社会の窓はあけておくんだよ (original) (raw)

秋が深まってきた。1~2年前までは季節を気温で認識していたので10月中旬までは夏だと思っていた。今年は街を注視していると、8月末ごろから、八百屋の果物とか虫の音とか木々の葉とか落ちているドングリとか、いろんなところに隠れていて、あらゆる場面で秋が少しずつ顔を出していることに気づくようになった。秋を見ようとしなかっただけなのかもしれない。

最近、ルッキズムに関連する本を読むことが増えている。ルッキズムについての知識や考えがひとつ増えるにつれて、不思議と、ルッキズムがよくわからなくなっていった。ルッキズムとはいったい何で、どこまで許されて、どこから許されないのか。そもそも線は引けるのか。ルッキズム論の建設的な出口はどんなところにあらわれるのか。考えるほど滲んでいく不思議な感覚だ。

その不思議さに身を浸しているうちに、ルッキズムを自分で哲学してみたいと思うようになって、「現代思想 ルッキズムを考える」特集を買った。

それで読み終わったいま、現時点の自分の問題意識を成果物として整理しておきたいと思ったので久しぶりにブログを書いている。

この文章はあくまでも学ぶ者として書くのであって、みなさんに教えるなどという尊大な試みではないことは書き留めておきたい。門外漢ゆえ至らないところもあるだろう。もし不勉強ゆえに未熟な箇所があれば、ご批判はありがたく頂戴し、思考の錬磨に生かしたい。

それでは始めたい。

まずは、この論考の全体図だ。いまの私がルッキズムについて問題だと考えることを8点挙げる。

①定義の不在

②価値の単一化

③哲学の不在

④構造の無自覚

⑤非倫理的な宣伝

ステレオタイプの再生産

⑦不十分な合意形成

⑧適応による有利化という矛盾

それでは①から、もう少し詳しく書いていく。

問題点①【定義の不在】

最初はルッキズム自体の問題点というより、議論の問題点から指摘を始めたい。

ルッキズムを論じるときに定義が曖昧なまま論じられるため、何が問題なのかが不明瞭なことが多いと感じている。

たとえば、よく使われる「外見至上主義」という言葉は、外見を絶対視することを問題視していることは分かるが、評価要素の一つとして外見を採用することについてはどう評価しているのかがいまいちよく分からない。外見をいくつかある重要な判断基準のひとつとすることはどう扱うのか、人によって意見が分かれそうだ。

お見合いやマッチングアプリのパートナー選びの場面で、最後の決め手もしくは足切りとして外見で判断することは道徳的にいけないことなのだろうか。この範囲であれば、非難されるほどのことではないように思う。

それでは、採用面接の場面で、最後の決め手として外見で判断することは不当な差別と非難されることなのだろうか。

採用活動でいえば履歴書に写真を掲載することをやめ、面接でガラスケースに被面接者を入れるという対応が議論されることがある。これは機会の平等を確保する上で大切な変化だと思う。しかし、外見の重要度を下げて声の重要度が相対的に増すことについては私たちは許容するのだろうか。外見の判断を排除することと声で判断することは矛盾しないのだろうか。また閉所恐怖症の人は不公平にならないか。

それに、ガラスケースまで用意できない企業も当然あるだろう。そのような場合、仮に面接官に外見を評価に含めていないかどうか確かめたとしても、その判断について嘘をつかれたとすると、それを見抜く手段はない。そもそも面接官も自身の評価判断をどこまで認知・自覚できていて、本当にその思考過程を正確に言語化できるのかは怪しいと思う。

また、私がこの種の議論でいまいち納得しきれないのは「外見は業務遂行能力に関係がない」という主張だ。ここで言う業務遂行能力とは誰がどのように判断するのだろうか、という疑問が残る(ルッキズムは許さないが能力主義は許すという矛盾も気になるが話が広がりすぎるので置いておく)。たとえばプログラミングや内職など、外見が業務遂行能力にほとんど影響を与えない仕事が一部あることは私も認めるが、仕事で関わる人がいる限りは、「外見の要素は業務成果に関係がなく、検討から排除できる」という主張はなかなか論証するのが難しい理屈であろう。それは成果や能力をどう定義するかによっても変わるし、「無意識や前意識における外見の影響は絶対にない」と証明するのはほとんど不可能といっていい。

他にも、総合職の業務は部署によって全く異なるわけだが、プログラミングなどの専門職は外見を排除して採用し、SNSアカウントを運用する人材や広告塔となる可能性のある広報や人事を雇う可能性のある総合職は外見評価の採用を許容できるのだろうか。

さらにいえば、採用活動のみ排除すれば解決する問題ではない。むしろ事業運営や異動配属や昇進の場面でこそ重要になるわけだが、その点の要請はどのように行われるべきなのだろうか。

そもそも簡単に外見と呼ぶが、外見と内面の区別はどのように行えばよいのだろうか。外見とは何を指すのかは実際のところは不安定な議論かもしれない。障害の個人モデルと社会モデルの議論を借りて、皮膚の内側と外側で分けたとしても、洋服は外見の一部と取られるだろうし、たとえば、ふてくされた態度などは外見と内面どちらなのだろうか。チック症の症状はどちらに含めるべきなのだろうか。問いは尽きない。

長くなったのでいったんここで①を締めたい。私がここでルッキズムを論じるときには、以下のように定義する。

ルッキズムとは

外見(容姿や身体の特徴などの視覚的特徴)を、自身の、または社会から規定・要請されている規範意識に基づいて優劣や序列をつけ、評価・判断し、不当に差別または優遇すること。またはその偏見。

問題点②【価値の単一化】

本来は相対化または多極化しているはずの美という価値観が社会の多くの場面で絶対化または単一化していること。「普遍的で共通の美があり、自分の価値判断はその共通美に基づいている」という傲慢な幻想を私たち一人一人が抱いていることが歪さを生み出していると言える。

⇒②と③は表裏一体の概念なので、詳細は③に書くこととする。

問題点③【哲学の不在】

美醜の価値に関する検討が自己のなかで十分になされないままに、ステレオタイプな価値やわかりやすい価値を盲信する態度に関する問題を指摘したい(美の価値判断から降りて評価しないという決断やボディニュートラルのような立場も含む)。

