僕は、未だ空の青さを知らない (original) (raw)

先日書いた文章に少し書いたけれど、僕とペット(特に猫)との関りは、結構深い。
幼少期に飼っていた初代ミーコ、そして二代目ミーコ。

この二匹、いや二人の猫は、僕の人生に大きな影響を与えていたと思う。

特に二代目は、ある時期から僕とべったりで、本質的には僕が飼っていたに等しい。
だから、否応なく、心の奥深くでつながった。

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僕を苦しめる思考は、すべて執着から生まれている。
好きになってもらいたい、認めてもらいたい、生存する為にお金が欲しい。
他にもいっぱいだ。

その執着は、得られない度に僕に苦しみを与える。

だから、それらを一つ一つ投げ捨てようと努力して、僕は楽になっていった。

もちろん、完全に捨て去れるわけではないけれど、苦しみを味わう都度、切り離せるようにはなった。

ならば当然、生きる事への執着も大きな苦しみへと繋がっているので、それも要らないのではと思えた。

その流れで、死んでもいいと思えた時に、どんな死がいいかと考えてみた。

僕は瞬時に、誰かの為に命を投げ捨てて果てたいと思った。

僕の今の心は、多分、健全ではない。
それでも、死んで楽になりたいと思いながらも、死ぬなら、誰かを幸せにする事で命を捨てたいと思った。

そこで思い出した。

僕は、昔から、皆の幸せを割と本気で願う人間だと言う事を。
だから、他者が苦しむのを見るのは苦痛だった。

イジメを見つけたら、そんなに強くもないのに、割って入って、
そのせいで、そのヘイトを自分に向けてしまう事も多く、悲惨な幼少時代、学生時代送ったりもした。

そういえば、ある時、飼っていた猫が、数パーセントでしか助からない病だと獣医に宣告された事があった。

あの時、僕は、必死で祈った。
僕の寿命を失ってもいいから、この猫を無下に死なせないでくれと。
本気だった。

そして奇跡が起きた。
僕の祈りは、何かに届いて、その猫は20年も生きてくれた。

無論、それはただの偶然だったかもしれない。けれど、僕はとても幸福だった。

そうだったんだよね。

僕の本質はそこにあった。

僕の幸せは、単純に、他者の幸せの為に祈るだけで達成できたのに、何を袋小路でジタバタ足掻いていたんだろう。

自分の境遇とかお金とか家族問題とか、自分の事ばかり考えて、僕は本当にくだらない生き物だ。どんなに落ちぶれようと、他者を幸福にしたい気持ちがあるだけで、きっと僕は、幸せでいられた。

僕は、自分を自分で幸せにするのは苦手だ。
それに、他者の為にと善意で行ったことで、結局自分を傷つける事も多い。

でも別に問題はない。
色々失敗しても、少なくとも他者の為に祈る事だけは、どんな状況でも出来る。

それが自分の特性に合う幸せの感じ方なのだと分かった。

今は、あまり人との関わりがないけれど、とにかく皆の幸福の為に祈ろう。

僕を傷つけた人、矛盾を抱えた社会、僕が好きなあの人。みんな幸せになって欲しい。特に好きな人には尚更。

僕は今、凄く心が穏やかでいられている。

苦しみが深くなるほど、その苦しみを理解して、解放していく事が出来る。
結構、不幸や疎外感は僕の為になっているんだなぁ、なんてね。

この間、コンビニ店員の友人が、ぼやいて、そしてイラついた。

バイトのおばちゃんに、なんでテキパキできないの? 何故、仕事のノルマが熟せないの?

と何時も、責められると。

彼が怒りを覚えるのは、それが事実で、妙なプライドが作用しているからだ。
僕は、そんなプライドは捨てちまえ、と助言した。

友人は、有能タイプではない。人柄タイプだ。

そのおばちゃんは、自分の有能な所と、他者の無能な所を切り取って攻撃している。
彼女の言葉は、事実だが、それは浅はかな思考で真実でない。

残念ながら、それはおばちゃんだけではなくて、この世の中の殆どの人は同じような思考をしている。

だから、お前は歪んだプライドをこじらせて、怒る必要はないよと。
自分の良い所はそこではないと心で呟きながら、その下らない責めは適当に認めて、軽く流せと。

ただ僕は、友人にそう助言しながら、それが自分で出来ていない事に気が付いた。

僕にとって、この世界で、上手に立ち回る事は、
浜辺の防波堤で、釣り針を下ろして、クジラを吊り上げようとするほど、難しい事だけれど、それを完全には認めずに、何とかしようと足掻いていた。

