松浦光修先生のコラム (original) (raw)

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(講演記録)天皇を仰ぐ ―み光かくす.. 守るべきものとは、国... 日教組―歪んだ洗脳教育の真実(下) (「... (講演記録)天皇を仰ぐ ―み光かくす.. 皇統は日本の命 もっと... ブログジャンル 画像一覧 エキサイト XML |ATOM Powered by Excite Blog 会社概要 プライバシーポリシー 利用規約 個人情報保護 情報取得について 免責事項 ヘルプ みたみわれ 皇室と国民(18) 国民は「わが子」(『解脱』令和2年6月) 平成二十三年三月十一日、東日本大震災の当日のことです。その日、皇居で清掃奉仕をしていた人々が帰れなくなり、皇居に泊めてもらうことになります。侍従長の川島裕さんはその時のようすを、こう書いています。「(十一日)夕刻、侍医の一人が皇后さまの御依頼で窓明殿を訪れ、人々の様子を診、体調を崩していた女子大生に対し、処置をとることができた。」「(十二日) この朝、皇后さまは、窓明殿におもむかれた。前夜をここで過ごした勤労奉仕団の内の一団は、すでに早朝出発していたが、八時ごろに出発を予定している大学生の一団を見舞い、発熱のため、あとに残らなければならない学生一名が宮内庁病院で休めるよう、現場にいた職員に手配を依頼し、御所に戻られた」 (「天皇皇后両陛下の祈り 災厄から一週間」・『文藝春秋』平成二十三年五月号)ここでいう「大学生の一団」とは、じつは、皇學館大学の学生の奉仕団のことで、「体調を崩していた女子大生」と、「あとに残らなければならない学生一名」というのは、同一人物です。 あとで私は、その女子学生から、直接、その時のようすを聞いたのですが、そこには、川島さんの文章には書かれていない感動的な秘話がありました。 時間軸に沿って正確に言うと、体調を崩していた女子学生は、十一日の夜、皇后陛下の御配慮で、宮内庁病院に入院させていただき、そこで一晩を過ごしたのですが、その翌朝、なんと皇后陛下が、大震災で日本中が動揺しているさなか、その一人の女子学生の身を案じて、おんみずからお見舞いにいらっしゃったのです。その出来事について、当時の皇學館大学の「学園報」は、こう報じています。「(奉仕団団長・男子学生の談) 十二日早朝には、皇后陛下が御みずから窓明殿にお越しくださり、『だいじょうぶですか』 『体調が悪い方は、いらっしゃいませんか』 と、お言葉をくださったばかりか、体調を崩し、宮内庁病院へ入院させていただいている女子団員に、御見舞を賜ったという」(『皇學館大学学園報』平成二十三年八月一日) おそらく上皇后陛下は、〝若い女性の身で、知らない都会で大地震に遭遇し、しかも体調を崩しているという・・・、いかばかり心細い思いをしているか…"と思し召され、迷うことなく病室に向かわれたのでしょう。上皇后陛下が、国民一人ひとりを"わが子"のように大切に思ってくださっていることが、その一事からもわかりますが、私はその女子学生から、その時の話を聞きつつ、「御心(みこころ)」のありがたさというものを、身に染みて”実感”したものです。(つづく)【付記】 現在、武漢から発生した未知のウィルスによる未曽有の惨禍が、全世界を覆いつくしていますが、両陛下におかれては、そのことについて、いたく御心を痛められ、四月十一日、皇居に政府の感染症対策専門家会議座長・尾身茂氏を招いて、国内外の感染状況をお聞きになられています。 「民の父母」として疫病の流行を憂えられ、「般若心経」を写経して奉納された後奈良天皇をはじめとする御歴代天皇の大御心は、今上陛下の大御心(おおみこころ)でもあるのです。 # by matsuura_mn 2023-07-07 07:07 みたみわれー皇室と国民ー みたみわれ 皇室と国民(17) 美しい祈り (『解脱』令和2年5月) 上皇、上皇后両陛下の、戦後という時代との“戦い”の方法は「祈ること」の他に、もう一つあります。 それは、国民に「寄り添うこと」です。御在位中、両陛下は、思いもかけない天災で命を落とされた方々の御霊や、不幸にみまわれた方々の心を慰め、励ましつづけてこられました。