KINOUNOKYOU (original) (raw)

nintendo summer playlist ☀️ - YouTube 暑い。そんなときはノスタルジーに包まれる任天堂ゲームのサウンドトラックを聴きながら、本を読んだりするのがいい。ポケモンサウンドトラックでもいい。最近はほんとにセネカって感じの気分なので、人生の短さについて考えることを迫られている。じいちゃんは認知症である。そんなこんなで久しぶりにフローリアン・ゼレール『ファーザー』を観たら素晴らしすぎて、かなり感動してしまった。過剰な自由は不自由をも引き起こすことを表現した傑作だろう。普通に生きている我々というのはまだまだ思考が自由ではないのだ。

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しっかし暑い......暑すぎる……夏ってこんなだっけ?と思うのだけど、毎年こんなことを言っているような気もする。暑いときにはやはりサマームービーを観るのがいい。カミロ・マストロチンクェ『太陽の下の18才』は素晴らしい。カトリーヌ・スパークはいいですよね。まずもって名前がいい。「カトリーヌ」「スパーク」ですよ。完璧じゃないですか。f:id:nayo422:20240710023828j:imageあとはその佇まいである。絶対的に市井の人々に埋もれない存在感。映画に出演する俳優というのはこうでなくてはならないと思ってしまう。映画というのは撮影と編集ではあるのだけれど、それも俳優の魅力(charm)があってこそなのだ。

Clairo『Charm』は心地よい。ハッピーな気持ちが訪れる前の寂しさや落ち着いた空を見上げると降ってくる解放感がある。久々にClairo『“You’ve Got A Friend” (Carole King Cover)』も聴きたくなるなど。SoundCloudにあります。

Charm

The Secret of Us

Gracie Abramsって、J・J・エイブラムスの娘なんだ、っていちばん言われたくない言葉だろうけれど、今更知った。『Risk』がいいよね。最近、フジファブリック『ブルー』を聴く機会があったのだけど、アニメ『アオハライド』が10年前という衝撃に打ちのめされてしまった(『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』も10年前…)。しかし、まだ10年しか経ってないのかと思えなくもない。アニメそろそろ2期やってもいいのでは。だって、『君に届け』は3期が12年ぶりに放送されているのだ。こういうのはどうやって決まるのだろうか。青春時代に観ていたファンが、大人になって権力を持って〜という感じだったりするのだろうか。

アニメで楽しみなのは、10月から始まる『ダンダダン』だ。今いちばん面白い漫画だろう。ぐん、ぐーん、どーん。この流れが最高。くねくね動きまくるという点において、制作がサイエンスSARUになったのは最適解すぎる。ほんとに楽しみ。

ダンダダン 15 (ジャンプコミックスDIGITAL)

BLUE GIANT MOMENTUM(2) (ビッグコミックススペシャル)

BLUE GIANT』はずっとおもしろいので、何も言うことがない。ありがとうございます。この漫画の“生”感はなんなのだろうか。

ライブは、ここ数年でいちばんのパフォーマンスを観た。f:id:nayo422:20240912210200j:imageThe Last Dinner PartyのFUJI ROCK SPECIALです。LIQUIDROOMクラスのキャパで見れられるのは最後…!と銘打っているのも頷けるパフォーマンスだったのだ。アビゲイルさんが歌って、踊って、ステージを縦横無尽に駆け回る姿は、ライブとはこういうものだよなと感じられるものでした。空間を興奮で満たしていた。外国の方もわりと多かったと思う。そして、私の右斜め前には武田砂鉄さんがいました。武田砂鉄さん、大きいのな。

私の夏の重大エピソード!2年ぶり3度目、嶋佐と話しました!ニューヨーク単独ライブDVD‐BOX『NEW YORK LIVE 2021-2023』の発売を記念した、トークショー&サイン会です!かなり緊張してしまって、たいしたことは話せていないのだけど、以下のようなロレックスの話をしました。

