『もののけ姫』考察③アシタカヒコは出雲王家の末裔である (original) (raw)
前回までは、福島県新地町に伝わる「手長明神伝説」は宮崎駿監督作品『もののけ姫』のモデルだと推測し、「手長明神伝説」と出雲族の関係について考察してきました。
そして、『もののけ姫』の主人公であるアシタカヒコは出雲族である、そう結論づけました。
そこで、前回のおさらいをしながら、アシタカヒコと出雲族の関係を考察していきます。
出雲王家の分家である磯城登美家の大彦は、古代ヤマト王国の王になります。
しかし、秦からやってきた物部勢力の攻撃により、大彦の一団はヤマト王国を去ります。そして東北地方を北上し、奥州安倍氏として東北に一大王国を作ります。
そんな彼らをヤマト朝廷は「蝦夷(エミシ)」と侮蔑し、朝廷に従わないものたちとして制圧していきます。
『もののけ姫』の舞台は、エミシと朝廷の戦いが1000年以上続いた室町時代です。
この頃はエミシの勢力も衰退し、朝廷の領土は拡大していきましたが、一部の出雲勢力は自分たちの風習や信仰を捨てず、北へ北へと向かいました。
その出雲族の文化を守り続けた村が、アシタカヒコたちが暮らす村なのです。
出雲口伝によると、奥州安倍氏の始祖である大彦と「ナガスネヒコ」は同一人物と伝えられます。長い脛の男ということで「長髄彦」と表記されます。
そしてアシタカヒコも、足が高い男ということで「足高彦」と漢字を当てることができます。
しかも名前に「彦」がつくものは王太子を意味するそうです。
大彦=ナガスネヒコは出雲王家の血を引くものです。
つまり**宮崎駿監督は、主人公が出雲王家の末裔を示唆するため、彼に「アシタカヒコ」と名付けたと考えられます**(ナガスネヒコからさらに系図をさかのぼると「アジスキタカヒコ」にもつながるので、両方の意味で「アシタカヒコ」と名付けたのでしょう)。
アシタカヒコは映画の序盤で、少女を助けるためにタタリ神の呪いにかかり、村の掟により村を追放されます。
このシーンを、アシタカヒコが出雲族王家の末裔であると知ってから見ると、印象がだいぶ違います。
なぜ村人たちは、アシタカヒコが村を去ることにあんなにも悲しんだのか。今だと理解できます。
王家の末裔が村を去るということは、事実上この村は消滅してしまうことが確定してしまったからです。
一族が3000年以上も受け継いできた文化や信仰を、自分たちの代で捨てなければならない。
アシタカヒコが自らマゲを切ったとき、村人が涙したのは、その悲しみと屈辱からです。
たった数分のシーンにこれだけの意味が込められています。
日本人が忘れてしまった記憶。
それを思い出させようとする宮崎監督の強い想いが伝わってきます。
そして、村を去ったアシタカヒコは、猪神をタタリ神にした石つぶての正体を求めて西へ向かいます。
行き着いた先が、エボシ御前率いるタタラ集団でした。
なぜ、アシタカヒコはタタラ場に行き着いたのか。
それは、このタタラ場こそアシタカヒコと同じ、出雲族の集団だからです!
↓次回へ続きます。
この記事はTOLAND Vlogさんと岡田斗司夫さんの動画を参考にしています。
参考文献
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