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はじめに

私たちは日々、動物たちを美的に鑑賞している。

鳩がホームにいる。首を前後に振りながら軽快に歩き、素早く地面に頭を下げては何かをついばんでいる。「そこに食べるものなどあるのだろうか?」と私たちをしていぶかしめる。

病院の待合室に水槽がある。小さな熱帯魚が泳いでいる。舞台衣装のように鮮やかな赤い線や青い線が引かれた身体が水の中を動く。

「動物の美学」という分野は、おそらくはまだ十分には発達していないが、近年環境美学者を中心に論じられ始めている。ここでは、私が勉強の途中で出会った動物の美学の諸文献についてかんたんにまとめておく。動物の美学に関心のある人の参考になればよいと思う。

まずはこれ

青田麻未. (2019). 動物の美的価値: 擬人化と人間中心主義の関係から. 『美学藝術学研究』37, 1-29.

これ一つを読めば動物の美学の全体像がつかめるだろう。

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/52084

有名なもの

Parsons, G. (2007). The aesthetic value of animals. Environmental Ethics, 29(2), 151.

環境美学やデザインの美学を牽引するグレン・パーソンズによる「動物の美的価値」。青田の論文でも中心的に取り上げられており、動物の美学が本格的にはじまった一つの始原に思われる。パーソンズが好きな「機能美」から動物の美的価値を捉えようとしている。

Brady, E. (2014). Aesthetic value and wild animals. Environmental aesthetics: Crossing divides and breaking ground, 188-200.

こちらも青田の論文で詳細に検討されている。動物の表出的性質を鑑賞するというもの。その後の論文でもたびたび引用されている。

個人的な好み

Tafalla, M. (2017). The aesthetic appreciation of animals in zoological parks. Contemporary Aesthetics (Journal Archive), 15(1), 17.

「動物園は動物たちに自分たちのストーリーを押し付け、それによって動物たちを動物自身の基準で鑑賞することを妨げていると主張する」もの。個人的にはその主張がまず非常におもしろい。動物をその外見のみで鑑賞する態度を動物を主体として扱わないという倫理的な問題ともリンクさせているのも興味深い。

digitalcommons.risd.edu

Leddy, T. (2012). Aesthetization, artification, and aquariums. Contemporary Aesthetics (Journal Archive), (4), 6.

タファラの論文で批判されているトーマス・レディの水族館の美学論文。水族館でクラゲだったりを芸術的にまなざすように展示することは、たしかにクラゲをその生態的知識に基づいて鑑賞するようなしかたではないが、それはそれで価値があろう、という論文。環境美学における認識主義の議論についても触れることができ、水族館好きにはよい論文かもしれない。

digitalcommons.risd.edu

Semczyszyn, N. (2013). Public aquariums and marine aesthetics. Contemporary Aesthetics (Journal Archive), 11(1), 20.

こちらもタファラの論文で触れられている。とてもおもしろいのは、「水族館鑑賞のジレンマ」として問題を定式化していることだ。すなわち、

  1. 私たちは水族館を海洋環境を鑑賞する場所として扱っている、
  2. 水族館は人工物であり、自然物ではない、
  3. 自然と芸術は異なる方法で鑑賞されるべきである。

という問題である。センチシシンが提示するのは、水族館で展示されている動物は個体であると同時にその種の標本・モデルでもある、という主張である。これがおもしろいのは、水族館の水槽の中の環境は明らかに自然環境とは異なるが、しかし、自然環境を特定の仕方でモデル化したものであるがゆえに、人工物でありながらも、自然そのものにアクセスするための通路になりうるということだ。それゆえ、2. を修正して、水族館は人工物でありながら自然物へのアクセスを可能にするものでもある、と主張する。この論文は、水族館の良い展示とは何か?を考える際に非常に有用に思える。モデルの観点から水槽を捉えることで、その認識論的・教育的価値を論じることができるようになる。

digitalcommons.risd.edu

Greaves, T. (2019). Movement, wildness and animal aesthetics. Environmental Values, 28(4), 449-470.

