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信長に仕え本能寺を生き延びた黒人侍 織田信長の側近くに、外国人が仕えていたことをご存じでしょうか? しかもお雇い外国人のような客分ではなく、れっきとした織田家の侍としてである。身長182cm、漆黒の肌のその男は、「弥助(やすけ)」と呼ばれた。ハリウッドで映画化 (伝説のアフリカの侍の実話)The True Story of the Legendary African Samurai 信長に仕え本能寺を生き延びた黒人侍   _d0061579_08251157.jpgゲームやコミック等の影響で、Yasukeの名はいまや世界的に知られており、日本初の外国人侍が黒人であったことは驚きとともに好意的に受け止められている。それを受けてハリウッドでは、マーベル・コミックの『ブラック・パンサー』の実写版で大人気を博したチャドウィック・ボーズマンを起用し、弥助を主人公にした映画化も決定したという。◆ 弥助の出生弥助の出生については詳細な記録がないものの、アフリカ南部・現在のモザンビーク出身とする説が有力です。弥助は幼少期にアラブかインドの奴隷商人によって拉致され、アラブ諸国やインド洋を連行された。おそらく奴隷として働き、少年兵の訓練を受けてインドのグジャラートやゴアで戦った後、ポルトガル出身のイエズス会宣教師ヴァリニャーノ一により従者兼護衛に雇われたとみられる。ヴァリニャーノ一行は来日してから2年間を、主に九州で過ごした。◆ 織田信長との出会い天正9年2月23日(1581年3月27日)、宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本最大の実力者である織田信長に拝謁して、イエズス会の布教活動の庇護を受けるために面会した際に黒人の奴隷を連れていて、始めて見る黒人に興味を持った信長は、褐色肌が墨で塗られたものと思い、家臣に命じてその黒人の肌を洗わせたという。宣教師の説明を受けても理解が難しかった信長だったが、これを機にその黒人を気に入って、宣教師から譲ってもらったという。年齢はおよそ20代後半で、身長は約187cmという巨体の力持ち。極めて俊足であり、当時平均身長160㎝にも満たなかった日本の武士たちの10倍の怪力を持っていたとされる。信長はその黒人を「弥助」と名付けて、小姓としてそばに置いた。片言の日本語が喋れたらしいが、日本の習慣にはなかなか慣れなかったらしい。弥助は下人や奉公人のような立場ではなく、私宅と腰刀を与えられ武士と同じ立場であった。イエズス会の報告によると信長は弥助を将来的には城持ちの家臣にしようと考えていたという。常に主君の側近くに仕え、身の回りの世話を焼くだけでなく、使者として信長の意を伝え、ときに自分より格上の部将に指示を与えることもあった。そんな要職に異国人が抜擢されるのは破格のことだが、合理的な信長が理由もなく弥助を小姓にするとは考えにくく、弥助が多少は日本語で会話できたこと、また軍事奴隷(ハブシの戦士)として、ヨーロッパの最新の軍事知識と技術を身につけていたことが高く評価された可能性があるという。【日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち】信長に仕え本能寺を生き延びた黒人侍   _d0061579_09194947.jpg※ ハブシの戦士とは ・・・ ハブシとは北東アフリカの奴隷を指す言葉である。ハブシの男は獰猛で戦闘技術が巧みであり、さらに忠誠心が高いことから、軍事奴隷としての実力は当時のアジア全域に知られていたという。【相撲遊楽図屏風】 肌の黒いざんばら髪の男と髷を結った力士が相撲をとっている絵信長に仕え本能寺を生き延びた黒人侍   _d0061579_08244243.jpg信長に仕え本能寺を生き延びた黒人侍   _d0061579_08191795.jpg◆ 弥助と本能寺の変天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀による謀反「本能寺の変」が起こった際、小姓の弥助も森蘭丸と同様に信長のそばで奮戦したが、二条御所の織田信忠へこの事態を知らせよと信長から最後の命を受け本能寺を脱出、信忠へと変事を伝えた(このことから、変の発生した時点では若干の意思疎通ができる程度の日本語を身につけていたようである)。※ 密命を帯びていた可能性明智勢に囲まれた本能寺から奇跡的に脱出することに成功するのである。弥助が逃げるつもりであれば、本能寺のすぐ東にあるイエズス会の教会堂に駆け込めばよかった。しかし、彼は教会堂に目もくれず北へと走る。目指したのは、信長の嫡男信忠の宿所である妙覚寺であった。弥助は信長から形見の刀を信忠に渡してほしいと託されたのではと推測される。その後は二条御所で明智軍と交戦するも捕縛され、家臣達から処分を聞かれた光秀は「動物同然の奴隷で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、「インドの聖堂に置け」との指示で南蛮寺(教会)に送られ一命を取り留めたという。弥助はその後、どんな生涯を送ったのだろう。人知れず日本のどこかに骨をうずめたのか。あるいは九州の港から船出し、新天地でそれまでとは全く別の人生を歩んだのか。現代の私たちは想像するより他ない。ただ一ついえるのは、弥助が信長に仕えた期間は1年半にも満たぬ短い期間だったとはいえ、彼は正真正銘の織田家の侍だった、ということである。それも信長が小姓として認めた有能な人材だった。そして本能寺の変において、最後まで戦った弥助の姿は、武士の行動原理に基づいたものであり、彼が「サムライの心」を抱いていたことを雄弁に物語っている。彼は外国人でありながら、まさしく「日本のサムライ」であった。そんな人物が戦国時代に実在していたことを、私たち日本人は知っていてもよいだろう。 10 by kfujiken2 | 2021-05-13 10:00 歴史 Comments(2) Commented bykyotoshiryo at 2023-05-11 21:22x 0 Commented byあきら at 2024-05-21 09:44x 0 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 病床逼迫(ひっぱく)の危機的状... 森発言が浮き彫りにしたジェンダ... >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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