コミュニケーションを取る時に私たちの美醜の価値観が単なるステレオタイプの借り物なのか、熟慮・検討し尽くしたものなのか、話し合われることは当然ない。いや、仮にその時間を設けて話し合えたとしても、十分さを判断することはできないかもしれない。十分に検討した自覚のない人をくさして、ステレオタイプの価値を安易に借りる行為の愚かさや浅薄さを指摘することはできるかもしれないが、愚かで浅薄だから駄目、という単純な話でもないだろう。だからこそややこしい。

そもそも美醜の前に、見るとは何か、知覚や認知とは何かについて私たちは哲学できているだろうか。

⇒外見だけで評価すること自体は愚かだし浅薄かもしれないが、それでは外見だけで評価する機会を奪われた社会は豊かと言えるのか。

容姿の価値判断に未成年の学生が曝される場(たとえばミスコンやミスターコン)を学校に置くことについては批判されて当然だし、ましてや未成年の水着審査については論じるまでもなく廃止を望む。倫理的な自制に頼らず、法的な規制も必要だと私は思う。だが、たとえば学校以外の場で、参加者を成人に限定して、倫理規定やガイドラインを設けた上で、外見の判断をする機会を社会から完全に廃絶することは果たして豊かさなのだろうか、ということも私たちは問うべきではないか。

たとえばボディビルはどうか。外見を評価するわけだが、あの外見には内面が表れてもいるだろうし、後天的な努力だけでなく先天性も影響しているはずだ。あれは許容するのか。

歌のコンテストや100m走、格闘技の大会、模試や数学オリンピックディベート大会などの他の競争と、外見を評価する競技は、根本的に何が違うのだろうか。現金や資産をたくさん持つこととはなにがちがうのだろうか。

社会の階級固定を流動化するチャンスとして機能する面もあるとしたら、絶対悪とは言いがたいと私は思う。

THE BLUE HEARTSは「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と言った。ドブネズミの見かけの汚らしさには表れない内面(写真には写らない美しさ)をみることは、対象を多面的に見る上で有益なことだと思う。少なくとも外見だけで判断するよりは豊かな思考だろう。

それではすべてを内面だけで評価する社会が良いかと言うと絶対にそんなことはない。たとえば精神疾患の有無で評価される社会も、ルッキズムと同じように不健全で抑圧的だと思うからだ。

老いに対しても考える必要がある。老いへの抗いを手放し受け入れることは勇気のある態度かもしれないが、老いに逆らおうとする行動が健康的な人生を育み、豊かさをもらたすこともあるだろう。また手放し受け入れる選択には、勇気という本人の資質だけでなく、周囲の環境も影響を及ぼすだろう。たとえば20代で同世代の多くがハゲていない状況か、80代で同世代の多くがハゲている状況かによって、髪の毛に対する執着の手放しやすさは変わるはずだ。そうなると、上の世代が若者に向かって老いの受容を説くこと自体が、暴力的で傾斜のある構造になっていないか、自問したい。私たちは老いに対してどのように向き合うのか。

ルッキズムを考えるならば、外見を認識する行為(見ること)について考える必要もあるだろう。見るとはどういうことなのだろうか。見ることによって得た情報を処理して生かすには当然、評価や判断が挟まる。

仮にルッキズムを抜け出せたとして、匂いや声などでのみ判断される世界は同じ生きづらさだと思う。知覚が評価から抜け出すことは難しいだろう。もしかしたらルッキズムを考えるとは、評価をどのように扱うかということについて考えることなのかもしれない。外見によって生じる恥や誇りとは何なのだろうか。

ルッキズムの問題が立ち表れるのはコミュニケーションの領域で、それは差別や偏見の問題だと思う。当然、差別や偏見について学ぶことも求められるし、それを踏まえてコミュニケーションのやり方に知恵を絞ることだって必要だろう。

問題点④【構造の無自覚】

美という価値観は一定程度外部から規定されているという構造的な側面があることと、それを私たちの多くが自覚していないことが問題だ。

⇒私たちの美醜の価値観がどのように形成されるかを考えると、本能や自由意志としてつくられる部分もあるのかもしれないが、構造主義のように外部が内部を規定する部分があることは否定しがたい。その形成過程に無自覚なことはルッキズムの問題を加速させているはずだ。

問題点⑤【非倫理的な宣伝】

商業主義が特定のステレオタイプな価値観を都合よく過剰に煽ることで消費を促すという倫理的に問題のある宣伝手法が用いられていること。

ステレオタイプな美を喧伝し不安を煽る(または優越感を煽る)コンプレックス商法がルッキズムと結び付く現象は、様々な広告で目にする。たちが悪いのはこれらの商法がステレオタイプな価値観を再生産し固着してしまうことだ。非倫理的な宣伝手法に対しては消費者の批判だけでは限界があるので、法的な規制も望まれる。

問題点⑥【ステレオタイプの再生産】

ステレオタイプな価値は再生産されやすく、社会が固着化してしまう問題。

⇒なお、ステレオタイプな美醜として、日本の多数派に共有されている価値観としては以下のようなものが挙げられる。

ステレオタイプな美
白人至上主義(美白)、若さ至上主義、つるつるした肌、ハリのある肌、毛量の少なくない整理された頭髪、髪の色、整った眉毛、二重、涙袋、泣きぼくろ、高い鼻、Eライン、フェイスライン、顔面パーツの黄金比、歯並び、整理された眉毛、高身長、n等身(頭部のサイズ感)、バストの大きさ、筋肉質な身体、姿勢の良さ、など

ステレオタイプな醜
地黒、老いること、青髭や無精髭、濃い体毛、シミ、そばかす、シワ、にきび、ほうれい線、ハゲや薄毛、手入れされていない眉毛、一重、長すぎる中顔面、アザ、火傷、鼻の下のほくろ、低身長、バストの小ささ、デブ、二重顎、二段腹、ガリ、ストレートネック、など

