また君に会いたいとか (original) (raw)
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
珍しいと思ってるパン。
外見ではわからない
あんパンのようなレーズンパン
北九州の人気ベーカリー「シロヤ」
博多駅に店舗が入ったので
手軽に楽しめるようになりました。
初めて買ったレーズンパン。
見た目から
あまりレーズンパンぽくない。
切ってみると
あんパンのような中身。
レーズンがぎっしり。
パイナップルも少し入ってる。
レーズンパンって
生地にレーズンが練り込まれたものが多いから
こんなふうに入ってるとは
意外でした。
ドライフルーツ大好きなので
すごく嬉しい。
あっさりしてるから
ペロリと食べてしまいました。
以前アップした定番の「サニーパン」
「君と暮らせたら」(作詞・作曲:草野正宗)は、
スピッツの6枚目のアルバム
『ハチミツ』(1995年)の
11曲目(最後)に収録されています。
☆ずっと変わらない夢
イメージ
※あくまで私なりの解釈で、
これを強要するとか、他の解釈を否定する意図はありません。
【勝手に解釈】は、私の妄想のページと思ってください。
青文字 は、
「君と暮らせたら」(作詞・作曲:草野正宗)より抜粋
歌詞を少しずつみていきます。
緑のトンネル抜けて 朝の光に洗われるような
爽やかなイントロ
爽やかなボーカル
爽やかなメロディ
前途洋々な感じ。
スピッツの今までの歌で
「緑」は、新しいものへと向かう意味、
気分を一新させるような意味に使われていた印象なので
「緑のトンネル」も
そんな希望に溢れたイメージです。
緑の多い田舎や郊外
木々に覆われた道や木立などを連想しますが、
夢や希望に溢れた道のりを歩むことができて
それが素晴らしい結果に繋がっているなら
という僕の願いであって
必ずしも田舎や郊外ではないような気がします。
わずかな微笑みさえも
残らずみんな 分けあえるような
そして、
「わずかな微笑みさえも」は、
互いのちょっとした心の機微にも寄り添える
という意味なのかな。
あまり笑えない状況や嬉しくない状況も
その不安や寂しささえもすべて
「分けあえる」という意味もあるのでしょうか。
それなら、
必ずしも祝福される間柄ではなく
困難な壁に立ち向かっていく覚悟もある、
という気がしてきますが・・・
ここでは、
そこまで予想してないように思います。
でも、一抹の不安はあったのでしょうか・・・。
可愛い歳月を 君と暮らせたら
「可愛い歳月」は、
字のとおり
屈託なく純真で
幸せに満ちた日々でしょう。
ここは
同じアルバムの歌「Y」の歌詞
♪生まれた頃と同じような心で
触ったらすべてが消えそうな
の
「生まれた頃と同じような心」が
「可愛い」歳月ではないでしょうか。
そんな若々しく純粋な二人で
幸せに暮らせることを
夢見ていたのでしょうね。
ジグザグこだましながら
声が遠くまで届いていきそうな
1番の歌詞は
「可愛い歳月」を共に過ごせる
期待を抱いていた頃。
やがて、
声がいろいろなところにぶつかって
こだまが「ジグザグ」に響く様子は
自分の上げた声や思いがまっすぐ通らない様子、
阻まれたり障害がある様子じゃないでしょうか。
また同時に、声がぶつかるたくさんのものは
都会のビル群もイメージできます。
僕は今、生き辛い状況で
暮らしているのかもしれません。
それでも、君を求める思いは
いろんな壁に突き当たりながらも
いろんな方向へこだまして
より広く大きく遠くへ届くことを
期待しているようです。
見上げれば雲の流れに
今いる場所を 忘れちゃいそうな
君と僕は、
今は離れて暮らしているのでしょうか。
空を渡る雲は
ちぎれてもまたくっついたり
形を変えたり
まるで人生のようです。
雲の流れに自分の人生を重ねて
雲がこの先どう流れていくのか
僕はいつも興味を持って見ています。
だから、
空を見上げていると
君と離れている日々や
置かれている状況を忘れてしまうくらい
君に思いを馳せることができるのだと思います。
そして僕にとって空は
大事な心の拠り所で
たとえ雲に覆われていても
その下には必ず
君と繋がる青い空があると信じています。
それは、
どんな困難があろうとも
その先にはきっと
幸せな日々が待っているはず、
という
僕のささやかだけど強い信念だと思います。
寂しいあの街で 君と暮らせたら
「寂しい」とは?