私「3番目の時計も楽しみにしてます!今つけてるそれは2本目ですか?」

嶋佐「そう、いいでしょ」

私「めっちゃいいです!」

サインは、過去3回のジャケットから選べたのだけど、naturalを選択。デフォルメしたものではなく2人の顔が写っているのがいいよね。しかし、DVD売れているの200枚くらいらしい。かなりの高倍率だと思っていたのだけど、倍率的には4倍くらいでした。ギリ当たる確率。なんだかテンション上がって、久しぶりに『バチバチエレキテる』を観てしまうなど。当時の嶋佐は本当にかわいい。今ももちろんかわいいのだけど。f:id:nayo422:20240921185602j:imageニューヨーク単独『そろそろ、』も行きました。最近の単独は、んーと思ってしまうものも多かったのだけど、今回の単独は出色の出来でした。特に、マイルドヤンキーてして生きることの幸福を描いたネタは、イジっているわけではなく、ニューヨークもある意味で真実だと考えているんだろうなと思った。f:id:nayo422:20240921183705j:imageラストの凱旋公演は、チケット1200枚余りとか、台風直撃とかいろいろあったけれど、無事に終わってよかったですね。

あなたは堂安と板倉のムービーを観たか。これがめちゃおもしろいのだ。板倉が外国の地で孤軍奮闘する話は上手いことエッセイにでもしたら、なかなか素晴らしいものになる気がする。書籍が求む。バナナ食ってる話、練習で海外の選手と喧嘩したボコボコにされた話、コーチにFワードをぶつけてしまった話などなど。すべてのエピソードが面白すぎる。『BLUE GIANT』でダイが海外を旅するように、板倉のエピソードもエッセイ漫画みたいなのがいいのかもしれない。YouTubeのおすすめ動画は、いろいろあるけれど、たくろう赤木さんの「なんで生きてるの?」動画がいい。私も共鳴してしまう。あと、aespaウィンターがユヴェントスを着ていた。この前、TWICEナヨンもライブでユヴェントスを着ていた。

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オリンピックの開幕前にアップする予定が、もうオリンピックは閉幕してしまった。残念です。フランスのパリではオリンピックが開催されていた2024の夏。サッカー、バスケ、バレーなどの球技から、陸上競技、柔道、フェンシング、サーフィン、スケボーまで、さまざまなスポーツに触れることができた。テレビ画面を通して応援していたら、身体を動かしたくなって、グラウンドに飛び出してボールを蹴り出す……なんてことをできたらいいのだけれど、外は30℃を超えの日々であってそんなことはできそうにない。それなら、スポーツに関する本を読んで、さらにオリンピックの興奮を思い出そう。スポーツを楽しむにはルールをしっかり理解したり、お気に入りの選手の名前を覚えたりするのもいいかもしれないけれど、スポーツを取り巻くさまざまな事柄に触れてみるのもいいだろう。そうすることで、プレイの一つひとつにグッと奥行きが生まれるはずだ。

サッカーや陸上競技などを観ていて、まずもって注目してしまうのはシューズだろうか。adidas、PUMA、New Balanceなどいろんなメーカーがあるけれど、やっぱり多いのはNIKEでしょう。昨年には、ベン・アフレックAIR/エア』というエアジョーダン誕生秘話を物語った傑作映画も公開されたわけだけど、フィル・ナイト『SHOE DOG(シュードッグ)―靴にすべてを。』というNIKE誕生の物語が綴られた、創業者の自伝も最高に面白い。オニツカタイガーアメリカで販売する権利を獲得した青年が、やがてオニツカとの関係が悪化すると、自分たちのブランド「NIKE」を立ち上げる。NIKEの由来は、ギリシャ神話にでてくる勝利の女神「ニケ」。まさに選手が履くにふさわしいシューズなのだ。『SHOE DOG』のなかで好きなのは、フィル・ナイトが走るひとであることが随所に現れていることだ。考えごとをするために、気分転換のために、走る。そのことは、ベン・アフレックAIR/エア』でも描かれている。映画においては、誰がその靴を履くのか、ということが重要であることを示されていた。オリンピックがスニーカーの品評会になっていることなんかは当然今もそうであるし、ニコラス・スミス『スニーカーの文化史:いかにスニーカーはポップカルチャーのアイコンとなったか』を読めばスポンサー契約の値段も膨張を続けていることを知ることができる。プロスポーツ、そしてオリンピックが資本主義というシステムによって駆動されていることは疑いようもない。

