人間は努力しないといけないのだろうか? (original) (raw)
努力できない って どうよ?
この世界には一定数の努力できない人がいる… らしい。
らしいというのは、私の周りにはそういう人がいないので、
リアルな実感が持てないのだが、
ネットのブログを読むとそれが原因で苦しんでいる人がいる。
あぁ、実に様々な人がいるんだなぁと思うのだ。
私はどちらかというと努力する方なのだが、
そういう人の気持ちがなんとなくわかる。
なんとなくわかるが、別に気の毒とは思わない。
ただ、そういう人もいるんだなぁと思うだけなのだ。
♥♥ 努力しないといけないのだろうか? ♥♥
これはもう好き好きとしか言いようがない♪
努力したければすれば良し、面倒ならやらなければいいだけだ。
他人がとやかく言う筋合いのものではないと思う。
問題は、努力する人は偉い! という空気なのだ。
努力家は好きで努力しているので、別に偉くはないのだが、
世間の人はそうは思わないらしい。
「努力家ですってねぇ」というのは、明らかに褒め言葉である。
怠け者は別として、だから努力できない人は肩身がせまい。
これはちょっと可哀想だと思う。
何度も書いているが、
努力と才能はワンセットである。
才能があるのに努力しない人はいない。
才能ある人は例外なく努力家なのは間違いない。
ある才能に恵まれた人は、そのことをやるのが楽しいのだ。
絵を描くにせよ、文章を書くにせよ、会社の経営にせよ、
それ自体が楽しいから長く続けられる。
努力というより、それ自体と関わることにワクワクするのだ。
だからいつまでも続けているのだけど、他人はこう言う。
『ご精が出ますねぇ~ よく続きますねぇ~」と。
別に精を出したくて出してはいないし、
長く続けたいなんてあまり考えない。
楽しいから続けていたら、いつの間にか何十年も経っていただけだが、
それだけで尊敬されたりするので、とても歯がゆい♪
例えば、料理が好きな人は頼まれなくても日々精進している。
料理が上手くなりたくて仕方ないからだろう。
頼まれもしないのに料理本を買って研究する。
他人に「君の料理は美味しい!」と言われても満足しない。
もっと美味しい料理ができないかと工夫する。
この工夫が『努力』なのだが、本人はそうは思わない。
ただ料理が上手くなりたい一心なのだ。
まさに『一所懸命』である。
とにかく好きになった一つの場所で懸命に頑張る。
だから努力は自然にできることなのだ。
ところが努力できない人たちには多分この自然さがないのだろう。
どこか無理がある。やらねばならないという気負いがある。
だから苦痛で続かない。
この悪循環ではないだろうか?
努力できないならしない方がいい。
無理に努力しても挫折を繰り返し、自信をなくすだけだ。
努力は人間の義務ではなく、本人にとって必要かどうかが基準だ。
だから不必要な努力ならしない方がマシ。
私も不必要な努力はしない、と言うか、そもそもできない。
♥♥ 努力するには根拠が必要です ♥♥
まず、なぜ自分は努力するのかを考える。
努力しないと笑われるから?
努力しなくても笑われるときは笑われます。
努力すれば立派な人間になれるから?
ウソです。努力の9割は報われません。
残りの1割は参考になりません。
ご立派と賞賛されるヤ~ツに、ろくな奴はいません。
親から努力しろ! と言われて育ったから?
そう言う親が努力してどうなったかよく見てください。
成功したければ努力しなければならないから?
そもそも成功に興味のないヤ~ツがいる。
未だに『勝った』の『負けた』のと世間は騒がしいが、
この世には、勝ち負けにこだわらない人たちがいる、
ということを忘れてはいけない。
結果が出ないのは、 努力が足りないからだ!と上司に怒られた?
怒りたい上司は怒らせておけばいい。
部下のダメさ加減と努力の有無の相関関係ははっきりしない。
この世界には『運』というものもある。
運も実力のうちと言うのはウソだ。
運と実力は関係ない。
不運な実力者が存在しなければ、
『埋もれた才能』という言葉は生まれない。
とまぁ、いくらでも書けるのでもうやめますが、
努力するかどうかは本人次第。自分で決めることです。
どうしてもやりたいことがあって、
それを実現するために何かを身につけなければならない。
そういう必要性があるかどうかが基準です。
それが『努力する根拠』になる。
これがなければ何もやる気が起きないはずです。
だから闇雲に頑張っても無駄。結果なんか出ないでしょう。
絵が上手くなりたい!
