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学校では教えてくれない歴史の真実 【北政所の概要と挙動】北政所は豊臣秀吉の正室である。幼名を寧々(ねね)木下家定の実妹で、秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋は、兄・木下家定の子で彼女の甥にあたる。夫の豊臣秀吉を天下人まで押し上げた史上最強の「あげまん」である。秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に仏門に入る。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。秀吉死後、有力大名の中に文吏派と武将派の確執のあったことである。武将派は五大老派で、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝で筆頭は徳川家康であった。文吏派は五奉行派で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家でその中心は石田三成であった。武将派は北政所派、文吏派は淀君派の観を呈し、党派の争いは深刻となっていった。北政所と淀殿は正室と側室の立場ということもあり仲が悪く、秀吉の死後、増々反目を強めやがて豊臣家を滅亡させてしまったというものですが、関ヶ原の戦いの前哨戦・大津城の戦いでは、淀殿と連携して講和交渉や戦後処理に動き、大坂の陣では、北政所も大阪城に籠城することを希望したのですが、秀頼に遠慮され、京都に留まったというもの。二人に連携の可能性があったというのです。【北政所の肖像画】学校では教えてくれない歴史の真実_d0061579_17404239.jpg◆ 関ケ原合戦の人間模様で不可解な部分1. 北政所はどんな経緯で徳川に味方したのか?徳川家康が豊臣秀吉亡き後の最有力者だとしても勝手に大坂城に入れるわけもありません。ここに徳川家康と北政所の密接な関係がうかがえます。「できた女房」と評された北政所と側室・淀殿との関係については、様々な噂がついてまわっています。淀に鶴松が生まれた当時は、豊臣家の為に協力しあう「二人母親(かかさま)体制」といわれ、 人質の監督は北政所、子供を育てるのは淀、と役割をきれいに分割していたと言われています。仮に淀殿と北政所が険悪だとしたら、北政所は豊臣家の行く末に見切りをつけた。逆に淀殿と北政所の関係が円滑であったとしたら、北政所は徳川家康に豊臣家の行く末を頼んだ。だから徳川家康が大坂城に入ることを許容した。北政所と徳川家康の間には、政治的な関係が生まれていた。北政所と徳川家康の関係は関ヶ原の戦いでも垣間見ることが出来ます。有力だったのは北政所は徳川家康寄りだったという考え方です。北政所と豊臣秀吉の間に子供は生まれませんでした。それだけに北政所は豊臣秀吉子飼いの武将を殊の他かわいがったと言われています。この代表格が加藤清正や福島正則。あるいは黒田長政もこの系譜に入る武将かもしれません。こうした武将の多くは関ヶ原の戦いにおいて東軍に属しています。石田三成との関係があったことは否定できませんが、それでも北政所がかわいがってきた武将の多くが徳川家康に味方したということは、北政所と徳川家康に何かしらの関係があったと考えるほうが自然に思われます。豊臣家の存続には、徳川家康に頼るほか方法が無かったといえるでしょう!【関ケ原合戦】学校では教えてくれない歴史の真実_d0061579_17402573.jpg2. 小早川秀秋は何故西軍を裏切ったか?日本史上、天下分け目の決戦といえば、多くの人が「関ヶ原合戦」を思い浮かべるだろう。19歳の小早川秀秋の決断が、関ヶ原の明暗を分けたことはよく知られている。ある意味、戦いに直接的に関わった最大のキーマンといえるが、彼が東軍に寝返ったのは、戦いがたけなわになった頃合いではなく、もっと早かったようだ。関ヶ原の戦いにおける西軍の総大将は、毛利輝元です。そのため、「毛利家」の分家である小早川家が西軍に就くのは自然なことでしたが、小早川秀秋本人は毛利家とは血の繋がりがなく、忠義心もありません。一方で、元々は「豊臣家」の血筋であるため、豊臣家を救うなら西軍に加勢すべきことは理解出来ます。さらに、西軍の将・石田三成からは西軍が勝利すれば豊臣秀頼が成人を迎えるまでの間は、関白を任せるという厚遇を持ちかけられていましたが、石田三成は小早川秀秋が減封されるきっかけを作り出した人物です。反対に東軍総大将の徳川家康は、小早川秀秋を復領させただけではなく、所領高の大幅な加増まで叶えてくれました。また、育ての親である北政所からも「必ず内府殿・徳川家康に内応せよ」と助言をされていたのです。【小早川秀秋】学校では教えてくれない歴史の真実_d0061579_17403313.jpeg 7 by kfujiken2 | 2021-04-20 05:00 歴史 Comments(1) Commented bykyotoshiryo at 2023-05-11 21:20x 0 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 「女性」天皇と「女系」天皇の違... コロナによる地獄と天国 >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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