「祝賀資本主義」(セレブレーション・キャピタリズム)」という言葉がある。これは、祝賀的なイベントに乗じて一部の民間企業が利益を得るという仕組みを意味するものだ*1。そして、元オリンピック選手のジュールズ・ボイコフは、『オリンピック秘史-120年の覇権と利権』や『オリンピック反対する側の論理-東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』で祝賀資本主義を批判している。

資本主義は抜け目なく、その姿を自在に変える。オリンピックはその多彩な形態の覗き窓となる。資本主義は政治的文脈、地理、そして伝統によってその形を変える。政治経済学者のジェフ・マンの言葉は私たちが忘れがちなことを指摘している。「実際には、現存する資本主義は幅広く」、それらが同時に展開している、という。時には、新自由主義の路線に沿って経済関係が形作られるが、しかし、また別の時には、民営化、規制緩和、金融化、「市場に決定を委ねる」、といった規範に従っていない。[・・・]新自由主義の原則は確かに一部の側面では重要だが、こうした原則だけではオリンピックの政治経済学をきちんと理解できない。むしろ、われわれの目に映るのは私が「祝賀資本主義」と呼ぶ、ナオミ・クラインの「惨事便乗型資本主義」のもっと晴れやかな顔をしたいとこのようなものだ。祝賀資本主義は乗じるのは、クラインが『ショック・ドクトリン----惨事便乗型資本主義の正体を暴く』でありありと描き出したような惨事ではなく、楽しいお祭り騒ぎである。[・・・]オリンピックは社会が熱狂する瞬間に繰り広げられる。もちろん、オリンピックは誰にでも平等にお楽しみの機会をもたらすわけではない。富裕層やコネに恵まれた人々は五輪から利益を得る傾向があるが、一方で、すでに貧しい人々、周縁に置かれた人々の困窮は往々にして深まり、後戻りがきかないようにされている。オリンピックはトリクルアップ経済学の攻めの一手だが、ロサンゼルスのアクティビストたちは、そんやトリックはもうお終いだ(the trick is up)と、主張する。

ジェールズ・ボイコフ『オリンピック反対する側の論理-東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』39-40頁

オリンピックという大会は、資本主義の化け物だとボイコフは語る。東京をはじめとする先進国では強制退去者の数は多くないが、北京(中国)では1,500万人、リオ(ブラジル)では7万7,000人といったように、オリンピック開催にあたって強制退去を余儀なくされている。また、W杯などにおいても、スタジアムの工事を間に合わせるために過酷な労働を強いられたり、福祉に回せるはずの公金が大会に流れたりするなど、多くの批判がある。東京オリンピック同様、今回のパリオリンピックにおいても閉幕後、さまざまな問題が浮上するかもしれない。祭りが終わった後のことを注視しなければ、私たちはあまりに馬鹿にされた存在に成り下がってしまうだろう。

しかし、オリンピックが無くなれば、その競技そのものが危ぶまれるマイナースポーツがあることもまた事実だろう。オリンピックを無くすのではなく、運営を透明化し、スポーツの祭典としてのより良いあり方を模索しなければならない。そのために、一度オリンピックをストップさせなければならないのであれば、それも必要な決断なのかもしれない。

