教育を受けてきた。だから、衰えたかつての独裁者に仕返しをしたり、補償を求めたりするようなことは、少なくとも今の自分たちの利益にはならないことを理解している。」
幸運なことに、この時は、みんなちゃんと「考える葦」だったわけだ。

教育は、紛争を抑える必要条件にも十分条件にもなり得ないが、人と「野生」と切り離すことで、人は人らしく生きようとする。そうである事に誇りを持つようになる。

もし国連が、本気で、この世界から、貧困や飢餓を取り除きたいと願うなら、かなりのウェイトをかけて、まず彼らを無学から救わなければならない。前述した通り、未開、または途上国では、誤った教育によって、「自分達は負けたら奴隷か家畜」「飢えて当然、死んで当然」と考えているのかもしれない。80年前、東洋にそんな島国があったっけ。

まずは、紛争続く中、腹の足しにもならず、身を守ることもできない、「権利」だの「自由」という概念を理解させ、「野生」から一線を画した「考える葦」にしていくことが可能だろうか?

我に策有り。
簡単な書取りと、四則計算のドリルの入った「たまごっち」(生体認証付)を配って、できた点数分、お金や食料の配給を増やす。大人も子供もOK。ちょっと学ぶ事に熱心になってきたら、「基本的人権」と、「公共の福祉に反しない自由」を教える。
悪くないプログラムだ。

これを、国連教育プログラム・フェーズ1:「基本権」としよう。
「人は生まれながらにして基本的権利を有し、公共の福祉に反しない限り自由である。」
これが一本目。「言って良い。やって良い。話してくれ。訴えてくれ。」これが始まりだ。

さて、次に、ウクライナ・ロシアやイスラエルパレスチナ紛争についてだが、一応、彼らは、人権と自由くらいは知っている。知っていて、それが十分でないことを主張して揉めている。それぞれの正義に異論を挟むつもりはない。ただ、戦争は、軍隊同士だけでしろ。
私の持論は、戦時の殺人は、正当防衛。武器を持たず、子供を庇っている母親の背中を打つのは「殺人」である。
空爆の判定は難しいが、かつて、軍服を着用せずに作戦行動を行う者(つまりスパイ)は、武器を持っていなくても銃殺だった。つまり、戦闘員は、その証を身につけ、非戦闘員と明確な区切りつけること。これがルール。戦闘員も非戦闘員もお互い絶対近づかない。戦闘員が非戦闘員を盾に隠れることは反則。大義を持って戦う者のする事ではない。巻き添えを食った非戦闘員は敵を恨まず、その戦闘員を恨め。

こうして、交戦各国が、ルールに基づいて、戦闘員・非戦闘員を明確に区切るのであれば、非人道攻撃は、明確に証拠を押さえることができるようになる。
そこで、強烈な国際法を制定する。ターゲットは武器商人だ。P L法と同じように、彼らに生産者責任を負ってもらう。

法「貴社が製造し、提供した武器が、非人道的な攻撃に使用された場合、貴社は、その被害者及び遺族に相応の補償を行うこととする。」

戦犯兵士も悪いが、そんな気にさせた人を殺したくなる兵器も悪い。

しかし、そんな法律が本当に制定できるだろうか?いや今の世の中じゃ難しい。
前述の条件を満たし、非人道攻撃を証明できるようになれば、難しい話ではない。ただ現状では抵抗勢力が多すぎる。

そこで、国連教育プログラムはフェーズ2:「世界平和」に入る。
ここで、武器商人が、生産者責任を問われることは、それほどおかしな発想か?を問いかける。他にも、フェーズ2で盛り込みたい内容は有るが、フェーズ1の進み具合によっては、フェーズ2のテキスト案が、世界市場を揺るがすようになっているだろう。

人間は考える葦である。しかし、その「考え」を決めるのは、結局、教育なのである。

アンリ・マティス「ダンス」

ニューヨークには、二つの有名な美術館がある。メトロポリタン美術館(通称MET)、ニューヨーク近代美術館(通称MoMA)である。METは、フェルメールから印象派MoMAは、後期印象派からピカソといった具合に、パリのルーブルとオルセーのように時代が分かれている。
どちらか一つにしか行けないのなら、METを選ぶのだが、この「ダンス」は、残念ながら、MoMAに有る。
「いや、待て待て、この小学生のらくがきをなぜ観たいのか理解ができない。」となるでしょうね。

92歳で没したピカソが晩年残した言葉「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」は有名だが、それは、全ての虚飾と野望を捨てた、無垢・無欲なものを指していたという。

色の魔術師と呼ばれたマティスの作品は、どれも挑戦的で、虚飾も野心も惜しげなく放出され、まるで「野獣に襲われている気分になる。」として、「フォービズム(野獣派)」と呼ばれた。
ちなみにこの絵は、下書きで、エルミタージュ美術館(この美術館も超有名だが)に、清書版が有る。その絵と、この絵を比べた時、そこに加えられた、虚飾・野望が見え、その絵はもう「子供のような絵を描こうとしている“大人”」が垣間見えてくる。
だから、この絵は有名になったわけだ。

しかし、この絵は小学生のらくがきのようだが、その4色だけで、人間は、自然から隔離されたものであるとこを表現できている。だから私は思う。天下万民が考える葦になる事は、それほど難しい事ではないと。

1 虎に翼を与える母かれ

今年のNHKの朝ドラのタイトルは、「虎に翼」というらしい。 日本女性初の弁護士にして、日本の民事裁判所の設立に貢献した、三淵嘉子という方をモデルに描かれたドラマらしい。

ネットで内容を検索したところでは、多くの方が好評価を訴えている。特に「日本国憲法が、GHQのまるっきり押し付けではなかったと、ドラマを観て初めて知った。」という感想は、私が持つ持論に一致するところでもあり、大変興味を湧かされる作品だ。 ただ、表題の「虎に翼」については、疑念を感じていた。

ネット内での大半の説明では、表題の由来として、「中国の思想家・韓非子の言葉で、鬼に金棒のように、強いものにさらに強い武器が加わる。」を意味し、主人公、「佐田 寅子(トモコ)」のあだ名、「トラコ」に掛けて、付けられていると説明されている。

昭和初期の、女性がまだまだ、地位が低く、勉学では大成するのは非常に困難な時期に、寅が、「法」という翼を武器に、逞しく道を切り開いていく様を描いているとか。

まあ、韓非子ファンとして、彼の言葉を使ってくれるのは嬉しいものだが、これは、残念ながら、明らかに誤用である。

韓非子88篇「難勢篇」 「虎の為めに翼を傅(つく)る毋(な)かれ。将に飛びて邑(ゆう)に入り、人を択(と)りてこれを食らわんとす。」 勇猛な武将であったり、優秀で策略に長けたりするような部下は、頼もしく、よく君主を助けることになるが、その働きに応じ、褒賞を与えるときは、勇猛な武将に更なる軍権を与えたり、策略家に人脈を広げさせるようなものは与えてはいけない。