爽やかな1番の歌詞から
ちょっと不穏な気配に。
君のいる街はもう「寂しく」なってる?
僕の気持ちが「寂しく」なってる?
君はもうあの街にいないのか、
誰か別の人と暮らしているのか、
それとも
一緒にいてはいけない間柄として
距離を置かないといけないのか。
かつて、可愛い歳月を暮らせると思っていた夢は
破れてしまっているのではないでしょうか。
でも、どんなに「寂しい」状況になっても
君と暮らせることを夢見ています。
可愛い歳月を 君と暮らせたら
ギターソロをはさんで
またこのサビが繰り返されます。
これが、僕の究極の願いなのでしょう。
ここのギターソロは
私の好きなスピッツソロの
ベスト10に入ると思っています。
とにかく爽やかで
悲壮感はそんなに感じられません。
何も憚ることなく
純粋な気持ちのままで
君と暮らしたい。
もうそれは無理なことなのでしょうか?
「暮らせたら」という表現は
何となく自信なさげですが
確固たる意志も感じます。
十五の頃のスキだらけの 僕に笑われて
今日も眠りの世界へと すべり落ちていく
最後のCメロ。
ここにきて、
十五の頃から
ずっと夢見ていたのか?!と驚かされます。
その頃からずっと僕は自分の気持ちを強く出せず
しかも、君と幸せになることは難しそうで
結局願望や妄想のままな感じ。
「まだそんなこと言ってるのか?」と
昔の自分に笑われそうなのです。
それでもずっと望みを捨てないで
明日を夢見ながら今日も眠りにつくようです。
眠れない、
というより
夢を期待して眠りにつけるのは
むしろ羨ましい入眠ではないですか?
「すべり落ちていく」のですから。
君と暮らせる日は来るのでしょうか。
歌全体が明るく爽やかなせいでしょうか、
あまり悲壮感がないです。
【歌の感想】
アルバムの最後を飾る歌。
ずっと夢見たままの、
でもちょっと幸せな感じもする歌ですね。
曲や伴奏が明るくアップテンポで、
自分たちの状況が「寂しく」なっていても
君との未来をずっと夢見ているところに
ひたむきさと健気さを感じます。
このアルバムを通して感じるのは、
これまでの(「空の飛び方」までの)歌では
ひたむきさが爆発して
とにかく自分の思いをぶつける、
君に願いを請うばかりのような
歌が多かったと思います。
例えば
♪だけど君は来ない「待ち合わせ」
♪骨の髄まで愛してよ「惑星のかけら」
♪本当のことを教えてよ「ハニーハニー」
♪もうどこへも行かないで「僕の天使マリ」
♪それだけでいい何もいらない
瞳の奥へ僕を沈めてくれ「日なたの窓に憧れて」
♪最低の君を忘れない「不死身のビーナス」
それらがだんだん少なくなってきて
離れていること、叶わないことを受け入れ、
ひたすら耐えている歌が
多くなってきたように思います。
このアルバムでは、
「ハチミツ」で運命的な出会いをした君に
盲目的にアプローチしていく僕の描写から始まり
最後の歌では
♪君と暮らせたらという
穏やかな感じの願いで眠りについています。
これまでの強引とも思える願いは
少ないようです。
これまでの歌は
若さが溢れる歌が多かったということでしょうか。
ひたすら自分の思いをぶつけるだけでなく
君の状況(僕だけに愛情を注げないとか?)への理解や
自分の置かれた状況を受け入れる余裕のようなものが
増えてきてると思います。
少しずつ大人になってきてるのか
人生の苦節に耐え、達観しはじめてるのか。
ところで、この歌の最後(Cメロ?)は、
それまでのAメロともBメロともサビとも
まったく違うメロディになっています。
歌の最後に来るこのパターンのCメロは
私が勝手に『「椰子の実」バージョン』と
呼んでいます。
最後の歌詞だけ
それまでとは違うメロディを使うことによって
その部分がより強調されると思うのです。
もしCメロと呼んでいいなら
「名前をつけてやる」の歌の最後、
♪ララララララ~ウ~ウ~
も同じじゃないかと思っています。
「椰子の実」(作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二)の
歌詞の最後の部分
思ひやる八重(やえ)の潮々(しおじお)
いづれの日にか 国に帰らん
だけ、それまでのメロディとは違っていて