多くの国民にとって、今も記憶に残っているのは、平成二十三年の東日本大震災の時の、被災地への御訪問でしょう。 私の手元の記録では、両陛下は、すでに三月十五日には皇居の自主停電をはじめられています。翌十六日、異例の「ビデオ・メッセージ」を発せられ、早くも三月三十日には、東京武道館の被災者のもとに出向かれています。以後、埼玉県、千葉県、茨木県、宮城県、岩手県と…、御訪問はつづき、五月十一日には福島県を訪問されます。 この間、七回、つまり…ほぼ週に一度というペースです。 両陛下は、あのお歳で・・・、あのお体で、本来、若く屈強な人々が乗るための自衛隊のヘリコプタ―で、東京と被災地を、「日帰り」で往復されています。 なぜ「日帰り」なのか…、それは、被災地の人々に余計な負担かけまい・・・・との、お考えからです。しかし、そのような過酷ともいえる御精励が、上皇陛下のお体にさわったのでしょう・・・、そのあと東大病院に御入院という事態にいたりました。 両陛下の御訪問は、まさに身を挺された“戦い”であったといえます。被災地を訪問されるたび、両陛下がガレキに向かい、深々と一礼されている写真や動画は、今も多くの国民が記憶しているはずです。そのような両陛下のお姿は、戦没者の慰霊のさいにも、しばしば見られたものですが、その一礼は、じつはすべて〝祈りのお姿〟ではなかったか・・・と、私は思っています。 両陛下の一礼は、いつも以下のように行われます。 まず天皇陛下が低頭されはじめられる…すると、一瞬おいて皇后陛下が低頭されはじめ、両陛下が深々と低頭されると、しばらく時間が止まり、次に天皇陛下が頭を上げはじめられる・・・すると、一瞬おいて皇后陛下も頭を上げはじめられる・・・。そういえば、平成十七年のサイパン島への慰霊のさいも、両陛下は、紺碧の南の海のかなたの崖に向かい、深々と一礼されていました。 私は、あの動画を見るたびに、まぶしい光の海に漂う〝民族の荘厳な悲しみ"とでもいうべき、何かを感じずにはいられません。東日本大震災のさいの両陛下の一礼も、もちろん、まずは被災して亡くなられた方々の御霊安かれ…との祈りであったでしょうが、その時は、天の神々 地の神々・・・海の神々に向かって、「お怒りを鎮めください」という祈りも、ささげられていたのではないでしょうか。人が祈る姿は、そもそも美しいものですが、あれほど美しく崇高な“祈りのお姿〟を、私は他に知りません。 両陛下のそのような祈りのお姿には、神武天皇以来の、祈りの経験の深みと高みが、疑縮されているような気がします。いわば“万世一系の祈り"の一つの極致が、あの〝祈りのお姿〟なのかもしれません。(つづく) # by matsuura_mn 2023-06-02 06:02 みたみわれー皇室と国民ー みたみわれ 皇室と国民(16) 憂いは深し (『解脱』令和2年4月)「祈ること」によって、上皇陛下、上皇后陛下は、「戦後」という時代との“戦い”をつづけてこられたのではないか、というお話をしてきました。「慰霊の旅」は、まさにその一つのかたちです。 ですから、以下は私の推測ですが、両陛下は、靖国神社に御親拝されたいという御心が、強くおありだったのではないか、と拝察します。しかし、御在位中、とうとうそれは、かないませんでした。そういえば昭和天皇も、昭和五十年以後は、参拝されていません。この年、いったい何が起こったのでしょう? その年の八月十五日、当時の三木武夫という首相が、靖国神社に参拝し、そのあと新聞記者からの質問に対して、自分の参拝は「三木個人の参拝」という発言をしています。その発言の背後には「内閣法制局」の官僚がいるようですが、「戦後史」における靖国神社の苦難の歴史は、この一言からはじまったのです。 以後、新聞記者たちは、靖国神社に参拝した政治家たちに「参拝は、公人としてか、私人としてか」という愚問を、くりかえすようになり、そのたびごとに政治家たちは“いいわけ”をしなければならなくなります。四十数年を経た今も、そのような問答がつづいていることは、ご承知のとおりです。昭和五十四年になると、メディアが、「A級戦犯の合祀」を、問題にしはじめます。 