韓非子を含め、古来中国では、虎は強く逞しいものであるが、忠義の面では評価が低く、あまり強くなり過ぎると、コントロールができなくなる物の例えとしてよく出てくる。 あくまで、部下は、狗であり、決して虎にしてはならず、それに翼を与えるなど愚の骨頂と、韓非子は説いている。 NHKさんは、せめて番組の公式サイトには真意を注記しておきべきだろう。

2 虎が持つべきは爪牙(そうが)

韓非子88篇「二柄篇」 「虎の能(よ)く狗を服する所以の者は、爪牙なり」

虎が猛獣として恐れられるのは、その爪牙によるものであり、これを失えばただの大きな猫である。韓非子はこの虎の持つ爪牙を、賞罰を与える権力とし、それがなければ、君主は君主として君臨することができないと忠告している。

なお、古来、権力者の条件としては、財力・武力・血筋と言うものを必要とするものだが、韓非子は、君主に対してそのようなものをあまり求めることがない。ここでも、韓非子が言っている「爪牙」とは、確かに「罰を与える威嚇」の部分も含まれるだろうが、それより、その賞罰を与えるという権力をいかに保持するかということを論じている。

そして、その方法として、「法」と「術」が挙げられているが、「法」は、多くの国民が公正・公平と認めるものであらなければならず、その制定には、膨大な情報の収集と、その解析が必要であると訴える。そして、これを運用するにおいて、前述したように、虎に翼を与えるような愚策を取らないことをはじめ、幾つもの、「術」が紹介されている。特筆すべきは、この術の対象の多くが、国民ではなく、臣下にあることなのだが、その点を語り出すと長くなるので、後日とする。

いずれにしても、韓非子は、君主に対し、筋肉マッチョを求めていない。

2000年前、すでに彼は、人類という脳ある個体が優位に立つ種において、他を制する爪牙とは、情報と知識の集積と、これを活用する能力(リテラシー)であると説いているのだ。

これらの意味合いと、前述のドラマの主人公トラコが、未だ、女性に対する偏見と蔑みの強烈な昭和初期(サブタイトルに採用されるいくつかの女性を蔑視した諺)の風潮を、勉学によって得た法学的知識を有用に活用することにより、覆していく様は、まさしく、虎が爪牙を研ぐが如くと見受けられる。 しかしながら、当該連続ドラマの題名が「虎に爪」だったら、これほど話題になっていたか否か難しいところだ。

3 異能を取り込む

トラコは、弁護士になった後、女性ならではの観点で事件を捉え、これまでに取り上げられなかった意見を提示していくらしい。周囲の男性諸氏も、頭ごなしに否定せず、これを取り上げて、一緒に考えるという展開が、法曹界らしい柔軟性をよく表している。 もし彼女の登場が、男性社会では生まれなかったであろう、新しい正義の発見につながったというのであれば、それはとても喜ばしいことだ。

パリオリンピックでは、男女の参加者がいよいよ同数になったと言う。格闘技や重量挙げ、投擲種目など、男性特有と思われた種目にも、チャレンジする女性がそれだけ増えたと言うことであろう。 しかし、私は男性にしかできないと言われたことを、女性もできるようになったと言うことについて、男女が対等になったと歓迎する風潮には、懐疑的である。

私は、男女というものは「異能」の存在であり、両者間にあるハードルを取り除き、双方を同じ土壌に乗せることにより、「より進んだ何か」が得られる可能性を、男女共同参画社会の奇貨とおくべきだと考えている。従って、女性が男性と同じことができるようになったところで、それは、これまでに存在した既存の労働力が増えたに過ぎず、確かに表面上は対等と言えるかもしれないが、女性のみが持つ異能が活用されておらず、逆に、男性が持っていた誇りやプライドから来る地力を落としてはいないか?とまで考えてしまう。

女性の嗅覚細胞の数は、意外なことに男性の1.5倍ほどだそうだ。私がこれを意外というのは、女性がそれだけ、嗅覚に対する反応が鋭いからである。しかし、嗅覚細胞の数が同じであっても、彼女たちは、男性より匂いにより様々なことを判断できただろう。誰かに教えられたわけではなく、いつの間にか身についている、女性だけが持つ観念・関心、これらから、私は女性を異能の存在と捉えているわけだ。

観察力・持久力・記憶力、中でも記憶力には、目を見張る。複数の作業を行うマルチタスクも、最近話題になっている。 ただし、逆に、月経・妊娠・出産という、社会で勤労するという点では、ハンデとなる異能もある。

男性もまた、女性からすれば異能の存在だ。腕力、瞬発力等、運動能力において、幾らかの格別な鍛錬を積んだ女性が、男性を上回ることはあるが、最上級クラスで争うオリンピックなどから、男女の運動能力差は明白に証明されている。

このほか、よく理解力や判断力に優れていると言われるが、これらは、俯瞰的思考(高い視座からものを見下ろす、いわゆるホークアイ機能)と強い合理性(無駄なものは省きたいという欲求)によるものと思われ、これも、誰に教えられる事なく、男性は女性より強い目に持っている。

一方で、社会で勤労するという点では、これといったハンデは無いように見える。 しかし、それは当たり前のことである。なぜなら、現在の労働社会は、男性が中心となって構築したものであり、男性の不得意とするものを取り除くか、ツールを開発して補ってきたからだ。

例えば名刺文化。日本ほど丁寧ではないが、多くの国で名刺文化は存在する。中には、かなり懇意にならない限り名刺をもらえない国もあるが、女性が構築した労働社会では、名刺文化はきっと存在しまい。男性は、メモ帳を離せないだろう。

男女共同参画社会を考えるなら、そのくらいのパラダイムシフトを想像すべきである。

4 社会を変えていくもの

ところで、多くの人が、そのようなパラダイムシフトを起こすのは、歴史に残るような有名人だと考えているだろうが、それは誤りである。

私は、ことあるごとに、ヨーロッパの結婚観を真似て、安易に離婚する日本人夫婦を批判するが、それは、ヨーロッパの女性が自立してきた歴史を少し勉強すれば明らかだからだ。ネットで、「ヨーロッパの女性の結婚観」で検索すればよくわかる。彼女たちに、「〜しなければならない。」は存在しない。

「結婚したいからする。子供が欲しいから作る。夫が必要なくなったから離婚する。」 母子家庭になっても、仕事を続けられる。地域社会が協力してくれる。別れた夫ですら協力するのが当たり前。

これに対して日本では、離婚は当人たちの自由と言いつつも、女性の経済力を支える仕組みが未完成であるため、止むを得ず次の収入源として、別の男と結婚する。それで治まるなら良いのだが、年に数度は、前の夫の連れ子が虐待の末、風呂に沈められるという悲劇を聞く。ノープランの離婚や行政の落ち度が指摘されるが、問題としては、日本とヨーロッパでは社会の構築の歴史が違うことを考えなければならない。

どうして、日本とヨーロッパはこんなに違うのか?