より望郷の思いが伝わってくるようです。
こういうCメロ、好きです。
「シュガー」(作詞・作曲:中島みゆき 1987年)
イメージ
夢を抱いて
故郷を後にした女性
夢に焦がれては破れ
今では幼子を抱え
小さな店の舞台に立つ
でもまだ諦めちゃいない
こんなもんじゃ終わらない
※あくまで私なりの解釈で、
これを強要するとか、他の解釈を否定する意図はありません。
【勝手に解釈】は、私の妄想のページと思ってください。
青文字 は、
「シュガー」(作詞・作曲:中島みゆき)より抜粋
歌詞を少しずつみていきます。
スパンコールと羽根飾りをつけて
今夜もあたしの出番が来る
「あたしの出番」という表現から
主人公の女性は
複数ではなく一人でステージに立つ人だと
思うのです。
ありえないようなお伽の駅から
今夜も男たち旅立ってゆく
仕事終わりの客が
彼女のステージで
ひとときの幻想にひたり
夢見心地で店を出る様子を
「お伽の駅」から「旅立ってゆく」と
表現したのでしょう。
自分のステージで
男たちが酔いしれていく。
ここは、
自分の甘美で魅惑的なショーで
男たちを酔わせ
現実を忘れさせているのだという
主人公の自負が感じられます。
二文字砕けた呼び込みのネオンは
おかげで故郷のつづりと似てしまった
「二文字砕けた」というところから
繁華街から裏道に入った
場末の小さい店ではないかと思います。
表通りの繁盛している店なら
看板の文字が欠けたら
早めに取り替えるかと思うのですが
二文字欠けても、
まだそのままのようです。
しかも、
一文字砕けた状態から
二文字目が砕けるまで
日数があったように思います。
おかげでその看板は
嫌でも故郷を思い出させるようになった。
帰りたくても、ずっと帰ってないのでしょうね。
まだ胸を張って帰れない
そんな意地と寂しさを感じます。
ただ
絶望感や悲壮感で重くなってない歌詞や
ちょっと開き直ったような歌い方が
みゆきさんらしいというか。
聴いてて救われるところ。
中島みゆきの歌で一番好きな
「ホームにて」の主人公の気持ちと
ダブるところがあります。
霧の深い夜は大好きよ
5m先に あの日の夢たちが映画みたいに映る
ここの歌詞は、私が好きなところ。
店に出てきた時か
店の窓から外を覗いた時か
子供を迎えに出た時か。
霧が深いと、視界が狭くなって
今いる場所や状況
現実を忘れさせてくれるから
好きなんでしょうね。
ネオンもぼんやり霞んで光ってるし。
故郷を出て
何度も夢は破れ、男につまづき、
何度も諦めかけた。
その日々が
「映画みたいに」という表現なのが素敵で好きです。
霧の夜に幻のようにつかの間思い出すのは
霧の白い銀幕に映る
今より輝いていた頃の自分がヒロインの
ラブストーリーやサクセスストーリーなんです。
夢は57セント 一度足を上げる値段
思い描く夢は
今では57セントになってしまった。
この歌が出た当時も安いと思ったけど
セントはドルの100分の1。
自嘲も入ってるのでしょうが
本当に安い賃金。
でも今はそれしかないのです。
ステージで足を上げることが
どれほど屈辱的で辛いことだったか。
主人公は
一人で演じる
「ストリップダンサー」
ではないかと思うのです。
夢から夢へ綱渡り
SUGAR SUGAR 砂糖菓子
夢が破れては次の夢へ
意地や失意、諦めと隣合わせで
何とかここまでやってきたようです。
キレイで可愛い「砂糖菓子」は
誰からも好かれる甘いもの、
誰もが欲しくなり手を伸ばす。
でも脆くてすぐ壊れてしまう。
特に温かいもの(紅茶など)に
すぐ溶けてしまう。
魅力的な仕事や男に
ほだされてきたのでしょうか。
まるで、主人公の心のようですね。
強がってるけど
(そうしないと生きていけないから)
本当は夢に夢見て、
ほろりと脆く弱い女性なのでしょう。
A. M.3時までには迎えに行かなきゃね
あの児の夜泣きする声が聞こえてくる
でも必死で生きていかないと。
主人公には子供がいるのです。
それもまだ幼い。
深夜までみてくれる
ネオン街で働く女性のための
すぐ近くの託児所に子供を預けて
ギリギリまで働いている。
深夜まで働きながらも
子供のことが胸に浮かんでくるのが
切ないです。
子供を迎えに行って