問題点⑦【不十分な合意形成】

ルッキズムの射程範囲はどこまで及び、何が許されて何が許されないのか(反対にどんなコミュニケーションを築いていけばよいかに関する知恵を出し合うこと)に関する議論が不十分で、社会的な合意形成が進んでいないという問題。

⇒【価値判断の他者への表明】

合意形成ができていない問題として事例を挙げたい。例えば、「お綺麗ですね」や「二重で良かったね」など、たとえ善意の称賛であったとしても自分の規範に基づいた外見の価値判断を他者に表明することは道徳的に許されるべきかという問題がある。

・表明される側からすれば、「勝手によーいどんして競争に巻き込むな。勝手に鑑賞するな。対象にするな。視聴するな。消費するな。ラベルを貼るな。表明するな。私はアートではない。競技者でも演者でもない。私は私で幸せだから。ほっておいてほしい」という意見は容易に想像される。

・この表明の何が問題なのかを考えてみると、評価される側からすれば、外見で中身を判断する早計さと、その不当性に気づけない無自覚さと、自分を無自覚に評価者や鑑賞者に置ける傲慢さと、他者の気持ちを想像できない粗野さと、評価を外に表明してしまえる配慮のなさと、加害者の特権性や非対称性に気づかないで他人を踏みつけ続けようとする残酷さ、それらすべてに嫌気が差すのかもしれない。

・その表明に不快感を指摘したときに、たとえ「悪意はなかった」と釈明されても、呆れや徒労感に満たされるのは表明された側だ。

ほとんどの差別は悪意に満ちていないし、差別を悪意の有無で自己と切り離すからこそ、自己と差別が同一化しているわけだ。「世界に溢れている凡庸な差別こそ、その悪意のない凡庸さゆえに問題なのだ」という基本的な教訓すら知らない程度には、あなたは差別を知らない人だ、と思うだけだ。非寛容な者は許す寛容さを要請できるのだろうか。「人は自らが憎むものになる」と書いたのは誰だったか、あの一文を思い出す。

・この議論はマイクロアグレッションの議論の成果も参照すべきだということも添えておきたい。

・なので、私は他者に対して外見の評価を表明することは、たとえそれが称賛だったとしても避けた方がいいのではないかと思う。

問題点⑧【適応による有利化という矛盾】

仮に自分自身がルッキズムをある程度抜け出すことに成功したとしても、社会生活の中ではルッキズムに曝され続けるため、社会的に主流でステレオタイプな美醜の価値観も一定程度内在化させて適応した方が自身にとって有利に働く場面がある。また、その適応に身を置くことでルッキズムの再生産に加担してしまうのではないかという不安に挟まれ葛藤する。

以上。

今回の議論から省いた領域も多い。今回の論考は、あくまでも現時点の私の関心や能力に基づくものである。

そのため、今後の課題として、いくつかキーワードを書いておきたい。

⇒「自虐やいじり、障害、レイシズム、ハーフ、美容医療(美容整形、肌の再生医療)、スキンケア、自分磨き、移住家事労働者、スポーツにおける性別二元論のジェンダー区分、トランスジェンダーのパス、セルフィー(自撮り)、外見ファシズム、記述語と評価語、人気序列の可視化によるピア集団の序列向上、エンハンスメント、いれずみ、ラブドール現象学

最後に、現代思想を読んだ感想で結びたい。

今回読んだルッキズム特集は2021年の刊行で、26本の論文で構成されていた雑誌だった。とても面白かったので、興味があるテーマの回を買って読みたい気持ちになった。

読む前に、自分の問いを自分の言葉で立ててブレストしておいたので、批判的に検証するように読むことができたのが良かった。そういう読み方がおすすめです。他人の哲学をトレースすることと、自分で哲学することは結構違うことだと思うので。

読めば読むほどに題材となるモチーフやキーワードが増えていき、反対に概念が滲んで揺らいでいく不思議も味わえた。久しぶりに学ぶ楽しみを味わうことができた。学ぶって楽しい。

●参考文献

・共著・青土社現代思想 ルッキズムを考える」

・キム・ジへ「差別はたいてい悪意のない人がする~見えない排除に気づくための10章~」

頭木弘樹「口の立つやつが勝つってことでいいのか」

・勅使川原真衣「職場で傷つく」

巣鴨のテイクアウトグルメといえば、何を選ぶべきだろうか。10年以上この街に住んでいる私なら、

①喜福堂のあんぱん、

②伊勢屋菓子店の山菜おこわ、

そして最後のひとつは、巣鴨グルメのド定番である③大福を数えるだろう。

しかし、ここで問題がひとつある。巣鴨には大福のお店がほんとーにたくさんある。

伊勢屋菓子店、岡埜栄泉、みずの、松月堂、福寿庵、榮太樓...。

「いったいどのお店の大福が一番おいしいのだろうか」

この問題に答えを出すために、巣鴨地蔵通り商店街へと向かった。検証していく。

検証方法は以下の通りとする。

1.対象店舗

2024年7月現在、巣鴨の地蔵通り商店街にあり、大福を販売する和菓子屋、計7店舗。

伊勢屋菓子店、岡埜栄泉、みずの、松月堂、福寿庵、榮太樓。

2.対象商品

大福で比較する。塩大福よりも豆大福の方が私の好みなので、豆大福がある場合には豆大福で検証する。

なお、一個単位のバラ売りをしていることを条件とし、6~8個セットなどの複数個販売のみの店舗は対象から除外した。

3.期間

1日1商品を購入し、6日間で検証する。

※同日検証の場合、後半の商品は飽きや満腹で不利になると考え、今回はこの手法をとった。

※別日検証の場合、日を跨ぐことによる採点基準の統一が問題にあがるが、事前に採点基準の得点目安を定めておくことでこれを極力回避する。

4.評価方法

(1)100点満点で採点する。著者の独断、主観100%で評価する。

(2)得点目安

98点~…ほぼ完璧

95点~…期待を上回る

90点~…値段以上

80点~…値段相応

80点未満…買わなくて良い

(3)商品の感想も記録し、比較しやすいようにする。

さて、前置きはこのくらいにして、いよいよ検証だ。

①伊勢屋菓子店

・商品:塩豆大福 150円
・総合得点:92点

⇒総評:見た目は餅も小豆色で赤みがかっている。サイズは普通よりも大きめ。塩味が結構強くあんこの甘さは控えめ。餅の弾力は低め。塩味の強さは好みが別れるかもしれない。塩大福特有の塩味を強く感じたい人におすすめ。評価には関係ないが、お昼には売り切れることが多い山菜おこわが素朴でとってもおいしいので、是非一度食べてみてほしい。

