季節の移ろいを感じる 俳句や短歌で綴る私の日常 (original) (raw)
11月2日から6日までの間は、二十四節気をさらに三つに分けた七十二候のひとつ、
「楓蔦黄(もみじつたきばむ)」になります。二十四節気の霜降の末候となります。
楓や蔦が色づき始め、いよいよ紅葉シーズンが到来、といった感じがする頃です。
秋が深まるにつれて色を重ねて、しだいに散ってしまう紅葉に、移ろいゆく季節を愛でる日本人にとって格別のものです。
春のお花見と同様に秋の紅葉狩りも、日本人にとって待ちわびる存在のものです。紅葉狩りは歴史が古く、奈良時代から平安時代にかけて始まったとされています。当時の貴族は、自邸に桜を植えて愛でることはできましたが、紅葉を愛でるとなると、どうしても山野へ出掛けて行かなくてはなりません。山野へ出掛けて、紅葉を見ながら宴を開いて、和歌を詠んで、優雅な遊びを楽しみました。
桜はお花見というのに、紅葉は紅葉狩りというのでしょうか。諸説あるようです。
ひとつは、狩猟をしない貴族が、紅葉を鑑賞するために、山野を歩き回る様が、狩猟することに似ているためという説。
あるいは、平維茂が美女である紅葉を討ち取った(狩った)という伝説に由来しているという説。
最後は、貴族は歩くことが下品であると考えていたために、牛車で外出していました。さすがに山野へ牛車で行くことは非常に難しくので、狩りに見立てて、歩いて出掛けてもおかしくないというように考えたという説。
一般には、最初の説がよく言われますが、個人的には、最後の説がおもしろいと思います。
ちなみに、紅葉狩りが庶民で楽しむようになったのは、江戸時代になってからです。
秋には〝小春日和〟と呼ばれるぽかぽか陽気の晴れの日も多くあります。
「こんな小春日和の穏やかな日はあなたの優しさが浸みてくる」と山口百恵さんの秋桜の歌詞が頭に浮かんできます。脱線しましたが…。
紅葉は日中は天気が良くて暖かく、夜中は冷え込んむと、寒暖の差が大きくなればなるほど、鮮やかな紅葉を楽しむことができます。寒暖の差があまりないとメリハリのない紅葉になってしまいます。
さて、紅葉に関する禅の言葉に「経霜楓葉紅」というのがあります。
霜を経て楓葉(ふうよう)紅(くれない)なり、と読みます。
楓の葉が厳しい霜を経て真っ赤に紅葉するように、人も苦難を経験することによって深みを増し、すばらしい人物になっていくという意味が込められています。
最後に、紀貫之が京都北山へ紅葉狩りへ出かけた時に詠んだ一首です。
見る人もなくて散りぬる奥山のもみぢは夜に錦なりけり
解釈は、見に来る人もいないまま散ってしまう奥山の紅葉は、まるで夜に錦の衣装を着ているようなもので、せっかくの美しさも甲斐のないことだなあ、というようになります。
今年は暖かい日々が続いていますが、どんな紅葉になるのでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。
みなさん、こんばんは。
もう少しで、立冬になるというのに、まだまだ日中は暖かいというか暑い日が続きます。
七十二候では「霜始降」です。〝そもはじめてふる〟と読み、その通り、霜が降り始める頃ということです。この暖かさでは、まだ霜は降ってこないですが…。
さて、話題が変わりますが、昨日、NHKラジオの文芸選評に投句しました。
兼題は、霧です。歳時記には、
昔は春秋ともに霜といい、霞とも言ったが、後世は春のほうを霞、秋のほうを霧というようになったのは、日本各地で霜は一年中で秋が多いからであろうか。
と書いてあります。