これまでの論文はメインが分析美学系だったがこちらはメルロ=ポンティハイデガーにヒントを得たりしている。動物の動きに野性味を知覚して鑑賞する、という論文。なかなかおもしろくこちらもおすすめである。

journals.sagepub.com

犯罪学者ジェームズ・ウォルシュによる「例外的な日常:テロと日常生活の兵器化
(The exceptional everyday: terror and the weaponisation of daily life)」という非常に興味深い論文を読む。「日常生活の武器化」とは、日常的にありふれたもの(やかん、衣類、花束、コーヒー缶、本、ティッシュ箱、そして、人そのもの)に爆薬を仕込んだりすることで、日常の物品および人が暴力と化すのではないか、と人々を暴力的なものへの恐怖の雰囲気へと引き込むことで、人々に対する何らかの感性的なコントロールを達成しようとするものだ、と解釈できる。

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/17539153.2024.2356919?casa_token=ReMliJNSYwIAAAAA%3AdMbjDtK0-m00oh7hK_H5lp7OhODMsfXV1Qwpof2Rn1aSF39vCQVVMljrp2SsrJ2GRxGkxKQYcqM#abstract

私たちは一定の雰囲気のなかで生きている。基本的に世界は信頼できる雰囲気をまとっている。なぜなら、身の回りの人工物は安全なもの、ありふれた日常を生きるための適切な道具として私たちの振る舞いの連関に安らいでいる。もちろん、周りの見知らぬ人々も。しかし、テロリズムによって、安全なはずのものや人々が爆発物として変容しうることをニュースやSNSでの報道・映像・テキストで知らされると、私たちが日常的に感じていた世界への信頼の雰囲気が破壊されてしまいうる。そうして、恐怖に駆られた人々はテロリズムへの戦いに身を投じてしまったり、暴力を助長したりして、暴力はさらに拡大していく。今度はもしかすると、テロリズムに恐怖していたはずの人々が新たな恐怖を生み出す原因となるかもしれない。

こうした暴力の雰囲気の伝播を防ぐための技法は、テロリズム研究においておそらく考察されているだろう。もしかすると、その技法は感性的なものであり、その技法の彫琢には美学者の分析が寄与することもあるかもしれない。

私はずっと暴力の批判的美学について考えてきた。まとまった著作があるのかどうかも分からないのだが、こういうことが気になっている:暴力が暴力を受けた人やそれを目撃した人やそれをメディアを通して視聴した人々にもたらす感性的な影響とは何か?

芸術についての哲学的考察は、その意味について語ってきた。芸術が人々に与える影響もまた語ってきた。人々の行為や行動にもたらす影響を。しかしとりわけ、暴力を表現として捉えた際に、暴力表現がどのように人々の行為や行動を左右するのかについてのまとまった学問分野は、少なくとも美学においては見つけられていない。

暴力の批判的美学という名前でこの分野を仮に名付けるならば、この分野は暴力表現の種類や、媒体毎の特徴(写真、絵画、言葉、音楽)、与える影響(恐怖、憎悪、連帯)などについての体系的な美学的分析を行うことになるだろう。

ウォルシュの研究は、アーサー・ダントーの『ありふれたものの変容』の暴力版とでも言える研究ラインを開拓しようとしている。暴力が日常のオブジェクトや雰囲気をどのように一変させるのか。その悪しき力について考察する際に、美学において開発されてきた様々な概念が役立つに違いない、と予想している。

はじめに

誰かが自分を愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか。これは近年「愛の認識論」として盛り上がりをみせるトピックである(cf. Stringer 2024)。

最新の論文の一つ、ライアン・ストリンガーによる「How will i know if he really loves me? Toward an epistemology of love. においては、アリストテレス的な習慣と美徳の議論を参照しつつ「その人が愛するときに愛する仕方を把握することで、愛しているかどうかが分かる」という主張を行っている。