②岡埜栄泉(おかのえいせん)

・商品:豆大福 150円
・総合得点:93点
⇒総評:本店で購入。大きさはやや小ぶり。白い餅と豆のオーソドックスな見た目。餅の弾力は普通。塩味はほぼなく最後の一口で少しだけ感じる程度、いわゆる豆大福。あんこはこしあんだが皮の食感がやや残っていて、そこに豆の食感が加わって楽しい。素朴でおいしい。隣に置いてあったきび大福も次は食べてみたい。

③みずの

・商品:豆大福 140円
・総合得点:95点
⇒総評:巣鴨の大福ではもっとも有名なお店だ。大きさはやや小ぶり。白い餅と豆のオーソドックスな見た目。餅の弾力は比較的強めで、私の好み。塩味はなく、いわゆる豆大福。あんこはこしあんで、甘さが特別強いわけではないが甘さの余韻が長い気がする。ちょっと良い大福を食べているようで、おいしい。ひとつ抜きん出ている感じがする。さすがは有名店といったところ。

④松月堂

・商品:塩豆大福 130円
・総合得点:93点
⇒総評:とげぬき地蔵の向かいのお店で安倍晋三夫妻が訪れた写真が飾られている。大きさは普通。白い餅と豆のオーソドックスな見た目。餅の弾力は比較的強めで、私の好み。塩味は普通。餅の豆は固め。あんこはこしあん。おいしい。

⑤福寿庵

・商品:塩豆大福 378円
・総合得点:93点
⇒総評:見た目は丸くなく、あんこの周りを餅が布のようにくるまれている。大きさは普通。餅の弾力は好みの固さで、塩味もちょうど良い。あんこがやや甘い気もするが、とてもおいしい。ただ、他店の2倍以上の値段であることを考えると日常の購入は躊躇する。おもたせにはいいかもしれない。

⑥榮太樓

・商品:豆大福 160円
・総合得点:93点
⇒総評:最初に断っておくと、私はこのお店を10年以上贔屓にしていてもっとも食べ馴染みがあるので、やや有利かもしれない。
大きさは普通。白い餅と豆のオーソドックスな見た目。餅の弾力はやや強めで、私の好み。商品名は豆大福だが塩は少しだけ入っているようで、餅にほのかな塩味を感じる。私はこれくらいの慎みがある方が好み。あんこはこしあんで、口のなかでやや混ざりづらいところがあるかもしれない。甘さは普通。食べ馴染みがあって、おいしい。
それから勝負には関係ないがここはあんみつがとってもおいしいのでおすすめ。真夏に奥多摩の渓流にあんみつと桃やあんずなんか持っていってチェアリングするのはさいこう。

以上、6店舗の大福を調査した。

検証結果を改めてまとめると以下の通りに整理できる。

95点…みずの

93点…岡埜栄泉(おかのえいせん)、松月堂、福寿庵、榮太樓

92点…伊勢屋菓子店

優勝は、みずのです!

今回の評価は私の主観によるためこれが絶対の結論ではないということと、いずれのお店もおいしく買う価値がある商品であるということの二点は、ここに申し添えておきたい。

検証を終えてみて思うことは、巣鴨の最強の大福を決めるという目的が果たした価値よりも、巣鴨の和菓子屋のレベルの高さを思い知ったということの方がずっと貴重だったかもしれない。

商店街の石畳も途中まで新しくなったことだし、是非、巣鴨にきて様々なグルメを堪能してほしい。4のつく日は縁日が出ていてお祭りみたいで楽しいし、それ以外の日は空いていて心地よい。

東京の繁華街は、渋谷も新宿も池袋も上野も、どこもドブみたいな臭いが漂っているが、巣鴨は快適に街歩きができる。是非、散歩がてら来てみて欲しい。

先日、夜に眠れずに、深夜にほとんどせん妄状態で散歩したことがあった。

あと数時間すれば、この眠る街には新聞配達のカブが走り、豆腐屋がシャッターをあけ、ひとつだけ出遅れた朝と夜がない交ぜになる時間が始まるが、いまは静寂な住宅街だ。駅前にいつも立っているガールズバーの客引きすらもいない。

それでも、ときたま、あなたは何をしているのでしょうか?というような、私みたいな人と、何人かすれ違った。本当に何をしているんだよ。

散歩の通り道に、どうしたって清潔とは言えない、給食や弁当をつくっている業者がある。いつもちょっと油くさい臭いを放っていて、店の前の歩道は油のせいか、コンクリートの黒をさらに黒くでこぼこと染めている。その店の前を通ると、食材特有のなまあたたかい臭いや、炊飯した米の嫌な臭いがしてくるので、はっきり言って好きではなくて、そのお店の前を通るとき、私は数秒息を止めさえする。こんなところでつくっている給食や弁当は食べたくないとすら思っていた。

その日、まだ深夜3時前だったが、店の前を通りかかると、従業員が店に入ろうとする姿を目にした。

夜の更けているこんな時間から新しい日の労働を始めていることに本当に驚いた。私はまだ眠ってさえいないのに。その道には、前日を終わらせることすらできていない人と、翌日の労働を始める人がいた。

それからはリスペクトが芽生えた。依然として店の前を通るときは息は止めるけど、嫌悪の気持ちにリスペクトな自制が混じるようになった。

安全に狂う方法――アディクションから摑みとったこと (シリーズ ケアをひらく) (シリーズケアをひらく)

