上京竜泉府 じょうけいりゅうせんふ (original) (raw)

7世紀末〜10世紀にかけて栄えた渤海国の王都。忽汗城の異名でも呼ばれる。都城の遺跡は黒竜江省寧安市渤海鎮に残る。8世紀中頃に、唐の長安城をモデルとして建設されたと推定されている。

渤海の建国

渤海国は中国東北地方東部・沿海州地域・朝鮮半島北部を支配領域とした。同国に関する文献史料は周囲の国々に残されたものばかりであり、渤海国が栄えた当時の中国王朝である唐朝の正史である『旧唐書』(945年)・『新唐書』(1060年)が基本的な史料となる。当時外交関係にあった日本にも渤海国やその使節に関する記録が残っている。

渤海国の歴史は、東北アジアの大国高句麗が668年(天智天皇七年)に唐・新羅連合軍によって滅ぼされたことに始まる。その後の唐朝による旧高句麗領の支配は相次ぐ反乱などで安定せず、669年(天智天皇八年)、2万8000余戸高句麗遺民を中国内地へと強制移住させる政策が断行された。一方で唐と新羅との関係は敵対に転じ、新羅は北進して旧高句麗領を少しずつ吸収していった。結局、唐朝は旧高句麗領のうち遼東は確保したものの、その全土に支配を浸透させることはできなかった。

696年(持統天皇十年)五月、モンゴル高原東部の遊牧勢力である契丹が、唐朝(ただし当時は武則天が即位して国号を「周」としていた)の東北方面の一大軍事拠点である営州(遼寧省朝陽市)を陥落させる。契丹は同じく遊牧勢力の奚とともに南下し、武則天が派遣した征討軍を撃破しながら河北を席巻。しかし武則天の要請を受けたモンゴル高原突厥によって本拠地が襲われたことで、反乱は一年余りで平定された。

契丹の反乱当時、営州には高句麗滅亡後に移住させられた高句麗遺民の集団がいた。営州が陥落したことで、唐朝(周朝)の支配から脱した彼らは東走するが、その中に大祚栄率いる集団もあった*1。ただし大祚栄集団が高句麗人そのものだったか、高句麗に従属していた粟末靺鞨人だったかは不明であるとされる。

そんな中、河北の契丹勢力を平定した武則天は、遼東方面の平定に降伏した契丹部族を投入。遠征軍は営州から東走した高句麗民集団も反乱勢力とみなし、まず乞四比羽率いる靺鞨人集団を撃破してこれを斬り、大祚栄らに迫った。大祚栄は乞四比羽の残党や他の高句麗人集団を糾合して迎撃し、壊滅的な打撃を与えて敗退させた。そして牡丹江上流の敦化一帯を拠点に自立して王位に即き、振国王*2を自称。これが渤海の建国で、698年(文武天皇二年)のこととされる*3

建国当初、大祚栄の振国(渤海)や黒水などの北部靺鞨諸族は突厥に通交したという。これは前述の軍勢派遣により唐朝(周朝)が遼東を確保していたことが背景にあると考えられている。やがて遼東方面では突厥が優位となり、唐朝(周朝)は703年(大宝三年)頃までには遼東を放棄し、遼東半島先端の都里鎮(遼寧省旅大市旅順付近)に拠点を残すのみの状況にいたった。

705年(慶雲二年)、武則天が亡くなり、唐朝が復活した。皇帝となった中宗は北方に対して積極策に出ようとし、その一環として使者を大祚栄のもとに送り、唐朝への帰属を促した。大祚栄はこれに応え、子の大門芸を唐朝に派遣して唐皇帝に仕えさせている。事実上、唐朝への帰属の意思を示したものと理解される。

712年(和銅元年)、唐朝では李隆基が玄宗として皇帝に即位する。713年(和銅二年)二月、玄宗大祚栄冊封し、左驍衛員外大将軍・忽汗州都督・渤海郡王の官爵を与えた。「渤海」の国号はこの冊封に由来する。渤海は、日本と通交を開始する際にも「渤海郡王」の肩書きで国書を送っており、唐朝とその影響力の強い地域に対する渤海王の対外的な肩書きは、この冊封時点から「渤海郡王」となったと考えられている。