だが、この主張には問題がある。例えば、モラルハラスメントを繰り返し行ってくるパートナーは「お前のことを愛しているから叱ってやっているんだ。これがわたしの愛する仕方なのだ」と暗示的にせよ繰り返し主張できてしまう。それに対して、私は「これがあの人の愛する仕方なのか」と納得させられてしまい、より手酷いモラルハラスメントの渦中に突入していく。これは、おそらくたんなる想像ではなくよくある実際の話だと思う。

私は、別の答えを提示する。あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかをどうやって知ることができるのか? これに対しては、「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができるという「愛のニーズ応答説」を主張する。

愛する仕方の多元性とモラハラの危険

あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るには手っ取り早い方法があるはずだ。それは、あの人が私を愛する行為をしているかどうかを判断すればいい。すると、途端に問題が生じる。「愛する行為とはなにか?」

セックスはどうだろう。だが、ハルワニが指摘するように、あるいは直観的に考えても、セックスすることと愛することは重なることも少なくないが全然別の行為である。

ケアすることはどうだろう。だが、ケアは愛していなくとも可能であろう。あるいは、すごく薄い意味での愛に基づいてもできるし、ケアの種類も多種多様である。ある人は、ロブションに連れて行ったり、ハワイの夕焼けで告白することがケアなのだと言うかもしれないし、別の人は、日々洗濯してあげておいしい料理をつくることがケアなのだと言うかもしれない。

フィクションや常識的に考えて愛する行為はなんとなくグルーピングできそうだが、それらは定型発達的な常識やマジョリティの常識にかなり縛られている可能性が高い。毎日笑顔で接することやきめ細やかなケアをすることが得意な人もいれば不得意な人もいる。記念日を覚えられない人もいれば、細かく覚えておいて欲しい人もいる。そういうわけで、私達は常識に訴えることも避けたいと思う。なぜなら、私が愛する人は私が常識に従って判断すべきものというより、何よりもユニークな私とあの人の関係のなかで判断されるべきものだからだ。

それゆえ、ライアン・ストリンガーによる「その人が愛するときに愛する仕方を把握することで、愛しているかどうかが分かる」という主張は説得的なものにみえる。

ある人を私が愛していたとき、その人がいつも仏頂面だったとしても、さりげなく黙って魚のおいしいところを取り分けてくれたのだとしたら、私は愛を知ることができるだろう。

しかし、ストリンガーの方法説には問題がある。それは、愛の騙りを見抜けない可能性が高いことだ。

例えば、ある人が、「お前のことを愛しているから叱ってやっているんだ。これがわたしの愛する仕方なのだ」と暗示的にせよ繰り返し主張できてしまう。しかし傍からみれば、それは愛というより明らかに支配欲の表出であり、ちっとも幸せをもたらさなかったり虐待的であったりする。しかし、しばしば、そういう状況にいる人は、「ああ、これがあの人にとっての愛なんだ、答えなくては」と無意識の自己欺瞞に陥り、人生を疲労させていくものだ。これを批判できるような枠組みを私は作りたい。

愛のニーズ応答説

私が主張するのはシンプルな説である。

愛のニーズ応答説:「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができる。

愛のニーズ応答説は、私の愛のニーズに相手が答えてくれるかどうかによって愛を知ることができると主張する。例えば、私に叱る人に対して「そういう叱り方はやめて」であったり「その指摘はおかしい」というニーズに対して応答してくれるならば、私を愛していると知ることができる。

これは、相手の愛する仕方を重視するストリンガーよりももう一歩、あの人と私の愛の関係性(あるいは私の好みの言い方で言えば間柄)を含みこんだ理論である。

友人の哲学者が言った「個体であるあなたと私がたまたま出会ってぶるぶる震えているだけが愛ではない」と*1。互いのニーズを互いが理解して、調整し合って生き続けていくことが愛である。この直観を拾い上げるのがこの愛のニーズ応答説だ。

この説はモラルハラスメント的なあのひとの発言から愛を知ったという勘違いを回避することができる。あの人の愛する仕方があるのはそうかもしれないが、同時に、私の愛されたい仕方も存在する。私の愛のニーズを無視することは、どのような性格を相手がもっていたとしても、私を愛することにはならないと私は主張する。

