塩州 えんしゅう (original) (raw)

渤海国の東京竜原府に属する塩州の州城。日本と渤海を結ぶ「日本道」の起点とみられ、日本との通交の玄関口であったと推定される。ポシェット湾北岸に位置するクラスキノ古城に比定されており、現在でもその遺構が残っている。

「日本道」の起点

11世紀の初めに編纂された『新唐書渤海伝には、以下の記述がある。

濊貊故地為東京、曰龍原府、亦曰柵城府、領慶・鹽(塩)・穆・賀四州。

渤海は濊・貊族の故地に東京竜原府(柵城府)を設置し、その下に慶州・塩州・穆州・賀州の四つの州が置かれたとされる。東京竜原府は渤海五京の一つで、現在の中国吉林省琿春市にある八連城に比定されている。

また同じく『新唐書渤海伝には以下のようにも記されている。

龍原東南瀕海、日本道也。南海、新羅道也。鴨緑、朝貢道也。長嶺、営州道也。扶餘、契丹道也。

東京竜原府の管轄領域は東南で海に接し、日本と渤海を結ぶ「日本道」であったとする。ただ『新唐書』の記述からは、東京竜原府に属する州のうち、どれが沿岸地帯にあり、日本道の出発点であったかは分からない。

渤海は926年(延長四年)に大契丹国(遼朝)に滅ぼされるが、14世紀に編纂された『遼史』巻38・志8・地理志2にかつて東京の渤海諸州に所属していた郡名が引用されている。このうち、塩州について以下のように記述されている。

鹽(塩)州。本渤海龍河郡、故縣四。海陽・接海・格川・龍河、皆廢。

ここでの「塩州」は大契丹国(遼朝)時代の塩州を指すが、元々は渤海の竜河郡であり、既に廃止されているものの以前は海陽・接海・格川・龍河の4つの県があったことが分かる。このうち「海陽」「接海」の2県はその名称から海に接していたと推測され、それゆえ塩州こそが東京の沿岸の州であったとされる。

この塩州の州城が、ポシェット湾北岸に位置するクラスキノ古城に比定されている。

新唐書』の東京が「日本道」であるという記述から、渤海から日本に向けて派遣された渤海使は、東京竜原府を経由して塩州=クラスキノ古城から日本に出航していったものと推定される。逆に日本から渤海に派遣された使節は、ポシェット湾に船で到着し、小船に乗り換えて塩州=クラスキノ古城に入り、東京を経て王都である上京竜泉府を目指したと思われる。

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クラスキノ古城

クラスキノ古城は沿海地方ハサンスキ地区、クスラキノ村の南方2キロメートル、ツカノフカ川河口付近の右岸、エクスべディツィア湾の北岸から0.6〜0.7キロメートルのところに位置している。

城跡は長方形に近い形をしているが、一部は城が立地する高台の形の制約を受けている。すなわち、直角は城の南壁と東壁の南部の間に保持されているだけであり、北壁は弧状で、南壁と西壁の接合部も弧に近い。

クラスキノ古城の周囲は1380キロメートルであり、城壁の上部で囲まれた遺跡の面積は約12.6ヘクタール。城壁は周辺区域よりも1.5〜2メートルほどの高まりを見せており、その周りには溝の痕跡がある。

城壁の東、南、西には門があり、それらの門は前面の外側に設けられた方形の甕城(防御施設)によって保護されている。さらに東門と西門の甕城からの出口は南に向けられており、また南門では東に向けられている。

なお東門の南の城壁では、城壁の石積みの外面に馬面(城壁の一部を突出させ、城壁を登ろうとする敵を横から攻撃するための施設)が増築されたことが確認されている。この馬面の平面形は正方形に近く、幅3メートルで、城壁から2.5〜3.5メートル突き出ている。馬面の壁面は石のブロックで造られており、内側の空間は土で満たされていた。

またこの防御用の甕城も、城本体の築造よりも若干遅れて増築されたものであると考えられている。甕城の出口付近では、3層の石で舗装された道路状遺構も検出されている。

城内の遺構

調査が進んでいるクラスキノ古城北西部からは寺院建物が検出されている。寺院建物は土で造られた高さ約1メートル、長さ11.8メートル、幅10.4メートルの方形の基壇の上に建てられており、基壇上には、各列5つずつ6列に配置された柱の礎石が残っていた。そして寺院の中央部の床は石で舗装されていた。この場所では金銅製の小仏像も見つかっている。

寺院の屋根は瓦で覆われた寄せ棟式であったとみられる。屋根の棟の端には鴟尾(しび)が飾られ、中央部には赤土製の蓮花の蕾の瓦が飾られていた。また屋根の四隅には鉄製の風鐸がぶら下がっていた。