國分功一郎の本を読んでから、自分自身のうつを中動態の文脈で考えられるかもしれないと思った。國分は「中動態の世界」の中で依存症を引いていたので、もしかしたらアディクションを知ることで中動態の文脈でうつを考えるヒントになるかもしれないと期待して、手に取った。安全に狂う。良い言葉じゃないか。

まずはこの本の感想について。「生きろ」という本だと私は思った。「生きろ。生きる喜びのために、あなたがあなたの手で、生きる喜びであるあなたを守れ」という本だった。

方法論は、科学論文の流派のマナーから距離を取った主観の韻文型論考とでも呼ぶべきか、時系列がやや把握しづらいものの文章が美しい。さらけ出しづらい自分を告白し、ときに沈黙(書かないこと)も選びながら、「全人格的に文学する」ということがアディクションに悩む人に向けた著者の回答なのかもしれない。

この本は、医学や心理学など既存の科学をナワバリとしてきたアディクションの領域を、文学や身体性、霊性へとおし広げようとする試みだ。「その人をアディクトに向かわせたもの」「思考は他者から来る」という構造主義的な視座と「侵されない本質」という実存主義的な視座が交差しながら進む。

身体と脳/心/魂、理性と欲望、思考と感情、言語と非言語、意味と無意味、観念と物質、自己と他者…。既存の二元論的な枠組みを超えて、トランスジェンダーや親族問題を補助線にして、一見怪しそうな瞑想やシャーマン、芸能や祝祭など、全なる統一/一なる世界へと論考は向かう。正直、既存の科学にはない"いかがわしさ"や"わかりづらさ"も漂っている。東畑開人「野の医者は笑う」を思い出した。しかしこれまで捨象してきたこれらの要素こそ、欠かせない要素なのだと思う。
途中、石牟礼道子や、私が尊敬する緒方正人まで出てくる。緒方正人の思想こそ、中動態だと思う。私も累計すると1~2ヶ月ほど水俣に滞在したことがあるので、太刀魚などの魚のうまさや海の美しさはよく知っている。不知火海の塩が売っていたら、いつか、「沖のうつくしか潮で炊いた米の飯」というものを食べてみたい。

さて、アディクションについて話を移そう。まず出てくる疑問は、なぜ社会生活に支障が出る程に固着する人と、しない人がいるのか、ということだ。私にとって、うつの自責や希死念慮は自分にはどうしようもなかった。両者を分けるものは何だ。筆者はこれに対して、「クッションみたいな緩衝帯の多寡」で、持つ者と持たざる者を説明する。
しかし、ここで大切なのは、できた人とできなかった人の違いを論ずることではない、と私は思う。比較しようと試みるそのふたつはあらゆる条件が違うからだ。二人の被験者に完全に同じストレッサーは用意できるし、同じ緩衝帯を有する二人も用意できるかもしれないが、被験者が抱えるその他の背景は現在から過去にわたってすべて違う。だとすると、二つの違いを問うことに意味はない。
問うべきは、どうしたら「私は」社会生活に支障をきたさないか、だと私は思う。

侵されない本質を、平時に安全に、顕現させる方法を考える。安全に狂う方法だ。生物学的に生きている人が実存主義哲学の文脈で生きる方法論とも言える。

筆者は安全に狂うために動的瞑想のダイナミック瞑想を受けた。自分の意識が及ばないところで狂うのを避けるために、意識的に狂う。芸能や自助グループを含めた表現や脱自に救いを見いだす。

私は中動態としてのうつを深めたくてこの本を手に取った。私のうつを振り返ろう。私のうつ(適応障害)とは、自己の本質を毀損する程に役割への適応を目指したことで、理性による感情の抑圧の歪みとして現れた「肯定の過剰」と「自己否定」のとらわれだったと思う。いま思えばあれは、アディクションの発露だった。脳が止められず思考の膨張を止められなかった。その原初の痛みがもたらす二次的な傷としてのアディクションの表出が、まず不眠やさまざまな身体症状に出ていて、その先にあったのが、私の場合は自傷自罰の自責思考や希死念慮などの心理症状だった。筆者の言葉でいえば「生きていなかった」。実存よりも役割を優先しすぎて、生活が人生を食い潰した。うつとはアディクションだ。

役割に適応しようと「俺はもっとできる/なぜできないんだ」という態度は、自己に対する傲慢でもあり、侮りでもある。肯定の過剰は自己否定の積分をもたらす。思考の強迫的なとらわれ。原初の痛みがもたらす二次的な傷。幸せになりたくてしてしまった、せずにいられないその行為こそがアディクションだ。要請される役割を実存よりも優先するというアディクションは、きっと私のコンプレックスであり、それが認知の歪みを生産する。この思考をチューニングすることが、私のうつを止める方法なのかもしれない。

自分のうつには、人生の大きさに対する侮り(逃避)と、心身を壊すまで逃げない対峙(非逃避)が、パラドキシカルに同居していたと思う。人生を実際よりも小さく見ることと、自分はもっとできると実際よりも大きく見ること、つまり測量計測の失敗だったとも言える。

私のうつは理性の過剰であり、理性による感情の抑圧だったが、もちろん、理性的な解決すべてを否定するつもりはない。例えば代表的な理性的解決手法として、認知行動療法がある。それは、出来事による感情の表出にはその間に思考の癖(認知の歪み)があるという仮説に基づいて、思考(もしくはその根底にあるビリーフ)の過程を点検し、思考の飛躍を見つけ、感情の妥当性を確かめるという手法だ。思考や感情を一つ一つ文字に書きつけることは地味で面倒だし、うつに苦しんでいるときにこの過程を踏むのは大きな苦痛だが、確かに効果がある。「自分はダメな人間だ」「自分には価値がない」「完璧でなくてはならない」「こうあるべき」そういった認知の歪みを外すことが出来る。
しかし、この認知行動療法の手法は、感情よりも理性を優位にするという構造自体は超えていない。うつによる希死念慮は抑圧による表出であり、ある意味で対症療法のようなところがある。

