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つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」 皆さんは、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は本当にすごい人物なのかどうかを、よく理解しておられますでしょうか?「大政奉還」を成し遂げたあの「徳川慶喜」のことです。「徳川幕府・最後の将軍」として有名ですよね。実は、「徳川慶喜が、本当にすごい人なのかどうか」について、ハッキリ知っている方は多くないみたいです。なぜなら、「徳川慶喜」ほど評価が割れている人物はいないからです。一方では「名君」と呼ばれ、もう一方では「バカ殿」と呼ばれているからです。つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」_d0061579_07260202.jpg※ 徳川慶喜が「すごい人」とか「名君」と呼ばれる理由1. 慶喜は幼い頃から頭脳明晰で、とてつもなく優秀な人物だった。2. 強力な諸外国からの圧力が強まった幕末の日本を、慶喜は守り通し外国からの侵略をさせなかった。※ 徳川慶喜が「バカ殿」と呼ばれる理由鳥羽・伏見の戦いにおいて、慶喜は驚くべき行動に出ます。部下たちを大阪城に残して、一人で江戸に逃亡してしまった。武士道精神に反して、敵前逃亡したからです。◆ 徳川慶喜が残した【すごい功績】1. 「大政奉還」をして約260年余り続いた徳川幕府を終わらせた「大政奉還」とは、政治を行う権限を幕府から朝廷へと返上し、幕府という臨時政府をしょうめつさせることで、よく勘違いされますが、「大政奉還は徳川慶喜のギブアップ宣言」だと言われているのですが、これは違います。「大政奉還」は、薩摩と長州に対する慶喜の「強力な反撃の一手」でした。源頼朝が鎌倉幕府を成立させて以来、日本は約700年にわたって、幕府という「臨時政府」が政治を行ってきました。そのため「朝廷」とう「本来の政府」は、700年もの間政治に携わらなかったのです。当然ですが朝廷には、政治を行う力もノウハウもありません。そのため慶喜は大政奉還したあと、朝廷から慶喜に対して「続けて政治を行いなさい」と命令してくる分かっていた。なぜ慶喜は「大政奉還」を行ったのでしょうか?「薩摩と長州」はこの大政奉還がされる直前、「討幕の密勅」を朝廷に求めていました。「討幕の密勅」とは、幕府を倒せという朝廷からの秘密命令のことです。薩長はこの「討幕の密勅」を朝廷・天皇から引き出すことで「薩長 vs 江戸幕府」という戦争を起こし、江戸幕府を倒そうとしていたのです。しかし、これを察知した慶喜は、「大政奉還」をして、瀑布を事実上消滅させました。これで「討幕の密勅」は、無意味なものとなったのです。なぜなら「討幕の密勅」を出されても、倒すべき幕府が無いのだから、幕府を倒せるはずがありません。徳川慶喜は、日本国内での内戦を回避して、英仏のようなヨーロッパ列強諸国に日本を侵略させるスキを与えないため、260年続いた江戸幕府を、自分の手で滅ぼす大英断をしたのです。【二条城での大政奉還】つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」_d0061579_07251196.jpg2. 鳥羽・伏見の戦いにおいて、旧幕府軍の軍勢を置いて、江戸に逃げ帰ってしまった「大政奉還」によって滅びた幕府の軍団(旧幕府軍)は、京都の「 鳥羽・伏見」で薩摩軍と衝突した戊辰戦争の初戦となった戦いで、旧幕府軍は敗北します。しかし、新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍の兵力15,000名余力は十分にあり、戦えば必ず勝利できる状況だったのです。ここで慶喜は、なんとかしてこれ以上の「戦争・内乱」を避けようと考えたのです。なぜなら、「西欧列強が日本を植民地にしようと虎視眈々と狙ったいる今、国内でないせんを起こしている時ではない」と考えていたからです。しかし旧幕府軍の怒りは凄まじく、慶喜が「戦うな」と命令しても、誰も言うことを聞くような状態ではなかったのです。そこで総大将の敵前逃亡という、日本の歴史において前代未聞、空前絶後の珍事を起こしてしまった。なんと旧幕府軍1万人を残して、大阪から船で江戸へと撤廃してしまったのです。これには慶喜のぶかだった旧幕府軍は激怒し、呆れ返ってしまいます。しかしこの「敵前逃亡」がなかったら、おそらく旧幕府軍と薩摩軍の血みどろの内戦が続いていたでしょう。この内戦で弱体化した日本は、西欧列強に侵略されていたかもしれません。慶喜が逃亡したおかげで、「江戸幕府」という古い形の国家は終わり、「明治新政府」という、今も続く近代的な国家が誕生した訳です。結果だけ見るとお見事なのですが、手段が情けないですよね!!!