まだステージをこなすのでしょうか。
面倒くさそうにも聞こえるけど
こういう状況にさせてることに
負い目を感じてるのだと思います。
預けっぱなしで なつかない瞳が
あいつとそっくりに あたしをさげすむわ
「なつかない」「さげすむ」と感じているところに
子供に対する申し訳なさがあるように思います。
自慢できる仕事ではないことに対する
後ろめたさもあるのでしょう。
父親の面影がある瞳が
嫌でも子供の父親を思い出し、
自分をさげすんでいたその男の表情とダブる。
子供もその瞳で
自分をさげすんでいるのではないかと
思っている。
辛いですね。
子供の父親は結局
自分を女性・母親として見てくれなかった。
さっさと見捨ててしまった。
それは自分の職業や今までの遍歴のせいだという
引け目があるのだと思います。
「なつかない」とか「さげすむ」なんて
思わなくていいのに、ですね。
一生懸命働いている親の姿を
子供はずっと見ていて覚えてるし
きっと誇りに思うと思う。
夢は57セント 一度足を上げる値段
胸から胸へ綱渡り
SUGAR SUGAR 砂糖菓子
「胸から胸へ」
優しくしてくれる男に
ついほだされては
捨てられてきたのでしょうか。
欲しかったものは手に入れたわ 何もかもさ
ほら こんなに光ってる 靴もネックレスも
稼いだお金で、
欲しかった「物」は手に入れてきた。
自分をきれいに着飾ってくれるもの。
本当に欲しい夢が叶えられない自分の
寂しさや見栄を隠すための。
華やかな世界やお金は
ほんの少しは
手に入れることができたのでしょう。
でもそれも長くは続かず。
流れ流れて今は・・・。
人生は2番目の夢だけが叶うものなのよ
ほら だってあの人は あたしに残らない
そして、一番欲しかったのは、
お金や物ではなく、
愛する人との愛のある生活だった。
2番目の夢は何とか手に入ったけど
「愛」や「心」は手に入れられなかった無念が
今も残っている。
隣の店から風に乗って流されて来る
油の匂いで 胸やけがするわ
スポンジのようなパンを 水で喉に押し込んで
今夜も極楽へ踊り出してゆく
これは店の楽屋でしょうか、
それとも
母子で暮らす安くて狭い部屋か。
もしかしたら、
店に住み込みかもしれない。
どれにしても、
あまりいい環境ではなさそうです。
口にするのは
パサついて味気ないパンだけ。
舞台がはねて部屋に戻れば、
疲れや眠気に襲われる。
自分一人ならまだしも
幼い子供に食べるものを食べさせたら
(まだ乳飲み子かもしれないけど)
相手をしてやる余裕もない。
もしかしたら、
昼間は別の仕事を
掛け持ちしてるのかもしれません。
他の託児所か、みてくれるところに子供を預けて。
だから「預けっぱなし」
それでもひとたびステージに上がれば
派手な衣装とスポットライト
客の歓声を浴び
束の間の華やかさに酔いしれる。
「極楽」と表現しているのは
観に来る客と同様
それが彼女にとっても
つかの間現実を忘れられる時なのでしょう。
夢は57セント 一度足を上げる値段
ここからどこへ まだゆける
SUGAR SUGAR 砂糖菓子(*)
(*)くりかえし
この生活がずっと続くとは
思っていません。
そのうち
人気を集める子が出てくると
幼子を抱えてる自分など
すぐ用無しになる。
でも、
これで終わるわけにはいかない。
自分はまだ
どこででも
何でもやれる。
イメージ
【歌の感想】
職業に貴賤はないというけど
この歌が出た頃は
ネオン街で働く女性への偏見が強かった。
どうしても
「流れ着いた先」
「落ちぶれた先」というイメージでした。
「ストリッパー」(ストリップダンサー)は
映画や小説で描かれた内容しか知らず
実際に観たことも
身近に「観た」という人もいませんでした。
もっとも、女の私に
「観たことある」と言う人もいないだろうけど。
だから、私なりの想像で解釈しているので
実際とはかけ離れているかもしれないし、
そもそも歌の主人公は
「ストリッパー」ではないかもしれません。
主人公は
今さら故郷に帰るわけにもいかず
幼子を抱えて働くシングルマザー。
「女性の強さにエールを贈る歌」とは
簡単には言えない歌だと思います。
私がこの歌を好きなのは、
