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山口県大内氏の先祖と言われている琳聖太子の謎 『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には琳聖王子の 『降星伝説』が残っている595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。これから3年後、百済の国の琳聖太子が、聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」と語ったといいます。星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての星祭りをおこなったとされています。そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は下松と呼ばれるようになったと伝えられています。(下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説がある)。【鼎(かなえ)の松】 この松に大星が降り、七日七夜照り輝いたという伝説が今なお語り継がれています。かつては「降臨の松」「連理の松」「相生の松」の三樹が鼎立(ていりつ)していたため、鼎の松と呼ばれ、今に至っています。山口県大内氏の先祖と言われている琳聖太子の謎_d0061579_18085634.jpg山口県大内氏の先祖と言われている琳聖太子の謎_d0061579_18090555.jpg【金輪神社】 ここのお社で鼎大明神をお祭りしてあり、下松発祥の聖地とされている。山口県大内氏の先祖と言われている琳聖太子の謎_d0061579_18093976.jpg琳聖王子は 青柳浦(下松)に来日した14年後に、再度来日し周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸周防国(山口)の守護大名 大内氏の先祖は、百済国 第26代聖明王の第3王子・琳聖太子(りんしょうたいし)と言い伝えられている。15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖王子は 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として、大内県(おおうちあがた)を賜ったという。その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は大内介と名乗り、以降歴代の当主もこれを世襲した。鎌倉 室町にかけて 西国一の戦国大名に駆け上がった 大内家は、31代 大 内 義 隆 の時代に絶頂期を迎え、京都に劣らぬ 絢爛たる大内文化が花開き、山口が「西の京」と呼ばれるまでになった。しかし 琳聖太子という人物名が、当時の日本や百済の文献に見ることはできないために信憑性が薄く、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した大内家の自作自演との説もあり真偽は謎である。ただ 多くの戦国大名が 「源平藤橘」や、その他の中央の貴族の嫡流を名乗ったなかで、唯一 百済の末裔を名乗った 大内氏の狙いは なんだったのか興味深い話でもある。 【大内氏の家紋「大内菱」】山口県大内氏の先祖と言われている琳聖太子の謎_d0061579_07194449.jpg 【大内氏最後の第16代当主・大内義隆】 山口県大内氏の先祖と言われている琳聖太子の謎_d0061579_07552768.jpg 17 by kfujiken2 | 2020-12-11 08:00 歴史 Comments(0) 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << ワクチンが頼みの綱 「桜田門外の変」と「二・二六事... >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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