それは、日本人は、「世の中は、偉い人が変えるものだ。」と思い込んでいるからだ。「自分の一票で何が変わるというのか?」。そんな疑問を考える前に、なぜ、自分には選挙権が有るのかを勉強しろ。女性の地位を向上してくれるのは、三淵嘉子さん(寅子)でも小池都知事でもない。彼女らは、インフルエンサーに過ぎず、個の輝きでは世界は変わらない。

ヨーロッパでは、小学生でも選挙権が有る理由を的確に説明できる。自分の権利は自分たちの努力によって獲得し、維持していくものだという概念が染み付いている。決して人任せ、お役所任せにしない。

だから、ヨーロッパの女性たちは、自分たちの主張する人生の選択肢は、当然の権利であり、これが保障される社会を望み、長い時間をかけて、構築してきたのだ。

私は、両性は異能の存在であるといったが、一つだけ両性に差がないところがある。学力である。男子は理系、女子は文系などという観念は全く根拠が無く、どの分野においても、費やした努力と時間と成果の相関関係に男女差は無い。この点について、男女は確実に平等である。

女児への初等教育が一般化されていくのは、ヨーロッパも日本も19世紀半ば以降らしく、その始まりには若干の差しかないのに、彼女たちがその爪牙を巧みに操り、現在の社会の構築に至ったのは、「権利は天から降りてくるもの」とは思わなかったからであろう。

男性にとって異能である健全な女性の社会進出は、一部の女傑によって成されるものではない。大衆の女性がこれに感化されると同時に、自らも知識とリテラシーという爪牙を身につける努力が必要なのである。

シュテフィ・グラフ(1996年ウィンブルドン準決勝)

せっかくのオリンピック期間であるので、スポーツも芸術になり得るものとして彼女を紹介する。その業績は紹介するまでもない。誰もが認める、テニス界の伝説、クイーンオブクイーンだ。 しかし、彼女の素晴らしいところはその業績だけではない。世界最強の矛と言われたフォアハンド、鉄壁の盾と言われたバックハンド。そのスタイルは、大砲と剣を交互に使い分ける攻撃オンリーの巨神ゴリアテのような男子テニスとは違う、戦いの女神アテナのしなやかさを想起させるものだった。 しかも、容姿淡麗にして、その均整の取れた肉体は、男女を問わず多くのテニスファンを魅了した。女優ブルックシールズが冷蔵庫に貼って、目標にしていたといい、その当時の、彼女の夫、アンドレ・アガシ(これまた伝説のテニスプレイヤーだが)が、8年間の片思いを実らせ、シュテフィと結婚すると言うのも皮肉で面白い。 その強さと美を兼ね備えたプレイスタイルは、「Unorthodox」と呼ばれ、当時のテニススクールでは採用されなかったが、今では、その異能もオーソドックスに取り込まれている。

今回は、ヨーロッパの女性の結婚観について多くを語ったが、そうなると、これだけは外せない彼女の逸話が有る。 時は、1996年、ウィンブルドン準決勝、シュテフィは、対戦相手の伊達公子の猛反撃に遭いピンチに陥っていた。サーブ権を持つゲームで、彼女は、どのようなサーブも強烈なリターンで返してくる伊達に、サーブの選択に悩んでいた。 そんな静まった、センターコートに、観客席からとんでもない歓声が飛ぶ “Steffi,will you marry me!?”(シュテフィ!俺と結婚してくれ!) 多くの観客が、不謹慎と訝しがりながらも、含み笑いが堪えられない。 何食わぬ顔で、サーブの動作に入ろうとしたシュテフィであったが、思わず吹き出し、その観客に対し、伝説に残る切り返しをした。 “How much money do you have?”(あなた、お金いくらもっているの?)

多くの人は、この言葉を「私と釣り合うにはお金がかかるわよ。」という意味合いで捉えただろう。私もそう思った。

しかし、きっと活躍できる限界まで引退しないだろうと考えていた彼女が、アガシと結婚した後、あっさり現役を引退し、一男一女を育て上げ、もうじき銀婚式を迎えるという人生を選択したのをみて、もしかして、あれは、彼女にとって求婚者に求める本音の条件だったのかもと思わせた。 男は、カネとタネを渡せばいいのよ。と言わんがばかりのヨーロッパ女性の勢いに押され、すっかり、ヨーロッパの女性に対し、逆に偏った観念が芽生えていたようだが、それは、彼女たちの選択肢の一つであり、シュテフィのような、非凡な爪牙を持つ女性が、幸せな妻であり、母であることも、立派な選択肢であることを示したことは大きい。 伝説に彩られた彼女の人生もまた、人を感動させ、実はいつもそばで存在している何かに気づかせるという点では、芸術に値すると言えよう。

君が代古今和歌集巻第七(京都大学貴重資料デジタル・アーカイブスから引用))

「我が君(君が代)は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」

(愛しき君の世が、千年も幾千年もの間、小さな砂がさざれ石のように、やがて大きな盤石となって、苔が生じるほど長い間栄えていきますように)

私の知人の中には、「おどろおどろした旋律で、気味が悪い。どうしてこんな暗い歌が我が国の国歌なのだろう?」と首を傾げる者もいるが、曲調は日本独自の雅楽をルーツとしているためで、暗いというのは、ロックとラップに染まった現代歌謡界では致し方ない評価といえよう。しかし、詩の方は、1000年以上前の和歌であるにもかかわらず、現代アーティストでもなかなか生み出せない、コンパクトにして壮大なものである。

君が代」の「君」について、原文において「わが君」とあるため、天皇制の明治体制化においては、天皇、もしくは天皇の国そのものを指しており、軍国主義当時は、その長久安泰を願うものとして崇められたため、当時を知る人々にとっては、ドイツ軍のハーケンクロイツ(鉤十字)と同様に忌み嫌う人も多い。

しかし、古今和歌集を研究する学者の定説としては、原文のわが君の時点から、個人的に愛しき人か親しき人を指していると考えられ、これを壮大にも、その愛しき人の存する世の長久安寧を願ったものに改変されたと解されている。

我が事ではなく、他人の世の長久安寧を願う心を、日本人ならではの、傑出したワードセンスで表現している。特定のやんごとなき人の詩ではなく、「読み人知らず」から選出というのもSo Coolである。

これが国家に相応しいかどうかを論じる前に、我が国こそが、この精神を標榜する国家として相応しいかどうかを考えたほうが良いのではないだろうか?

