長州より発信 (original) (raw)

人気ブログランキング |話題のタグを見る

kfujiken2.exblog.jp 長州より発信
ブログトップ 山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします by fujikenプロフィールを見る 画像一覧 更新を通知する < October 2024 > S M T W T F S 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 カテゴリ 風景 歴史 コラム 未分類 リンク にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 周南情報へ [](//localwest.blogmura.com/shunan/ranking.html?p


%5Fcid=00922354)クリックして貰えると幸せます。 ブログランキング・にほんブログ村へ クリックして貰えると幸せます。 以前の記事 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 more... 最新の記事 清流錦川に架かる五連のアーチ.. at 2023-09-14 09:06 下松に存在する天王森古墳と宮.. at 2023-09-06 13:34 山本琴谷と津和野藩の絵師たち at 2023-08-30 09:35 木津川口の戦い at 2023-08-19 12:52 坂本龍馬と函館の関係 at 2023-08-12 17:36 長州藩士出身森 寛斎 at 2023-08-07 08:31 毛利元就の初陣 at 2023-08-01 14:22 清末藩 at 2023-07-25 07:14 銀の歴史 at 2023-07-20 09:33 線状降水帯 at 2023-07-14 10:35 ブログジャンル 歴史 中国
日本の資本主義発展を支えた渋沢栄一のライバル岩崎弥太郎 幕末から明治時代にかけて活動した土佐藩士・実業家。明治維新後は明治政府の支援の下に事業家として成功を収めて三菱財閥の創業者(初代総帥)となり、現在の三菱グループの礎を作った。◆ 地下浪人の長男として誕生土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈(とよてる)にも漢詩を披露し才を認められる。21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾する。1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放される。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得る。※ 地下浪人 : 郷士の株を売って居ついた浪人のことである。【岩崎弥太郎】日本の資本主義発展を支えた渋沢栄一のライバル岩崎弥太郎_d0061579_08374526.jpg◆ 開成館長崎商会の主任幕末激動期の慶応2年、山内容堂の後ろ盾を得た後藤象二郎が中心となり、土佐藩の殖産興業・富国強兵を進めるため、開成館を設立した。開成館は、軍艦局・貨殖局・勧業局・火薬局・医局、大阪・長崎出張所(土佐商会)等を設置し、専売品の売りさばき、艦船・銃砲の輸入などをおこない、土佐藩の産業・軍事力の向上や、技術教育・翻訳など西洋文明の導入に成果をあげた。「長崎土佐商会」は土佐藩「開成館」の出先機関です。正式名称は「土佐藩開成館貨殖局長崎出張所」。開成館長崎土佐商会の主任に抜擢された岩崎弥太郎は、長崎土佐商会を閉鎖し海援隊も解散させ大阪商会(旧開成館大阪出張所)に転出する事になり、長崎での経験を活かして事業を九十九商会に引き継ぎ、後の三菱商会(現在の三菱グループ)へと発展していったのでした。※ 「亀山社中」が1865年に長崎に設立された。これは、交易をすることと、航海士を育てることを目的としていた。 勝海舟(1823~99年)の影響を大きく受けた坂本龍馬(1836~67年)を筆頭とする一団を母体とし、「神戸海軍操練所」(1864~65年)の解散をきっかけに、神戸海軍操練所の生徒であった一群の人たちを巻き込んで、長崎・亀山の地で結成されたのが「亀山社中」(亀山隊、1867年解散)である。資金難に陥った「亀山社中」を救ったのが、龍馬を隊長とする「海援隊」(1867~68年)が「亀山社中」を引き継ぐ形で設立された。「海援隊」という名称は、海から土佐藩を援護するという意味から来ていると言われている。日本の資本主義発展を支えた渋沢栄一のライバル岩崎弥太郎_d0061579_08380363.jpg◆ 九十九商会の経営者岩崎弥太郎は、開成館大阪商会に移る。明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた。代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した。明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格した。明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった。九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷を買い戻し、三菱の発祥の地となる。◆ 三菱商会に会社名を変更明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となった。明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した。この時、土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。岩崎弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。【岩崎家の三階菱紋の家紋】日本の資本主義発展を支えた渋沢栄一のライバル岩崎弥太郎_d0061579_08384824.jpg※ 岩崎弥太郎の逸話・・・「伊呂波丸(いろはまる)事件」1867年(慶応3)4月23日の夜。海援隊士を乗せた伊呂波丸が濃霧の中を航行中、突如現れた紀州藩の明光丸が横腹に衝突し、その衝撃で伊呂波丸は沈没してしまいました。龍馬ら乗組員は、相手方の船に乗り移り全員無事でした。龍馬率いる海援隊は、この事故に対して相手方に否があるとして紀州藩に抗議。土佐藩の後藤象二郎が全権となり紀州藩と鞆の浦「旧魚屋萬蔵宅」で交渉を行い、明光丸士官の詫び状一札と賠償金8万3千両余りを得たのです。この事件では土佐商会に着任したばかりの岩崎弥太郎も土佐藩側の一員として交渉に関わっています。幕末の1867年4月に、伊予・大洲城の大洲藩が1万両にて購入・所有していたイギリス製の蒸気船「いろは丸」を15日500両の契約にて借り受けます。賠償金は龍馬は暗殺で受け取れず、海援隊の上部団体である土佐商会の後藤象二郎と岩崎弥太郎に流れ、その後明治になって土佐商会は大阪土佐商会から九十九商会となり、岩崎商会となったので、いろは丸事件の賠償金は三菱の基になっているのではということです。沈没したいろは丸の船体は1980年代に海底で発見されたが、龍馬らが主張していたミニエー銃400丁などの銃火器3万5630両分や金塊などの積み荷はまったく確認されず、紀州藩から多額の賠償金をせしめるための「はったり」だったのではということ。【いろは丸事件談判跡・・・鞆の浦「旧魚屋萬蔵宅」】日本の資本主義発展を支えた渋沢栄一のライバル岩崎弥太郎_d0061579_08372305.jpg※ 坂本龍馬や後藤象二郎(土佐藩幹部)が関わり、造ったり潰したり名称がややこしい三菱商会が設立される経緯「亀山社中」 → 「海援隊」 → 「開成館」 → 「開成館長崎土佐商会」 → 「開成館大阪商会」 → 「九十九商会」 → 「三菱商会」 10 by kfujiken2 | 2021-03-06 10:04 歴史 Comments(1) Commented bykyotoshiryo at 2023-05-11 21:18x 0 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 人生とは何か?と考えたことはあ... 日本初のベストセラー作家・井原西鶴 >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

| | | |

ファン申請 ※ メッセージを入力してください