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自由放任主義で“色男”を支える妻の美学 ◆ 渋沢栄一と渋沢千代(尾高千代)の出会い近代経済界の立役者といえば渋沢栄一。500社もの企業設立・経営に携わった彼の名は広く知られています。渋沢栄一は生涯に2度結婚していますが、その彼を陰で支えた最初の妻・千代の存在はほとんど知られていません。この千代と彼女の兄弟の存在こそが、かの実業界の雄・栄一を誕生させたといっても過言ではなかったといえます。千代と栄一の二人が結婚したのは安政五年(1858)十二月。千代は数え年十八歳で栄一は一つ年上の十九歳でした。幼い頃から見知った従兄妹だっただけに、お互い遠慮のない夫婦関係だったといえましょう。(この当時、従妹同士で結婚することはめずらしくありません)千代は色白で凛とした容貌の幼い頃から向学心の強い、周囲に対しても気配りができる大人のような少女で、些細な物事にも常に気を使う完全主義的な面が強い女性であったといいます。よほどの優れた男でなければ、千代ほどの女を妻にした場合、「位負け」してしまい、彼女とやりあうことはできなかっただろうといわれています。彼の間違いを即座に正し、はばかることなく千代は栄一を方向づけた、といいます。【若い頃の渋沢千代】自由放任主義で“色男”を支える妻の美学_d0061579_14243297.jpg◆ 渋沢千代(尾高千代)が「烈女」と呼ばれるゆえん栄一は千代を恋しがるだけでなく、特別な良妻として見ていたことがうかがえます。千代は妻として、夫の栄一を日本人として恥かしくない男になってほしいとする気持ちがあったのでしょう。千代によると「真の色男」とは、“女性から命がけで慕われ、その愛情に応えることができるような男性” だそうです。夫が一流の男になるには「色気」が必要で、それは女性との交流によって得られるものだろうと、と千代は感じていたようです。それが自分以外の女性との交流によるものであっても、私は構わないという態度を千代は見せ続けました。渋沢千代が「烈女」と呼ばれる理由の一つが、この手の夫の自由放任主義だったといえるかもしれません。そこまで夫を放任できてしまうのも、深い愛ゆえなのでしょうが、千代は自分にできることは家庭と子どもたちを、妻として守っていくことであり、夫に必要な色気を与える仕事は別の女性に外注することにした、ということでしょう。まぁ、現代ではなかなか受け入れられない価値観でしょうが、それもこれも、自分自身が誰にも負けないくらいに美しいという千代の自負があってこそかもしれませんね。【晩年渋沢栄一と渋沢千代】自由放任主義で“色男”を支える妻の美学_d0061579_14244216.jpg◆ 渋沢千代の早すぎる死尊王攘夷思想に染まり家を出た渋沢栄一はその後、幕臣となり、パリで行われた万国博覧会に出席する徳川昭武の随行員として慶応3年(1867年)と渡仏したことで、渋沢栄一と千代は離れ離れの生活が続きました。この間、渋沢栄一は海外から度々千代に手紙を送っており、心変わりしないよう懇願しています。このことから、渋沢栄一の千代への一途な思いが伝わってきます。多忙な夫を支え続けた千代ですが、明治15年(1882)当時流行していたコレラを患い、7月14日、42歳で亡くなりました。【徳川昭武のパリ万博使節団一行】自由放任主義で“色男”を支える妻の美学_d0061579_14245085.jpg 7 by kfujiken2 | 2021-05-04 00:01 歴史 Comments(0) 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 出遅れた国産新型コロナワクチン 変異株の感染拡大はすさまじい >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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