同時に、愛のニーズ応答説は、つねにあの人と私がコミュニケーションの関係にあることを強調する。私のニーズに対して、あの人のニーズもまた表明され、互いのニーズの落ち着きどころを日々探っていくことになる。この努力や気遣いの過程のなかでのみ愛する行為は可能になるのだ。それゆえに、あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るためには、私もまたあの人をほんとうに愛していなければならない。現実の愛は、交渉の不必要な作り事の愛とは異なるのだから。

もちろん、私の愛のニーズが不当であるケースもある。いわゆる「試し行動」といったものは、私があの人の愛を確かめようとして、私の真のニーズというよりもただ試すためだけに無茶な要求をしたりすることである。それが軽微な場合はかわいらしいものだが、重篤なものになると、それは相手に対する危害を構成する。愛のニーズの真正性も重要になるだろうが、ここでは議論しない。

おわりに

愛のニーズ応答説は、私の愛する行為について想定を前提にしている点で議論の余地があるだろう。しかし、どのような関係においても、自分のニーズに対する応答があるかないかによって、ほんとうに愛しているかを判断することは案外容易にできるのではないか。あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るのは簡単である。あの人が私の想いを聞き届けてくれるかどうか、ただそれだけなのだから。

参考文献

伊藤迅亮. (2023). 私的対話.

Stringer, R. (2024). How will i know if he really loves me? Toward an epistemology of love. In The Philosophical Forum.

*1:伊藤迅亮との私的な対話に基づく(伊藤 2023)

サイトウユリコの三部作

日常美学において強い存在感を放つサイトウユリコの『Everyday Aesthetics(日常美学)』『Aesthetics of the familiar: everyday life and world-making(親しいものの美学:日常生活と世界制作)』『Aesthetics of care: Practice in everyday life(ケアの美学:日常生活における実践)』を読む。

Everyday Aesthetics (English Edition)

Aesthetics of the Familiar: Everyday Life and World-Making

Aesthetics of Care: Practice in Everyday Life (Bloomsbury Aesthetics)

とりわけ前者二冊は「日常美学は正統な美学なのか?」という問いに対して応答を行うパートを用意しており、日常美学という学問の領域と意義についての議論を勉強したい場合は手がかりになるだろうと思った。

前者も後者も、日本における日常生活の参与的な美的実践を西洋的な鑑賞主義的な美的実践に対するアンチテーゼとして参照している部分が多く、これを日本以外の人々はやはり新しいと思うのかもしれないが、日本人からするとあまりにもベタに思えた。だが、このベタさをきちんと論じるのは称賛に値する。

美的なものと倫理的なものの癒着

サイトウの三冊に通底する主張は、(1)日常生活における美的な実践が、同時に倫理的な実践でもある、(2)日常的な美的-倫理的実践が重要な帰結をミクロにせよマクロにせよもたらす、の二つと私は解釈した。これは特に『Aesthetics of the familiar』と『Aesthetics of Care』で主張・展開される。

私は、(1)も(2)も、記述的にはサイトウの指摘の通りだと思う。人々が、例えば、サイトウが挙げている事例とややずれるが「箸の持ち方」や「洗濯物のたたみ方」において、人々倫理的非難をしているように見えるとき、同時にそれが美的非難であることは人々に意識されていないが、事実そうだ。

お気に入りの思い出は、学会終わりにファミレスでみんなでご飯を食べているときに、私が食べ切れないパンケーキを残すと「食べ物を残すのはダメだよ」とある美学者に言われ、「それって何の非難? 道徳的? 美的?」と私が尋ねて、喧々諤々の議論が繰り広げられた。まさに日常美学である。

さて、食べ物の食べ方はまさしく、周りがどういう食べ方をするか、社会の常識が美的振る舞いのルールを決めているのだが、同時にそれは道徳的振る舞いのルールと癒着している。私はサイトウとは異なり、これを「癒着」だと思う。なぜか、なぜなら不平等の温床だからだ。

