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ブログトップ 山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします by fujikenプロフィールを見る 画像一覧 更新を通知する < October 2024 > S M T W T F S 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 カテゴリ 風景 歴史 コラム 未分類 リンク にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 周南情報へ [](//localwest.blogmura.com/shunan/ranking.html?p


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銀の歴史 【銀の歴史】金より銀の方が高価だった時代があったことをご存じですか?もともと、金が紀元前6,000~4,000年頃に発見され、その少し後になって銀が発見されたそうです。当時、技術的に銀は金よりも純度の高いものを手にするのが難しかったため、純度の高い銀は非常に貴重でした。金の2.5倍の価値があったとも言われています。ヨーロッパでも中世、銀は貴重で、なんと金に銀メッキをすることもあったそうです!現代では考えられないですね。日本に銀が伝わったのは紀元前1~2世紀頃と考えられており、日本で初めて銀山が発見されたのは7世紀になってからでした。日本の銀生産量はどんどん増え、17世紀には世界における約3分の1の銀が日本で産出されていたそうです。また、銀の精錬技術がますます高まって多くの銀が生産できるようになることで、いつしか銀は金の30分1~60分の1程度の価値・価格となり「貴重なもの」ではなくなっていました。ですが、1988年にアメリカで「クロムハーツ」が設立されて、4年後にアクセサリーデザインの大きな賞を獲得したことで一気に有名になり、ファッション界でシルバージュエリーが大きく注目されるようになりました。その波は日本にも押し寄せ、この頃から日本でも銀を「貴金属」とみなすようになってきました。銀の歴史_d0061579_07254217.jpg【世界遺産・石見銀山】石見銀山は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれた。 〘銀山の坑道 ・間歩(まぶ)〙 銀の歴史_d0061579_07263958.jpg ◆ 石見銀山銀山争奪戦見銀山が発見された1527年は、日本は地方の武将たちが同盟や対立を絶え間なく繰り返す戦国時代でした。石見銀山では、周防国南部(現在の山口県)に本拠を置く大内氏が最初に鉱山の支配権を握りました。大内氏は各地に城などの要塞を次々と築き、敵対勢力から富の山を守りました。 こうした要塞には、鉱山の主要要塞である山吹城、鉱山と温泉津港の間の道路を守っていた矢滝と矢筈の双子の砦、北西の海岸への要路を見下ろす石見城など、十数カ所の拠点がありました。1530年代から1540年代にかけては、小笠原氏や尼子氏が侵攻を繰り返し、大内氏がこれを撃退するなど、激しい戦いが繰り広げられました。石見銀山での大内氏の支配は、1550年代に安芸国(現在の広島県)の強力な毛利氏がその影響力を北に広げたときに崩れ始めました。1562年には毛利元就(1497-1571)率いる軍勢がこの地を完全に支配し、さらに要塞化を進め、沖泊港の外に水軍基地を設置して、沖泊港からの銀の輸送と温泉津への補給路を守りました。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れるまで、毛利氏は、ほぼ40年間銀山を支配していました。その後、石見銀山は徳川氏に占領され、毛利氏は本州西端の長州に封じ込められ、銀山をめぐる戦いは終焉を迎えました。徳川家康は先頭に立って天下統一を目指し、1603年には江戸幕府を樹立、1867年まで日本を統治しました。銀の歴史_d0061579_07245766.jpg月山富田城(がっさんとだじょう)は戦国時代、山陰地方の最大勢力を誇った尼子氏(あまごし)が本拠とした山城です。全国有数の堅城として知られていますが、とりわけ難攻不落ぶりを発揮した戦いが、4ヵ国を有した大大名「大内義隆」(おおうちよしたか)を迎え撃った「第一次月山富田城の戦い」です。中国地方では群を抜く勢力を誇っていた大内氏だけに、山陰地方の豪族は次々に傘下に入り、月山富田城へ着く頃には約45,000もの兵力に膨らんでいました。対する尼子氏は約15,000人。まともに戦っても勝ち目がないと考えた「尼子晴久」(あまごはるひさ)は、月山富田城に籠城し、持久戦に持ち込む作戦で迎え撃ちました。標高約184mの月山に築かれた月山富田城は、約170年間にわたって尼子氏の居城として君臨した中世城郭です。三方を険しい崖に囲まれた要害であり、その堅城ぶりから「天空の城」の異名まで有していました。城への出入口は3ヵ所しかなく、侵入してきた敵を山腹の山中御殿で殲滅できるように設計されています。毛利軍は2万5000の大軍を動員して三方から月山富田城に攻め寄せます。しかし、この城はかつて大内義隆の大軍でも落とせなかった難攻不落の要害でありました。約2年に及ぶ籠城戦(第二次月山富田城の戦い)の末、ようやく陥落させたという経緯があります。通常の力攻めで陥落させることが難しいと判断した毛利元就は、攻略を急がずに兵糧攻めに切り替えます。元就は、尼子氏の支城を次々と攻略すると、月山富田城への物資輸送の拠点である白鹿城も落とし、宍道湖を介した補給線を断ちました。さらに中海なら十神山城(とかみやまじょう)を経て月山冨田城へ至る補給線も遮断し、城を孤立させます。そのうえで月山富田城内の尼子の重臣たちに調略を仕掛けていきました。◆ なぜ銀山が欲しかったか当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。 それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。 そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。国内での銀流通が盛んになると、戦国大名は軍事金として銀を用いるようになり、石見銀山は周辺の戦国大名の標的となりました。初め周防国の大内氏が銀山を支配していましたが、大内氏が滅びた後、 出雲の尼子氏と安芸(広島)の毛利氏の取り合いになり、1562年毛利氏が銀山を手中におさめました。1590年豊臣秀吉が全国を統一してからは、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を支配し、銀を豊臣氏へ納めます。 2 by kfujiken2 | 2023-07-20 09:33 歴史 Comments(0) 名前 URL 非公開コメント 公開コメント 削除用パスワード << 清末藩 線状降水帯 >> フォロー中のブログ コバチャンのBLOG つれづれなるままに 四季折々 時の流れのままに 風に吹かれて~🎵 In one¥’s tr... 坂の上のサインボード 月の沙漠を toriko 雲母(KIRA)の舟に乗って 風の便り ハンドメイドの時間 S... Sauntering photo & 575 ?わっきゃーわからん sweet+ 静かな時間 やいやい畑 俺の心旅 元気ばばの青春日記 気持... Photo Terrace 今が一番 鏡花水月 Weblog : ちー3歩 Ⅱ 獺祭亭日乗 心はいつもそばにいてね なんでもブログ2 今日より明日良い事に出会... 薫の時の記憶 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ

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