うまくいってた時期もあっただろうし
失意のどん底にあった時期もあっただろう
そんな過去を引きずってないようなところ。
済んでしまったこと
それも自分の人生、と
割り切ってるようなところ。
加えて、歌詞もみゆきさんの歌い方も
あっけらかんとしているように聞こえて
あまり悲壮感がないところ。
でもチラチラと垣間見える
弱さや脆さ、人情味に
人間らしさが感じられるところ。
みゆきさん独特のエールソング
という側面だけでなく
強さだけではない
素の人間に寄り添ってくれている気がするのです。
そんな、人間の本質を見つめたエールに
「甘さ成分」を感じる「シュガー」という題名が
よく合っていると思う。
中島みゆきの歌は昔から
どん底にある失意や暗さを歌ったもの、
元気を鼓舞するものも多かったけど
この歌は
それらを混ぜ合わせ
ちょっと甘く柔らかくして
そっと前向きにさせてくれる。
それまでの歌のイメージと少し違う。
ちょっと意外だったけど好きな歌です。
故郷を出て失意の歌としては、
みゆきさんの
「ホームにて」(1977年)
「歌姫」(1982年)
ピーター・ポール&マリーが歌った
「500マイルもはなれて」(1962年)
なども同じ系統の歌かと。
ただ、この歌からは
悲壮感や絶望感はもちろん
望郷の思いはあまり感じられませんね。
それより今は、日々を送ることに一生懸命。
辛いこともあるけど
しょうがないじゃない
弱音吐いてる暇なんてない
まだ何だってやれるわよ!
「Y」(作詞・作曲:草野正宗)は、
スピッツの6枚目のアルバム
『ハチミツ』(1995年)の
9曲目に収録されています。
☆いつか叶うと信じて
「蜃気楼」というより「幻」のイメージ
※あくまで私なりの解釈で、
これを強要するとか、他の解釈を否定する意図はありません。
【勝手に解釈】は、私の妄想のページと思ってください。
君とはきっと結ばれない定め
でも、君との約束を信じて
僕はずっと待っている
恋い焦がれて
待ち続けて
それでも君を思うあまり
夢にまでみてしまう
君は夢の中で
僕に会いに来てくれる
大事な約束、忘れない
いつか願いが叶うときまで
ずっと信じて生きていく
青文字 は、
「Y」(作詞・作曲:草野正宗)より抜粋
歌詞を少しずつみていきます。
小さな声で僕を呼ぶ闇へと手を伸ばす
静かで長い夜
どこで句切ればいいのか悩んでしまう一行目。
私は、
「小さな声で僕を呼ぶ」=君
「闇へと手を伸ばす」=僕
じゃないかと思っています。
夢の中で君の声が聞こえたのです。
闇の中で、声だけが。
真っ暗闇の中、
僕は手探りで声のほうに手を伸ばします。
慣らされていた 置き去りの時から 這い上がり
無邪気に微笑んだ 君に会うもう一度
「置き去り」にされていたのは僕のほう。
僕はこれまで、
君をずっと待ち続けてきました。
♪このまま僕のそばにいてずっと
もう消えないでね
(「胸に咲いた黄色い花」)
♪そして君は来ない
百万年前に約束した場所へ
(「待ち合わせ」)
♪マリマリマリ 僕のマリ
もうどこへも行かないと約束して
(「僕の天使マリ」)
♪いつか出会える時まで
君だけを 必ず 君だけを
描いてる・・・ずっと
(「君だけを」)
そして離れ離れになってしまう君さえ
ずっと待ち続けていたんです、
また会えると。
♪いつでもここにいるからね
(「魔女旅に出る」)
♪いつの日にか君とまた会えたらいいな
(「田舎の生活」)
♪最低の君を忘れない
おもちゃの指輪もはずさない
(「不死身のビーナス」)
だから、「置き去り」は慣れていたのです。
一人取り残された日々はまるで
暗い闇のようなもの。
だから、置き去りの間僕は
地の底のような暗くて深い闇の世界
にいたのです。
そこから「這い上がり」ます。
「無邪気に微笑んだ」のは君だと思います。
君はいつも無邪気なんでしょう。
♪君は小さくて悲しいほど無防備で
無知でのんきで優しいけど嘘つきで
(「ナイフ」)
という描写がありました。
でも、同様に
僕も「無邪気に微笑んだ」と思うのです。
僕の場合は少々無理をして微笑みます。
すごく嬉しいんだけど、
君がずっとここにいるわけじゃなく
また離れ離れになることをわかっているからです。
強がるポーズがよく似てた二人は