私は好きで食べ残す訳ではない。外食は基本的に食欲旺盛な男性基準でつくられているのではないか、と私は疑っている。外食は一部の人々にしか完食できないようにできている。だとすれば、食べ物を残すのは、私だけの責任とは言えない。私ももったいないので食べきりたいが、社会がそうなっていない。

だが、サイトウが記述するように––––しかし彼女がどれほど意識しているかはわからないが––––食べ方に代表されるような日常的な美的実践の非難や責任は個人に強烈に帰属されてしまう。それゆえ、外食のボリュームについての問題は背景に退き、食べ残しは私の醜い振る舞いに還元されてしまうのだ。

サイトウは「躾」や「禅の修行」をシュスターマンなどを引きながら美的-倫理的振る舞いを可能にする習慣として称揚する。だが、躾も禅も、その倫理性は議論の余地がある。人々がどのような躾を受けるか、その躾の正義・不正義を度外視して、美しい躾がそのまま正しい振る舞いと同一視されている。

確かに、美しい所作は美しい。だが、美しい所作が正しいとは限らない。正しい所作がなんともぎこちなく、とまどいがちで、言い淀みながら行われることもある。私たちは人生のうちでその光景を何度も目撃してきたのではないか? 正しい所作が醜いこともよくある。

だとしたら、美と倫理の癒着は美学者が積極的に剥離すべきものにすら思える。私たちの日常的実践における日と倫理の癒着を記述するサイトウの記述は非常に正しい。だが、それは規範的には批判されるべき癒着だ。躾に凝縮された不正義の構造を告発する方が、私にとっては日常美学の醍醐味に思える。

そういうわけで、私はサイトウの三部作は私にとって理想的ですらある批判相手として、とても魅力的な著作群である。私が立ち向かいたい日常美学の象徴として、サイトウユリコは明確なヴィジョンを打ち出してくれている。それは美しく、洗練されていて、嫌味がなく、上品な日常美学である。

私は、美しさ、洗練、嫌味のなさ、上品さをかいくぐり、私たちの日常実践における葛藤、へま、悲惨さ、とほほ感、いやらしさ、下品さを明確化したい。露悪ではなく、実際私たちの生活がそうなっているからだ。サイトウの美しい日本庭園的世界制作を腐食する別の雑種的世界制作の運動を見逃したくない。

天使でもなく堕天使でもない暮らしのための日常美学

私のこの動機は、例えば私がポルノグラフィを研究していることや、バーチャルYouTuberのスポイル的鑑賞を分析していることにもつながる。私は、現実を現実として感じることから現実のほんとうの複雑さ、そしてときに興味深い構造が、一見グロテスクではあっても立ち上がってくると信じているのだ。

premium.kai-you.net

対して、サイトウユリコ的な日常美学に充溢しているのは、なんとも上品で、ポルノグラフィもマスターべーションもVTuberのアンチコメントも反転アンチも存在しない(あるいはすぐに通り過ぎる)「日常」である。少なくとも私はそういう「日常」を生きてはいない。私たちは駅の柱広告でほとんど裸体の2次元美少女のイラストレーションにうんざりし、下品なCMにイライラし、YouTubeSNSのアンチコメントを嫌悪しながらもしばし目が離せなくなったりする。

こうした日常の複雑さ、その奇妙で時折うんざりする感性的経験に、私は深い人間らしさを感じるのである。サイトウユリコ的な日常美学の究極は、極端に言えば、天使たちの日常美学に至り着くのではないか? 身体を重視しながらも、美しい所作で満たされた心地の良い、品のよい日常が完成されていくのではないか、と私は深く疑う。

もちろん、ドカ食いや汚部屋といった方向に振り切るとそれはそれで「日常」は破壊されてしまう。堕天使の暮らしもまた人間にとって苦しい。私は天使と堕天使の両者のバランスをどこかに見つけるための日常美学を構築しようと考えている。

これは、私がミュージックビデオ論を書くにあたり探したミュージックビデオ論基本文献リストである。ごく簡単なものであり、研究を尽くすものではないが、しばしば名前が挙がる文献をリストアップしているので、ミュージックビデオ研究をしっかりやりたい人には役立つだろう。