渤海の北進と対唐紛争

718年(養老二年)末頃、大祚栄が亡くなった。嫡子で桂婁郡王*4だった大武芸が跡を継ぎ、翌719年(養老三年)三月に唐朝から父と同じ渤海郡王に冊封された。大武芸は『新唐書渤海伝に「土宇を斥大し、東北の諸夷畏れて之に臣す」とあるように、領土を大きく拡大した武断の王と伝えられる。

大武芸時代の渤海は、靺鞨諸部族の勢力圏である北方への領土拡大を図ったといわれる。これに対し、払涅・鉄利・越喜の諸靺鞨は唐朝への使者派遣の頻度を高め、722年(養老六年)には、さらにその北の黒水靺鞨が唐朝に通じた*5。726年(神亀三年)、唐朝は黒水州都督府を設置して族長を都督に任命。728年(神亀五年)には黒水州都督となった族長に李献誠の姓名を賜い、雲麾将軍兼黒水経略使の官職を与えた。これにより、唐朝が渤海の北進を支持しないことが明らかとなった。

唐朝の黒水州都督府設置を受けて渤海の政権内部は、従来通り北進策を進めようとする勢力と、唐朝との軋轢を避けるために北進中断を主張する勢力で二つに割れたといわれる。そんな中、唐朝に仕えていた大都利行(大武芸の嫡子)が728年(神亀五年)に唐で客死。さらに730年(天平二年)後半以降、親唐派だった大門芸(大武芸の弟)が唐朝に亡命するに至る。

大武芸は大門芸の誅殺を要求したものの、唐朝の玄宗は731年(天平三年)秋の国書でこれを拒否。渤海はその冬の使者を最後に唐朝への遣使をやめた。その背景には、渤海契丹・奚とともに突厥に属したことがあるとされる。当時、契丹と奚は反唐側だったため、唐は大軍を送って渤海を攻められなかった。

しかし732年(天平四年)春、契丹・奚が唐に大敗し、奚の一部が唐側に帰順する。これに危機を感じた渤海は、先制攻撃に踏み切る。732年秋、渤海の将軍張文休が海賊を率いて唐の遼東方面への海上輸送基地であった山東半島北岸の登州(山東省蓬莱市)を襲撃し、登州刺史の韋俊を戦死させた。次いで渤海は、契丹が唐に対して再攻勢をかけた馬都山の戦いに、突厥・奚とともに参加。これに対し唐は、新羅と結んで渤海に侵攻したが、733年(天平五年)冬、大雪に遭い、兵力の大半を失うほどの敗北を喫した。

734年(天平六年)、突厥のビルゲ河汗が毒殺され、突厥帝国は一時崩壊する。これを機に唐は攻勢をかけ、年末には契丹・奚を服属させた。孤立した渤海の大武芸は、すぐに唐朝への遣使を再開し、謝罪。両国の関係は修復され、以後、渤海は原則として唐朝と良好な関係を保ちつづけた。

なお渤海と唐が紛争していた時期、北部靺鞨諸族の唐への遣使は途絶えており、渤海が彼らの通交を遮断していたとみられる。紛争が終わると再開されるが、その頻度は激減する。また韓愈の「烏氏廟碑銘」(814年)には、この時期に黒水靺鞨が唐朝に来投して平盧節度使の部将・烏承玭の配下に入ったことを伝えるとみられる一節がある。

これらから、渤海は唐との紛争の間に北部靺鞨諸族への圧力を強め、黒水靺鞨にまで影響力を浸透させ、その親唐派は唐朝に来投せざるをえなくなったとの推定もある*6

上京竜泉府への遷都

737年(天平九年)、大武芸が死没。代わって子の大欽茂が即位し、翌年、渤海郡王に冊封された。大欽茂の即位後まもなくの唐朝の天宝年間(742〜756)、渤海の都は顕州に遷る。顕州は、吉林省和竜市の東、図們江支流の海蘭江の北岸に位置する西古城に比定され、のちに中京顕徳府となったとされる。ここは図們江水系から鴨緑江水系へとつながる幹線交通路上に位置し、唐朝や日本への通交には便がよいという利点があったとみられる。

