みらっちの読書ブログ (original) (raw)
重版だそうです。
このご時世、滅多なことでは重版になりません。
新人作家のデビュー作が、発売から1か月も経たないうちに重版が決定するなんて、おそらく相当に異例のことだと思います。
『クリームイエローの海と春キャベツのある家』は、noteの創作大賞に応募されていた作品です。朝日新聞出版社賞を受賞し、この4月に出版されました。先日から、神田神保町のPASSAGEの3階にある『吉穂堂』の棚に、置かせていただいています。
noteというのは、文章に特化したSNS系プラットフォームです。
私は2020年からnoteを始めましたが、「創作大賞」と銘打ったものは、確か2021年からあったように記憶しています。それまで出版社各社が協賛するコンテストと言えば、2021年と2022年はむしろ「読書感想コンテスト」のほうが印象が強かったのですが、「読書感想コンテスト」では、各出版社がそれぞれ受賞者を選び、出版社が直接受賞者にコンタクトを取って、賞金や商品を授与するなど、少々バラバラ感があったのは否めませんでした。
2021年の読書感想コンテストでは私もいくつかの出版社から賞をいただいて、書籍やサイン本などをいただきました。2022年には「note賞」などもいただいています。
しかし、メール1本で「おめでとうございます」と伝えられただけで終わりで―――割とそれがトラウマで(笑)、どういうところがどのように良くて選ばれたのかも分からず、Amazonポイントが振り込まれてお仕舞いで、実は若干、肩透かしを食らったような気がしていました。
ほかにも「クリエーター応援プログラム」といった企画がありましたが、賞金の額は大きくなっていきましたが、受賞後のケアという点ではそこまで形が整っていたようには(はた目からですが)思われず、このプログラムは翌年からは無くなりました。
そのような経験があったため、私はnoteの賞に、失礼ながらどこか尻切れトンボのような印象を持っていたのです。
創作大賞じたいは、2022のころから、次第に「賞」としての形が整ってきたように思います。しかし、2022は大賞受賞者が該当なしだったこともあり、各出版社さんも勝手がわからなかったような印象がぬぐえませんでした。ジャンルも少々定まらない感じで、note4年目の得手勝手な目線で言わせていただくと、2023年の創作大賞とは「賞」としての規模とその後のケアが雲泥の差だったと思います。
2023年の創作大賞は、協賛する出版社も知名度の高い大手の出版社が多く名乗りを上げ、noteからの速報や受賞後の発信の質や量が、前年とは全く違いました。
何年かnoteにいる人々にとって、「今年(2023年)の創作大賞もまた例年通り、あまりぱっとした形にならないまま小さな企画として終わってしまうのだろう」的な目線が、無かったとは言えません。華々しくデビューし、書店にずらりと書籍が置かれ―――といった景色は、2022年の創作大賞にはありませんでした。密かにデビューされていた方もいたのだと思いますが、noteの中で派手に盛り上げるといったことがなかったのです。そのため、長くnoteにいた人ほど、翌年の創作大賞を少し冷めた視線で見つめていたように思います。
ところが予想に反して、2023年の創作大賞は、これまでとはまるっきり違う、本格的な「賞レース」でした。そのことにいち早く気づいて、真剣に向き合った方々と、「また今年も・・・」といった「とりあえず記事出しとこうかな」くらいの生温い熱意の方が「ごった煮」だったのが、2023年の創作大賞だったように思います。
おそらく、運営さんと各出版社の方々は、何万点も集まった作品の中から真剣な作品をより分けるのが大変だったのではないか、と推察いたします。
また、2023年からは「ベストレビュアー賞」として、創作大賞に参加する作品を応援し、応募作品の感想文を書く人に対する賞もできました。そのことで、より一層、賞レースが盛り上がったのではないかと思います。
