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大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺 【絢爛たる大内文化】に関しては、以前ご説明しましたので今回は詳しくは省きます。大内氏は「大内家壁書」とよばれる法令集を定め、領国の治政に努めるとともに、特に貴族文化や大陸文化に強い興味を示し、朝鮮や明(中国)との貿易(勘合貿易)で蓄えた富をもとに、街づくりや文化の受け入れを進め、山口に「西の京」の名にふさわしい文化の花を咲かせました。◆ 【北辰妙見大菩薩を祀る妙見信仰発祥の神社・妙見宮鷲頭寺】大内家にとって守護神だった北辰妙見大菩薩を祀る神社で、琳聖太子が開祖の本家本元の氏神・妙見様のお社です。天長四(827)年に十一代大内茂村が、現下松市の鷲頭山から氷上山に勧進したのが興隆寺の妙見社です。下松妙見は、山口県下松市・周防国都濃郡にある、妙見信仰の社寺。中国地方を代表する妙見信仰の社寺で、降松神社と鷲頭寺が担っている。595年(推古3年)、青柳浦の松に大星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝の守護を託宣した。597年(推古5年)、百済国王子の琳聖太子が来朝し、神霊を桂木山に祀った。603年(推古11年)、高鹿垣山に遷座した。さらに609年(推古17年)、遷座して現在地である鷲頭山に上宮と中宮を建立した。琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けた。のち大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いた。大内氏の滅亡後は毛利家の崇敬を受けた。1608年(慶長13年)、火災により、上宮と中宮が中宮本殿を残して焼失。明治初年、神仏分離が行われ、別当七坊が廃絶となり唯一閼伽井坊が転出して鷲頭寺となった。1870年(明治3年)、降松神社と改称。【妙見宮鷲頭寺】 大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_09475152.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_09483509.jpg寺院と神社とが併存する形態には、制度的にも宗教的にも矛盾する部分が多く、社僧と宮司との対立がつきものだった。特に、仏教側に有利な本地垂迹説をふりかざして、社僧が宮司よりも管理・運営面で強い実権を握ることは、神道本来の姿として不自然で、神道側にはつねにこれに対する強い不満があった。※ 妙見菩薩(みょうけんぼさつ) : 北辰尊星王(ほくしんそんしょうおう)ともいい、北辰(北極星)を仏格化した「星の仏さま」です。宇宙の中心・根源とされ、星々のなかで最高位にあり、五穀豊穣・天下泰平・一族繁栄・病気平癒・息災延命・商売繁盛・交通安全・学業成就・縁結びなど、あまねく願いをお聞きくださる諸願成就の仏さまです。大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_09473365.jpg※ 本地垂迹説(ほんじすいじゃく説) : わが国において神仏の関係を説く思想。. 神仏習合において、神は仏が日本の衆生を救済するために仮に姿をかえて現れたものとする説である。. 神は仏の垂迹(衆生を救済するためこの世に現れること。 )、仏は神の本地(本来のあり方、本体、 本地仏 )である。分かりやすく言えば、仏様と神様って根本的には同じなんだ。違うのは、神様は仏様の化身で人々を救うために現世に現れているってところです。◆ 【興隆寺の由来】興隆寺は推古天皇21年(613年)に琳聖太子(大内氏の祖とされる)によって創建されたと伝えられています。 11代・大内茂村(多々良茂村)が、天長4年(827年)に周防国都濃郡降松(現・下松市)にある妙見社を勧請し、中世に隆盛した大内氏は興隆寺を氏寺、妙見社を氏神として永く信仰してきました。大内氏の全盛時代には大いに栄え、氷上山すべてが境内であった。法界門を入って十町ばかりの間両側には堂塔百余坊が並んでいたと縁起に記され、また伽藍配置図からみても一大霊場であったことがわかる。明治維新以降、真光院、東照宮、宝乗坊、安楽坊、常楽坊、安禅坊、宝積坊、妙泉坊、観音堂、山王社、護摩堂が他の寺社に移されたり、老朽化し取り壊されたものがあり、多くのものが失われました。現在は本尊の木造釈迦如来坐像が安置されている釈迦堂と妙見社、国の重要文化財に指定されている梵鐘が残っています。大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_09481297.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_09482040.jpg【興隆寺伽藍配置推定図】大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_11122297.jpg周防国氷上山の興隆寺および妙見社は、中世においては大内氏の氏寺氏神として繁盛しただけでなく、近世においても萩藩における天台宗山門派の中本山となって境内に将軍家歴代位牌や東照宮を擁する重要な神仏習合寺院であった。ところが近代に入ると、旧来の千石規模の知行地を失い、かつての本堂は売却され、脇坊群や東照宮も失い、諸堂舎群の構成には大幅な縮小改変がなされた。しかも旧境内の中枢部が、山口県立山口農学校の敷地やその実習のための農場牧場に転じたことから、現地景観は大きく様変わりしており、かつての諸堂舎のありようはおろか、旧本堂の旧跡さえも不明となっていた。この寺の境内だった所は、 参道を挟んで新興の住宅地となっているが室町時代には100余りもの僧坊が建ち、お坊さんの数は500人以上を数えるほどだったという記録がある。室町時代には大内氏、戦国から江戸時代末にかけては毛利氏の庇護のもと隆盛を極めたが、明治維新後、廃仏毀釈の波を受けて、檀家を持たないお寺の経営は成り立たなくなった。そこで宝物の切り売りが始まり、貴重な品の数々が日本中に散逸していった。大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10331728.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10332872.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10333666.jpg【国の重要文化財・梵鐘】大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10335565.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10341483.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10340368.jpg【釈迦堂】大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10342258.jpg大内文化の遺産・氷上山(ひかみさん)興隆寺_d0061579_10342969.jpg 8 by kfujiken2 | 2021-04-08 11:18 歴史 Comments(0) 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 松山英樹、アジア人初のマスター... 春、満開の桜を愛でる・・・その2 >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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