【大阪から船で敵前逃亡】つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」_d0061579_07253341.jpg3. 「江戸城無血開城」「鳥羽・伏見の戦い」の直後、西郷隆盛が率いる薩摩軍が江戸へ進行します。● 13代将軍徳川家定の妻「篤姫」● 14代将軍徳川家茂の妻「和宮」● 勝海舟【薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟の会談】つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」_d0061579_07254252.jpgこの3人の尽力で江戸幕府は戦争を起こすことなく、薩摩軍に降伏することに成功した。「江戸城無血開城」が実現したことで、江戸100万人が救われ、平和的な開国と明治維新が成立した。西郷隆盛と勝海舟は、徳川家の処遇について会談し、西郷は勝が提示した「骨抜き案」丸呑みした。1836年、篤姫は薩摩藩の島津家に生まれました。1853年、徳川幕府より家定の正室にと請われると、格式をあげるため従兄で薩摩藩主だった島津斉彬の養女になったうえで江戸に向かいました。わずか2年足らずで家定が死去。篤姫は髪をそり落として仏門に入り、これ以降天璋院と名乗るようになります。14代将軍には、家茂が就任しました。彼は朝廷と幕府の結びつきを強化する「公武合体政策」を進めるため、孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)を正室に迎えます。天璋院と和宮は嫁、姑の関係となりました。天璋院は実家である薩摩藩に対し、また和宮は朝廷に対し、徳川家救済の嘆願をおこないました。彼女たちは新政府軍の江戸城総攻撃を前に西郷隆盛と勝海舟の会合を援助し、江戸城は無血開城、内戦を防ぐことになったのです。【篤姫と和宮】つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」_d0061579_07261977.jpg◆ 【徳川慶喜の出生から幼年期】15代将軍・慶喜は水戸藩の第9代藩主徳川斉昭と徳川斉昭の正室・有栖川宮織仁親王王女・吉子女王の7男として江戸の水戸藩邸で生まれた。しかし、江戸のような華美な都会では男子はたくましく育たないという父・斉昭の教育方針で、幼少のころから水戸に移され育てられた。そして5歳のときから水戸の弘道館で徹底的な英才教育をほどこされ、弘化4年(1847)、11歳のとき、八代将軍・吉宗の血を引く一橋家の養子となった。19歳のとき、2歳年上の有栖川宮(ありすがわのみや)の娘美賀(みか)と結婚。黒船の来航以降、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、政治の中心が京都に移り、慶喜は将軍後見職、禁裏御守衛総督を歴任した。慶応2年の第二次長州征伐の間、7月、家茂が急死したので徳川家を継ぎ、12月、第15第将軍の座についた。14代将軍家茂が亡くなった時に,徳川一門には慶喜の他に有力な将軍候補者がいなかった。田安亀之助(徳川第16代当主)はわずか4歳で,前尾張藩主徳川慶勝も候補にはあがったが,すでに隠居の身でふさわしくないと判断された。慶喜は,まず慶応2年8月20日徳川本家の相続のみ承諾し,征夷大将軍に就任したのは12月5日であった。◆ 【徳川慶喜の晩年期】戊辰戦争の終結後、謹慎を解かれた慶喜は引き続き静岡(旧駿府)に居住しました。野心がなかった彼は政治的な事柄には関わらず、隠居手当を使って写真・狩猟・投網・囲碁など趣味に没頭する生活を送ったといいます。このころには「ケイキ様」の呼称で人々から親しまれていた慶喜ですが、旧幕臣の訪問には対応せず、渋沢栄一ら一部の人間にしか会いませんでした。仕事を失い困窮した旧家臣のなかにはこのような態度を恨む者もいたようです。明治34年(1901)の東京転居後、貴族院議員に就いて35年振りに政界に戻りますが、明治43年(1910)には辞職し再び隠居。大正2年(1913)11月22日、風邪から急性肺炎を併発し、この世を去りました。【晩年期の徳川慶喜】つかみどころがない徳川慶喜の「終わらせる技術」_d0061579_08083379.jpg 8 by kfujiken2 | 2021-06-26 09:25 歴史 Comments(1) Commented bykyotoshiryo at 2023-05-11 21:25x 0 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 徳川慶喜の妻・美賀君(一条美賀... 過酷な大地(北海道)を拓(ひら... >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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