だうなあ日記 (original) (raw)

トランプ政権最後の連邦議会襲撃事件は、あれはもう内戦まで言わなくとも、暴動であるには間違いなく、歴史家によっては清教徒革命を暴動とも呼ぶわけなので、アメリカで内戦が起こる可能性は十分に感じさせた。
なので、もし今アメリカで内戦が起きたらって発想は、連邦議会襲撃を経てなおトランプを大統領候補に擁立する今のアメリカではヒリヒリする現実感のある発想だと思う。
もちろんテーマがあまりにもホットすぎて上手くいかない可能性もあった。現実が虚構の斜め上をいくかもしれない。選挙戦に2度まで暗殺未遂の対象になった大統領候補が歴史上いたんだろうか。映画のスタッフは肝を冷やしたのではないか。
それに加えて、製作の姿勢が政治的に物申したい気持ちに傾くと、出オチだけで白けたことになりがち。
しかし、そこはさすがハリウッドはエンタメを信じてる、というか、これだけおいしいシチュエーションを手にしたからには、何はともあれ面白い脚本を書いてしまう。
とにかく脚本がすごく上手い。内戦がもう終結に向かう数日に大統領の取材をしようとする戦場カメラマンを主人公に設定している。そのおかげで内戦の背景とか大義とかそういうことは全然描かずに進んでいける。
この戦場カメラマンの描写がリアルで、『マウリポリの20日間』を思い出した。もしかしたら参考にしたかもと思うくらい。まあでもUSAの場合、そんな映像のストックには事欠かないのだろう。
プロットの骨格は、ルーキーとベテランの2人の女性カメラマンの世代交代劇になっていて、まるで、舞台をアメリカ内戦に設定しなくてもよかったと思えるくらいだが、そういう太い縦糸を設えたおかげで、内戦の背景が簡素な描写で浮かび上がってくる。
『憐れみの3章』のところでも触れた予告編の印象的なジェシー・プレモンスの演技は、本編で見ると更に力強い。『プラトーン』でウィレム・デフォーが死ぬシーンくらいのインパクトがある。映画史に残るワンシーンだと思う。
陥落間近のホワイトハウスに向かって記者たちがクルマを走らせているわけだが、記者たちに、ではなく、その国に何が起きているのかは、そこまでは正直言ってぼんやりしている。それが、あのシーンで一気にわかる。
あのシーンからストーリーが一気に加速する。そのギアの上げ方がハンパない。
実は、ジェシー・プレモンスはあの役をやるはずじゃなかったそうだ。役者がドタキャンしたので、主役のリーを演じたキルステン・ダンストが急遽、旦那のジェシーに電話したそうだ。
撮影自体はシンプルなシーンだが、役者のメンタルにかかる負担は相当なものだったようで、リーの同僚の記者ジョエルを演じたワグネル・モラウは、撮影後その場に泣き崩れてしまったそうだ。
そして、ラスト。およそアメリカ映画でこんなラストがありうるのかと震撼した。この映画が作られたこと自体がひとつの事件かもしれない。
エクス・マキナ』『クレイジー・リッチ』以来、久しぶりにソノヤ・ミズノを観た。と思ったら、アレックス・ガーランド監督は『エクス・マキナ』の監督だった。
そしてやっぱりイギリス人だからこの脚本が書けるのではないかと思う。

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マリウポリ 7日間の記録(字幕版)

川口ゆりってフリーのアナウンサーが
「ご事情あるなら本当にごめんなさいなんだけど、夏 場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手 すぎる。」
などとXにポストして炎上して所属事務所との契約を解除された。
ところが、吉田豪がこのニュースを取り上げたYouTubeで「男は臭い」と、話題にしていたフリーアナウンサーでさえそこまでは言ってないのに、発言して炎上した気配。SNSをしないので、しかと炎上したかどうかは詳らかにしないが、炎上しようがしまいが、藪蛇というか、とにかくバカなことを言ったものだ。
いうまでもなく、この世のほとんどのものに匂いがあり、それを臭いと感じるか、心地よいと感じるかは、まったく個人の主観と環境による。
例えば、私は納豆の匂いに食欲をそそられるだけだが、誰かにとっては臭いのだろう。肉食がまだ普及しなかった明治の小説など読むと、客が牛鍋を始めると、その家のお上さんが家じゅうの障子を開けて団扇でパタパタしてまわるなんて描写がある。四つ足の肉の匂いなど臭くてたまらないってわけ。おそらく今の日本人はほとんど共感しないと思うのだ。
また、幼い頃から祖父母と同居している人は、加齢臭を不快に思わないという報告もあった。
「男が臭い」の「男」の部分に「韓国人」とか「ユダヤ人」とかの言葉が入っていたら、これがどれくらいの酷い差別かわかるはずだ。そして、過去には現にそういう発言は罷り通ってたのである。なんでこれが差別発言でないと思えるのかむしろ不思議だ。