寺院の基壇の南東8メートルのところには、一辺わずかに4メートルをこえる石の四角い土台がある。土台の上は瓦屋根の建物があり、鐘楼あるいは鼓楼の跡と考えられている。

寺院建物の南20メートルのところからは、列をなした石の壁の土台が検出された。この石壁は寺院建物群を他の街区から仕切っており、西端は城の城壁に達していた。またこの壁の寺院の真向かいの箇所には門があり、門の通路は砕いた陶器や瓦で舗装されていた。この門の地区からは、金銅製の小観音菩薩蔵が検出されている。

なおクラスキノ古城からは全部で12基の瓦焼成用の窯がみつかっている。それら全ては寺院建物の建造のための瓦製作と関わっており、建物の建設時期に操業されていた。調査によって、窯は1回だけの焼成であり、焼成後に天井部が解体され、その場所に新たな窯が築かれたことが分かっている。

クラスキノ古城の寺院跡からは軒丸瓦が出土しているが、上京竜泉府や東京竜原府、中京顕徳府から出土している軒丸瓦の文様とほぼ完全に類似しているものがあるという。その蓮花文瓦当*1は、上京の中期頃で、9世紀前半頃のものと推定されている。

寺院の北と北東の部分では、上層から土中に据え付けられた大きな貯蔵用の壷と石製のひき臼が検出されている。発掘調査により、それが10世紀前半の最上部の造営層の居住敷地跡であることが確認できるという。また寺院建物群の塀の18メートル南では、オンドル(床下暖房施設)のある住居建物が発掘されており、この住居建物の西からも、別の住居建物のものと思われる床下暖房施設の痕跡が検出されている。

井戸跡と廃絶年代

西の城壁の近くにある窯跡の一群から南西3メートルのところに、底部に2段の木製枠と木製の桟のある石で造られた井戸跡が見つかっている。この井戸からは完形土器20個体が出土し、その中には契丹系の長頚壺が含まれている。土器は、井戸底からやや上で一括して検出され、土器群の上に焼土が混じった埋土があることから、井戸を廃棄する際に土器群を埋め込んだと考えられている。

このうち、契丹系長頚壺は10世紀初頭に比定されている。926年(延長四年)、渤海は大契丹国の侵攻を受けて滅亡しているので、この前後と推定されている。

またクラスキノ古城からは、青銅製や鉄製の帯の縁飾りやバックルが検出されており、これらは渤海時代特有のものであるとされる。さらに装飾のある幾つかの縁飾りは、遼朝(大契丹国)早期の契丹人の墓にも類似のものを見出すことができるという。同時に、12〜13世紀に特有な製品は検出されていない。

前述のように926年(延長四年)に渤海を征服した大契丹国は、渤海の故地に東丹国を建国。しかし928年(延長六年)には二代皇帝耶律尭骨が、東丹国宰相に首都を南の遼陽(東平)に遷都するよう命じ、あわせて渤海人たちに対する遼河や大契丹国の首都である上京臨潢府周辺(現在の内蒙古巴林左翼旗)への移住政策もすすめられた。

渤海率濱府の住民が東京康州に移住完了したのが947年〜951年とされているので(『遼史』巻318)、930年代まではまだ人が住んでいたと推定されている。ただ、以降の遺物は見つかっていないため、東丹国が西遷してから旧塩州(クラスキノ古城)は放棄されたとみられる。

契丹との交易

クラスキノ古城では、ラクダ形のペンダントが出土している。大きさ横幅2センチメートルくらいの小さなもので、フタコブラクダとみられている。フタコブラクダモンゴル高原に住んでいるラクダであり、モンゴルからラクダの隊商が日本海に面した塩州(クラスキノ古城)まで来ていたことがうかがえる。実際にクラスキノ古城からは、ラクダの足の骨も出土している。

前述のようにクラスキノ古城からは、契丹系の帯の縁飾りや契丹系の壺もみつかっている。これらのことから、9世紀の終わりから10世紀の初め頃に、モンゴル高原東部の契丹との交流がかなりあったことが分かる。契丹からの隊商は、扶餘を経由する「契丹道」から上京竜泉府に至り、さらに「日本道」を通って東京竜原府、そして塩州に至ったものと推定される。

渤海契丹の交流は、渤海の日本への贈り物にも見ることができる。すなわち、823年(弘仁十四年)には加賀に来航した渤海使が「契丹大狗」を献上している(『日本後紀』)。

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参考文献

クラスキノ城趾
グーグルマップの航空写真でもその形状を確認することができる

*1:瓦当は、軒丸瓦の先端の円形または半円形の部分を指す。