第1回分倍河原ステークス (original) (raw)

東京競馬場の隣、分倍河原駅の改札を出てロータリーに出ると、大きな騎馬のブロンズ像が目に飛び込んで来る。「新田義貞公之像」である。

府中市の分梅町周辺は1333年に新田義貞北条泰家を破り、鎌倉幕府を滅亡に追い込むきっかけとなった「分倍河原の合戦」で知られる。背後に多摩川を控え、幕府の周縁部にあたるこの地は重要な防衛ラインだった。義貞は分倍河原を落とすと、鎌倉街道を一気に鎌倉まで攻め上ったという。

このブログは歴史物語ではないから新田義貞の話はこの程度に留めて、私の興味の的はもちろんこの銅像の「馬」の方にある。

鎌倉時代末期、新田義貞が鎌倉攻めに使った軍馬は日本在来馬のうち、どの種類だったか―――。

JRA競走馬研究所生命化学研究室が、こんなテーマで研究を行ったことがある。ここで言う日本在来馬とは、与那国馬、宮古馬、トカラ馬岬馬、野間馬、津島馬、津島馬の6種。ドサンコ(北海道和種)は、鎌倉時代には固有種として固定化されていなかったものと思われる。

鎌倉市の遺跡から出土した馬の骨からDNAを取り出して精密な検査を行ったところ、得られた結果は「木曽馬」であった。蒙古襲来絵詞に描かれた元軍と戦う軍馬の特徴が、木曽馬に似ていることもあって、木曽馬が当時の軍馬に使われているとの推測はこれまでもあったわけが、それが遺伝子レベルでも証明されたことになる。

かつての騎馬武者が跨っていた馬は、時代劇で見るようなすらりと大柄なサラブレッド種ではなく、コロっとした和種馬であったことは言うまでもない。木曽馬は和種馬の中でももっとも大きな部類に入るが、それでもその体高は150cmに満たない。戦国武将はポニーのようなサイズの馬に跨って戦場を駆っていた。

だが、そもそも軍用馬は大きければ良いというものではない。

戦前の軍馬育成制度においては、体高164cm以下でなければ競馬に出ることはできないという規制があった。この規制撤廃の直後に体高165cmのセントライトが、我が国初の3冠馬に輝いたのは有名な話である。

かつての日本男子の平均身長も相当小さかった。「いざ!」という時に馬に跨ることもできずに敵に斬られるようなことがあっては、まさに末代までの恥。木曽馬の大きさは、当時の日本人にとってちょうど良いサイズだったのであろう。あさってはの東京9レースは分倍河原ステークス。昨年まで「湘南ステークス」として行われていた準オープンだが、今年ついに分倍河原の名が冠された。競馬場に行く途中に分倍河原に立ち寄って、ひと目銅像を見ておくのも悪くあるまい。

***** 2024/5/3 *****