自分の主観が正義で、その他は誤りだと信じて疑わない人間が、ジャーナリズムの職場に居られないのは当然だ。そういうジャーナリストは、半世紀前ならナチスの尻馬に乗って「ユダヤ人は臭い」と言って疑わなかったろう。自分の主観がどういう環境から生まれてきたのか一歩下がって考えてみることができない。そりゃ契約解除はフツーだろう。
コメディアンでももうちょっと言動に慎重だろう。なんか、コメディアンよりジャーナリストや政治家の方が処分が軽い気がする。

toyokeizai.net

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フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリーにはずっと魅了され続けてきたのたけれど、今回のは今までの私のフレデリック・ワイズマン経験とはちょっと感覚が違っていた。
舞台がフランスってこともあるかもしれないが、それよりも「活け締め」なんて言葉が全くわからないフランス語の中に突然出てきたりする、その日本に近い感じに居心地が悪く感じてしまう。面映いというのか。
和食がユネスコ無形文化遺産なんかに登録された時も「またまた」っていうか、眉唾っていうか、政治的な何かでしょって思ってたけど、フレデリック・ワイズマンにまで出てくるとさすがにホントなんだなって思わざるえない。
ようやくかよって言われるかもしれない。思い返してみると、レストランに関する映画もかなり見てきている。たとえば『ノーマ東京 世界一のレストランが日本にやって来た』、『TSUKIJI WONDER LAND』、『シューマンズ・バー・ブック』など。
日本で公開された映画なんだからかもしれないが、世界のベストレストラン50のベスト1に4度も選出されたノーマが本店を一年閉店してまで東京に出店したり、バーテンダーのバイブルと言われる『シューマンズ・バー・ブック』を書いたチャールズ・シューマンが日本式のバーを開店したり、日本の食文化の流行は否定しようがない。
と、この調子で続けていると「日本すごいぞ」みたいな話になってしまうが、日本の食文化ってそれは近代以前の日本の文化であって、日本の食文化の再興はそのまま日本の近代の否定なのである。
しかし、日本の近代はそのまま日本の西欧化だったわけだから、世界的な日本の食文化の受容は、日本の近代の否定である以上に、世界全体での「近代の超克」への模索が続いているということになるだろう。
以前、中村光夫の「「近代」への疑惑」の一節を引用した。

これまで我国において「近代的」といふ言葉は、大体「西洋的」といふのと同じ意味に用ひられてきた。
そしてこの曖昧な社会通念が、なほ僕等の意識を根強く支配してゐるのは、それが大体次のような二つの事実を現実の根拠とするであらう。
そのひとつは我国においては「近代的」と見られる文化現象はすべて西洋からの移入品であつたといふことであり、いまひとつは僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつたといふことである。

日本すごいぞ」派の人たちはその「俺が俺が」の発想自体がすでに日本的でないというパラドクスに気づくべきかと。そうでないと、王子様がシンデレラに向けている熱い視線を自分に向けられていると勘違いしたシンデレラのお姉さんたちみたいな、なんか恥ずかしい感じになる気がする。
そういうわけで、この映画を見ていると、小林秀雄たちの「近代の超克」を批判した加藤周一のようなヘンテコな気分に陥ってしまう。
フレデリック・ワイズマンの過去作『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』、『ニューヨーク公立図書館 エクス・リブリス Ex Libris: The New York Public Library』、『ボストン市庁舎』は、私たちがなかなか獲得できない「公共」の意識を教えてくれる。
まさにこういう部分をスキップした日本の近代をさして「近代の超克」を言う欺瞞を加藤周一は批判したわけだった。

『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』は、日本の食文化に学びながら、土地に根ざした農業や放牧の取り組みもまた描いている。
さっきの中村光夫とおなじころ、来日していたシャルロット・ペリアンが柳宗理

・・・もしヨーロッパでできたものをあなたがたがご覧になったとき、その内容をかえりみずに形だけをとったとしたらそれは根本的な誤りだと思います。
日本はどうしてヨーロッパの国々からその国の純粋さと簡明さを誇る美しい伝統をまったく失ったものばかり取り入れるのでしょうか。

と語っていたそうだ。

彼らは日本の真似をしているわけではなく、日本の食文化に学んで「その国の純粋さと簡明さを誇る美しい伝統」を取り戻そうとしているのだと思う。

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ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ(字幕版)

ボストン市庁舎(字幕版)

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(字幕版)