全力少年

「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。(日本国憲法前文より引用)」。何度聞いても、これほど力強いマニュフェストがあろうかと、感心する。

残念ながら、日本国憲法前文においては、GHQ草案に既に組み込まれており、GHQ押付論者に言わせれば、守る義務のない宣言ではあるのだが、まあ読んで下さいよ。そして、君が代に謳われた日本人の心と付き合わせてくださいよ。

🎶「あの頃の僕らはきっと、全力で少年だった。世界を開くのは誰だ?」🎶

太平洋戦争で、日本という国は、色々悪いこともしたと非難されているが、あの頃の日本はきっと、全力で少年だったのではないか?

GHQ草案の起草者の大半は、民生局の女性職員。如何にアメリカの高級官僚に仕える人々だったといえども、当時の男女格差等を鑑みれば、平民の中でも下の方という表現を使っても差し支えのない人々だ。そんな彼女たちが、これだけ立派なマニュフェストをアジアの小国、しかも昨日まで敵であり、全国焦土と化した惨めな敗戦国に授けたのはなぜか?

GHQ押付論者の方々に対し、格別にもう一度言う。このマニュフェストは、当時の平民の下の方の人が考えた物で、それを難しい事は抜きにして、日本に託した。その事実はむしろ、当時の日本の政治家が格好をつけたとか、GHQのお偉いさんが、無理難題を押し付けたのとは訳が違うと言うことを指している。

彼女たちは信じていたのではないか?250年の鎖国から目覚めたと同時に、臥竜が天に昇るが如く全力で駆け抜けていく少年のようなこの国を見て、一敗地に塗れども、彼らならやってくれるのではと。

2 目論見

もし我が国が全力少年となって、紛争絶えぬ現在世界という天下を平定せんと立ち上がるのであれば、僭越ながら我に策有り。現代天下を見渡せば、万国万民、違った価値観・宗教・哲学がルツボの如く混ざり合い、互いが優位を譲ろうとしない、非常に混沌の中にあるわけだが、これを如何に治めるかと言う策である。

2000年前、500年続いた騒乱の中、同様の混沌(いやそれ以上複雑な状況)を、一光にして平定する案を立てた者が居る。敬愛する思想家、韓非子である。

現代では、人間が生まれながらに有する権利として「基本的人権」というものが有り、これを保持することは自然法として絶対視されているはずであるが、この自然法をも、まともに守ろうとする国の方が少ないというのだから話にならない。

韓非子は、そんな理性的な社会より、もっと根源的に、「人間は生まれながらにして、賞を求め、罰を避ける。」という、万国万民に共通する「絶対価値」を定義した。そうすれば、賞罰の規定すなわち「法」を定めれば、人は「法」に則り、行動せざるを得なくなる。

それが彼の主戦略であり、私の策もこれを模した物である。

一見、単純な発想に見えるが、韓非子はこれを実現するための「法」のあり方や、これを公正に適用するための優れた行政機関の構築について語るために、五十五編もの大著作を残している。

中でも彼は、余計な遺恨を残す可能性のある「罰」による統制よりも、統制側・被統制側、双方に利益を生み出す可能性の高い「賞」による利益誘導型の統制に重きを置き、多くを語っている。

「凡そ説の難きは、説くところの心を知り、わが説をもってこれに当つべきにあり。

説くところ名高のためにするに出ずる者なるに、これに説くに厚利をもってすれば、すなわち下節にして卑賤に遇すとせられて、必ず棄遠せられん。

説くところ厚利に出ずる者なるに、これに説くに名高をもってすれば、すなわち無心にして事情に遠しとせられて、必ず収められず。(説難篇)」

名声を求めている人に、金銭的利益を示して説得しようとすれば、「この者は卑しい奴」とされ、軽蔑される。利益を求めている人に、名声を示して説得しようとすれば、「こいつはつまらん奴だな、名声で飯が食えるか?」と聞き入れてもらえない。

相手の欲しがっているものを探り、自分の説をそれに合わせることが肝要である。

では、現世界天下平定のためには、何をもって「賞」とすべきか?

ここで私の持論を紹介させてもらう。

現代国際社会において、各国利害を左右する大きな利得とは、「議決権」である。そして、国際化がさらに進み、途上国との格差もなくなってくるにつれ、より重要になってくるのもこの「議決権」である。

ただ私が考える議決権は、一国一票というものではない。私の考える議決権は、「より国際平和に貢献した国には複数票を、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを行動で示している国ほど、毎年、議決権を付与していく。逆に、基本的人権を蔑ろにするような行為、隷属・従属を目的とした侵略行為、偏狭や圧迫により、他国の利益を制限したり侵したりする国は、経済制裁ではなく、国連での議決権が減らされていく仕組みを構築する。

人権を擁護し、他国を敬い、つまらぬ紛争を起こさなければ、国連内で、強大な力を持てることになる。核兵器(現役級)を一本差し出せば、議決権と交換すると言うのも面白い。ただしこれは第二段階の話。まずは、基本的人権を守り、他国の利益を侵害しない。この当たり前のルールを守り続ける国に、より多くの議決権を与えることである。

それで、大方の騒乱は治るだろう。

3 拒否権の壁

私の目論見を実現するためにどうしてもやらなければならない課題がある。

そう、常任理事5カ国の拒否権の殲滅である。こいつが有る限り、議決権の総数に意義は無い。

2023年1月、日本は、2年間の任期で国連安保理事国に就任した。すでにウクライナ紛争は始まっていたが、常任理事国の拒否権濫発により安保理は機能不全状態に。前非常任理事国は、この難題をいかにせんとして、すでに加盟国最多(当時11回)の選任国である日本に立候補を促し、12回目の選任国として安保理入りさせた。しかもこの年2023年、日本は、先進7カ国会議(G7)の議長国でもあった。

しかし、言ってみればこれほど常任理事国に近い重鎮を以てしても、就任後1年半で1週間以上のまともな休戦・停戦は成し遂げられず、人道に反する戦犯行為を告発することはおろか、調査すらままならぬ状況で、結局なし得ることなく、その任期を終えようとしている。

日本は、2023年体制の時にもっとやれることは無かったのだろうか?だって、UAEアラブ首長国連邦)や、ブラジルも入っていたのだ。このメンバーで、何もなし得なかったというのは、まさに機能不全そのものである。

しかし、待って欲しい。

これは一つのチャンスではないのか?

逆に、2023年度のメンバーを以ってしても何もできなかったと言う事実は、常任理事国に拒否権がある限り、非常任理事国10国の平和に対する効用は無きに等しいと言うことを、ガッツリ証明したことになるのではないのか?