さらに欽茂は、天宝末年(755年頃か)に牡丹江中流の上京竜泉府に遷都し、唐の長安にならった巨大都城を建設する。『新唐書渤海伝には以下のように記される。

天宝の末、欽茂、上京に徙る。旧国*7に直ること三百里にして忽汗河の東なり。

そこは渤海を建国した粟末靺鞨や高句麗人の地ではなく、北部靺鞨諸族の住地であった。交通路的には、渤海初期の中心地域(現在の延辺朝鮮族自治州にほぼ重なる)から黒水靺鞨に至る幹線上に上京竜泉府は位置する。また、牡丹江河谷盆地の最上部にあたり、ここから北に開かれた盆地の扇の要に位置し、北進の拠点には最も都合のよい場所であった。

上京竜泉府への遷都は、渤海の北部靺鞨諸族支配の進展と関連するといわれる。実際、越喜・鉄利・払涅の対唐遣使は740年代初頭で途絶えており、この後まもなくして渤海に完全服属したと考えられている。また746年(天平十八年)には、鉄利人および渤海人1100人余りが日本の出羽国に「慕化来朝」する事件が発生するが、これは渤海支配に抵抗する鉄利靺鞨人らが日本に大挙亡命したものともされる。

ただ大欽茂は、唐の貞元年間(785〜805)の前半頃、上京竜泉府から東京竜原府(吉林省琿春市八連城)に遷都する。その理由を示す史料は、現在のところ確認されていない。

793年(延暦十二年)、大欽茂は死去し、傍系に当たる族弟の大元義が王位に即いた。しかし大元義は一年足らずで「国人」によって殺され、大欽茂の嫡孫である大華璵が王となり、都を上京竜泉府に戻した。渤海国内で何らかの権力闘争があったことがうかがえる。

大華璵が一年で亡くなった後には、弟の大崇璘が王位を継いだ。大崇璘が統治した15年間は、北部靺鞨所属も服属し、安定した時代だったと考えられている。

都城の構造と宮殿群の特徴

上京竜泉府については、現在でも中国の黒竜江省寧安県に遺跡が明瞭に残っている。復元研究によると、全体の外郭城は東西約4600メートル、南北約3400メートル程の横長の長方形を呈していて、北辺には突出した張り出し部がある。

外郭城の中央北に宮城があり、その南に皇城*8が配置されている。宮城は東西が約620メートル、南北が約720メートルの南北に少し長い長方形となっている。その東西に苑池や掖城があり、三者を合わせた東西幅は約1050メートルある。その南の皇城は東西は宮城と同じ長さで南北が約450メートルある。

中央北詰に宮城を置き、その南に皇城を設けている点は、唐の長安城の大極宮と皇城の関係と全く同じであった。外郭城も東西に長い長方形となっていることから、上京竜泉府は唐の長安城をモデルとして造営された可能性が高いという。このことは大欽茂が進めていた唐朝に対する接近政策の一つの表れと評価されている。

宮城内には中軸線上に南北に門と宮殿跡が並び、その周辺に付属する建物跡が見つかっている。宮城南中央の正門の基壇は、東西約42メートル、南北約27メートル、残っている高さ約5メートルという巨大なものであり、この巨大な基壇上に門楼が建てられていた。

宮城正門を入ると回廊で囲まれた広大な朝庭があり、その北に第一号宮殿があった。この宮殿は東西約55.5メートル、南北約24メートル、高さ約2.7メートルの基壇上に建っており、瓦も出土していることから、瓦葺きの壮大な正殿がそびえ立っていたことが想像されている。

第一号宮殿の北には、また回廊で囲まれた一郭があり、その南正門を入ると朝庭があって、その北に第二号宮殿があった。その基壇は東西約92メートル、南北約22メートルという長大なもので、この上に宮殿が建てられていた。ここからも瓦などが出土しており、美しい方塼や獣頭といった装飾も見つかっている。

また「品位」「客」と刻まれた陶版も見つかっており、これらは版位(へんい)と考えられている。版位とは朝庭に参集した臣下たちが整列する際の立ち位置を示すために置かれた目印で、位階や役割、立場ごとに列立する場所の目印としたもの。もともと中国の朝庭で使われていることから、渤海でも同様の版位が導入され、中国風の儀礼が行われていたことが推測されている。

第二号宮殿の北には、さらに第三号宮殿*9があり、さらにその北に廊で結ばれた第四号宮殿*10が置かれていた。第四号宮殿とその東西の宮殿には、いずれも北辺に二つずつ煙道と思われる遺構が附設されており、床下暖房施設が設けられていたと推定されている。このことから、これらの宮殿が渤海王の日常的な生活空間であったとされる。