築地ワンダーランド

「ナチじゃねえか」ってフツーに日常会話で使われてきた文脈からすれば、ネタニヤフは「ナチじゃねえかこんな奴」って言われるだろう、そりや。
ナチのやったことを知って「ひでぇなこいつら」と思う自然な感情は「イスラエルってひでぇ国だな」と思うだろう、そりゃ。

reishiva.theletter.jp

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『哀れなるものたち』のヒットを受けて、ヨルゴス・ランティモス監督がふたたびエマ・ストーンウィレム・デフォー、マーガレット・クアリーと組んだオムニバス。
3章ともキャストは共通しているけど、演じているキャラクターは違う。同じ座組で違うストーリーを演じるわけで、たとえば『ごっつええ感じ』の週替わりのコントに似ている。
3章からなるオムニバスっていうと濱口竜介監督の『偶然と想像』を連想してしまうわけだが、あれは、それぞれのエピソードを違うキャストで演じてますわな。それと違って3つのエピソードを同じキャストで演じる時点で、観客にはすでにメタ的な視点を与えられている。3つのエピソードはリアリティよりも寓話性がずっと強く感じられるようになる。
役者たちがうまければうまいほど、そのリアリティは悪夢に近くなる。
三谷幸喜の『スオミの話をしよう』は、酷評、もしくは賛否両論がかまびすしいようだが、あれも長澤まさみと宮澤エマが複数のキャラクターを演じるのがミソなわけだから、いっそのことこんな風にすればよかったのかなとも思った。
メタ的な非現実感と局所的な現実感の共鳴(まあそれこそ寓意的ってことなのかもしれないが)が、夢で見た一場面のような奇妙さを醸し出している。
キャストの中であえて言うなら、ジェシー・プレモンスが主役っぽく見える。具体的に言えば、1話目と2話目の主役は彼。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』で、もともとはディカプリオがやるはずだったFBIの捜査官をやった人。もうすぐ公開される『シビル・ウォー アメリカ最後の日』でも重要な役みたい。トランプ時代のアメリカ男性を想像してみるとまさにこの人の顔が思い浮かぶ、そういう怖さがある。予告編で見た人もいると思うけど
「私たちはアメリカ人だ、そうだろ?」
という人に
「What kind of American are you ?」
っていう人。
1〜3章まで出ずっぱりだけど、特に怖いのは2章目。海難事故で妻(エマ・ストーン)が行方不明なっている警察官。エマ・ストーンとは似ても似つかない浮浪者(というか適切な言葉が出てこないので)にまで妻の面影を追い求めている。
というか行方不明だった妻が奇跡の生還を果たした時に「いや、エマ・ストーンだったんかい?!」ってなる。「似ても似つかんがな」。
しかし、再開した妻に対して「こいつ偽者じゃないのか?」って疑念が育ち始める。
そして、偽者の正体を暴こうとさまざまな無理難題を要求し始めるのだが、観客の予想を裏切って、結末では、この男の妄想の方が勝利する。
それで気がつくんだけど、妄想が妄想であり続けるかぎり、妄想が敗れることはないんだという当たり前のことに、妄想が敗れて正気に帰るなんてことは、その辺のサラリーマンが仏の悟りを開くくらい絶望的だと思い知らされる。
3章目は、ある意味では(kinds of)「救い」の話。変なカルトが探している救い主が、どうやら見つかるって話。聖書のラザロみたいに死者を甦らせる力があるらしい。のに、今は普通に獣医をしてる。
これも、観客のの予想を裏切り、ホントに死者を甦らせるのだが、それが1話目に死んだ奴。
書いたとおり、3章はそれぞれ独立してるんだけど、1話目で死んだ奴が3話目で生きかえるって話だともとれる。そう言われると、3章ともにRMFというこの男の名前が章のタイトルになっていた。だから、ほんとの主人公はこいつかも。洒落たオチですわ。
ちなみにRMFを演じているヨルゴス・ステファナコスはヨルゴス・ランティモス監督の旧友だそうです。
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ティム・バートン監督の新作『ビートルジュース ビートルジュース』をTOHOシネマズ海老名で観たんだけど、いちばん大きい1番スクリーンでやってるのにガラガラ。ティム・バートンに失礼くらい。まあ、快適でよかったですけどね。
1988年以来の第2作とあって、インターバルが空きすぎだったか。にしてもガラガラ。面白いですけどね。ギャグの「間」が素晴らしい。セリフがわからなくても、たぶん「間」だけで笑える。
主人公のビートルジュースのルックスは今でも全然古びてない。ダイヤモンドの野澤輸出はこれに影響を受けたのは間違いないだろう。

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2つともイギリスの映画。
特に、『ポライト・ソサエティ』の方はイギリスだと思わなかった。