日本におけるミュージックビデオ研究は、いくつか興味深いものも存在するが、まだまだ未踏の領域である。さらなる参加者を期待する。

さきに言えば、どれか一冊、となると、理論的な側面がしっかり語られており、先行研究を踏まえた研究史の整理をしてくれている、**Korsgaard, M. (2017). Music video after MTV: Audiovisual studies, new media, and popular music. Routledge.がよいだろう(実際、この本で言及されている本がほとんどこのブログに挙げられている。)。もう一冊となると、古典の一つのVernallis, C. (2004). Experiencing music video: aesthetics and cultural context. Columbia University Press.**が古典らしくかなり勉強になった。

1980年代

【親】

Kaplan, E. Ann. Rocking around the Clock: Music Television, Postmodernism, and Consumer Culture. New York: Methuen, 1987.

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ミュージックビデオ研究ではかならず言及される。

1990年代

ジェンダーと政治に拡げる】

Lewis, L. A. (1990). Gender politics and MTV: Voicing the difference. Temple University Press.

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こちらもしばしば挙げられる。ジェンダー論からの考察の古典。

音楽学との接続】

Goodwin, A. (1992). Dancing in the distraction factory: Music television and popular culture. University of Minnesota Press.

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音楽学の観点から分析したもの。

【論文集】

Frith, S., Goodwin, A., & Grossberg, L. (Eds.). (1993). Sound and vision: The music video reader. Routledge.

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論文集。ここから引用される論文も多い。

【マルチメディア性】

Cook, N. 1998. Analysing Musical Multimedia. OUP.

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マルチメディアの観点からアプローチ。

2000年代

【新しい古典】

Vernallis, C. (2004). Experiencing music video: aesthetics and cultural context. Columbia University Press.

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MV研究の新展開。詩学的な分析。物語論的ではない物語論という感じのリストアップ好き。かなり有用で、かなり引用されている。

【論集】

Dickinson, K., & Herzog, A. (2007). Medium cool: Music videos from soundies to cellphones. Duke University Press.

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様々な地域研究も含めた論集

2010年代

ジェンダーと人種】

Railton, D. (2011). Music video and the politics of representation. Edinburgh University Press.

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Vernallis, C. (2013). Unruly media: YouTube, music video, and the new digital cinema. Oxford University Press.

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ヴァーナリスの二冊目。こちらは論文集。

【論文集】

Keazor, H., & Wübbena, T. (Eds.). (2015). Rewind, Play, Fast forward: the past, present and future of the music video. transcript Verlag.

【ヴァーナリスのアップデート】

Korsgaard, M. (2017). Music video after MTV: Audiovisual studies, new media, and popular music. Routledge.

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最新の理論的著作。メディア論と映画論に目配せの効いた本で具体例が多くよい。

【歴史研究】

Arnold, G., Cookney, D., Fairclough, K., & Goddard, M. (Eds.). (2017). Music/Video: Histories, Aesthetics, Media. Bloomsbury Publishing USA.

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史書。なかなか分厚く興味深い。

【最新の論文集】

Hawkins, S., & Burns, L. A. (2019). The Bloomsbury handbook of popular music video analysis. Bloomsbury

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かなり網羅的のようだ。

2020年代

【ヴァーナリス】

Vernallis, C. (2023). The Media Swirl: Politics, Audiovisuality, and Aesthetics. Duke University Press.

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お買い物は様々な美的経験をもたらす行為である、と私は主張する。

私はお買い物が好きである。私は美学者である。美学者というのは日常的な経験(料理や仕事)から非日常な経験(観劇だったり旅行だったり)まで、あらゆる経験における美的な要素を捉えたり分析したりすることを好む人々である。なので、私はお買い物の美学について書こうと思う。

どこで買うか?