でも、それは無謀と言う物だ。

きっと僕は、路傍で小さな草花をじっと見続けて、宇宙を想像する様な、この世界では浮いた存在だ。

この世界は、美しくて残虐な所で、そこでたくましく軽やかに生きられる性質を持つよう育った人間が、生き残って行く。それが、唯一正しい現実な訳で。

結局、苦手な事で、苦しくジタバタと足掻くのは、自分らしくない。そんな必死さは、本来の僕の心を殺してしまう。

だから僕は、このまま路傍の石で朽ちる事を自分に認める事にした。

僕には、完全に理解できないけれど、路傍の石には路傍の石として存在する意味があるはずなのだ。

それもまた、この世界の生存戦略で、ちっぽけな僕がすべてを理解する必要はない。

僕は、ただ自分の手の届く範囲で、好きなことを好きなようにして、そして上手くいかなくても、テキトーに流す程度で、
あははと笑って、老いさらばえて行くだけでいい。

その途上で、無様に生きられなくなっても、それでいいじゃない。人はどうせ何時か死ぬ。
執着して苦しみながら死ぬか、テキトーに笑いながら死ぬかを選ぶのは、自分次第。

残りの人生で、素敵な奇跡があれば、それはそれで幸福。
何もなく、小さな草花だけ見て思いを巡らして、ただ朽ちるのも幸福。

世の中のすべて許容し、自分の弱さも許容し、
何も成し遂げず、何も残さず消え去る事も許容し、
愚か者と指をさされても、どんな無様な死に方をしても構わない。

社会や周囲は、本当の自由をくれないかもしれないけれど、僕は僕だけには、自由を認める。

やっと、自分に合った軸を設定できた気がする。

今なら、強い命の輝きを、恥ずかしげもなく、自分が好むものすべてに乗せられるようになれそうだ。

例え干からびようとも、世の中に媚びる事をやめようと決めた今、僕は、他者の目線なんて気にする必要性がなくなる。
それは同時に、どうにもできない運命を、そして死を受け入れると言う事でもある。

僕は、自由にできない運命に対する、正しい絶望、良い絶望を得た。

だから、むき出しの汚ねぇ命をこれ見よがしに晒しながら、基本的に好きな事をしてヘラヘラと生きようと思う。

今は無理でも、この先、酷い不幸に見舞われても何時もの苦行かな程度で笑い、誰かに殺すと言われても、はいどうぞと半笑いで身をゆだねる様な、そんな強さを得られるような気がする。

色々苦しくて、浮いたり沈んだり、ぐるぐると思考がぶれてしまうけれど、今の境遇は、僕の思考を、螺旋を描きながら徐々に深くしている。

それは同時に、心を豊かにしてくれていると言う事だと。

最近、大事な所で不運が続いて、またかとネガティブモードに入ってしまった。

ネガティブ耐性が大きく下がっているんだなと感じる。

まあ、この無い無いづくしの現状で幸せだと感じられるなら、それはそれで特殊能力なわけで。
そんな特殊能力を、いづれは手にしたいけれど、僕には、まだそんなものはないんだよね。

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下の猫山盛りの画像は、僕の嗜好全開のままに、AIで作ったものです。

結構、雑な感じで、日本語でコマンドを入れても、これくらいの画像が直ぐ出来てしまう。
すごく便利で楽しい。凄まじい生産性。

AIの近年の進化は、とても早くて、すごくリアルな動画や、ハイクオリティな作曲までこなし始めている。

でも、だからこそ大きな問題が影として厳然としてある。

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僕が今、一番欲しいものは、どんな切迫した状況でも笑っていられるおおらかさ。

それは、ある種の狂気か悟りと同じレベルだったりもする。

究極的には、死の床について最後の言葉が、
死んだらさ、ムカつく奴に取り憑いて嫌がらせしたり、友人の前に現れて、わっと脅かしたり、好きな子の家に忍び込んだりしちゃったりして。ぐふふ。

とか、くだらない事を言いながら、楽しそうに死ねるかって事でさ。

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この前、話の流れで、飛行機に乗るのが怖いと友人が言った。
僕は、統計的に、飛行機での事故死は、車の事故死よりもはるかに少なくて、むしろ安全だよと答えた。
彼は、それでも不安だと、そもそも飛行機が何故飛ぶのかも、完全にわかってないって話があるよねと。

なるほど。
そういう意味では分からなくはないなと僕は思った。

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