「A級戦犯」などという名称は、占領中、GHQが勝手につくった 「罪名」にすぎません。 それは、自分たちが行った「私刑」を、合法的なもののように見せかけるためにつくられた言葉で、国内法上、靖国神社には、「戦犯」など、 そもそも祭られていないのです。しかし、そのころになると、そういう事実も、世間では忘れられていたらしく、日本のメディアの誤った扇動に、まずは国内の反日政治家たちが便乗し、やがては近隣諸国までが便乗するようになります。 こうして、総理大臣の靖国神社への参拝は、どんどん困難な状況に追い込まれていったのですが、それを打開しようと、昭和六十年八月十五日、時の総理・中曽根康弘氏は、靖国神社に参拝します。 しかし、翌年の八月十五日は、中華人民共和国に「配慮」して参拝を取りやめる、という“腰くだけぶり"でした。この日、昭和天皇は、 こういう御製を詠まれています。 「この年の この日にも また 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」。この御製について、「昭和天皇はA級戦犯の合祀に反対されていて、そのお気持ちを詠まれたもの」などという〝元側近の証言"がありますが、それは、〝眉唾もの"です。 なぜなら、もしも皇室が、靖国神社に否定的になられたのなら、昭和天皇の参拝中止以後も、今にいたるまで、春秋の例大祭に皇室から勅使が派遣されているという 事実が、まったく説明できませんし、また、これも今にいたるまで、皇族方の参拝がつづいているという事実も、まったく説明できません。そうではなく、この御製は、〝私が靖国神社に参拝できる環境が、どんどん失われていく"という「うれい」を、素直に詠まれたもの・・・と解釈すべきでしょう。 (つづく) # by matsuura_mn 2023-05-04 05:04 みたみわれー皇室と国民ー みたみわれ 皇室と国民(15) いかばかり(『解脱』令和2年3月) 平成六年の硫黄島への慰霊の旅で、上皇后陛下がお詠みになった御歌の「いかばかり」のお言葉に、私は深い感慨を覚えます。そもそも人は、生きていると、さまざまな〝苦しみ〟に出会うものです。人にとって、それらの"苦しみ"を受け止めること自体が辛いことですが、もしも、それらの苦しみを 「誰も理解してくれない」と感じたら、その苦しみは、たぶん何倍にもなることでしょう。しかし、たとえ誰か一人でも、〝私を理解してくれている人がいる"と感じたら、その人の"苦しみ"は、きっと何分の一かになるはずです。 たぶんそれが、人にとって、”救い”の、一つのかたちなのかもしれません。 生きている人々もそうなのですから、亡くなられている方々も、その点は同じでしょう。ですから、上皇后陛下は、「いかばかり」と〝理解〟することで、あるいは〝理解しようと努める〟ことで、硫黄島の英霊たちの御霊を、お慰めになられたのではないでしょうか。そして英霊たちは、そのお礼に、上皇后陛下の長く失われていた「お声」を、取り戻してくださったのかもしれません。それが平成六年の〝硫黄島の奇跡〟の本質ではないか・・・と、私には思われます。 "苦しみ"をかかえる方々を目の前にした時、私たちは、しばしば自分の無力を嘆くものです。 しかし、たとえその方々に対して、具体的、物理的に何もできなくても、その"苦しみ"を"理解する"ことなら、私たちにもできるのではないでしょうか。もちろん、そういうことさえも、日々、多忙な私たちには、けっして容易なことではありません。しかし、たとえそうであっても、上皇后陛下の「いかばかり」という"心の姿勢"は、私たちも見ならうべきでしょう。 硫黄島の慰霊の旅のあと、上皇陛下と上皇后陛下は、海外の戦没者の慰霊をはじめられます。平成十七年にはサイパン島で、平成ニ十七年にはパラオ共和国のペリリュー島で、平成二十八年にはフィリピンで、平成二十九年にはベトナムで、それぞれ戦没者の慰霊をされています。大東亜戦争の戦没者は、将兵が約二百三十万人、民間人が約八十万人で、あわせて約三百十万人にのぼります。 それらのすべての御霊に対して、上皇陛下、上皇后陛下は、鎮魂の祈りをささげてこられました。 