日本は、これから半年、任期満了まで、「和氏の璧」の説話に出てくる、両足を切られた和氏の如く、世界に対し、慟哭し、訴え続けるのだ。「私たちが、珠玉の宝だと必死に訴えているのに、100年近く前の戦争に勝って優位に立った、時代遅れの、分からず屋達がのさばっているせいで、まるで世に出すことができない。」と。

国連憲章改正へ

国連憲章第108条「この憲章の改正は、総会の構成国の3分の2の多数で採択され、且つ、安全保障理事会のすべての常任理事国を含む国際連合加盟国の3分の2によって各自の憲法上の手続に従って批准された時に、すべての国際連合加盟国に対して効力を生ずる」と言うわけで、拒否権の殲滅には、全ての常任理事国の批准が必要なわけである。従って、一般的には、論理的に不可能と解されている。

されど我に策有り。

まず、前述3の如く、常任理事国の拒否権の弊害を訴え、この排除に賛同する国をなるべくたくさん集める。拒否権を殲滅させた後は、3で述べた形で、議決権が増減する制度とすることを伝える。最初は一国一票としたいところではあるが、今の常任理事国には、最初から単独で議決を通さなくできる程度の(つまり今の拒否権に匹敵する程度の)議決権を配分することを約束する。ただし、その権力は、国際貢献と人権擁護を継続しないと保持できないわけだが、フランスやイギリスあたりは、乗れない条件ではないと思う。

十分な賛同者が得られたところで、賛同者は一斉に現国連を脱退する。

そして、即座に、Hyper United Nations(超国際連合)を立ち上げる。国連憲章の大部分を踏襲するが、常任理事国の拒否権だけは存在しない。

アメリカ・ロシア・中国に悟られずにこのような陰謀を進行させることはまず不可能だろう。従って、この作戦は、堂々面前で展開する。幾多の妨害があるかもしれないが、そこに掲げる理念に反対する国は少ない。たとえ権威主義国家であっても、独裁国家であっても、拒否権が無い国にとっては、こちらの方がずっとマシであり、ある意味、圧迫から逃れ、地位を逆転できるチャンスでもあるのである。

さらに、ロシア・中国・アメリカにも、フランスやイギリスと同様の条件、つまり単独で過半数以上の議決権を与えるという条件で、超国際連合に参加を呼びかける。

いずれ転覆させられる船ならば、既得権益にしがみついていても仕方ないのである。少なくとも、これに近い権限を継承できるというなら、ロシアや中国は折れる可能性が高い。

もし彼らが、その議決権を維持できる程度の人権意識や平和貢献を続けてくれるなら、それはありがたいことだ。どうしてもアメリカや日本に対し、優位に立ちたい彼らは、下手をすると、とんでもなく民主的で自由な国家に変貌するかもしれない。

むしろ、最後まで頑強に粘るのはアメリカだろう。しかし、この計略が実は第一段階に過ぎず、第二、第三の計略が有ることを、密かに教えてあげれば、彼の国も堕ちる(その計略については後日投稿とする)。

常任理事国5カ国がこの運動に白旗をあげれば、余計な脱退・新連合発足劇は不要となり、108条の改正条項に則り、常任理事国の拒否権は殲滅できるだろう。

さて、この運動の火種は今とてつもなく大きくなっている。「日本でもできなかったことをどの国ができる?」状態なのだ。そして、この状況をバネに、この奇想天外な転覆劇を成功させる立役者がいるとしたら、他人のとこしえの安寧を願う国歌を謳う国が相応しいかと思うのですわ。

さあ、君が代のために立ち上がりませんか?

臥竜
先日、テレビを見ていると面白い話を聞いた。イギリスの新聞社が行っている、AIのグローバル化における国別ランキングで、かつてロボット大国と言われた日本は、12位まで落ちているらしいのだが、逆にイグ・ノーベル賞は、17年連続で受賞しているらしい。アカデミー賞では、「ゴジラ−1.0」が制作予算20億円(タイタニックの240億円の12分の1の予算)で、VFX(視覚効果)賞を獲得した。
ノーベル賞というのは、正直多少政治が絡むところが有る。だから、イグノーベル賞アカデミー賞での評価は、日本人の「発想力」を、強く称えたものと言って良い。
しかし、兎角に言われるように、日本の政府は、自国の民のポテンシャルに投資しない。
称えられているのは、ニッチな部分で、愚直に工夫と発想の転換を続けてきた、「諦めの悪い人たち」で、メジャーな分野で活躍できそうな学者は挙って外国に去って行ってしまった。

それでも、日本人ノーベル賞受賞者受賞時の肩書、歴代31人のうち25人が日本在籍だ。まあ、だいたい若い頃、外国で研究した内容が評価されているケースも多いが。やはり、独特の発想という最初の鍵を拾っているのは、日本生まれの日本育ちが多い。

時折、帰国子女なるもの(他国で生まれ、幼少期を他国で過ごし、日本に帰化する者)が、多様な価値観を寛容に受け入れ、柔軟な発想をすることから、ある程度優秀であると評価されるが、日本人には、世界標準ではよく理解できないポテンシャルが存在するように思える。
例えば、日本人は、マイノリティは排除するが、「差別」はあまりしない。つまり、人を固定観念で括ろうとしない。だから、発想に境界線がない。

貧民や片親家族をいじめる傾向は今でも続いているのだろうか?続いているとしても、それは、いじめている側に、問題があるわけで、その情緒を育んだ親にも問題がある。日本のように、単一民族で、今のように貧富の格差がそれほどひどくない状態では、「差別」を教える方が難しい。「弱い立場の人にマウントすることの何が楽しいのか?」という質問は、「どうして人を殺してはいけないのか?」という質問より難しい。
この二つの質問は、令和の青年から出た言葉だが、自分たちの世代がいかにトンマでくだらない事にこだわっていたかに気付かされる。ただ「差別」については、それほど単純なものではないところも感じているので、いずれ別途投稿したいと思っている。

ところで、最近は、学校のイジメより、職場のイジメの方が問題化している。原因は、嫉妬や、やっかみというから、開いた口が塞がらない。早く石器時代の原人並みですよ。と教えてあげないと。

パワハラ上司というのには、よく会って来たが、どうも私には、彼らは、欲求不満や嫉妬よりも、半端不良の匂いがする。今も昔も不良少年を主人公にした漫画は大受けだ。ところが、時々その漫画の読み過ぎで、ちょっと、ズレている恥ずかしい不良を見たことはないかい?私のイメージはそんなところだ?どうして、あんな奇獣が、それなりのポストに君臨しているのか?それともそれなりのポストにつくとああなってしまうのか?平民の私には理解しかねるが、どうも、日本的な古い因習を裏に感じる。

あと、西欧かぶれの男女平等。出来もしないのに、マネをして。「親が毎日歪み合っているより、別れて暮らしている方が子供のためだ!」と言って、別れた後は、相手の悪口を毎日毎日子供に聞かせ、新しい伴侶ができたら、風呂に沈めて殺してしまう。
行為者は、若い世代の人たちだが、西欧かぶれしたインテリが、日本人の優しくはあるが「博愛」ではないと言う特性を理解せず、同じ制度を導入し、推し進めた責任が大きい。西欧では、離婚しても家族だが、日本人は、離婚したら、他人以上、むしろ仇敵、なのである。