皇城と外郭城

宮城の南には皇城が配置されていた。宮城と皇城の間には東西に通る横街があり、幅が約92メートルあった。皇城の中央を広大な南北道路が貫通しており、東西2ブロックに分かれている。このような皇城の形態も唐の長安城の皇城を模倣したものとされる。

皇城南辺中央には正門跡が見つかっている。皇城南門は東西約30メートル、南北約11メートルの規模で、内部に三本の門道が通っていた。また、皇城内でも建物遺構が確認されていて、渤海の役所と推定されているが、具体的にはどのような官衙かは分かっていないという。

上宮竜泉府の外郭城は、先述のように横長の長方形で、城壁で囲まれていた。城壁は土を主体に石で築かれていて、3メートルくらいの高さが残っているところもある。城門は南辺に3つ、東西各辺に2つ、北辺に3つの合計10門が置かれていた。

外郭城の内側は南北方向と東西方向の道路によって区画されていた。全体の中軸線となる南北の大路は、長安城の朱雀門街に相当し、幅は約110メートルの巨大な道路であった。区画された坊は厚さが約1メートル程の牆壁(しょうへき)で囲まれていた。各坊の中は十字型の道路や一本の直線道路によってさらに分割されていた。

外郭城内には寺院跡も何ヵ所か見つかっていて、渤海における仏教受容の様子がうかがえる。上京竜泉府の遺跡内には、渤海寺院跡に創建された興隆寺という寺があり、その境内には、現在も高さ約6メートルの巨大な渤海時代の石灯籠が立っている。

なお上京竜泉府一帯では観音・阿弥陀などの塑像仏像*11が多く出土するが、一方で東京竜原府の一帯では土や石の二仏並坐像*12が多く出土するという。

二仏並坐像は『法華経』見宝塔品の話を表現したもので、北魏高句麗で作られ、東京竜原府一帯出土のそれは高句麗様式を継承する。これに対し、上京竜泉府一帯の塑像仏像には高句麗の影響はあまりみられず、唐末五代や新羅下代の様式に近いとされる。この差異は、東京一帯が旧高句麗領だったのに対し、上京一帯がそうでなかったことに由来すると考えられている。

唐との通交ルートと渤海の特産品

渤海と唐との通交のメインは海路であったとされる。そのルートは『新唐書』地理志に引用された賈耽『道里記』の「登州海行入高麗・渤海道」に詳しい。

それによれば、山東半島の登州から北に島伝いに遼東半島先端の都里鎮へ渡り、海岸沿いに鴨緑江河口に着き、そこから100里(約56キロメートル)遡上してから小船に乗り換え、さらに30里遡ると渤海の国境の港である泊勺口に着く。ここから500里遡ると丸都県城(集安)、さらに200里で神州、そこから陸行して400里で顕州(中京顕徳府)、さらに北に600里行くと渤海王城(上京竜泉府)に至るという。

上記の海路で渤海から唐に運ばれた朝貢品の定番は、人参や貂皮、鷹などの東北アジア北部の特徴ある産物だった。720年代に渤海の支配が日本海岸におよぶようになると、日本海側の産物も唐に運ばれるようになる。

すなわち、729年(神亀六年)の朝貢品に鯔魚(ボラ)、730年(天平二年)に海豹(アザラシ)皮、738年(天平十年)に乾文魚(タコの干物)、740年(天平十二年)に昆布(これはコンブではなくワカメ類)が見える。特に昆布は『新唐書渤海伝に「南海の昆布」とあって、日本海側の南京南海府の特産物であることが明記されている。

また、730年(天平二年)の二月と五月に馬30匹を献じているが、馬も『新唐書渤海伝に「率賓の馬」と出てくる。率賓はロシア沿海地方南部に位置し、この時期にはロシア沿海地方の海岸部も渤海の勢力圏となっていたことがうかがえる。