繰り返すが、理性のすべてを否定する必要はない。理性には確実に効能がある。再現性も高い。しかしできれば、理性偏重にならない解決手法を模索したい。

それは例えば、「理性的な方法で、まるで設計するように、理性による感情の抑圧にブレーキを掛けること」ができれば、理性に偏った思考や判断が減り、もう少し全人格的な人間らしさが取り戻せるのではないか。副作用や害のない方法で、自我を落とす方法はあるだろうか。

熊谷晋一郎はこう言った、「自立とは依存先を増やすことだ」。コロナ禍を経て趣味や友人関係が遠ざかったことで深まったアディクションは、私に限らずたくさんあったのかもしれない。アディクションの単一依存を分散させるために、真の自立を実現するために、私たちは余暇について考えなければならない。

余暇。余暇には総量の問題と配分の問題があるが、ここでは配分について考えたい。働き方改革を経た私たちは、余暇を配分する対象をどう選ぶか。これはアディクションの単一依存を分散させるために深めるべき問いだ。

余暇を挙げてみよう。
友人や恋人と過ごす時間、家族との団らん、瞑想、読書、音楽、ライブ、映画、演劇、漫画、スポーツ鑑賞、散歩、マラソン、筋トレ、球技、登山、格闘技、SNS…。

挙げ始めたらキリがないが、これらは、①休養【回復促進・気分転換】(例:瞑想、読書、音楽、映画、チェアリング、昼寝)、②運動【体力増強・健康増進】(例:散歩、マラソン、筋トレ、球技、登山)、③欲望喚起・疲弊増幅(例:SNS、ポルノ)などの要素に分類できると思う。

例えば登山には②運動【体力増強・健康増進】の要素が大きいが、①休養【回復促進・気分転換】的な要素もあり、グラデーションがある。SNSは気力も体力もいらず、手を出しやすい余暇だが、短い時間で暗転を繰り返しながら欲望を無限に喚起するために、ゆるい興奮を際限なく強制し、脳や身体を休めない。瞑想は呼吸に意識を向けるという点で、思考性を下げて身体性を上げる行為とも言える。運動は身体の活性をあげて疲弊感は高まるが運動に没頭することで思考性を下げる効果があるとも言える。「なにもしないをする」とはよく言うが、退屈に耐えるということは、自分を休めるメンテナンス的な生産性があるのだ。でっかく膨らんだ頭を、瞑想や運動で身体性を膨らませて、しぼませるということが必要だ。

自由意志の文脈に立てば、私たちは余暇を自由に選択できるはずだ。しかし、実際には私たちは余暇を自由に選べるわけではない。特に極度に疲弊してしまうと、気力や体力を要する余暇は選べなくなるのが実情だ。スマホゲームやTwitterやショート動画は見られるが読書や運動はできないという現象が起きる。疲弊しているときは回復するためにこそ①や②に余暇を注ぐべきはずなのに、それができなくなり、むしろ疲弊を強める余暇に時間を注いでしまう。余暇と疲弊が織り成す悪循環のパラドックスがある。

大切なのは余暇だけではない。もう少し広げて、生活習慣も同じような効果を生む。熟睡ではなく夜更かしやショートスリープ、自炊ではなくファーストフードや外食、入浴ではなくシャワー。これもキリがないが、脳や身体の疲弊を強めるような生活習慣はたくさんある。

うつに抵抗するためには、疲弊しきる前に、余暇や生活習慣を意識的に選択することが大切だ。疲弊しきると、悪循環は止められなくなる。私たちは、外部が内部を規定するという制約を受け止めなくてはならない。「パワハラする上司、役割を果たさずに逃げる上司、事業の構造的な赤字、構造的困難を孕む仕事」など、私個人では解決できない外部要因もたくさんあった。

心震えるような実存の生のためには、外部が内部を規定するという構造主義的な視点と、自由意志のような内部の本質が外部を決定するという実存主義的な視点とを両方から考えなくてはならない。責任の帰属先である自由意志を持った主体が外部をすべてコントロールできるわけではないのと同じように、外部が内部のすべてを決定できるわけではない。
地味で面倒な小さな一歩だが、余暇や生活習慣の選択を、ほんの少し頑張って、未来のためになる行動を選ぶこと。自力の無力さを理解して、大きな力も待つこと。その一歩を、ちょっと諦めたりもしながら、積分し続けること。

外部による内部の規定(無力な自己)も、自由意志も、あや取りのように編み込まれているのが、この世界だ。縦の糸はあなた、横の糸は私。速さや利益など生産効率という規範や役割を社会(縦の糸)は要請する。私を制約する縦の糸が強くなりすぎると、私という横の糸は徐々に傷つけられていく。そのあや取りのようなウェブの中で、いかに実存を発揮して生きるかが、私たちに問われているテーマなのだ。縦の糸に自分を預けきってはいけない。他力である縦の糸の制約は受け入れながら、自力である横の糸はグリップし続けろ。

最後に、蛇足かもしれないが、この本にはひとつだけ慎重に扱わなければならない点がある。それは加藤智大に代表される秋葉原事件型の犯罪(他には京アニ放火殺人事件、黒子のバスケ脅迫事件、安倍元首相銃撃事件、池田小事件など)を構造主義の文脈でのみ語っている点だ。なぜならば、被害者や遺族の問題が捨象されているからだ。
著者の言う「自分にもそういう心情のときはあった」という感覚は私にもわかる。私も自分の希死念慮や自責を自分では止めることができなかった。しかし、人間には自分の意志ではどうしようもできない"せずにいられないこと"があるということと、殺人などの重犯罪を構造主義の文脈でのみ同列に語ることは、私は別の次元の話だと思う。ここは感覚や可能性で敷衍して論じるにはあまりにフラジールな問題であり、議論がいささか乱暴すぎるように感じた。社会としての責任を問うことや、他者の事件を学び自分もやる可能性があると自戒することには大きな意味があるが、問うことや回答することには慎みのある配慮も必要だと思う。大切なのは、加害者が一線を踏み越えてしまった行為は実存主義的な自由意志だったか、構造主義的な外部による規定だったかを問うことではない。どうしたら、加害者が踏み越えなかったか、だと思う。
念のためフォローすると、著者は「社会としての責任、自力と他力の組み合わせ、表現、生きる喜び(実存)」を論じているので、完全に社会が悪いということを意図しているわけではおそらくない、ということは捕捉しておく。