最後に、ネットにおける誹謗中傷。まあ、これは日本に限らず問題になっているが、マジョリティに紛れて、ヤジを飛ばす。「あなた、その行為すぐ隣に彼氏彼女がいてもできますか?」。
どんなに発想が豊かでも、相手のことを慮(おもんばか)る想像力が無ければ、世界の関心を集めるアニメやゲームは作れないだろう。弱い者をいじめる奴は、恥ずかしい奴、悲しい奴、という、「惻隠」の情こそが、世界に求められている日本人の特性だ。

ということで、Chapter2の目的である、日本人の本来的ポテンシャルと、それを阻害している幾つかの要因をまとめてみた。

ただし、その根底には、Chapter1で紹介した、富裕層と為政者の陰謀で、多くの人々が、30年間、上がらない賃金の中で欲求不満を募らせて来た結果が、社会の歪みとして出ていることも考慮して欲しい。だから、こんなことは間違っていると分かっていても、その歪みに抗えない。
そうして、日本は臥竜となってしまった。

2 Lokiの世界
世界を見渡せば、筋肉マッチョで、でっかい武器を持っている奴ほど、声が大きい。
これでは、まるで西部開拓時代のアメリカだ。保安官も裁判所も存在するが、善悪を決するのは、暴力だ。その暴力が拮抗したら、両陣営武器を連ねて睨み合いだ。
まだ、まともだったのは、こうなった時は、互いの早撃ち自慢を指名し、3歩下がって振り向きざまに引き金を引く「決闘」で決めたことだ。

ところが今の戦争は、アドレナリンで頭が充満した連中が、リモコンでドローンを飛ばして、ゲーム感覚で人殺しのスキルを上げている。殺されているのは、VRアバターではない。その親、兄弟、子息が、次のリモコンの持ち手となる。
消耗戦や殲滅戦などという、2000年以上前の戦争をしているイスラエルには、武器よりも、孫子の「兵法」を、トラック1万台分送ってやりたい。
教育の稚拙な途上国の小競り合いをしていると言う話ではない。いずれも核を保有する、アドレナリンで頭が充満しちゃ困る国家が絡んでいる。

というわけで、今の世界は、あの西部開拓時代のアメリカより酷いかもしれないわけだ。

ハルマゲドンの伝説は有名だ。悪の化身Loki(ロキ)に完全に支配された人類を見限り、殲滅戦争を起こすわけだが、この時の始まりの合図のラッパを「ギャラルホルン」という。
しかし、「ギャラルホルン」が鳴ったと同時に、予期せぬ「救世主(メシア)」が現れる。
そして、何事にも半端なキリスト教の言うように、「良い行いを続けていた者だけが助けられる」そうだ(諸説あり)。

古代人は、哲学が単純で良い。しかし、現在世界で、「何が良い行いで、悪い行いか?」をはっきり定義できる行為があるのだろうか?殺人や泥棒ですら、「三審制裁判」が必要だ。
なのに、ハルマゲドンでは、有罪=死刑だぜ。

もし、最後の審判が、その人の生きた所業によって判じられるのであれば、メシア(救世主)は、胸に7つの傷を持ち、気合い一つで地震を起こさせるような、アドレナリンで頭を支配されているやつでは困るなあ。

もし、本当にこの世界が、Lokiに支配された世界に陥っていて、メシアを必要とするのなら、その人物、または存在は、理性と知性を兼ね備え、公明正大で偏見がなく、万人が敬うものであり、その採決は、万人が納得する方法で行われるべきだろう。

3 天下布法
戦国の勇、織田信長の目指した理想は、強大な武力によって、あまねく天下を平定することであり、これを「天下布武」と称した。
私の理想は、公明正大で優れた「法」により、あまねく天下を平定することである。そこでこれを「天下布法」と称する。

強大な武力で世界を屈服させることは理論的には可能であろうが、一時の平穏を得るのみである。江戸幕府が250年続いたのは、結局、優れた法体系と、それを運用する優れた役人、すなわちサムライの存在に帰すると先日述べた。
しかし、まともな民主主義国家が30カ国有るか無いかの現在世界で、一律の法に従う国家がどれほどいようというのか?

韓非子は、君主国が割拠する春秋時代法治主義を唱えた。まともな法治国家というと、民主主義国家で有ることが条件のように言われることがあるが、法治主義に、民主制の条件は無い。君主国家も一党独裁国家といった非民主国家も、その法理に従う方が国家にとって有利であるという状況を作ればその法を守る。

「匹夫に私便有り、人主に公利有り(韓非子55篇八説篇)」、どんな国の国主だって、私事の面前の成功より、国家の安寧を願うのである。

Chapter3では、この天下布法の基本戦略や、具体的にどのように日民主国家をも巻き込んでいくか。等が主題となる。
韓非子流なので、利益誘導策を基軸に考えているが、それの戦術が現実的に効果的であるか否か等を検討して行きたいと考えている。

本稿では、これを実行する担い手を検討するのみとする。

天下布法には、非民主国家も従ってもらうと述べたが、その法を制定し、運用していくのは、民主国家から選ばれるべきだ。それは、天下布法の第一段階の法整備が自然法、すなわち、基本的人権・平和と自由と公正の確保だからだ。
人命や人権を軽んじる国家が中核になっていては、それは望めない。
もちろん、非民主国家の国主からは、不満の声が出るだろう。
「国会」と同じく、「法」を定める機関というのは、かなりの権力を持つことになるから。
だったら、選挙で決めれば良い。
ただし、被選挙権を持つ者には、以下の条件を課す。

① 長期間高度な法治主義を貫いている国。
② 長期間治安が安定しており、あからさまな国際紛争を起こしていない国。③ 最低限の基本的人権を保持し、その点においては、国民から不満を買ったことの無い国。
④ 国際活動に積極的に参画し、交友関係が広く、かつ影響力もある程度持つ国。
以上の条件を満たすとして10カ国以上から推薦を受けた国

この条件を満たす国となると、非民主国家だけでなく、アメリカもイギリスも入れないだろう。
一番に名前が上がるとしたら「日本」だろうが、他にも、ドイツ・カナダ・オーストラリアなど、候補として悪くはない。

別に、単独で天下布法を実現する必要はない。むしろ、その方が反発も多く不合理である。名前の上がった国々が、天下布法委員会を結成して、ブレインストーミングとコンセンサスを経て、国際世論に提示することこそ望ましい。
ただ、その活動の中で、日本が果たす役割は決して小さな物ではないことは容易に予想さされる。
そして、天下布法を維持する上で重要な鍵は、「国際司法の強化」である。
国際司法は、いわば執行官(実働行政機関)の役割を持つことになる。
ここで、思い出してほしい。
韓非子「善吏徳樹(善く吏たる者は徳を樹え、吏能わざるものは恨みを樹)」と、日本のサムライの果たした役割を。

というわけで、なぜChapter1は、搾取されポテンシャルを削られていく日本人に「いい加減目覚めなさい。」と言ったのか?なぜ、Chapter2では、搾取だけが原因ではなく、日本人自身が持つ問題が、本来のパフォーマンスを発揮することを妨げていると語ったか?分かってもらえるだろうか?