さまざまな競技を観ることができるオリンピックにおいて、それらの競技の違いを楽しむなんてことをしてみるのもいい。河内一馬『競争闘争理論:サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?』では、スポーツを「競争」と「闘争」という2つのキーワードを用いて分析している。そしてそれを使うとこんなふうにスポーツを分類できる。例えば、①個人競争(短距離走、ゴルフ、フィギュアスケートなど)、②団体競争(陸上リレー、競泳リレーなど)、③個人闘争(ボクシング、レスリング、柔道など)、④団体闘争(サッカー、バスケ、ラグビーなど)、⑤間接的個人闘争(テニス、卓球など)、⑥間接的団体闘争(野球、バレーボールなど)という感じだ。そして、④においてだけ日本は世界のトップと渡り合えていない、と指摘する。なぜなら、特にサッカーというスポーツは、「闘争」に分類されるはずなのに、日本は「競争」してしまっているからだという。サッカーというものがどのようなスポーツであるのかを「競争闘争理論」という独自の理論によって明らかにしていく過程は、実にエキサイティングである。サッカー好きだけでなく、あらゆるスポーツ好きにおすすめできる本だ。また、今回、バスケ男子代表がフランス戦において、大逆転されるという展開があった。ラスト、4点リードしておきながら、河村勇輝がファウルを取られた場面だ。試合後には、「誤審なのではないか?」と写真が出回ったが、これも「競争」「闘争」というキーワードによって理解することができる。要するに、「競争」とは他者からの影響を受けず自らの能力を最大限に発揮できるスポーツ、一方で「闘争」とは他者に影響を与えることを許可されており邪魔されながら自らの能力を発揮しなければならないスポーツであるのだ。

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「闘争」のスポーツは自分の能力を最大限に発揮すれば良いものではない。相手がいて成り立つのであるから、その相互作用の影響を考えながらプレーする必要がある。ここにおける影響には、「演技」や「見せ方」も含まれるのであって、河村勇輝は、フランスの巧みな「影響」を受けてしまった。フランスは「闘争」であることをより深く理解していたのかもしれないのである。

サッカーにあまり興味のないひとは、W杯を優勝するほど強かった“なでしこジャパン”が、なぜ最近は弱いのかと率直な疑問を抱いているかもしれない。それも「競争闘争理論」によって説明がつくので、ぜひ本書を読んでほしい。海外の女子サッカーには闘争としてのサッカーを体現している選手が多くいる。その筆頭は2019年に女子バロンドールFIFA女子最優秀選手賞を受賞しているミーガン・ラピノーだろう(今回のオリンピックにおいて、彼女が観客席で応援している姿がカメラにキャッチされていた)。彼女の自伝、『ONE LIFE ミーガン・ラピノー自伝』もおすすめだ。彼女は、同性愛者であることをカミングアウトしており、自らLGBTの権利擁護活動にも積極的に参加している。これらのブランディングもまたある意味で「闘争」といえるものだ。

オリンピックや競技スポーツは、男子・女子という区分によって運営されていることがほとんどだ。しかし、そのセクシュアリティに内包されない性自認をもっている人はどのように競技スポーツとの接点を持つのかということについて考えを深めるのも重要である。今回、女子ボクシングにおいて、男性の染色体(DSD性分化疾患))をもった女子ボクサー、イマネ・ケリフ選手が、トランスジェンダーだと誤認され、世界中から誹謗中傷されたことが問題となった。

岡田桂・山口理恵子・稲葉佳菜子『スポーツとLGBTQ+シスジェンダー男性優位文化の周縁-』では、近代スポーツというものが男性中心的に発展し、男性の身体的資質のみを前提に形づくられ、それが有利に働くように制度化されてきたことを明らかにし、井谷聡子『〈体育会系女子〉のポリティクス: 身体・ジェンダーセクシュアリティ』はそのような近代スポーツのなかで、女性アスリートがどのように生きてきたのかを探っている。また、大会開催中に話題になった、諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』も読んでおきたい。競技スポーツにおけるジェンダーの課題としては、どこまで公平性を担保し、男子・女子という区分を乗り越えられるのかということについて考え続けることが重要になる。オリンピックというスポーツの祭典において、それはさらに求められるのだろう。