上皇后陛下の次の御歌は、平成八年にお詠みになり、翌年に発表されたものですが、私は、これは、まさしく靖国神社や全国の護国神社に鎮まる、すべての英霊にささげられたかの感がある至高の御歌ではないか、と思っています。「海陸(うみくが)の いづへを知らず 姿なき あまたの み霊 国護るらむ」 長い歳月が流れ、ご遺族の方々が、しだいにこの世を去られようと、そして戦後の誤った教育や報道のせいで、多くの国民が英霊たちを忘却し、あるいは冒涜しようと、両陛下だけは「あまたのみ霊」が、今も「国」を守ってくださっている・・・と信じていらっしゃるのです。 まことにありがたいことで、そのような〝心の姿勢〟は、すべての日本人が見ならうべきことではないでしょうか。(つづく) # by matsuura_mn 2023-04-29 00:00 みたみわれー皇室と国民ー みたみわれ 皇室と国民(14) 島は悲しき(『解脱』令和2年2月) 平成六年の硫黄島(いおうとう)への慰霊の旅で、上皇陛下、上皇后陛下は、深い祈りをささげられるとともに、すばらしい和歌も、お詠みになっています(ここでは上皇陛下の和歌を「御製(ぎょせい)」、皇后陛下の和歌を「御歌(みうた)」と書きます)。上皇陛下の御製は、こういうものです。「精魂を 込め戦ひし人 未だ 地下に眠りて島は悲しき」 硫黄島総指揮官・栗林忠道中将の辞世は、「国のため 重き努めを 果たしえで 矢弾尽きはて 散るぞ悲しき」です。 どちらも「悲しき」で結ばれています。つまり、この御製は、硫黄島で散華された将兵に対する「五十年祭」にあたっての、「御嘉賞(ごかしょう/注・誉め称えてくださること)」の「返歌」なのです。 三十一文字のなかに、二つの大切な思いが込められています。 まずは、 「精魂を 込め戦ひし人」です。ここには、戦後の日本人が、忘却して久しい、英霊への敬意と感謝の心が、静かに、しかし明確に詠まれています。 戦後の日本人は、「戦争」というと、反射的に全否定しますが、もしも全否定するなら、あの将兵たちの勇戦敢闘のすべてが、“意味のないもの"になってしまうのではないでしょうか。命を捧げて守った子孫たちから、そう思われて、英霊たちは、さぞや御無念であろう、と思われます。また、戦後の日本人は「戦没者」というと、反射的に「かわいそう」と反応しますが、考えてみれば、それは、きわめて"無礼なもの言い”でしょう。 英霊に対して、私たち日本人は、まずは「ありがとうございました」という言葉を、おかけするべきではないでしょうか。 上皇陛下は、「精魂を込め戦ひし人」と堂々と敬意と感謝を捧げてくださっています。政治家をはじめ、すべての国民が、その御姿勢に学ぶべきですが、先の御製には、もう一つ、大切なことが詠われています。 「地下に眠りて島は悲しき」です。硫黄島で散華された二万百二十九柱のうち、いまだに約一万三千柱のご遺骨が、帰還を果たせないまま、地下に眠っています。 北朝鮮による拉致被害者に対してもそうですが、総じて戦後の日本人は、同胞の悲劇に対して〝冷淡〟すぎる気がします。 上皇陛下は、そのような〝薄情な戦後の日本人〟に対しても、ご無念に思われているのではないでしょうか。 硫黄島での上皇后陛下の御歌も、一首あげておきましょう。「慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかりか君ら 水を欲りけむ」 灼熱地獄の硫黄島の戦いで、わが軍の将兵たちは、〝渇き〟に苦しみつづけましたが、そのことを、上皇后陛下は、ご存じなのです。古来、天皇陛下が世をお治めになることを「しろしめす」といいます。 「お知りになる」という意味ですが、「知る」ためには、学ばなければなりません。両陛下は、硫黄島の戦いについて、よほど熱心に学ばれたのでしょう。その上で慰霊地の「水」を見つめられた瞬間・・・、上皇后陛下は、かつての将兵たちの渇きの苦しみを、ありありと感じられたにちがいありません。 「いかばかりか」の一語が、心に染みます。(つづく) # by matsuura_mn 2023-03-03 03:03 みたみわれー皇室と国民ー <<< 前へ23456次へ >>>
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