朝霧の参道進み父想う
私たちのお寺さんは参道というのは、全然長いわけではないですが、イメージとして、この句を作りました。
母でも、兄でも、姉でも、祖父や祖母でも当てはまるではないかと思われてしまいますが、私は父を早くに亡くしておりますので、父想うとしました。
放送は、11月2日の土曜日、NHKラジオ第一で午前11時5分からです。
色々と考えながら作っていくことも楽しいですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
「論語」は、中国の春秋時代の思想家孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子たちがまとめた書物です。
「論語」というと、堅苦しい説教が書いてあるというイメージがあり、敬遠する人も多いかもしれません。
よく時代劇で寺子屋のシーンが出てきて、「子、曰く・・・」と子供たちが素読することが描かれています。これが『論語』です。
「子、曰く」は〈し、のたまわく〉とも〈し、いわく〉とも読むことができます。
論語の解説は別の機会にして、今回は、「憲問第十四」にある一節を取り上げてみたいと思います。
子曰く、君子は上達す。小人は下達す。
訳すると、
できた人間は先々を見通し、理想を持って大仕事をするようになるが、小人物は個人的な損得にこだわって、小さなことばかりが得意になっていくものだ。
となります。
上達とは、本質的、高尚なことがらのことを言い、下達は末梢的、下賤なことがらのことを言います。
君子は常に進歩していき、小人は堕落する一方だというように多くの人が解釈していますが、もう少し深読みすると、人間には向き不向きがあって、それぞれの能力や得手不得手によって、できる仕事あるいは得意な仕事があるとも読み取ることができます。
経営学者のピーター・ドラッカーは、人材と職務内容を一致させて、人の強みを生かすことの重要性を説いています。
「適材適所」といった言葉が正にそうです。どんな組織でも適材適所に配置されていれば、仕事も効率的にこなせるというものです。
よく組閣が終わると、「適材適所の布陣だ」とかいう言葉を政権内の人がコメントします。石破内閣を見てみると、お世辞でも適材適所とは言えません。もっとも、適材適所かどうかも判断できないうちに、有権者の審判が下りますが。
リーダーたる人は、さまざまな人間がいる組織の中から、それぞれの能力にあった仕事を与える「適材適所」に人をつかう能力を持たなくてはならない、ということです。
俳句や短歌が趣味の一つです。作ることはあまりせずに、専ら鑑賞が主です。
古本屋で句集や歌集・詩集を購入して、読んだりしています。
皆さんもご存知かと思いますが、俳句には「季語」を折り込んで詠むことが必須です。
春夏秋冬と新年の五つの季節にそれぞれ動物、植物、行事、生活などの季節を感じる言葉が季語としてあります。
秋の季語のうち、私の好きな季語のひとつが、「馬肥ゆる」です。
秋晴れの日によく耳にする、天高し馬肥ゆる秋から来ています。
秋の空が澄み渡り、馬の食欲が増して、馬が肥えていき、たくましい姿になるという意味があります。
中国の漢詩「贈蘇味道」から由来しています。その一節が《秋高くして塞馬肥ゆ》です。
馬肥ゆるみちのくの旅けふここに 山口青邨
山の湯へ米味噌運び馬肥ゆる 大橋越央子
天高く肥ゆることなき神の馬 鷹羽狩行
私がいいなと選んだ馬肥ゆるの俳句を三句あげてみました。
さて、俳句の〝俳〟には、どんな意味があるのでしょうか?