弾き合い その後引き合った
二人とも強がってるフリをしていたんですね。
お互いにそのことに気付いていたんでしょうか。
売り言葉に買い言葉じゃないけど
意地の張り合いで、
衝突や反発があったのでしょうか。
その後惹かれ合うようになったのに
なぜ僕は「置き去り」のときを
過ごしてるのでしょうか。
一緒にいられない、
結ばれることができない、
何か理由があるのでしょう。
それが次のA’メロにうかがえます。
生まれた頃と変わらない心で 触ったら
すべてが消えそうな 君を見つめていた
大人の打算や駆け引きなど知らない
生まれたばかりの子供の
何の邪心もない純粋な心で
僕は君を好きなのです。
でも、そんな気持ちで君に接するのは
いけないことのようです。
「すべてが消えそう」というのは
君自身はもちろん、
君との思い出や
置き去りにされながらも待っていたこと・時間
僕たちのこれからの未来への微かな望み
それらがすべて
水の泡になってしまうんでしょうね。
君を純粋に好きになってはいけない、
君と結ばれるのは難しい。
だから、「引き合った」のに
「置き去り」なのでしょう。
やがて君は鳥になる ボロボロの約束胸に抱いて
君はもうじき僕の夢から消えていきます。
僕にはわかっていることです。
でも会えるだけで幸せなんです。
君は君の道を歩いて(羽ばたいて)
僕は僕の道を歩く(ずっと君を待つ)。
「ボロボロの約束」を胸に抱いているのは僕。
何度も何度も破られて
何年も何年も待ち続けて
ボロボロになってしまってる
でも絶対捨てられない大事な約束。
悲しいこともある だけど夢は続く
目をふせないで
舞い降りる 夜明けまで
君と結ばれることは難しい。
二人の間には
何か大きな障害があると思われます。
全て承知だから辛く悲しいけど
でも大切な約束なので
望みは決して捨てない。
だから「夢は続く」
この「夢」は、
君と結ばれるということの他に
会いに来てくれてる間の「夢」
もあると思います。
「目をふせないで」は、
「諦めないで」ということかと。
これは、君に対しても
僕自身にも訴えかけています。
「舞い降りる」のは、
「決意、心を決める」ということではないかと思います。
「夜明け」は、文字通りの夜明けもあるでしょうが
耐えて待ち続けた
「願いが成就するとき」という意味だと思います。
「舞い降りる」「夜明け」がきっと来ると
信じて日々を生きていきます。
やがて君は鳥になる ボロボロの約束胸に抱いて
風に揺れる麦 優しい日の思い出 かみしめながら
揺れている麦の穂は
「実り」をイメージする
生命感や期待にあふれる表現だと思います。
「稲穂」もスピッツの歌にはよく登場します。
阻む壁にぶつかる前の
純粋な心でいられた頃の思い出、
必ず「実る」と信じていた幸せな日々は
みな優しく僕の心にしみこんでいます。
君の心にだってしみこんでる。
僕はずっとそう信じています。
つぎはぎのミラージュ 大切な約束
胸に抱いて
ここの歌詞は特に切なくて好きです。
「ミラージュ」=蜃気楼や幻は、
ただでも不鮮明で脆く儚いもの。
私はここでの「ミラージュ」は
「幻」ではないかと思っています。
スピッツの歌にはよく出てくる
「幻」という表現。
それを「つぎはぎ」にして、
君との儚い記憶や思い出を
一つひとつ拾い集めて
必死でつなぎ合わせているんです。
何と悲しく健気なことでしょうか。
君の存在
君の言ったこと
君がしたこと
そして僕らの思い出自体
どれもみな蜃気楼のように
現れては消え、消えては現れるような
正体があるのかさえ不確かなのです。
「幻」だから。
♪映し出された思い出は
みな幻に変わってくのに
(「涙がキラリ☆」)
♪かげろうみたいな二人の姿を
(「日なたの窓に憧れて」)
♪ゆらめく陽炎の向こうから
君が手を伸ばしたら
(「スカーレット」)
君がいるのは、
そして君が僕に寄り添うのは
現実とも幻ともつかないような
あやふやさを伴っているんだと思います。
君は
ずっと僕とはいられない
ずっと僕を愛することは難しい
何となくそんな気がします。
だから、君がいなくなった後は
すべて夢だったような気になってしまうのです。
確かに君はそばにいた
夢だったのか?