この本は、アディクションというものの本質が何かを知ることができるし、いま自分が関心を向ける核心である「中動態でうつを考える」ということを深めることができた。外部が内部を規定するという制約を受けとめながら、その制約に抵抗する意志(侵されない本質)の可能性を大切にし、生きるために、余暇や生活習慣を見直すことを、私は続けたい。

生きている間に、生きろ。生きる喜びのために、あなたがあなたの手で、生きる喜びであるあなたを守れ。

私は自分に向けて、こう言いたい。

この記事は今日から142日前、去年の10月頭に書いたがどうしても投稿できなかった記事だ。下書きを読み返してみると、鬱で苦しんでいた当時の状況がリアルに残っていたので、投稿しようと思う。

仕事に行けなくなったのは二度目だ。二度目に行けなくなってから、一ヶ月くらいが経った。

いまの自分はフツウからずいぶん遠ざかってしまった気がする。フツウなんてものは虚構でしかないが、その偶像から遠退いた。

朝井リョウ「正欲」でこんな一節があった。2/3を二回続けて選ぶ確率は4/9であるように、"多数派にずっと立ち続けること"は立派な少数派である。

同じ年齢の世間のフツウがあるとすれば、結婚していて、子どもがいて、家を買っていて、当たり前に働いている、のかもしれない。いまの自分はそのどれでもない。精神疾患、診察、カウンセリング、うつ、適応障害、休職。そんな文脈に私は、いる。特に悲観はしていないが、いっそのこと、巻き戻してやり直したいと妄想する。いつに戻るか。あのときか。それともあのときか。でもあのときだって、きっとその前のあのときからの積分で、そのまえのあのときは、その前の前のあのときの積分だ。だから、巻き戻すなんて意味のないことだ。できないからではなく、ならないから。

今日は近くのラーメン屋で塩分バッキバキの煮干しのつけそばを食べてから、南池袋公園に行き、角田光代空中庭園」を読んだ。この公園はしっかりとした椅子がある。読書していても背中や首が痛くならない。だから好きだ。

二時間ほど読書して、ジュンク堂に向かう。何を探すでもなくいつもの順路でフロアを歩く。まず一階。エスカレーター横のコーナーを右から左へチェックしてから、エレベーター横の企画棚へ。何冊かパラパラとめくる。三階に行き文芸や短歌などを見る。四階では、人文系や精神医療や心理学などを見た。積ん読が溜まっているので今日は買うつもりはなかったが、文芸の3階に陳列してあったカズオ・イシグロの小説を買った。ハヤカワ文庫の本を買うのは久しぶりだ。

南池袋のスタバでカモミールティーラテを飲み、角田光代の本の続きを読んだ。二階の席で、飽きると明治通りの渋滞を眺め、北に抜ける車を目で追った。二時間ほど過ごしていると髪の毛が脂ぎった男が向かいに座り、体臭のキツさから、席を立った。

スーパーでつぶ貝の刺身と牛モツの味噌漬けを買って家に帰る。うまかったが、どちらかが悪かったのだろう。3時間後に下痢でやられた。

昨日は山手線を一周した。11時間20分、51㎞かけて歩いた。

その間に、死生観を更新できたので残しておきたい。死についてこんなに考える年齢になったんだなぁ。

私は、死は輪廻や再生より無だという意見に概ね賛成なんだけど、でも死は完全な無ではないんじゃないか、と最近思う。

生の苦しみは閉じられているけど我々にはいくつか対抗手段がある(①忘却、②適応、③人とのつながり)のと同じように、死後の喜びも閉じられるけどいくつか抜け穴があると考えた方が、死は生を反転させるという構図が美しいから。

死は生を反転させるという構図を根拠なく信じる気持ちには論理の飛躍があるかもしれないが、私はそう信じているので、その前提で話を進めます。

死後の喜びの抜け穴ということについてなるべくわかりやすく言うと、死んだ後は喜びも苦しみもなにもかも消えてなくなるわけではなく、たとえばよく言われる「生きている人が死んだ人のことを思い出すと天国で花が咲いたり桜吹雪が起こる」みたいなイメージです。そういう喜びの抜け穴が、無になった死の後にもあるんじゃないかなと思う。
これはわかりやすいイメージであって、私は死に対してここまでメルヘンなイメージは持っていないけど。

死後に新たな苦しみから開かれる(解放される)ように、死後に新たな喜びは得られない(閉じる)が、もしかしたら死後には完結した自己の世界で、生前に得た喜びを思い出したり再体験して味わえたりする仕組みがあるんじゃないのかな、といまは思ってる。

簡単に図示するとこんな感じのイメージだ。

そうだとするなら、死は密閉された無ではない。穴が開いている多孔質の無としての死は、喜びを完全にシャットダウンしないという意味で希望や救いがある。そうなると、やはり我々は生きている以上、苦しみにとらわれすぎずに喜びの方角を向いて生きた方がいい、という結論になる。
生の側からみても死の側からみても、苦しみにとらわれずに、喜びを探して生きた方がいいという帰結を迎える。

なお、無を信じている私でも、輪廻転生や再生の考え方も救いがあって素敵なことだと思うし、何万年も人類が続くのなら、全くおんなじ細胞の組み合わせ・配列の身体が出来上がることもひょっとするとあるかもしれない。記憶は細胞に宿るのではなく細胞の関係に宿るので、そういう意味で輪廻や再生もないとは言えない。でもそれは確率があまりに小さいので、人間全員が必ず通れる道ではないと私は思う。

死は無だが、密閉された真空の無ではなく、穴が開いている多孔質の無だという考え方は、自分で考えた死生観にしては、なかなか救いがあって悪くないじゃないか。

死にたい死にたいと苦しんでいた人間が、こんなふうに死をとらえられるようになったのだから、うつになった意味があったなといまは思う。私生活は問題なく送れるようになって、着実に回復している。