駆けっこが早くなりたい!
逆立ちの世界チャンピオンになりたい!
何でもいいから『そうなりたい根拠』がまず必要です。
この根拠は本気でなければなりません。
「出来るならそうなりたい」では不十分。
「出来なくてもそうなるんだ!」と思えなければニセモノです。
私は下積み時代、出版社への売り込みで、
編集者にマンガ風の絵を見せると必ずこう言われました。
「こういう末端の絵を描いていては、プロになれないよ」と。
でも私はがんばって末端の絵を描いてプロになりました!
『そうなりたい根拠』を他人に委ねたら負けです。
そうなりたいという気持ちは自分だけのものですから。
ところが、何が何でもそうなりたいと思えることはそうはありません。
だから多くの人には、努力する根拠自体が少ないはずです。
それが普通であるという認識がまず必要です。
努力は美徳ではなく、今の自分に必要かどうかです。
ですから、いくら考えても必要なければ努力しない方がいい。
世間体に捕らわれて努力しても結果は出ないはずです。
こういうことがありました。
仕事でどうしても結果を出したいのに出ない。
それで何年も苦しんだけど、どうやっても結果は出なかった。
もう必死なんですけどね、ことごとく惨敗なんです。
なぜなのだろうと考え続けた結果得た答えは、
自分には必要のないものだということがわかりました。
その仕事で結果など出さなくてよかった。
つまり、錯覚だったんです。
今思うと、何であんなに結果を求めたんだろう。
無理してたとしか思えない。
今はその仕事の結果を欲しいとは思わない。
あればあったで邪魔にはならないだろうけど、なくても困らない。
そういうものを必要だと思い込んだ錯覚でした。
人が欲しがると欲しくなることがあるけど、
それが本当に欲しいものかどうかじっくり考えてみる必要がある。
そうすると意外に必要なものは少ないと気づくはずです。
自分は本当に努力したいのか?
ということを真剣に考えてください。
YESなら努力する。NOなら努力は無意味です。
努力する人は偉く、そうでない人はダメという価値基準がある。
誰が決めたのか知らないけど、昔からそうなっている。
努力するかどうかは、その人に必要性があるかどうかです。
昔からそうなっているからではありません。
ところがお勤めをしてると結果を求められる。
お給料をもらうのだから当然ですが、これには温度差があって、
あまり出世したくない人には給料アップは魅力がない。
食えればいいという御仁には、結果を出すより、
日々安泰にやり過ごす事の方が大事です。
会社的には、こういう御仁は怠け者、使えないヤ~ツですが、
本人的には「何で?」となる。
結果を出せないのだから給料は安くていい。
私はそれで文句ないです、と言っても通用しません。首です、多分。
だからどうしても出したくもない結果を出すために努力するわけで、
努力する根拠が弱い人には、これは辛いと思う。
とにかく給料分は働かねばならないから働く。
多くの人はそうやって生きています。
かなり極端なまとめ方ですが、私はそう思う。
就職した会社の仕事に興味が持てなければ努力は難しい。
努力する根拠が薄いからです。
努力している人が偉いわけではなく(偉い人もいるけど)
そういう人は、努力する強い根拠があるんです。
努力せざるを得ない必要性が!