俳優にも〝俳〟がつきます。
今まで特に気にもしなかったのですが、先日、俳優の小沢昭一さんのエッセー「俳句と俳優」を読んでいると、こんな一節がありました。
いずれにしても、「雲に鳥」と「湯豆腐や」のところに、ショーバイニンの腕を感じるのでありまして、同時にそこに、俳句の「俳」の意味を知るわけであります。「俳」は辞書で引けば「たわむれ、おどけ」。つまりは「あそび」といってもいいのかもしれません。俳句は、どんなシリアス、深刻であっても、どこかでコトバをあそんでいる、たわむれている。別に言えば余裕がある。冷静な目で表現を客観的にし、格調の高いおどけをやっているように思えます。
なるほどと思いました。俳句とは、格調の高いをおどけやっているコトバあそびなんだと。
一期一会《いちごいちえ》という言葉は、私たちのも馴染み深い言葉で、よく耳にします。
一期とは、人間の一生のことを言い、一会とは、ただの一度の出会いのことを言います。
一度の出会いの大切さや巡り会いの尊さ、出会った時の因や縁を考える自己の深い心を常に意識できるようにということを考えさせる言葉であろうかと思います。
一期は仏教では、人の一生のことを指す言葉であったのが、茶道、つまり、茶の湯の作法と結びつき、一度かぎりの喫茶との出会いということから「一会」と繋げられたと思います。
一期一会を最初に提唱したのが、千利休の弟子山上宗二です。
山上宗二は、一生に一度だけの出会いのような気持ちで茶会に臨むようにと言っていました。
やがて、幕末になり、大老井伊直弼が自著「茶湯一会集」《ちゃのゆいちえしゅう》に一期一会の考え方と作法について記しています。
この「茶湯一会集」により、一期一会の考え方は知られるようになり、茶道の心得をして浸透していきました。
井伊直弼は、茶会が終わり、客が散り散りに去っていったあとの心得を重視しているのである。亭主が客の姿が見えなくなるまで見送りした後、茶室に戻って一人客を思いやりながら茶をたててのむ。いわゆる独服《どくふく》が〝一会の極意〟と言っています。
安政の大獄などが起因で、桜田門外の変で暗殺されてしまいましたが、井伊直弼の信念の強さと言いますか、潔さみたいなものを感じることができます。
人は生きているうちは出会いの連続です。人間だけではなく、ペットなどの動物や植物、この世に存在する全ての出会いが、自己と繋がっているからこそ、大事に思い、日々暮らしていきたいと思います。
現在の大河ドラマは源氏物語の作者紫式部を主人公にした「光る君」です。
昨年は徳川家康の一生を描いた「どうする家康」でした。
一昨年の大河ドラマは覚えておられるでしょうか?
三谷幸喜脚本の「鎌倉殿の13人」でした。
鎌倉幕府の執権北条義家を描いた作品でした。
今回は、十三人の合議制と悲劇の将軍源頼家について取り上げてみたいと思います。
◆十三人の合議制とは?どんな制度なの?
最初の武士政権である鎌倉幕府で“十三人の合議制”という民主主義的な制度が行われていたと思いがちですが、実際はどのように行われたのでしょうか。
初代鎌倉殿源頼朝が急死したため、嫡男頼家は若干18歳で2代将軍に就きます。いわば創業者である父頼朝と比べられてしまいます。これは2代目の宿命のようなものです。
源頼家は将軍についてから、数々の奇行を重ねて、有力御家人たちの心が離れていってしまいます。その奇行の中で知られているのが、土地の境界の親裁(君主の裁決)です。吾妻鏡によりますと、地図の真ん中に墨で線を引いて裁決したと記しています。
そうして、祖父である北条時政や母である北条政子らが、“十三人の合議制”を提唱して、頼家から直に裁決することを止めて、13人の有力御家人たちが話し合って裁決するようになったのです。ですが、実際には13人が会って話し合ったことはなく、その後も頼家が裁決していました。ですので、都度幾人かの有力御家人たちが合議して、最終的に頼家が裁決を下したものと考えられています。
◆将軍になるまで
源頼家は1182年(寿永元年)8月12日に父は源頼朝、母は北条政子の間に嫡男として生まれました。(頼朝の子としては次男)頼朝は懐妊の知らせを受けて、安産祈願のために、鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちは土や石を運んで、今でも残っている段葛を作りました。乳母父には、比企能員が選ばれたことなどから、乳母の多くは比企氏一族から選ばれました。このことが、後の悲劇を生むことになります。