幸せに生きたいな、といまは願っている。

私は現在、抑うつ状態・適応障害で休職していますが、ひとつ掴めたことがあるので、残しておこうと思います。

死にたい死にたいと苦しんでいた9ヶ月間が報われた思いです。

死は回転扉だ、という話をします。

読んでいただけると嬉しいです。死にたいと悩んだことのある人に届け。

二月初旬に美容院で髪を切ったときのこと。美容師との世間話でとても大切なことに気づけた。うつで休職してから4ヶ月が過ぎた頃だ。

美容師は、その日の午前中に訪問美容のために末期ガン患者の緩和ケア施設を訪れた話をしてくれた。施設利用者の髪を切るなかで、死を迎える準備する方々を見て、死について考えたという。

彼は、こんな話をしてくれた。
「自分の親があとどれくらい生きられるか、自分は親とあと何回会えるか、自分自身が正月をあと何回迎えられるか。」

この話を聞いたときに私は不思議とひっかかるものがあった。帰り道に理由を振り返ってみると、私の見ている死と彼の見ている死が対照的だったからだ。

私はこの半年、死にたい死にたいと悩み苦しんでいた。そのことを精神科医に相談すると、「あなたの求める死は、物理的な自殺ではなく、苦しみからの解放だ」と教えてくれた。
一方で、美容師は喜びを閉ざすものとして死をとらえていた。

生を苦しみの方角から眺める人にとっては、死は喜ばしいもので、逆に生を喜びの方角から眺める人にとっては、死は絶望的だ。視座、言い換えれば眺める地平のどちらに立つかだけで、結論が逆転する。

余談ですが、世に蔓延るメンタルの強弱論の正体も、結局はこんなことに過ぎない、と私は思う。心は強さではなく視座の違いだけだ。あえて強弱論と同じ文脈で反論するならば、本当の意味で抑うつに苦しんだことのない人が語る"心の強さ"の浅薄さには、説得力は宿らない。うつと闘い悩み苦しむ人が自殺を選ばない強さだけは都合よく"心の強さ"の評価基準から除外されていることも、非合理的な評価基準だと感じます。コーピングスキルなどを否定する意図は全くありませんが、本当に鍛えるべきは喜びの視座に留まり続けることで、それは決して強弱論ではないと私は思う。うつと闘う人たちは弱くなんかない!と筆圧強く叫びたい。

頭を冷やして話を戻します。死は両義的だ。アンビバレントな価値が同居している。
どうしようもなく辛いときに死にたくなる場合の死は解放。苦役から開かれる側面がある。対して、喜びや楽しみという観点からは、死は生におけるあらゆる可能性を閉じる。
つまり、死は開くと同時に閉じることだ。死は回転扉みたいに、開きながら閉じる。それこそが、生の一回性と並んで、死の本質の重要な一部だ。

このことは同時に、生の構造や設計を示唆しているようにも感じた。
生においては楽しさ側が開かれていて、苦しさ側が閉じられており、死はそれを反転させる。
ただし、生において閉じられている苦しさにはいくつかの対抗手段があって、健康な人は、①忘却、②適応、③人とのつながりなどで闘えたりする。

うつ病適応障害のときに苦しいのは、この対抗手段を手に取ることができずに、苦しみにとらわれてしまうからだと思う。

そこまで考えて、私はこう思った。
生の苦しさは閉じられていても、私たちにはいくつか対抗手段があるのだから、必要以上に恐れずに、生きている以上は可能性が開かれている楽しさや喜びを追い求めた方が良いということを、生と死の構造は暗に示しているのではないか。
それならば、これから私は喜びの方角を向いて生きよう。

このことに気づけて、ようやく心のもやが晴れた。
死生観を受け売りではなく自らの手で形づくることは一生に一度あるかないかだと思うので、初めて、うつになった意味を心から認められた。
いまは苦しみにとらわれるのではなく、自分にとっての喜びを探そうという気持ちが強くあらわれるようになった。やっとスタートラインに立てた。

この話を精神科医に報告すると、「あなたは天才かもしれない、感銘を受けた」と言ってくれた。本当に嬉しかった。
先生曰く、どうやらこの死生観は、精神科医・心理学者のカール・ユングと共通するようで、著作を手繰ってみると確かにユングも死を「破局」であり「喜ばしいこと」であると両義的に見ていた。

この話を平たく言えば、「苦しみにとらわれずに、喜びを探して幸せに生きよう」となんとも陳腐な帰結になるのだが、うつの渦中にいる人はそれができないから苦しいのだ。
おそらくこのポストが万一当事者に届いたとしても、そのほとんどの人の心は動かせないと思う。そもそも文章なんて目が滑ってしまい読めない人もいる。私もうつの渦中は、大好きだった音楽も小説も届かなかった。重度のうつ病の人であれば、なおさらだろう。うつはそれほど難しいから。

うつ病適応障害は、再発率が高い病気ですし、社会のスティグマも強く、治療・寛解や病気との共存は簡単ではないと感じていますが、今回の話がもし、おひとりでも当事者の方の心に届いたら、私はとても嬉しいです。

うつに対する言葉の限界は身に沁みて分かっていますが、回復期における言葉への希望を捨てたくない気持ちもまたあるからです。

私は休職するのは二回目で、一回目と二回目は症状がかなり異なっていました。
一回目は思考の検証ができず、自責が止まらず脳がオーバーヒートして暴走している感覚で、二回目は自責感はなく憂うつな思考や記憶にとらわれていて、「死にたい」が口癖でした。一回目は文章を読むことができなくなりましたが、二回目は最初から本を読めました。

今の私は、毎日喜び探しをしている途中で、仕事に復帰するのはもう少し時間がかかりそうです。

家族や友人には恵まれていて、それぞれの苦しみがある生活のなかでも、気にかけてくれる人がいることを、有り難く思います。

もし元気になったら、この経験を文章に残したいなと思っています。

マックス・ヴェーバーも、池田勇人も、病気になって長いこと休職しているわけだし、まあきっとなんとかなるわ。なるなる。跳躍の前の屈伸みたいなもん。

八握剣異戒神将魔虚羅に、俺はなる(適応障害、治したい)!

マコラになりてぇな~