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イギリスだと思わないでしょ?。インドのアクションって、むくつけき男性が主人公なのが多いのに、女性が主役のアクションは珍しいなと、そんなふうに思って見に行ったのに、インドじゃなくイギリス映画だった衝撃。しかもこの彼女らはパキスタン系イギリス人で、インドのかけらもない。
見始めてからしばらくイギリス、しかも、ロンドンだと気が付かなかった(あれ?、今のビッグベンじゃなかった?)。
イギリスってすごいよな。前の首相はインド系だし、メーガン妃は半分アフリカ系だし、何だかんだ言っても、こういう国から民主主義って生まれるんだろうな。

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映画はコメディなんだけど、それにしても混沌。本国では大ゴケしたらしい。それも無理もない、というのは、単に、敵役のキャラクターに説得力がなさすぎ。マザコン男のマザコンぶりが際立ってない。ので、そんな悪い人に見えない。母親のクローンを作るために強い子宮が必要(?)って論理が科学的でないだけでなく、フィクションとしても意味がわからん。いくらコメディでも『サユリ』くらいの説得力は欲しい。
でも、「ポライト・ソサエティ」(「上品な社会」って意味なのかな?)ってタイトルで、インドっぽい美女ふたりが鼻血垂らしつつアクションしてたら、その振り幅で見に行っちゃいます。なので、もうちょいプロットをちゃんとしてくれたらな。ビートルズの『HELP!』を見倣って欲しいわ。
『HOW TO HAVE SEX』もイギリス映画。
ネオテニー」って日本社会を表現した高橋龍太郎は慧眼だと思う。日本人は子供のまま大人になる。つまり、社会に対して責任感のある大人がいない。この原因は分かりやすく、昭和の軍部が国家神道という捏造宗教のもとに、大和魂という妄想日本のために、今現に目の前にある日本、そして、何千年も前から足元にあり続けている日本をぐっちゃぐちゃにしてしまったので、「日本のために」とかいうやつがいると、唾を吐きかけたくなるのだ。
そういう背景があるので『侍タイムスリッパー』みたいに、ほんとうに「日本のため」と思ってた侍が現代に現れるとほんとうに感動してしまう。あの主人公が会津藩士なのは偶然じゃない。
そういうわけで、ネオテニー化現象がまだそこまでじゃなく、大人がちゃんと社会のために責任を持っている戦勝国の社会では、子どもがちゃんと青春できる。『HOW TO HAVE SEX』は、そういう国のティーンの女の子たちの映画。
これ見て胸が締め付けられるとか言ってる日本の女の感動は、また別の文脈。要するに、万国共通に、処女はブーたれるって話。
最初から、男に跨ったって猛者の話も聞いたことがあるけど、だいたいそうはいかなくて、最初は受け身にならざるえないから、さっさと処女は捨てたいものの、1回目は大概いやな思い出になる。
『HOW TO HAVE SEX』の主人公も、お決まりのスプリング・ブレイクで、イケイケのヤリチンとそうなっちゃうんだけど、帰りの飛行機に乗る頃には「実は、レイプされた」みたいな話になってる。
いやいやいや、いちからの顛末を、映画で見てるこっちからすると、あんた好きで付いていったじゃん?!ってなるけど、本人の気持ちの中ではレイプまがいなんだろうってのもよくわかる。
でも、あっちのイケメンの側に立つとさ、ちゃんと同意もとったし、何よりお決まりのスプリング・ブレイクなんだしさ、そこにいるみんながもうそこにいる時点でそれ目的なんだしさ、なに文句言ってんの?ってことだと思う。
ずっとそれで通ってきたし、そういう「失敗」とか「あやまち」とかが「青春」だったわけだけど、そういう「青春のあやまち」も許さない風潮になったみたいね。
特に、日本は「ネオテニー」だから、大人が子供のままなので、青春ってイニシエーションを許容しない。
ランジャタイの伊藤の件には驚いた。身分証で年齢確認を取ってたんだけど、その身分証が偽造だったって、それで何で伊藤が悪いのか全くわからない。
フェミニズムが暴走してる。
TBSのワシントン支局長の山口敬之がレイプした時に、マスコミが批判したか?。あの時は、山口敬之が安倍晋三のコネで警察を動かして、現場の警官が取っていた逮捕状をもみ消した。そんな重大事件を批判せずに、こんなランジャタイの件では活動中止になるって、つまり、フェミニズムは権力に逆らう気はないってことなのだ。
権力者がレイプした時は批判しないが、権力がない人間がレイプじゃなく同意のもとでセックスしたら、はい、身分証が偽造でした、アウト!ってのがフェミニズムなんだ。
現状のフェミニストってのは、弱者の立場を利用して手に入れた権力を絶対手放さないぞって思想以外の何者でもないらしい。
つまりはフェミニストって強い男(権力者)に甘えたいってのが本音みたい。男も女も日本人は変われないってことかな。

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