私は、日本という国の低迷や没落を嘆いているのではない。そのことが、世界平和・天下布法を遅らせる、または永遠に不可能にすることを嘆いているのだ。

もう一度言う。人類に本当に必要なメシアは、石ころをパンに変えたり、水をお酒に変えたり、処刑されても2週間後に復活したりしなくても良い。脳みそをカラカラになるまで搾り切って、理性と知力によって、少なくとも人が、同じ地球人に怯えさせられることの無い世界を作る者だ。

我が国は、このまますっとぼけていては無理だが、その素養を最も多く持った国なのである。

エドヴァルド・ムンク「叫び」

「私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然、空が血の赤色に変わった。私は立ち止まり、酷い疲れを感じて柵に寄り掛かった。(中略)友人は歩き続けたが、私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え、戦っていた。そして私は、自然を貫く果てしない叫びを聴いた。」

幼少時に母親を亡くし、思春期に姉をも失ったムンクは、生涯「死」をテーマとする作品に取り憑かれる。日々「死」に向かい続けていく内に、いつしか、生や愛の喜びを描くようになる。そんな時、天から「それでも死は誰にでも訪れる。」と言うイカヅチの如き「叫び」が聞こえ、彼はまた、深く「死」に向かい合っていくわけである。

こうやって争いと恐怖の絶えない世界を語っている私も、それを読んでいるあなたも、決して他人事ではないのだと言うメッセージとしてこの絵を掲げる。

(注)本稿においては、読む人によっては、不愉快・不適切と感じられる表現が用いられています。筆者はこれを、現実を理解しやすくするための用法と考えていますが、不快に思われる方は、咎める事なく、読む事を止めることを望みます。

1 普通の人に普通でないものは理解できない

最近はかなりマシになったが、十数年前まで私たちの勤務先の人材で、英語を話せる人間は皆無だった。外国人の来客があると、「ゴリラが出たぞ!」ぞとばかり、皆、机や柱の陰に隠れ、声を掛けられるのを避けようとした。

そんな中、シンディ・ローパー(以下、Cyndi)の大ファンで、彼女の絶唱する情熱を字幕無しで感じる事に憧れていた私は、何の実力もないのに「キャキャキャキャンナイ ヘルプユウ?」と声をかけて行った。グダグダの会話で相手を怒らせたこともあったが、なんとかコミュニケーションを取ろうとする私の態度に、お礼を言って帰る人が多かった。

ある日、大きな会場で相談会を行なっていたとき、一人の黒人男性が頭を抱えてパイプ椅子に座っていた。同じように話しかけたところ、「通訳できる友人と待ち合わせていたのだが、遅れているらしい。会場は後20分くらいで締め切りになるが、間に合いそうにない。」という。

「Could you show me your bringing documents?」持参した書類を見せてもらえますか?

それだけで十分。持参書類を見れば、何をしに来たか?そのために後何が必要か?すぐにわかる。そのために、脳みそがカラカラになるまで、絞って絞って、勉強してきた。30年以上、そのスタイルで頑張ってきて、少しは英会話のできる人間になれたかと、TOEICを受けたら、350点(中学生並み)だった。専門用語を分かりやすい英語に変換できるようになったが、所詮、職場でしか役に立たない。Cyndiの心の叫びを直に受け止められる日はまだ遠そうだ。

ところで、その外国人がしきりに言っていたことで、「通訳は白人なんです。」という表現が気になった。日本人は、肌の色で人を差別しない。というか自分たち以外はみんなゴリラだ。外国人は、差別されることを嫌がる。しかし、日本人は、自分たちの規定外のものは全部苦手だ。彼が、黒人であろうと、金髪美人であろうと、あるいは、言葉を話せない、耳が聞こえない人であっても、反応は同じだっただろう。

Cyndiが私にマイノリティに関わる勇気をくれたおかげで、私は、ろうあの方が来てもゴリラ扱いせず前に出る。そうやって、ぶつかってきて少しわかってきたことがある。

テレビで観る身体障害者は、頑張り屋で、人一倍根性が有り、礼儀も正しいが、一般に見かける障害者は、私たちと何も変わらない。生活や性格ではなく、努力や根性というものについてだ。別に星飛雄馬のように、いつも目が燃えているわけではない。

私の友人に、リハビリ科勤務の経験が有り、身障者の事情に詳しいものが居る。

彼は言う。「テレビの美談に踊らされて、間違った対応をしたらあかんで。先天的な人はともかく、まあ後天的に障害を負った人のほとんどは、自分の運命を恨み、健常者を妬んでいるよ。それに、俺は何時間も彼らと一緒にいたけど、最後まで、24時間動かない片腕をぶら下げる思いすら同感することができなかった」。片腕の重さは体重の6%。体重60~70kgの人で、約4kg。米はよく5kgで売っているが、それに近い。朝起きて、起き上がる時からそこにある。確かに私にも想像できない。

もう一人、高校の同級生で、車に跳ねられ瀕死の怪我を負った子が居る。3、4年に一度、飲みにいくことがあるのだが、彼は、私たちに会うと、事故に遭う前の自分に戻れたようでとても楽しいという。多くは語らないが、事故後の自分の人生は闇だという。どうやら、障害年金を受給していると、職業が限定されたり、差別されたりするらしい。それに、自分の性格は歪んでしまっているので、自分の考えが正しいのか、誤っているのかの区分けがつかないらしい。

言葉が通じない程度の壁に30年もかけて取り組んでいる私に、障害者の日々の苦しみや、深層にある闇を理解することなど到底不可能である。

最近は、優秀な大学を出た新人が増え、英会話の出来る子も珍しくなくなった。しかし、失礼ながら、外見からも明らかに2級以上の障害を持つ人が、介添人なしに窓口に訪ねてきたら、今の私の組織の人材のクオリティでは、間違いなく「ゴリラが出たぞ!」が始まるだろう。

2 健康的な脳を持つ者は多重人格を信じない

私の周囲の人々は、私の心の病気を私の心の弱さが原因だと決めつけているが、精神科医は私の心の強さを抑えることを重視している。愛情を受けて育った一般的な家庭の人々は、心がまっすぐであり、二重人格や多重人格を信じない。しかし、私は家族から異端扱いされて育ち、心がねじ曲がっている。私の脳は常に、主人格を乗っ取ろうとする野生的人格のプレッシャーにさらされているが、それに従うと私が「ゴリラ」になってしまう。

以前、障害者雇用促進法について話したが、私の勤め先では繁忙期にアルバイトを大量に雇うため、その際に精神的障害を持つ人を雇うこともある。しかし、これらの人々を積極的に活用したいという部署はなく、割り当てられた部署では「箱の中身は何でしょう?ゲーム」が始まる。