まず、どこに買いに行くかである。これはモビリティが関与する。私はやや環境に配慮しているので車アンチである。不器用なので自転車にも乗れない。なので徒歩か公共交通機関でアクセスできる場所に買いに行くことになる。この選択には感性はあまり発揮されていなさそうだ。

だが、私は美的な目的を持ってスーパーに行くことがある。それは、旅先や用事があってたまたま立ち寄った、普段使わないスーパーに行くときだ。そして、私の心はときめく。

そこで売っている野菜や魚や肉を一通り眺める。値段をみて「意外と高いな」「こんなに安いのか!」「えらく質が悪いな」と驚いたり馬鹿にしたりして、そのスーパーの仕入れ担当であったり保存の上手さを品評する。

次に、品揃えから、もしここで暮らすならどんな生活になるのかを想像して楽しむ。魚の品揃えがすごくよければ、私は毎日でも魚を食べるだろう、と想像するし、野菜の品揃えが悪ければ、ここには住みたくないな、と思ったりする。スーパーにはその周囲の人々の生活の痕跡があるように思う。スーパーとは「集合的食事意識」––––なのかもしれない。一般意志ならぬ、食品意志だ。

どうやって買うか?

私はかなり料理が好きである。毎日昼と夜は料理をして、自分の料理に自分で喜んでいる。ということで、私はかなり頻繁にスーパーに食材を買いに行くことになる。食材を買うときはある程度レシピを決めてから行くが、スーパーでいい食材に出会ったなら急遽献立を変更することも少なくはない。

食材を選ぶとき、私はかなり美的に楽しんでいる。まず、食材、特に野菜と魚がたくさん並んでいると嬉しい。いろいろな見た目や形が並んでいるのは目に良い。それだけではなく、それらの食材の状態をみることも楽しい。よい状態ならば端的に良いが、悪い状態であることを見るのもそれはそれで興味深い。「こんなに悪いトマトで売れるんだろうか」「なんてきれいなきゅうりなんだ!」「さんまが秋刀魚と書くのはほんとうに的を得ているなあ」。買う必要もないのに状態のよいとうもろこしやえだまめや鯛が置いてあるとしげしげと眺めたりする。

ここで、私は目利きを楽しんでいる。これが買い物の美的経験の中核をなすだろう。目利きとは、食材の良し悪しを適切な方法で判断することである。どのきゅうりがいいか、どのレタスがいいか、どのブリがいいのかを私はどこからか仕入れた知識や経験を元に判断する。その際に、もちろん食べてみるわけにはいかない。加えて、食材を傷つけたり、触りすぎてもいけない。また、通路の邪魔になってもならない。後者になるほど、私は目利きをいかに美しく行うか、自分自身に試している。私は目利きを美しく行わなければならない。醜く行ってはならない。食材たちが気持ちよく並べられているのを邪魔しないようにそれらと調和した目利きがなされなければならないのだ。

支払い美学

かごに入れただけでは買い物は終わらない。支払いが待っている。ここでも私は感性を働かせることになる。私は、なめらかに支払いを済ませたい。もたもたとすることは、あまり美しくはない。高齢の人々がセルフレジに苦戦されているのをみると、私はたいていのセルフレジの実装者とUIUXデザイナー(おそらくデザイナーは一人も実装に関わっていなさそうだが)に怒りを覚える。彼らは買い物に泥を塗った。高齢の人々を困らせ、買い物の支払いのゆったりとした時間を奪っている。私はたいていのセルフレジの開発者たちを買い物美学を汚した咎で糾弾したいとつねづね思っている。

支払いは単なるお金のやりとりではない。それは買い物の静かなコンマなのである。食材と出会い、食材と向き合い、その結果として選ばれた食材たちとともに料理に向けて旅立つ出港の合図なのだ。それは、美しいレジ打ちの人々のバーコード読み取りのリズムの後で、さり気なく、だがスピーディに行われるべきなのだ。それを貧弱なセルフレジ経験で汚すなど許しがたい。私は買い物の美学を保全するために、よりよいセルフレジや会計システムについて人々が本気で知恵を絞るべきだと思う。

