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くせ者・羽柴秀吉の奇跡の中国大返し 中国大返しについては秀吉が本能寺の変を知るタイミングの早さや、毛利との和解の早さ、さらには当時の天候が暴風雨と言われた中での長距離行軍を不自然とする意見が多く、信憑性を保つために、本能寺の変自体を都市伝説とすることで、辻褄を合わせようとする傾向が見られます。【中国大返しの概要】戦国時代末期の天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230 km を踏破した、日本戦史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。【大強行軍】くせ者・羽柴秀吉の奇跡の中国大返し_d0061579_14512720.jpg【中国大返しの検証】1582(天正10)年6月2日未明、明智光秀が主君の織田信長を襲って自害させた本能寺の変は、いまだに光秀の動機が不明なため日本史上最大のミステリーともいわれているが、その光秀を討つため、中国地方で毛利氏と交戦中だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が常識外の速さで京都に引き返した、いわゆる「中国大返し」もまた謎めいている。出発日や、1日にどのくらい歩いたのかなどは諸説あって、いまだに確定していません。はっきりしているのは、ゴールの場所と時間です。秀吉は6月13日の朝には京都の山崎に布陣し、光秀との戦いに臨んでいるからです。ではスタートはいつだったか。秀吉が本能寺の変を知ったのが3日夜、毛利氏と講和を結び、攻略中だった備中高松城(岡山県)の城主・清水宗治を切腹させたのが6月4日午前でした。しかし4日のうちに出発できたかといえば、さすがに早すぎる気がします。山陽道の約230kmを、実質的に8日間で踏破しました。平均すると1日に約27.5kmを歩いたことになりますが、道路が整備された現代に置き換えれば、1日30kmを歩きつづける程度の負荷がかかっていたと思われます。【中国大返しの行程図】くせ者・羽柴秀吉の奇跡の中国大返し_d0061579_14514447.jpg※ 秀吉の用意周到な「御座所システム」秀吉は京都から岡山までの街道沿いに、自軍が進軍しながら同時に、信長用の御座所(岡山市の東部にある沼城(備前亀山城)、姫路城、兵庫城、そして、兵庫県加西市にある小谷城などが物資調達・輸送活動拠点として機能)を整えながら進軍しました。つまり、信長やその軍勢を受け入れるだけの道路等の拡張工事を行い、必要な食料を備蓄し、寝る場所も確保するための御座所を整備しなければならない。結果的に、この御座所システムが、中国大返しにおける前線応急救護所のように機能し、大急ぎで京都に戻る秀吉軍の兵士たちは十分な補給と休息を得られながら引き返すことに成功するわけです。◆ 秀吉は信長の死を如何なる手段で知ったか 中国大返しの謎の一つに、200キロ先で起きた本能寺の変をどうやって秀吉がいち早く知ったかということです。中世における軍事通信の継飛脚は「1日約100キロ移動したそうです」。徒歩で時速4キロ、馬を使えば並足でも時速6キロ。2日午前9時に京都を出発したと仮定して、4日朝には問題なく秀吉に変事を知らせる飛脚が着いただろう。確かに、予め信長の近くに秀吉の使者を忍び込ませていたと考えられます。もちろん信長の死を伝えるための使者ではなく、信長の中国攻めにおける意向をいち早く秀吉に知らせるための使者といえるでしょう。それがたまたま信長自身の横死になったために、その旨を秀吉に伝達することになったのです。ところが、1万3,000人の兵士に本能寺を完全に包囲された状況下では、使者自身が本能寺の現場を立ち去ることは、ほぼ不可能です。早馬に乗って出かけた場合、その時点で明智軍に捉えられてしまうことは必定でしょう。例え武装していない人間であろうとも本能寺周辺から急いで離れる者については、必ず詮議が執り行われるはずです。したがって人間が目立たぬように本能寺から早足で去ることはほぼ不可能とみてよいでしょう。そうなると人間以外の手段での伝達、すなわち伝書鳩が考えられます。秀吉が戦闘の情報を掴むために日頃から街道筋の一定の区間毎に伝書鳩の巣及び及び番人を養成していたとすれば、より伝達は確実になるでしょう。くせ者・羽柴秀吉の奇跡の中国大返し_d0061579_14522921.jpg◆ 秀吉の中国大返しする予想される行動備中高松城の兵糧攻めの場合、軍隊は取り囲むだけで動かなくてもよく、実際に戦闘状態にないため、兵力が削がれることがありませんでした。そのため、秀吉は兵を動かすことなく、自らの影武者をおいて、一部の重臣たちが、騎馬で移動したのです。もちろん行軍されたとする所々に語り師を配置して軍勢の移動の噂を立てさせることで中国大返しが既成事実にもなります。そして日毎に天候や行軍したときに想定されることを道中に配備された語り師に記録させることで、行軍中の状況の辻褄を合わせたのです。毛利が追随できないと思われる距離まで移動した時点で伝書鳩を使って、備中高松城の兵隊を解散させ、山崎へ到着するところで高い給金で、別の兵隊を雇い頭数だけで圧倒するようにします。※ 大返しを実現させるにはどうすればいいのか。奇策の一つとして、秀吉たちは『船』を使ったんじゃないかと思われます。備中と摂津は自分の領土ではないから、兵士の武装が必要です。備前から播磨までは自分の支配地なので、兵士は武具を外して身軽に移動できます。中国大返しで一番のボトルネックは、姫路に行くまでに越えなくてはいけない『船坂峠』です。ここが、山陽道で一番の難所なんです。船坂峠は岡山と兵庫の県境にあるんですが、高低差が激しく、かつて旅人が峠を越えるとき、船底のように低いところから登るように思えたことが名前の由来とされているくらいです。道も狭く、滑りやすい。重装備を身に着けた2万の行軍が進むには、非常に厳しい場所と考えられます。備前の片上湾から船を出し、秀吉自身と旗本と2万人の兵士の武器と甲冑、弾薬などを満載して、海路で赤穂に向かったのではないかと推測しています。こうすれば、2万人の兵士は20キロにも及ぶ装備の重量から解放され、かなり楽に船坂峠を越えられるのではないかと言うわけです。当時の日本の船は関船と呼ばれる中型船でしたが、一隻の積載量は75トン程あります。それに対し、2万人の兵士の装備の重量は食糧を除くとして1人20キロ×の2万で400トン、つまり、関船が6~8隻あれば積める計算になります。この周囲は、秀吉の傘下にあった宇喜多秀家の領地で、その支配下にある前田水軍が存在していました。秀吉は瀬戸内海を熟知した前田水軍の手引きで、兵士の装備や弾薬と一部の旗本を連れて海路を姫路城に向かったとも考えられるのです。くせ者・羽柴秀吉の奇跡の中国大返し_d0061579_16071816.jpg山崎の戦いでは、中国大返しによって長距離を行軍した兵隊ではなく、元気で活力のある兵隊が新たに招集されたのです。招集の際も本能寺の変を知らされず、これから戦う相手も明智軍であることを知らされていない、危険な戦地での戦闘がなく、それでいて給金は相場より高いとされた触れ込みで兵隊は集まってきました。それにより短期間で、兵隊の頭数を明智光秀の兵隊の倍以上揃えることが可能になりました。秀吉は数で光秀を圧倒し、さらにこれらの軍隊が、中国大返しを成し遂げた驚異的な強力な体力を備えた軍隊とすることで、相手の戦闘意欲を喪失させる心理戦に出たのです。 16 by kfujiken2 | 2021-02-10 00:01 歴史 Comments(0) 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 僭越ながら一言申し上げます 戦国時代における最後の下剋上・... >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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