韓非子の「逆鱗」の教えでは、龍は普段大人しいが、逆鱗に触れると相手を食い殺す。という。それは、上司や君主に忠告する際には、相手が気にしていることに注意を払うべきである。という教訓であるが、障害者と対峙するときには、この教えが役に立つ。

私が担当したケースでは、皆さんが精力的に働き、症状が好転したこともある。

私はまず、彼らを普通の人と同様に扱う。しかし、その人の苦手なものやトラウマという「逆鱗」に注意を払う。無駄に長い引き継ぎ資料から、そういう情報だけは精査し、場合によっては直接尋ね、事実を確認しておく(憶測も多いから)。

情報を精査せずにおっかなびっくりするから、相手も不安や不快を感じるのである。後発的に精神障害を患った人は、身体障害者同様、世間を恨んでいる可能性が高い。そのため、気を遣いすぎると、その気遣いを悪用する者も出てくる。

結果、残念なことに、毎年何件かのトラブルが発生し、こちらが一方的に非を認めて謝罪している。管理者側の意見はほとんど聞かれず、争うことで組織には利益がないため早々に片付けられるのである。このような状況では、障害者を受け入れ多様性を取り込むことで進歩する部署は現れない。

3 ヘルプマークを悪用する者

前述の如く、私たちは、テレビ・メディアの影響で、障害者は、自分の悲運を受け入れ、ひたすらリハビリに励み、なんとか健常者の社会に溶け込もうと努力していると信じ込まされているかもしれないが、みんな、今の自分と同じ普通の人間だ。突然、インターハイや司法試験を目指すような努力家にはなれない。

精神疾患を患っている人は、理性的にも不安定なため、余計に危ないかもしれない。

以前、私が使っている通勤バスに、毎日、白杖を持って乗車してくる客がいた。杖には「ヘルプマーク」が付いており、助けを求める障害者と思われた。彼は白杖で席を探し、一人で座っている人がいるとその隣に座るが、必ず若い女性の隣を選ぶのだった。ある日、彼は三十代の女性の隣から二十代の女性の隣に座り直したことで、私は不審に思い始めた。

その後、彼が片側三車線の大通りを横切ってバスに乗り込むのを見た。盲人や弱視者にはできない行動だ。また、ガードマンが彼を優先席に座らせた際、「ウォー・ウォー」と奇声を上げて怒ったことから、彼の問題は目ではないと確信した。

そして、ある日、後部のガラガラのシートに高校生と思われる女の子が一人座っていたとき、彼は他に席が空いているにもかかわらず彼女の隣に座った。女の子は驚いて怯え始めた。

私は「義を見てせざるは」と思い、彼に声を掛けて、「お前の行動は隣の女の子だけでなく、そのヘルプマークを持つ者みんなに迷惑をかけている。これから、このバスに乗るときは俺の隣に座れ!」と諭した。彼は次のバス停で降り、それ以来見かけなくなった。

しかし、あの後、女の子が怯え続けていたにも関わらず、運転手や他の乗客が何もなかったように振る舞ったことには失望した。

おせっかいな大阪のおばちゃんはどこへ行った?みんなそんなにゴリラが怖いのか?

日本人は親切でも礼儀正しくもない。それがマジョリティだから従っているだけなのだ。相手がマイノリティとなると、西洋人より不義理で無関心だ。

女の子は、降車時にぺこりと頭を下げ、か細く「ありがとうございました。」と言ってくれた。私こそ、彼女の勇気に感謝した。

4 架け橋

さて、今回は、場合によっては相当恨まれそうな話をした。しかし、甘っちょろい美談ばかりを垂れ流すメディアより、ずっと大事なことを話していると信じている。

むしろ、美談しか報じないメディアの方が、彼らの本当の苦悩を覆い隠しているのかもしれない。かくいう私も専門家ではない。彼らには、もっと厳しい現状や、もっと醜い現実が存在するかもしれない。要は、私たちは、彼らについて、あまりに無理解であるのに、強引にこれを溶け込まそうとしているわけで、それでは、トラブルの種は尽きない。

では、どうすれば良いのか?

私の提案は、「通訳」を設けることである。

通訳は、言葉を変換するだけではなく、互いの国の文化に通じ、その国にとっての「逆鱗」が何かを理解している。

同じように、障害者側の事情にも精通すると同時に、健常者の譲歩できる範囲も測れること。善意を悪用する障害者の理不尽な難癖もきっちり区切りをつけ、健常者の無理解に対しても警笛を鳴らす。

そうすれば、両者の諍いの多くは抹消できるだろう。健常者が一方的に歩み寄るのではなくて、双方が通訳を通して語り合い、最適解を導き出せば良い。

なお、この通訳は、どこかのメジャーリーガー付のように、何年も寄り添う必要はない。

せいぜい、1ヶ月もあれば、そこに、両者が快適に働ける空間を創出するだろう。至って、軽微な負担である。

双方公平に扱う事が重要であるため、社外から雇う事が良いかもしれないが、社内の誰かに、専門教育を受けさせ、幹部が、しっかり理念を通告すれば、くだらない愚痴や偏見を吐くバカは流石にそんなにいないと信じている。

エドワール・マネ「バルコニー」

19世紀末、絵画は学術的なものであり、サロンと呼ばれる組織によって、その品位・価値観等が規制のように定められていた。マネは、その規制のギリギリを攻め、徐々にこれを逸脱していった。しかし、その芸術的手腕から、人気は高くサロンもこれを否定できず、「反逆児」の異名をほしいままにしていた。そして、彼を兄貴分と慕い集まってきたモネやルノワールなど若者が、のちに印象派という、完全に絵画の規制を取り払う運動を巻き起こす。彼らは、何度か、マネもその運動に参加するよう依頼したが、マネは頑なに断った。なぜなら、彼は、サロンという古典的絵画会を、社会の評判などの外圧ではなく、自分という異端児を取り込むことで進歩させたかったからだ。

ところで、このバルコニーという絵画の3人を見て、皆さんはどのような印象を持つだろう。多くの人が、「あまりこの3人は仲が良さそうには見えない。」という印象を持つようだ。これは、マネが意図的に仕組んだ細工による。

この3人の視線がまるで違う方向を向いているのがその印象の原因だ。狭いバルコニー越しに見える3人であるにも関わらず、その視線が全く違う方角を指しているから、3人がまるで違うことを考えていることを想起させるのだ。

例えば、この建物は、とある乗り物の待合室で、この3人は、お互い外国人だ。と仮定すると、非常にしっくりする人が多いのではないだろうか?

私は思う。今日本で行われている、障害者を含むマイノリティを受け入れようという運動を客観的に見たとき、まるでこのバルコニーの光景のように見えるのではないかと。大事なのは、同じ空間に集めることではなく、互いが理解し合うことであるのだが、そのためには、いつも媒体となるものが必要なのではなかろうか?