馬については、8世紀後半からは交易品としても史料に登場する。『新唐書』李正己伝には、以下のような記述がある。

渤海の名馬を市(か)い、歳(としごと)に絶えず、賦繇(ふよう)均約し、最も彊大(きょうだい)と号す

半独立藩鎮で、登州を管轄した淄青平盧節度使の李正己は、渤海の名馬を毎年購入して強盛となったという。馬は、渤海滅亡後も女真の重要な交易品であり、東北アジア北部奥地の名馬が、鴨緑江まで運ばれ、さらに海運で中国に運ばれるというルートが、渤海の時に確立したことが分かる。

このほか、836年(承和三年)に淄青節度使が「新羅渤海の将(も)ち到れる熟銅(精錬されて純度の高い銅)は、請うらくは禁断せざらんことを」(『冊府元亀』外臣部互市)と奏請している。これは諸蕃との互市禁止品目から、新羅渤海の熟銅をはずすよう願い出たものであり、渤海が銅を輸出していたことがうかがえる。実際、渤海の遺跡からは大量の銅製品も出土している*13

日本との通交

新唐書渤海伝には「龍原東南瀕海、日本道也」とあり、東京竜原府の管轄領域は東南で海に接し、日本と渤海を結ぶ「日本道」であったとしている。東京竜原府に属す4州のうちの塩州が「日本道」の起点と推定されており、その州城はポシェット湾北岸に位置するクラスキノ古城に比定されている。

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渤海と日本との通交は、727年(神亀四年)九月に日本の出羽に渤海の使者8人が到着したことに始まる。この使節は、当初は高仁義を大使とした24人で構成されていたが、蝦夷地に着くや高仁義ら16人が殺害されてしまったという。そこで高斉徳が大使を代行し、翌年正月に渤海郡王大武芸の啓書を聖武天皇に捧げるとともに、貂皮300張を献じた。渤海としては、当時緊張関係にあった南方の新羅への牽制の目的もあったといわれる。

高斉徳ら8人は728年(神亀五年)六月には、引田虫麻呂を送使とする54人に伴われて渤海に帰国。渤海に渡った引田虫麻呂は、730年(天平二年)八月に日本に戻った。

大武芸の跡を継いだ大欽茂も、治世の56年間に11回の遣日本使を派遣している。最初の使節は739年(天平十一年)七月に出羽に到着しており、日本の遣唐使平群広成ら4人も同行していた*14。一行は739年十月に平城京に入り、大欽茂の啓書を捧げ、方物として大虫(虎)皮と羆皮を各7張、豹皮6帳、人参30斤、蜜3斗を献上。日本からは回賜品として美濃絁30疋、絹30疋、糸150絇、調錦300屯が大使代行の雲麾将軍己珍蒙に託された*15

758年(天平宝字二年)初、日本から小野田守を正使とする使節*16渤海に派遣されており、彼らは当時の渤海の王都であった上京竜泉府に至ったのかもしれない。小野田守らの目的は、日本の朝廷で藤原仲麻呂を中心にすすめられていた「新羅征討計画」に渤海がどこまで関わることができるかを議るためであったという。

758年九月、渤海の輔国大将軍の楊承慶ら23人が小野田守らとともに越前の海岸に到着。小野田守からは「唐国の消息」として、755年(天平勝宝七年)に唐で勃発した安史の乱をめぐる唐の朝廷と節度使の動向、さらには渤海の唐への対応などの渤海事情が、日本の朝廷に報告された。

758年十二月、楊承慶ら23人の渤海使節は入京。翌年正月に方物を貢ぐとともに、孝謙天皇に対する大欽茂の弔意を口奏した。二月、日本の遣唐使の藤原清河を迎えに渤海に渡海する船があったため、これに同乗して帰国した*17。この時、日本からは絹40疋、美濃絁30疋、糸200絇、綿300屯、さらには錦4疋、両面2疋、纈羅4疋、白羅10疋、綾帛40疋、白綿100帖が賜物として贈られている。

以後も渤海と日本の通交は長く続いた。渤海から日本への使節は727年(神亀四年)〜919年(延喜十九年)の193年間に34回、日本から渤海への遣使は728年(神亀五年)〜811年(弘仁二年)の84年間に13回を数える。なお後半の823年以降、渤海使節の人数は101〜105名で定着しており、大型船で来航したことが推定されている。

また仏教僧を介しての交流も盛んだったとみられる。日本僧円仁の『入唐求法巡礼行記』によれば、825年(天長二年)、在唐渤海僧の貞素は、日本の嵯峨天皇が日本僧霊仙に送った書状と賜金を、長安渤海遣唐使節から受け取って、五台山の霊仙に届けた。