持ち運びのセンス

支払いが終わっても気は抜けない。買い物はまだ終わらない。家まで持って帰らなければならない。私はお気に入りのカバンに食材を入れていく。油は一番下で、桃なんかは一番上だ。食材たちの重みと形状と剛性を感じながらこれから作る料理のことを思いながら袋に入れていく。

おわりに

今回は毎日の食材調達にフォーカスしたお買い物の美学を展開した。多くの部分は他のお買い物ジャンルでも当てはまるだろうが、しかし、差異も多かろう。服、本、インターネットでのお買い物、など、引き続き様々なお買い物実践を分析していきたい。

はじめに

たいへんおもしろかった。文化を生み出し動かすのは「ステイタス」への欲求とステイタスを創り出す無数の戦略である、と主張する文化論。カルチャーが好きな人は読むと不愉快になりつつも身の振り方の参考になるかもしれない。

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2つの批判

しかし、「ステイタス」という「社会における各個人の重要度を示す非公式な指標」という概念が融通無碍過ぎて問題がある。この概念を軸に、人はステイタスを求め、ステイタスは文化を作るから、文化の動きはステイタスから説明できる、と考えるのは無理がある。

なぜなら、第一に、この概念は広すぎてすべてを説明できるからだ。人々は自分の重要度を高めることを目指す動機を持つ、なぜなら、重要度を高めると幸福になるからだ、と言われて、なるほどその通りだ、と思うかもしれない。しかし、「重要度」の高まりとは何だろうか?

たとえば、自尊心と関連するが別のものらしい。文脈によってマークスは「重要度」を自由自在に変更しているようにも思える。ある面では道徳的な徳であったり、他の面では認識的な徳であったり、別の面では経済力であったり……。

けっきょく人間として褒められがちな性質すべてを突っ込んだ巨大で雑多な概念だ。それはすべてを説明できるだろう。人は、褒められがちな性質を求めて生きているに違いない。「ステイタス」を「良い性質の指標」としよう。

「人は良い性質の指標を高めようとして文化を駆動させるのだ」と言われても「それはそうでしょうね。人はよく生きたいものだからね」で終わってしまう。ゆえに、マークスの分析の要である「ステイタス」概念はその巨大さゆえに役に立たない。

第二に、ステイタス概念が適切だとしても、誰もがステータスゲームに興じているわけではない。たしかにマークスは繰り返し、この分析は人を逆撫でし、否定したくさせるだろう、と先手を打ってくる。しかし、マークスが観察するような人々はステータスゲーマーという特殊な集団である。

あらゆる文化的集団を覗くと、ステータスゲームに興じている者たちがいるのは間違いない。たとえアカデミックな哲学や文学においてもステータスゲームに興じる––––私からみればあまりにも奇妙な––––人々がいる。やれ賞をとったやら、やれ一流査読紙に掲載されたやら。

彼らは文化の駆動者だろうか? 文化の中心だろうか? 部分的にはそうだ。しかし、文化実践はこうしたゲーマーには限定されない。こうしたゲーマーたちはゲーム的な実存を持っているから文化のなかでステータスゲームに興じる。

そうした実存を持っていない人にとっては珍奇な生物として観察されよくてお愛想で拍手され、悪くてバカにされているだけだ。こうしたゲーマーを称賛するのは他のゲーマーでしかなく、ゲーマーが内輪で文化のことをゲームとして流用しているだけである。

マークスはおそらくゲーマーなのだろうし、マークスの目に入るのもゲーマーなのだろう。だが、文化は広い。ゲーマー以外の多様な文化の遊び方に目をやると、マークスの冴えた分析は鈍りだす。もちろん、マークスの分析は非常に素晴らしいものだ––––一部のゲーマーの実存を分析するためには。

ゆえに、マークスは「文化ゲーマーの哲学」を体系化したという意味で哲学史に貢献したと言えるだろう。総じて『STATUS AND CULTURE』は素晴らしい本だ。しかし、その素晴らしさは「文化の謎」を解き明かしたからではない。「文化でゲームをする奇妙な集団を分析した」からだ。これはゲームの本である。