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ブログトップ 山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします by fujikenプロフィールを見る 画像一覧 更新を通知する < October 2024 > S M T W T F S 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 カテゴリ 風景 歴史 コラム 未分類 リンク にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 周南情報へ [](//localwest.blogmura.com/shunan/ranking.html?p


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大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺 ◆ 【絢爛たる大内文化】大内氏は「大内家壁書」とよばれる法令集を定め、領国の治政に努めるとともに、特に貴族文化や大陸文化に強い興味を示し、朝鮮や明(中国)との貿易(勘合貿易)で蓄えた富をもとに、街づくりや文化の受け入れを進め、山口に「西の京」の名にふさわしい文化の花を咲かせました。第24代当主大内弘世(ひろよ)は、京の都に上った時、町のたたずまいや文化に強く心引かれ、地形的に似ている山口の地(盆地)に、京の都を手本とした街づくりを進めました。街路は区画正しく整備し、大殿大路、竪小路など京都風の名前をつけました。京都から八坂神社や北野天神(現在の古熊神社)などをよんで、山口に新しく神社をつくるとともに、祇園祭など盛大なお祭りを催して、町の生活に彩を添えました。弘世の後も大内氏は、朝鮮や明との交易によって富を蓄え、引き続き京の都を手本とする街づくりに努めました。また、大陸文化を積極的に受け入れるとともに、画僧の雪舟や連歌師の宗祇をはじめとする国内の文化人を多数招きました。この結果、山口は、博多や堺などのように大きな町になるとともに、絢爛たる大内文化が開花し、「西の京」と呼ばれるようになりました。「大内氏時代の山口古図」大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_07423680.jpg 「大内人形」大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_07431851.jpeg◆ 【山口市の歴史】瀬戸内に面し、周防国の国衙の所在地である三田尻(現防府市)にその本拠を定めていた豪族大内氏が、一族を率いて山口へ根拠地を移したのは14世紀後半のことでした。 室町初期、周防・長門の2国(現山口県)の守護に任ぜられていた大内氏24代弘世(ひろよ)は、京の都に強烈な憧憬を抱き、京に似て「四神相応」の地理的条件にかなう山口の地に「小京都」を建設することに心血を注ぎました。大内氏の全盛期は第15代当主義興・第16代当主義隆の時代です。義隆の代には、周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七ケ国の守護を兼ねる中国・九州の一大勢力となり、中国や朝鮮への窓口である関門海峡や博多を押さえ、明国や李氏朝鮮との貿易を独占することとなります。このように200年続いた「西の京」の栄華は、大内氏の家臣の陶晴賢の反乱によってあっさり幕を閉じます。関ケ原の戦いのあと、防長二国に封じ込められた毛利輝元が萩に城下町を建設すると、山口には藩の勘場(代官所)やお茶屋(藩宿泊所)がおかれたものの、中世大内時代の繁栄を忘れ、山間のさびしい小都市となって、わずかに商人や職人が活動する町にすぎなくなりました。明治4年の廃藩置県により、防長二国全域を範囲とする新しい山口県が成立し、藩庁がそのまま山口県庁となりました。※ 四神相応とは : 風水における好適地の条件のこと。 背後に高い山(玄武)、前方に海・河川などの水が配置され(朱雀)、左右に丘陵や低い山(青龍・白虎)が囲む形状のものを指す。◆ 【興隆寺の由来】興隆寺は推古天皇21年(613年)に琳聖太子(大内氏の祖とされる)によって創建されたと伝えられています。 11代・大内茂村(多々良茂村)が、天長4年(827年)に周防国都濃郡降松(現・下松市)にある妙見社を勧請し、中世に隆盛した大内氏は興隆寺を氏寺、妙見社を氏神として永く信仰してきました。明治維新以降、真光院、東照宮、宝乗坊、安楽坊、常楽坊、安禅坊、宝積坊、妙泉坊、観音堂、山王社、護摩堂が他の寺社に移されたり、老朽化し取り壊されたものがあり、多くのものが失われました。現在は本尊の木造釈迦如来坐像が安置されている釈迦堂と妙見社、国の重要文化財に指定されている梵鐘が残っていますによって創建されたと伝えられています。 11代・大内茂村(多々良茂村)が、天長4年(827年)に周防国都濃郡降松(現・下松市)にある妙見社を勧請し、中世に隆盛した大内氏は興隆寺を氏寺、妙見社を氏神として永く信仰してきました。明治維新以降、真光院、東照宮、宝乗坊、安楽坊、常楽坊、安禅坊、宝積坊、妙泉坊、観音堂、山王社、護摩堂が他の寺社に移されたり、老朽化し取り壊されたものがあり、多くのものが失われました。現在は本尊の木造釈迦如来坐像が安置されている釈迦堂と妙見社、国の重要文化財に指定されている梵鐘が残っています。【興隆寺釈迦堂】大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_08374247.jpg 【興隆寺梵鐘堂】大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_08375919.jpg周防国氷上山の興隆寺および妙見社は、中世においては大内氏の氏寺氏神として繁盛しただけでなく、近世においても萩藩における天台宗山門派の中本山となって境内に将軍家歴代位牌や東照宮を擁する重要な神仏習合寺院であった。ところが近代に入ると、旧来の千石規模の知行地を失い、かつての本堂は売却され、脇坊群や東照宮も失い、諸堂舎群の構成には大幅な縮小改変がなされた。しかも旧境内の中枢部が、山口県立山口農学校の敷地やその実習のための農場牧場に転じたことから、現地景観は大きく様変わりしており、かつての諸堂舎のありようはおろか、旧本堂の旧跡さえも不明となっていた。 【興隆寺妙見社】大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_08381241.jpg(画像は「YASの 神社仏閣巡り歩き」様にお借りしました)この寺の境内だった所は、 参道を挟んで新興の住宅地となっているが室町時代には100余りもの僧坊が建ち、お坊さんの数は500人以上を数えるほどだったという記録がある。室町時代には大内氏、戦国から江戸時代末にかけては毛利氏の庇護のもと隆盛を極めたが、明治維新後、廃仏毀釈の波を受けて、檀家を持たないお寺の経営は成り立たなくなった。そこで宝物の切り売りが始まり、貴重な品の数々が日本中に散逸していった。現在残っているものは国指定重要文化財の梵鐘など数少ない。 15 by kfujiken2 | 2020-12-21 09:22 歴史 Comments(1) Commented bykyotoshiryo at 2023-05-11 21:07x 0 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 吉田類フランス大紀行 ~美食と... これで日本は大丈夫か? >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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