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明智光秀という男 コロナ禍で山口県の累計感染者数は760人、人口57000人の小さい我が町も累計感染者数が37人と日増しに増えています。不要不急の外出は控えて、ステイホームが続くとブログ用の撮影・ネタ探し出来ず、自分で適当にテーマを作り4~5のコンテンツ別にネットで検索し、更新しております。余り興味・関心の無い方もおられるでしょうが、宜しくお願い致します。今までブログの中で明智光秀のことは色々説明してまいりましたから、今回は「明智光秀という男」と題しまして、明智光秀の功績・エピソード・関わった人物等に焦点を絞り説明しましょう。「明智光秀」といえば、どんな人物を思い浮かべるでしょうか。一般的には、美濃の斎藤道三や室町幕府15代将軍・足利義昭に仕えた後、織田信長の元で頭角を現した人物として知られています。そして、本能寺の変で主君の織田信長を討った「天下の謀反人」というイメージが強いです。● 近世城郭のモデルとなった坂本城を築城総石垣で天守を持つ安土城のような「近世城郭」のルーツを作った織田信長だが、実は安土城に先駆けて、近世城郭のモデルとなったのが坂本城。坂本城築城後には、丹波攻めの軍事拠点とした「亀山城」「福知山城」「周山城」の築城、「黒井城」の改修を任されるなど、光秀は近世城郭の発展の一役を担ったと思われる。【坂本城説明板より縄張り復元図】 【坂本城想像図】明智光秀という男_d0061579_16325326.jpg● 若くして鉄砲の腕前を磨き戦に活用する仕組みを作った『明智軍記』によると、美濃から逃れてきた光秀が越前の朝倉義景に仕えた際、義景は鉄砲で数多の敵を打ち落としてきた光秀の腕前を確かめようとした。光秀は30センチ四方の的(中央に黒星)を45メートル離れた場所から100発撃ち込み、黒星に68発、的に32発と、百発百中の成果を挙げた。これに感心した義景は、仕えて間もない光秀に鉄砲隊を預けたと伝わる。● 文化人としての教養も、あらゆるモノゴトに精通する信長は、茶会の開催には自分が認めた者しか権利を与えない「御茶湯御政道」という政策を取っていたため、特定の上級家臣しか催すことはできなかった。1577年(天正5年)、松永久秀を滅亡に追い込んだ信貴山城の戦いで大きな功績を挙げた光秀に、信長が茶会の開催を許したのを機に、光秀は没頭したと伝わる。光秀は連歌も好み、判明するだけでも生涯で50以上の連歌会を主催したり、参加したと言われている。中でも有名なのが、1577年(天正5年)4月、愛宕山で興行した千句の賦何連歌。● 愛妻家だった正室の熙子は美しい女性でしたが、光秀と婚約後に疱瘡で顔にあばたが残ってしまいました。そこで父親は、良く似ている妹を身代わりとして光秀の元に送り込みましたが、「私の妻は熙子どのに決めている」と言って妹を丁重に送り返したそうです。そして、側室を持つことはなかったと伝わっている。また、光秀が苦労した浪人時代、熙子は自分の髪を売って夫を助けたという逸話もあります。● 愛に生きた「細川ガラシャ」戦国時代を代表する絶世の美女と言われている、明智光秀と正室の熙子(ひろこ)の間に娘として生まれた玉子は、信長の勧めにより細川忠興(小倉藩初代藩主)の正室として嫁ぎ、子宝に恵まれます。しかし父光秀が本能寺の変で主君である信長を討ったことで、玉子は逆臣(謀反人)の娘というレッテルを貼られることになりました。玉子は丹後の山奥にある「味土野(みどの)」に幽閉されることになります。幼い子どもと離れて過ごさざるを得なくなり、神仏に心の拠り所を見つけたいと思った玉子はひそかにカトリックに入信し、「ガラシャ(伽羅奢)」の洗礼名を受けました。その後徳川方についた忠興の不在をついて石田三成が人質に取ろうと屋敷を包囲し、三成はガラシャに対し、人質になることを丁重に申し入れます。しかし、再三の要請に対し、ガラシャはきっぱりとこれを断りました。自分が人質になれば細川家の名誉を汚すくらいならばと、ガラシャは侍女たちを逃がし、「私の最期を伝えてほしい」と頼みました。それから、家老・小笠原秀清に自分を殺して屋敷に火をかけるように命じました。キリスト教では自殺が禁じられていましたから、そうするしかなかったのです。ガラシャは家臣に槍で胸を貫かせ、短い生涯の幕を降ろしました。 【細川ガラシャ】明智光秀という男_d0061579_18090123.jpg● 家光の乳母「春日局」徳川家の3代将軍・徳川家光の乳母になり、「大奥」の総取締にもなった春日局は明智光秀の重臣・斎藤利三の娘・斎藤福です。ここで問題となるのは、何故、謀反人側近の娘がここまでの出世を遂げる事が出来たのかという事である。斉藤利三には感謝しても仕切れない恩義を感じていた家康が、その利三の娘を取り立てたと考えても不思議は無い。実行犯は光秀だという風説が流れているからこそ、その家臣の娘を取り立てたところで誰も異論はなかったのだ。【春日局】明智光秀という男_d0061579_18091488.jpg 20 by kfujiken2 | 2021-01-15 00:01 歴史 Comments(1) Commented bykyotoshiryo at 2023-05-11 21:12x 0 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 日銀が債務超過になっても問題ない理由 比叡山延暦寺の謎 >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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