14歳の時に、頼朝は政子、頼家、大姫を伴って上洛し、頼朝の後継者であることを披露され、1197年(建久8年)に、16歳で従五位上右近衛権少将に任じられました。
◆2代将軍として
1199年(建久10年)1月13日に父頼朝が急死すると、18歳であった若き頼家が家督を相続して、2代目の鎌倉殿となった。
家督相続のわずか3か月後には、先述の“十三人の合議制”がはじまり、頼家が直接訴訟を裁断することは停止された。これに反発した頼家は、若い近習5人を指名して、この5人以外の目通りを許さず、これに手向かってもいけないという命令を出した。頼家が側近たちや比企氏を重用し、独裁的な判断を行っていったとされています。
父頼朝の頃から重用された梶原景時が鎌倉追放の処分の後、御家人たちの襲撃を受けて、一族もろとも滅亡した梶原景時の変が同じ年の10月に起きます。梶原景時が頼家に頼家の弟千幡(のちの源実朝)を将軍にしようとする陰謀があると告げたため、他の御家人から追い落とされたとされる見方もあります。「愚管抄」の中で慈円は、梶原景時を死なせたのは頼家の失策と評しています。
景時の死から3年後の1203年(建仁2年)5月に、頼家は叔父である阿野全成を謀反人の咎で捕まえて、殺害します。さらに、妻である阿波局を捕まえようとしますが、阿波局の姉である母北条政子がこれを拒否します。
同じ頃、頼家は体調不良が現れ、8月の末になると、危篤状態に陥ります。翌月7日には都へ、「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報せが届きます。
同じ頃、比企能員の変が起こります。「愚管抄」によれば、大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなり、自ら出家し、子である一幡に譲ろうとしました。しかし、比企能員が絶大な権力を誇ることを危惧した北条時政が、自分の屋敷に比企能員を呼び出して殺害。一幡も亡き者にしようと軍勢を向けたが、母に抱かれて生き延びることができました。ですが、比企氏一族は討たれてしまいます。
後に回復した頼家はこのことを知らされて激怒します。すぐに北条時政討伐の命を出しますがこれに従う御家人たちはおらず、同年9月7日に将軍の地位を追われて、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいます。
◆修禅寺において
伊豆修禅寺に幽閉された頼家は、翌元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手勢に襲撃され、殺害されてしまいます。「愚管抄」によれば、入浴中に襲われ、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて、刺殺したとあります。
享年23歳でありました。
幽閉された修禅寺には、母北条政子が頼家の供養のために建てた指月殿や江戸時代に建てられた頼家の供養塔があります。
頼家が誅殺されたのは、御家人たちによる権力闘争に起因します。頼家の側近などは、頼朝が選んだわけですが、乳母父の比企能員をはじめとする比企氏が政権の実権を握ることは明らかでありました。これによって、政権の中枢から外されるとの危機感を抱いた北条時政ら北条氏との対立が激化した末の結果となりました。
北条氏が編纂した「吾妻鏡」では、頼家は暗君として描かれていますが、実際のところ、実力を発揮する以前に、母北条政子や北条氏によって揺さぶられ、将軍から追われてしまったと見て良いでしょう。また、「吾妻鏡」は北条氏が正当化させるために頼家を貶める政治的作為があるので、信ぴょう性があまりないです。
◆まとめ
武家政権の源氏の嫡男として誕生した源頼家は、父頼朝の急死を受けて、2代将軍に就きますが、将軍就任直後から、御家人たちは権力闘争に明け暮れ、頼家自身もこの権力闘争の渦に巻き込まれていき、ついには殺されてしまいます。
頼家の死後、弟の3代将軍実朝は、頼家の子公暁に暗殺され、権力闘争に勝ち残った北条氏が実権を握ることとなりました。
暑さがピークを過ぎ、秋の気配を感じはじめる時期を言います。
8月22から9月6日頃までの時期を指します。
とはいえ、まだまだ30℃を超える日々が続いています。
今回は、意表をつかれた短歌をご紹介いたします。
本当は、8月16日に記事として更新するつもりでしたが、一週間遅れで更新します。