だから努力家かどうかは部分的な評価であって、
その人の人間的評価とはまた違うはずです。
働く場所が変われば努力する根拠が生まれるかもしれない。
たまたまその根拠がない職場に配属されただけで、
使えないヤ~ツと言われるのは心外だけど、それが現実です。
時期というのもあると思う。
30代ぐらいまでは努力のスイッチが入らないとか。
45歳を過ぎたあたりから努力のスイッチが入るヤ~ツ。
努力するきっかけが女(または男)のヤ~ツ。
いろんなヤ~ツがいると思う。
私は劣等生だったので、努力しないとダメになるという危機感があった。
だから、かなり小さい頃から努力していた記憶がある。
それも好きでやってたわけで、立派な子ではなかった。
もう悲壮な危機感しかなかった。
私が70年間努力できた根拠は、この悲壮な危機感です。
とにかく、努力するには根拠が必要だということは確かだと思う。
♥♥♥ 努力の根拠は無理に探さない方がいい ♥♥♥
努力家は立派というのは思い込みです。
ただ好きで努力してるだけですから、特別な目で見る必要はないのです。
「岩井田さん、努力家ですねぇ」と、ごくたま~に言われます。
「あっ、どうも」と答えますが、恥ずいです。
好きでやってるだけなんでね♪
「毎日絵を描くんですか?」と偉業のように言われます。
誰でも日課があると思う。毎朝の散歩とか。
よく続くなぁと感心しますが、本人は日課だから大したことじゃない。
画業もその散歩と同じです。ただもう日課ですから♪♪
努力できないと嘆く人は、よ~く考える必要があります。
日課になるようなことがいくつあるかと。
その日課はどうしても必要なことかどうか。
仕事も日課と言えなくはないですが、ほとんどは食うためのものです。
生き甲斐や、やり甲斐を感じる仕事もあれば、
ただ食うための仕事もあります。
食うための仕事で努力を要求されるのは辛いです。
何しろ、食う以外の必要性がないのだから。
達成しなければならない目標があれば努力するしかありませんが、
努力目標は無理に設定する必要はないのです。
ちなみに、意識して努力しなかったらどうなるでしょう?
多分、欲しいものが手に入らないと思う。
努力しないで手に入るものに有難味はないです。
チャーリイが手術で得た高い知能も有り難くなかった。
大勢いた友達がいなくなってしまいましたからね。
怠け者は別として、
努力できないことは、人間として劣っている証拠とは限らない。
努力してまで欲しいものがほとんどないのかもしれない。
何が何でも欲しければ、髪振り乱して必死にやるのが人間です。
私なんか学生時代に彼女とのデートに遅刻しそうになり、
乗っていたバスを降りて待ち合わせ場所まで走って行ったことがある。
「こんな遅いバスには乗ってられねえ!」
とばかりに下車して、渋谷まで走って行った。
走る私の横をさっき降りたバスが追い越して行きました。
「あっ、やはりバスの方が速いなぁ」と思った時には後の祭り。
結局30分ほど遅刻して、汗ビッショリで彼女に謝罪しました。
理由を説明したら彼女は大笑いで許してくれた。
人間というのは、かように必死になれば、
バスより早く走れると思うんです。(そら、アンタだけやん)
ものすごい努力です。無駄な努力。
でもバスを追って、三軒茶屋から渋谷まで走ってる間は楽しかった。
もうすぐ彼女に会える♪ そう思うと楽しかったのを覚えています。
フラれるなんて考えなかったのが怖い♪
努力する人は楽しんでやっているというのはそういうことです。
本人は根性でやってるわけじゃないんです。
ただただ楽しいの♪
努力できないと嘆く人は、私の体験談を真剣に考えてほしい。
そこまで必死になれることがどれほどあるか。
そこまで切実な状況に追い込まれることが何度あったかを。
ほとんどないと思う。
私もバスとタイマン張ったのあれ一度きりですもの。
二度としねえ!
そういう必死さ、切実さから生じる行為が努力なんです。
形だけの努力では意味ありません。
だから、努力できないと嘆く前に考えましょう。
その努力は本当に必要で切実かどうかと。
そして、
必要なのに努力できない時は潔く諦めるしかありません。
努力しないと手に入らないものを努力なしで手にするのはズルです。
自分には無理なんだと思うしかない。
それが岡本太郎さんの言う『生きる覚悟』です。
戦時中に戦意高揚のために、こういうキャッチーな言葉がありました。
欲しがりません、勝つまでは!
これに倣って、こう思うしかないのです。
欲しがりません、努力しないから!
私も「アレ、欲しいなぁ」と思っても
努力したくないものは、こうして諦めています。
しばらく経つとあまり欲しくなくなってる場合が多いです。
★ 岩井田治行コミックス ★