公平性という点において、その議論にもっとも挙げられるのはドーピングという行為だろう。しかしながら、ドーピングというものが公平性という概念にどれだけ影響を与えているのかを突き詰めて考えないことには、正しい批判とはなり得ないだろう。まずは、ミサ・ジャン=ノエル/ヌーヴェル・パスカル『ドーピングの哲学』やエイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』をおすすめしたい。また、昨年、ユヴェントスに所属するポール・ポグバがドーピング違反をしたとして活動禁止になった際に書いたエントリーも読むと何か掴めるかもしれない。

「ドーピング」を考える---ポール・ポグバの活動禁止に寄せて - KINOUNOKYOUkinounokyou.hatenablog.com

公平性という点でもうひとつ。スポーツクライミングの森秋彩選手が、154cmという身長のために、最初のホールドが高い位置に設定されていた第1課題で何度も助走をつけて壁へ登ってもホールドを掴めなかったという問題があった。果たしてこれが故意的に行われたのかはわからないけれど、世界各国が出場する平和の祭典において、西洋発祥のスポーツのルールをどこまで許容するのかは議論の余地があるだろう。柔道やボクシングに体重別が導入されているように、身長別も必要なのか。女子、男子という区分を乗り越えることは、競技スポーツにおいてできるのか。難しい議論は続けられるのだろう。

堀米悠斗が圧巻のステージを見せた東京オリンピック。そして、そのステージはパリオリンピックでも続くこととなった。堀米は、競技とストリートを両立することが難しい3年間だった、と終了後に語った。スケボーという文化において、もしかしたら一生懸命やること自体が敬遠される場合もある気がするのだけど、街中でムービーを撮影しスケボーに乗り、市政の人々にとっては迷惑者でありながら、その類いまれなるスペクタクルで最終的には観客を魅了もしてしまうその姿こそがスケボーという文化を形づくっているようにも思えてならない。スケボーの名著、イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市』はどうなっただろう。平岩壮悟さんが、今年の夏には晶文社から刊行予定だと言っていたのだけれど、続報がない。

ストリートという文脈においては、パリという美しい街並みを走り抜けるという点で、マラソンにもストリートを感じさせるものがあった。他の競技が世界共通のルールを徹底したスタジアムでプレーするなか、マラソンはオリンピックが開催される都市によって、走るコースが変わるのである。今回は、最も過酷な急勾配の坂がランナーの前に立ちはだかった。そして、それを乗り越えて、赤崎暁と鈴木優花が入賞した。しかしながら、右大腿骨疲労骨折のため欠場することになった前田穂南がその坂をどう登ったかは見たかったのも事実である。将来、前田穂南が自伝を出すことがあれば、この時のことについて振り返って欲しいものだ。今はまだ何もいうことができないだろう。

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オリンピックを見ていて思うことは、やはりアスリートは市井の人々のそれとは根本的に異なるということである。努力では乗り越えられない、何か天性の身体感がある。このエントリーの最後は、蓮實重彦が『スポーツ批評宣言-あるいは運動の擁護-』という本の中で語っているものを引用して終わります。

スポーツに愛されていない人が、スポーツが好きだからというだけの理由で必死に演じてみせる身振りは、ほとんどの場合、目を蔽わんばかりに醜い。アマチュアであることも、それを許容する条件とは到底いえないでしょう。その醜さを何とか克服しようと必死に練習をくりかえせば、誰でも人並みの技術ぐらいは身につけることができる。だが、それでもスポーツに愛された人の演じる身振りの美しさには永遠にかなわないのです。[・・・]理にかなった練習によってすぐれた選手が誕生しはする。だが、それは、意志の問題でもなければ、精神の問題でもありません。スポーツに愛されていながらもそのことに無自覚だった者が、何かのきっかけでその愛に目覚め、あるとき優れたスポーツ選手へと「化ける」だけなのです。

