長州より発信 (original) (raw)

人気ブログランキング |話題のタグを見る

kfujiken2.exblog.jp 長州より発信
ブログトップ 山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします by fujikenプロフィールを見る 画像一覧 更新を通知する < October 2024 > S M T W T F S 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 カテゴリ 風景 歴史 コラム 未分類 リンク にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 周南情報へ [](//localwest.blogmura.com/shunan/ranking.html?p


%5Fcid=00922354)クリックして貰えると幸せます。 ブログランキング・にほんブログ村へ クリックして貰えると幸せます。 以前の記事 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 more... 最新の記事 清流錦川に架かる五連のアーチ.. at 2023-09-14 09:06 下松に存在する天王森古墳と宮.. at 2023-09-06 13:34 山本琴谷と津和野藩の絵師たち at 2023-08-30 09:35 木津川口の戦い at 2023-08-19 12:52 坂本龍馬と函館の関係 at 2023-08-12 17:36 長州藩士出身森 寛斎 at 2023-08-07 08:31 毛利元就の初陣 at 2023-08-01 14:22 清末藩 at 2023-07-25 07:14 銀の歴史 at 2023-07-20 09:33 線状降水帯 at 2023-07-14 10:35 ブログジャンル 歴史 中国
危機は海からやってきた 蒙古襲来とペリー来航 海に囲まれた国・日本 外国からの危機は、常に海の向こうからやってきた。鎌倉時代の「蒙古襲来」で、日本は本格的な侵略を受け、危機におちいった。さらに江戸時代の終わりには、アメリカの「ペリー」が黒船艦隊の強大な軍事力を背景に日本に開国を迫った。外国の圧倒的な脅威に直面した時、その時代の日本人たちは、それにどのように対じたのか。危機に立ち向かった人々の志の話です。危機は海からやってきた 蒙古襲来とペリー来航_d0061579_09155105.jpg教科書に載っていない、黒船来航のペリーと対等に交渉し日本の立場を守った、実はすごい人物・儒学者「林復斎 (はやし ふくさい)」がいたことについてお話をしましょう。◆ 「開国」とは江戸最末期、日本が鎖国から開国へと大きく舵を切ったのは確かである。しかし、ペリーの来航では「開国していない」のである。そもそも、「開国」とはどういう状態か?国と国が「交易」を開始することである。ペリーとの交渉では、幕府は「交易」を求められながらも断固として拒否している。◆ ペリー来航の目的と要求1853年7月アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる4隻の蒸気船が、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀にやって来ます。親書とは名ばかりで早い話しが、アメリカが幕府に要求を突きつけたと言ってもいいでしょう。危機は海からやってきた 蒙古襲来とペリー来航_d0061579_09241720.jpg※ アメリカの要求とは次の3つ1 . アメリカの船が難破した時のアメリカ人漂流民の保護2 . 日本近海にいるアメリカ捕鯨船が燃料や水を補給できる港の確保3 . 日本との直接の交易アメリカの要求のうち1と2についてはこれまでにも長崎で行って来たことで、交渉の席でそう伝えることは出来ますが問題は3の交易です。なぜ国の命運を賭けた交渉に学者が?当時もそんな意見が多かったそうですがこれには幕閣の保身に絡んだ事情がありました。つまり失敗しても学者がやったことだからと、平たく言えばナアナアで済まそうと考えていたわけです。これは実質的な開国の要求に他なりませんが、アメリカとしては捕鯨に必要な大量の燃料や食料の補給のための寄港地が必要だったんです。ペリーは幕府に対し回答の期限を翌年5月とし一旦引き上げます。翌年ペリーは予定より3ヶ月も早く再度日本を訪れます。前年4隻だった船は9隻に増やし並々ならぬ気合いで、交渉に入る前幕閣に対して決意を披露しプレッシャーを掛けて来ます。◆ 「林大学頭復斎 (だいがくのかみ)」の交渉力 幕末ペリーの来航で初めて黒船を目の当たりにした幕府はビックリして大混乱、その挙句開国を迫られた。幕府の弱腰外交と今でも揶揄されている事件ですが、それを救ったのが林羅山から数えて11代目にあたる儒学者昌平坂学問所の塾頭である「林大学頭復斎」だった。彼の冷静沈着にしてタフなネゴシエーション(交渉)が幕末日本を救った。林復斎は家督を継いで間もない慌ただしい時期であったが、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行井戸覚弘とともに応接掛として老中阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復斎はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。ペリーは生粋の軍人であり、林復斎は外交の達人である。当然、両者の情報量にも雲泥の差があった。林復斎は鎖国された日本にありながらも、オランダなどから豊富な国際情勢の知識を仕入れており、世界の実情を手に取るように心得ていた。危機は海からやってきた 蒙古襲来とペリー来航_d0061579_09313848.jpeg ◆ 林復斎の対応薪水、食料、石炭の供与および難破船と漂流民救助の件は了承するが、通商の件は承諾できないと回答した。ペリーは日本に「開港地」を求める。最低でも7~8ヵ所を要求してきた。しかし、林復斎は捕鯨の寄港地ならばそれほどの数は必要ないとして、「下田」と「函館」の2港の開港しか認めなかった。ペリーは開港地における外国人の行動範囲を「10里」まで要求した。しかし、またしても復斎は異を唱え、「7里」に限定した。なぜなら、下田港から7里の範囲には天城山脈あり、外国人が無闇に行動するのを防げると考えたからである(函館は5里)。しかも、この地での「交易」を断固認めず、あくまでも「薪と水」の補給のみに限定した。こうして、日米交渉は復斎のシナリオ通りに進んだ。一貫してペリーが主導権を握ることはできず、ペリーは譲歩に次ぐ譲歩を強いられたのである。結局、大目標であった「日本の開国」すら果たせなかったのである。林復斎という人物はよほど腹の座った人物であったのだろう。 19 by kfujiken2 | 2020-10-24 09:49 歴史 Comments(0) 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 大正ロマンが見直されている 感動ミステリードラマ「朝が来る」 >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

| | | |

ファン申請 ※ メッセージを入力してください