霊仙は、仏舎利1万粒と新約経典2部・制誥(辞令書)5通を日本に届けるよう貞素に依頼し、引き受けた貞素は渤海に帰国し、同年の渤海使に随って来日して朝廷に渡した。すると今度は朝廷から霊仙への賜金100両を依頼され、渤海経由で再度五台山に向かったが、到着したときには霊仙は毒殺されていた、という。

渤海の滅亡

渤海は9世紀前半に王となった大仁秀のもとで最盛期を迎えたとされる。『新唐書渤海伝は「仁秀、頗(すこぶ)る能く海北諸部を伐ち、境宇を開大して、功有り」と伝える。この時代、渤海はウスリー江流域から黒竜江流域の北部靺鞨所属を服属させて東北方面に勢力を拡大させたと考えられている*18

10世紀に入ると、渤海を取り巻く情勢は大きく変動する。朝鮮半島では新羅が衰え、892年(寛平四年)に後百済が、901年(延喜元年)に後高句麗が建国され、後三国時代に突入する。918年(延喜十八年)には後高句麗に代わって高麗が興り、渤海と境を接した。

中国では907年(延喜七年)に朱全忠が唐を滅ぼして開封を都とする後梁を建国。923年(延長元年)、突厥佐陀部族出身の李存勗が後梁を滅ぼし、洛陽を都とする後唐を建国する。しかし華中以南を統合できず、華中、華南と華北の一部には後に十国と呼ばれる地方政権の割拠状態がその後も続くことになる。

そしてモンゴル高原東部では契丹が、迭剌部の耶律阿保機の元に統一され強勢化していた。耶律阿保機は遊牧君主の称号「カガン」を自称し、916年(延喜十六年)に大契丹国を建国してモンゴル高原中央も制圧した。

925年(延長三年)、高麗に渤海の王族や高官らが大量に投降。渤海の宮廷に大きな内紛が発生したことが推定されている。この内紛の隙をついてか、契丹渤海への侵攻を開始する。

同年閏十二月二十九日、契丹軍は渤海の対契丹拠点である扶余城を包囲し、正月三日に陥落させた。そして渤海の王都である忽汗城(上京竜泉府)へと一気に進軍し、正月九日には忽汗城を包囲。三日後、渤海王大諲譔は降伏を申し出、翌々日には臣僚を率いて場外に出て契丹の軍門に降った。ここに渤海国は滅亡した。

渤海を滅ぼした契丹は、旧渤海領統治のために東丹国を建国。王都だった忽汗城(上京竜泉府)を天福城と改名し、耶律阿保機の子の耶律突欲を国主とした。東丹国の経営には、耶律羽之ら耶律阿保機の出身部である旧迭剌部の有力者が参画。事実上は渤海の官僚機構を温存したまま、契丹が支配者として上に乗るような形態だったと考えられている。

926年(延長四年)七月、渤海遠征の帰路にあった耶律阿保機は旧渤海の扶余府で急逝し、耶律尭骨(阿保機の子で突欲の弟)が大契丹国二代皇帝として即位。928年(延長六年)十二月、耶律尭骨から東丹国の宰相耶律羽之に東平(遼陽)への遷都命令が下され(『遼史』)、翌年、耶律羽之は東丹王の耶律突欲に遷都を上表している(「耶律羽之墓誌」)。

東丹国の都は建国から3年余で、天福城(旧忽汗城=竜泉府)からはるか南の東平(遼陽)に遷ることとなった。

関連人物

参考文献

渤海國石灯籠(上京竜泉府の遺跡内に残る渤海時代の石灯籠)
池内宏 『満鮮史研究 中世 第1冊』 荻原星文館 1943 377頁
国立国会図書館デジタルコレクション

渤海國都趾出土花文方塼拓影
鳥山喜一 『北満の二大古都址 : 東京城と白城』 京城帝国大学満蒙文化研究会 1935
国立国会図書館デジタルコレクション

京城及ビ其ノ附近圖
鳥山喜一 『北満の二大古都址 : 東京城と白城』 京城帝国大学満蒙文化研究会 1935
国立国会図書館デジタルコレクション