蓮見重彦『齟齬の誘惑』219-220頁

・フィル・ナイト『SHOE DOG(シュードッグ)―靴にすべてを。』
・ニコラス・スミス『スニーカーの文化史:いかにスニーカーはポップカルチャーのアイコンとなったか』
・ジュールズ・ボイコフ『オリンピック反対する側の論理-東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』
・河内一馬『競争闘争理論:サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?』
ミーガン・ラピノーだろう。『ONE LIFE ミーガン・ラピノー自伝』
・『スポーツとLGBTQ+ -シスジェンダー男性優位文化の周縁-』
・井谷聡子『〈体育会系女子〉のポリティクス: 身体・ジェンダーセクシュアリティ
・諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』
・ミサ・ジャン=ノエル/ヌーヴェル・パスカル『ドーピングの哲学』
・エイプリル・ヘニング/ポール・ディメオ『ドーピングの歴史』
・イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市』
蓮實重彦『スポーツ批評宣言-あるいは運動の擁護-』

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f:id:nayo422:20240426235014j:image先攻は野球の日(8月9日)ということでメンバー全員がベースボールシャツを纏ったGalileo Galileiベボベの『ドラマチック』カヴァー、そして、『夏空』という観客が求めていたものをいきなり披露してくれる。『ドラマチック』はアニメサイズver.で『おおきく振りかぶって』オープニング、そしてライブ開幕と呼応する形になっていた。『おお振り』大好き人間として行かなければ…!と参戦したので、いきなり涙である。中学生の頃、ANIMAXで『おお振り』の再放送を観ていた暑い夏の日を思い出す。

グッドラック 手書きの地図が
滲んで読めなくなっても
迷いのないこの気持ちが
いつでも振り返る勇気くれる
あの日 夏の青い空 首筋の汗と
吐き捨てた不満や不安と
そして希望の数々
街に吹く乾いた風 大好きな風景

Galileo Galilei『夏空』

5時間後には学校にいる

Galileo Galilei『バナナフィッシュの浜辺と黒い虹』

家と学校の往復(もしかしたら家と部活の往復と言ったほうが近いのかもしれない)。そこからもう10年以上経っているのだ。悲しいのか悲しくないのか。とにかく時の流れが速くなっていることだけが事実だ。そして、それはどんどん加速していくのだろう。ライブ前に行われた決起集会では、2組のデビュー当時のことなどが語られている。2組にとって初の対バンというのが不思議でしょうがないのだけど、ベボベは3人になったり、Galileo Galileiは活動終了を経験したりと今だからこその運命的な意味があるのだろう。もしかしたら2組にとっても、あっという間に時間が経ってしまったのもあるのかもしれない。

ライブナタリー “Base Ball Bear × Galileo Galilei”特集|現在進行形の2組が対バンに向けて決起集会 - 音楽ナタリー 特集・インタビューnatalie.mu

おお振り』がコミュニケーションの話であったように、Galileo Galileiベボベの決起集会でもコミュニケーションをテーマに話が展開されていく。2組ともというか、小出裕介と尾崎雄貴なのだけど、2人は人間嫌いなところから、だんだん人と関わるのが好きになってきたというようなことも話されている。

友達と話すよ 人は苦手だけど

『夏空』

ちなみに、ひぐちアサおお振り』は今も連載中で、最新37巻。しかしながらストーリーの進捗は実にスローであって、ようやく1年経ってみんなが2年生になったという感じなので、2組がOPを担当していたアニメ版から半年ちょっとしか経過していないことになる。バンドの時間経過とアニメの進展の差が奇妙な感じでもあるのだ…笑。ライブのMCトークは当然、『閃光ライオット』第1回(2008)の話になる。それももう15年以上前のことだ。審査員にはBase Ball Bearがいた。当時10代のとき、『SCHOOL OF LOCK!』に電話をかけて、小出裕介と話す機会がありものすごく緊張したと話す尾崎雄貴。でも、小出裕介はそんなこと覚えていなくて、少しガッカリした、と。まあ、でもそんなことを言いながら、こいちゃんはきっと覚えているのだろう、とも思う。