その短歌は
松ヶ崎の妙法、西加茂の船形、金閣寺の左大文字、西山の鳥居形
昨年、93歳で亡くなられた歌人木村草弥さんの一首です。
2015年発刊の歌集「無冠の馬」に所収されています。
「無冠の馬」というタイトルが気になって、古書店で購入したのですが、この一首を読んだ途端に⁉となってしまいました。
ただ説明しているだけだし、五七五七七にもなってないし…
これが、「自由律短歌」なのかなぁと思いました。
衝撃というほどではありませんが、驚いたのは確かです。
同じ「無冠の馬」に収められている五山の送り火を詠んだ一首。
山腹の盆の送り火 如意ケ岳に薪を積みて「大」を描けり
この方が、五山の送り火の短歌だなあと感じました。
しかし、頭の中には、はじめの短歌が、印象に残っています。
今回は、時期がちょっとずれてしまいましたが、五山の送り火を詠んだ自由律短歌を取り上げてみました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
まだまだ、猛暑日が続く毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか。
暦の上では、秋ですが、全く実感できないですね。
日本では、一年を五日ごと、72に分けた、七十二候というものがあります。
と言っても、起源は古代中国ではありますが。
今は、「蒙霧升降(ふかききりまとう)」です。
旧暦ですので、ひと月以上先の季節になります。
秋山の ふもとにこむる うす霧は すそ野の萩の 籬なりけり
藤原伊家の和歌です。
話題はガラリと変わりますが、今月初めに、信濃毎日新聞社の信毎俳壇に投稿しました。
街中の メダカが泳ぐ 位牌堂
私のお寺さんは、市街地にある寺院で、ご先祖さまは位牌堂(納骨堂)におられます。
位牌堂や本堂の前には、大きな鉢に蓮の花があり、その中でメダカも泳いでいます。
お墓参りに行く度に、いつもメダカの泳いでいるようすをみています。
そんな情景を詠んでみました。
久しぶりにハガキに手書きで書いたので、とても新鮮なそして、懐かしい気持ちになりました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
約ひと月ぶりの更新となってしまいました。
8月に入ってから、何かと忙しくなってしまい、なかなか更新できませんでした。
お盆休みでブログを書き溜めておこうと思っていたのですが…
ブログを開設する時に、これといった方向性を考えないまま始めてしまったので、目的を見失ったと言えば、大袈裟なのですが、そんなような気がしてきました。
書いているうちに、段々と方向性が見えてくるだろうという気持ちでいました。
また、記事を多く残すことで、記事が資産となって、アクセスも増えると見込んでいました。いわゆる、〝質より量〟という感じですね。
思い返してみると、質の悪い記事がたくさんあっても、アクセスが伸びるわけがないですよね。
それで、これまでのタイトル
風越恭太郎の気まぐれぶろぐ
から
季節の移ろいを感じる 俳句や短歌で綴る私の日常
に変更しました。
俳句や短歌の鑑賞を中心に、日常生活で私が感じたことを書いていこうと思います。
方向性が見えてきたことで、少し安心したというか、このブログに向き合えるような感じです。
今後ともこのブログをよろしくお願いいたします。
おはようございます。
更新がだいぶ開いてしまいましたが、この間に、梅雨が明け、真夏本番といった ところでしょう。
話題は変わりますが、先日NHKラジオで放送している文芸選評に、初めて投稿いたしました。
短歌で、 選者は歌人川野里子さん。テーマは「 スプーン」でした。
初投稿した一首は
マジックと わかっていても トライする
スプーン曲げ 超能力
でした。
スプーンと言えば、ユリ・ゲラー=スプーン曲げを直ぐに連想して、作った一首です。
放送の中でも、スプーン曲げを詠んだ短歌が多かったそうです。
俳句や短歌は鑑賞することしかしてこなかったですが、初めて投稿してみてとても楽しかったです。
今日、放送される文芸選評は、短歌でテーマは「ゴリラ」でしたので、なかなか思い浮かばす、投稿するのは諦めました。
地元紙の信濃毎日新聞(略して信毎)の信毎歌壇や信毎俳壇にも積極的に投稿してみようと思い立った今日この頃です。
昨日、会社帰りに葉書を買いましたので、俳句や短歌を作って、投稿してみます。