信じていいんだよね
その自問自答の繰り返し。
そうなる前に、消えてしまう前に
少しでも確かなものとして
「つぎはぎ」にして纏めていくのです。
それすら大切な約束だと信じています。
何が二人の壁となっているのでしょう。
二人は、
世間一般に許されない間柄ではないかと
私は勝手に思っています。
悲しいこともある だけど夢は続く
目をふせないで
舞い降りる 夜明けまで
いつか叶うと信じて
諦めないで
僕らは生きていく。
「蜃気楼」と「夜明け」のイメージ
【歌の感想】
これまでずっと僕の思いは成就していません。
というか、
最初から成就できない間柄で
僕もそれをわかっています。
でも、一縷の望みを抱えて
日々を生きています。
そして
叶わない君との未来や夢を思い
一途なあまり
夢にまで君が出てきます。
「Y」という題名も
何を表しているのか不明です。
「夢」かもしれない、
「離れ離れになるとき」かもしれない。
私は「yet」かな、と思ってるのですが。
「まだ」実現していない
「もう」心は通じ合ってる
「だけど」結ばれない・・・などなど
いろんな含みがあるかと・・・。
考え過ぎでしょうか?
僕と同じく
君も強がっていたようですね。
何となくホッとします。
いつか「舞い降りる」ことができると
信じて。
君と夢で会えることを待ちながら。
この歌を聴くといつも思い出す
吉田拓郎の「恋唄」(1978年)
♪あなたが暗闇から
呼びかけてくれれば
こちらも一途な思いに溢れた切ない歌です。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
大学時代、
ゼミのメンバーで鍋パーティーをした時の話です。
同学年のA君は、
地元の出身だったけど実家が遠いので
下宿していました。
彼の下宿はわりと広く、
部屋に台所がついていたので
(当時は私も含めて、
下宿の台所は共同というところが
多かったのです。
もちろんトイレ・お風呂も)
彼の部屋を使わせてもらいました。
そして彼の部屋を使ったもうひとつの理由は
彼が大量の「マツタケ」を提供してくれたからです。
彼の実家は山間部で、
「マツタケ山」を持ってるらしく
そこで採れた大小のマツタケが紙袋一杯に。
軽く20~30本はあったでしょうか。
見たこともない量でした。
ゼミのメンバーは9人でしたが
女子は私一人で、
必然的に私が調理担当となりました。
しかし、「鍋」だったので
もっぱら材料を切っておくだけでした。
私の実家では「マツタケ」はぜいたく品で、
地物にこだわる父のために
母は、良い地物を扱っている店まで
買いに行ってました。
しかもだいたい3本くらい(4人家族なのに)。
私は、調理担当なのをいいことに
A君に頼んで
2・3本もらって両親に送ってあげたいと思い、
男子ががやがやしているところに
「ちょっとA君・・」とA君を呼びに行きました。
「2・3本もらってもいい?」と聞こうとしたら
その前にA君が台所を見て
「何で切ってるんだよ!」と
言うではありませんか。
私は意味がわかりませんでした。
するとA君が
「こうやるんだよ」と言って
マツタケを縦にさぁーっ、さぁーっと
手で裂いていくではありませんか。
初めて見る光景でした。
(あ~、もったいない!
1本から4切れくらいしか
「とれない」じゃないか!)