後攻のBase Ball Bearは、『17才』でスタート。「懐古厨のみなさんよろしくどうぞ」などとMCトークで煽っていたものの、最新アルバム曲を多く入れ込んでいたGalileo Galileiとは違って、『short hair』『真夏の条件』『BREEEEZE GIRL』さらに『管制塔』カヴァーなど、それらしいセットリストを組んできているのがベボベ(小出裕介)だなあと思う(まあ、いつもの楽曲群ではあるけれど)。アンコールに登場したベボベは、『ドラマチック』を披露。

ゆずれないもの見つけても
気付いたら目を逸らしてた
Ah,BOY MEETS GIRL OR BOY MEETS YUME
閉ざされたドアが開いていく
ほら、いま、夏がスタート

『ドラマチック』

決起集会にて「僕らはずっと先に進み続けているし、今が一番いいわけでしょ? 今回のイベントのお客さんの中には『ひさしぶりに観ます』という人もいらっしゃるかもしれないけど、『懐かしい』という気持ちを満足させながら、同時に殴りたい」と話していた、こいちゃん。最後はオープニング曲を配置して、物語をスタートさせる。Base Ball Bearが3人の音を鳴らし出したり、Galileo Galileiが2度目のスタートを決断したりと、物語はきっと何度でも始めることができるのだ。f:id:nayo422:20240818212525j:image

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f:id:nayo422:20240714193054j:imageニューヨーク単独ライブ『そろそろ、』東京公演の最終日に駆けつけた7月7日(日)。帰りの電車でニュースを開くと、東京都知事選挙の結果が表示された。私はなぜかナンニ・モレッティの映画を思い浮かべた。『ナンニ・モレッティのエイプリル』(1998)というイタリア映画は、「メディア王」ベルルスコーニ政権が誕生する90年代を描いている。カネと人脈を用いて成り上がり、テレビ・新聞・出版を支配し、ついにはACミランをも手中に収めた男が、ベルルスコーニである。揺れ動く政治状況もあってか、ナンニはミュージカル映画の撮影を中止して、政治ドキュメンタリーを制作しようかと考え始める。ところが、妻のお腹の中には赤ちゃんがいて、出産もまもなく始まるだろう。さまざまなことに気を取られていると、また選挙の時期がやってくる。日々の生活のあれやこれやで、映画制作のこと、ましてや政治のことなんて考えてられるわけがない。子どもが生まれ、生活は続く。ナンニは、国会議員を2年務めた作家にインタビューしたり、アルバニア移民について取材したりする。移民にまつわる問題は2024年の今でもイタリアで継続中だ。2022年には極右政党から出馬したメローニがイタリアにおける初の女性首相として就任している。しかし、どうやらメローニはその巧みな手腕で中道右派とも協調関係を形作りながら、EUでも存在感を発揮しているらしい。極右という危険な印象は今のところ鳴りを潜めているようである。話が逸れた。今回の都知事選挙はまあまあ大きい話題だったのではないかと思うのだけど、日本には果たしてナンニのように、生活と密接に結びついた映像を撮影するひとはいるのだろうか、と。そんなことをなんとなく電車のなかで考えたのだった。政治は私たちの生活と密接に結びついている。しかし、その生活のために政治について考えられなくなってくる。画面のなかで右往左往するナンニ・モレッティは私たちの姿かもしれない。

三宅夏帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本は、そのタイトルが示す通り、労働によって読書ができなくなってしまう問題を、明治、大正時代まで遡って分析している。そして、読書ができないという問題は現代に限ったことではないことがわかってくるのだ。大正時代から「教養」はエリートのためのものだった。そう、労働者階級がエリートに近づこうとするために、読書は求められたのだ。

私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正〜昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によってつくられたものだった。労働者と新中間層の階層が異なる時代にあってはじめて「修養」と「教養」の差異は意味をなす。だとすれば、労働者と新中間層階級の格差があってはじめて、「教養」は「労働」と距離を取ることができるのだ。p80