と、口にはしなかったけど
かなり驚きました。
A君が言うには
「マツタケを切ったりしない」そう。
それが美味しい食べ方かもしれないけど
消費者にとっては贅沢すぎる使い方です。
私の実家では
2本のマツタケで
松茸ごはん、松茸の吸い物、土瓶蒸し(風)を
作るため、
1本を横に3等分して細かい短冊切り。
残りの1本は縦にスライスして
父のために軽く炙っていました。
私や妹は、
炙ったマツタケは
あまり好みではありませんでした。
だから、紙袋の大量のマツタケを
せっせと粗い短冊切りにしていたのです。
A君の驚いた顔。
その後はA君にならって、
残りの大量のマツタケを
泣く泣く縦に裂いていったのです(泣)。
私が切った短冊切りのマツタケは
松茸ごはんに入れました。
その松茸ごはんも、
A君にならうと
縦に細目に裂いたマツタケを
炊きあがったところにばら撒いて
蒸し上げるという作り方。
せっせとマツタケを切っていた私は
A君に呆れられ、不思議がられ
カルチャーショックを受けた気分でした。
別に実家での作り方を
A君に弁明したわけではないけど
なんだか、
お母さんごめんなさい
とちょっと悲しくなりました。
もちろん、もらって帰ることもできず。
あんなにダイナミックに贅沢に
マツタケを調理したのは
後にも先にもその時だけです。
「Do You Love Me ?」( KISS 1976年)
(以下、青文字はすべて
「Do You Love Me? 」
作詞・作曲:Bob Ezrin, Kim Fowley, Paul Stanley より抜粋)
(拙訳:トパーズ)
先日、**カーペンターズ**の
「スーパースター」について書きました。
人気バンドのギタリストと恋に落ちた女の子が
彼がまた自分の元に戻ってくることを
ずっと待ちわびてる切ない歌です。
人気バンドなんてモテモテだから
何となく「軽薄で遊び人」なんじゃないのかなって
思ってしまう(独断と偏見が過ぎてごめんなさい)。
でも、必ずしも軽薄な人ばかりじゃなさそう、
という気がしてしまう歌です。
You really like my limousine
You like the way the wheels roll
You like my seven-inch leather heels
And going to all of the shows, but
君ってホント僕のリムジンが好きだね。
良い乗り心地も。
僕の7インチヒールの革のブーツも好きで
ライブにも全部くるよね。
でも・・
Do you love me, do you love me
Do you love me, really love me
僕のこと本当に好きなの?
本当に?
You like the credit cards and private planes
Money can really take you far
You like the hotels and fancy clothes
And the sound of electric guitars, but
クレジットカードもプライベートジェットも好きだね。
お金だっていくらでも使えるしね。
ホテルやオシャレな服も好きだし、
で、エレキギターの音も好きなんだよね。
でも・・
主人公は人気バンドマンのようです。
女の子にモテモテだろうに、
恋人が本当に自分のことが好きなのか
気になって気になって仕方がないようです。
そしてこのCメロ。
Your backstage pass and black sunglasses
Make you look just like a queen
Even the fans, they know your face
From all of the magazines, but
バックステージパスとサングラスで
まるで女王様みたいになってるけど、
雑誌とかで、ファンだって皆
君の顔は知ってるんだけどね。
サングラスで顔を隠して
特別扱いでガードされながら
関係者用出入り口をお忍びで出入りしても
み~んな君のこと知ってるし。
きっと、「特別扱い」が気持ち良くて
好きなんだろうね、って。
主人公は半分呆れて、でも
「本当に僕が好きなの?」と、
まるで「スーパースター」のギタリストとは
真逆のようです
(ギタリストさん、勝手に決めつけてごめん)。
この歌には、
リムジンといいプライベートジェットといい
まさに「セレブの特権」というイメージのものが
たくさん登場します。
主人公は、
自分の恋人は実はその「特権」のほうが好きで
自分と付き合ってるんじゃないかと
不安で仕方がないんです。
ちょっとかわいいですね。
有名人って、皆そんなにハイソなんだ、と
日本の地方都市の一女子生徒だった私は
洋楽のレコードを手に、学んだ気になってました。
でも若かった私はそんなセレブ案件はどうでもよくて、
「バックステージパス」がすごく羨ましかったのです。
黒いサングラスで変装して
特別な人しか持ってない
「バックステージパス」で
こっそり入り、
(だいたい「顔パス」じゃないのかな?)
舞台の袖からライブに立つ恋人を眺める・・・。
「バックステージパス」に憧れ、
かっこいいミュージシャンに憧れ、
そんな「特別な人間」になりたい、と
せっせとファンレターを書いていた
若い日の妄想を膨らませてくれる洋楽の世界でした。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
珍しい(かもしれない)ダムを
ご紹介します。
ダムのファンは多いようですね。
巨大な人工建造物の迫力には
圧倒されますね。
そして、たいてい山深い場所にあるので
自然の景色と人工物の対比が
魅力の一つになってるのではないでしょうか。
ここ福岡には、
そんなダムの定説?にそぐわないような
「ほのぼのとしたダム」があります。
おとぎの国の入り口みたいな風景
でもそこは「ダム」
多々良川水系「鳴淵(なるふち)ダム」
来た道を見下ろす
メルヘンチックな建造物はすぐ下を通るJR篠栗線からも楽しめます
高架を走るJR篠栗線
無機質なダムとメルヘンな建物の組み合わせは
なぜか不思議と合っています。
福岡市街から遠くなく、
穴場かも。