『花束みたいな恋をした』(2021年)の麦くんは、イラストレーターの仕事を諦め、就職して、「パズドラ」はできても「読書」はできない、という日々を送るのだった。でも、そんな麦くんも自己啓発書は読むことができていた。それはなぜか。自己啓発書は、読書に必要不可欠なノイズを除去するからだと三宅夏帆は分析する(牧野智和『日常に侵入する自己啓発--生き方・手帳術・片づけ』)。一方、読書は労働のノイズになるのだ。読書なんてしていたら、労働ができなくなってしまう。労働ができなくなってしまったら、生活が破綻してしまう。日々の生活のあれやこれやで、映画制作のこと、ましてや政治のことなんて考えてられるわけがない。ナンニ・モレッティのように、生活が何よりも優先される時期がある。

しかし、映画を観ればわかる通り、ナンニ・モレッティもいつまでと慌てふためいていたわけではなかった。やがて映画制作は開始し、政治について想いを巡らせるようになったのだった。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』においてもそこについて言及されている。

麦だって、働きながらイラストを描けばよかったのに、と私は今も思っている。もちろん社会人い1、2年目は無理かもしれない。忙しいかもしれない。しかし仕事に慣れて数年経って、きっとイラストり再開するタイミングができたはずだ。それのなにが悪いのだろう。イラストレーターになるためには、覚悟を持って全身全霊で頑張らなくてはいけない、なんて誰が決めたのだろう。p260

このことは、私も過去のエントリーで書いたことでもある。交換可能性によって常な不安感に苛まれている私たちにおいて、であるかこそ希望はあるのだ、と。

麦と絹も勿論私たちも、世間の内にいるわけであるから、どうしようにも適度にバランスを取ることを強いられる。適度にバランスを取るということは、どれにも同じずつだけ触れるということではなくって、ときには仕事の割合が大きくなったり、ときには趣味の割合が大きくなったり、ときに恋人の割合が大きくなったりなどなどするわけである。そういう割合を調節するために少しずつ持っているものを別のものと入れ替えていく。麦はイラストを描く仕事から就職、絹と共有していたものから『人生の勝算』『パズドラ』へと入れ替え、絹もまたフリーター、就職、転職、そしてそのときに応じた様々なポップカルチャーを入れ替えながらバランスを取っていく。今までは同じ割合であった部分が徐々にズレ始め、最も大きな部分が2人の間で変わってくのだ。

坂元裕二×土井雄泰『花束みたいな恋をした』 - KINOUNOKYOUkinounokyou.hatenablog.com

そして、もっと軽やかに持っているものを入れ替えたりするには、「半身」で労働というものに向き合うことが重要なのではないかと、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、ビョンチョル・ハン『疲労社会』やジョナサン・マレシック『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか: バーンアウト文化を終わらせるためにできること』を援用しながら、処方箋を与えるのだ。私たちは、社会の構造によって、剰余価値をたえず生産し続けようとしてしまう。そして、それが自由意志だと思っているが、そうではないのだ、と。また、自由であるがゆえに、その意思決定の重みが自己責任的に付与されてしまうのだ、と。

だからこそ、あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが前線の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働くこうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。p265

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)

ナンニ・モレッティのエイプリル』のラスト、ナンニ・モレッティは、バイクを走らせ、そのままミュージカル映画の撮影を再開し、踊りながら、物語は閉じられていく。映画の撮影なのか、彼の日常が映画として映し出されているのか、どちらなのかわからない、いや、映画でもあり、生活でもあるのだ。彼の映画はまさに半身を体現しているように思う。今年のニューヨーク単独ライブ『そろそろ、』にはあり得たかもしれないもう一つの世界線(人生)を描き出す漫才とコントがあった。しかしながら、私たちの人生はひとつでしか考えられない。だからこそ、今日の社会について、そして、なぜ働いていると本が読めなくなるのか、考えなければならない。

半身社会とは、複雑で、面倒で、しかし誰もがバーンアウトせずに、誰もがドロップアウトせずに済む社会ことである。まだ、絵空事だが、私はあなたと、そういう社会を一歩ずつ、作っていきたい。p266