2023年の創作大賞が大成功したことによって、2024年の創作大賞は否応なく盛り上がるような予感がします。「私もデビューできる」「商業出版できる」という確たる実績が出来たのですから、おそらく今回は、参加する作品がすべて真剣勝負になると思われます。
その先鞭を切ったのが、今回の大賞受賞者の秋山さんと出版社賞のせやまさん、ということになります。
大変正直に申し上げると、私は前回の創作大賞に対し「また今年も」と、ひんやりした視線を持っていた組に属していました。前述したように、noteの「賞」に対して、モヤモヤした思いを抱いた経験があったからです。自分のkindle出版や自作本の制作にかかりきりとなっており、そちらにまったく目が向いていませんでした(いちおう、昔書いた作品をリライトして出してはいましたが、「いちおう」とか「昔書いた」とか、生ぬるさが半端ないですね)。
そのため、中間発表になってから、フォローしていたせやまさんの作品が選ばれたと知り、ぎりぎりになって全編を読ませていただいたのです。まさに駆け込みです。読んですぐ「ぬぉぉこれは!」と興奮したままコメントを書きましたが、まさかそれが、帯コメントの一番最初に掲載されるとは・・・創作大賞初期から、丁寧にせやまさんの作品を追っていた方もいたでありましょうに、嬉しい反面、なんとも申し訳ない気持ちもあります。
改めて感想を書こうと思っていますが、感想の基本的なところはコメントに集約されているので、今回こちらでは、むしろ「書評」として、70%ほどのネタバレをいれつつ、書こうと思います。もし、これから読むのだから先入観を持ちたくないという方がいらっしゃったら、ここまでで。
さて、まとめ読みでnoteの記事として作品を読ませていただいたときは、記事の形ですので作品がいくつかに区切られており、一編の小説として読みやすいスタイルとは言えない部分はありました。が、その時も、この作品の「真髄」のようなものに強く心を動かされたものでした。
この度、帯にコメントを載せていただいたご縁で「謹呈」されたご本を改めて読みました。書籍化にあたって加筆修正された部分によって、物語がよりすっきりと、かつ豊かになった印象を受けました。スマートな導入部の表現や、主人公の心象のみずみずしさが、より際立ったと感じています。
ちなみに私はコメントに、次のように書きました。
そもそも家事が苦手な主婦です。主婦をやっていることにずっとコンプレックスがあります。他に何もできないし、主婦もできない自分がいつも情けなくて。でもこの小説を読んで、他の家が良く見えてるだけかもしれない、みんな一生懸命やってるし、向き不向きだってある、という、当たり前なのかもしれないけれど気づきにくいことに気づかせていただいた気がします!
他の方のコメント共に、朝日新聞出版社さんがこちらの記事にまとめてくださっています。
『クリームイエローの海と春キャベツのある家』(略して『クリキャベ』)の主人公津麦(つむぎ)は、とある挫折経験から「家事代行」の仕事に転職することになります。妻(母)を癌で亡くした、子供5人のシングルファザー家庭である「織野家」が職場になることで、悩み、葛藤し、経験を積み、成長していく物語です。常に津麦に向き合い、話を聞いてくれる先輩であり担当相談員の安富さんが、要所要所で的確なアドバイスをくれることで、津麦は自分自身で問題の本質に気づき、解決していくようになります。
「お仕事小説」。カテゴリは確かにそうなるのかもしれません。しかし私は、最初に読んだときから「呪いから解放される物語」だと感じていました。
人にはそれぞれ「ねばならない」とか「であるべき」といった、目に見えない、幼少期から培われた「呪い」があるように思います。真面目な性格であればそれが強く出ますし、それを覆すことは容易ではないと思います。なぜならその「呪い」は、自分の中に深く根を張り、無自覚で、目に見えず、気づきにくいものだからです。
津麦は「完璧な主婦」の母のもと「きちんと」の呪いにかかっていた、といえます。なにごとも、きっちり、きちんと。であるべき、に縛られた半生です。いっぽうで、母もまたその呪いに縛られている、囚われ人であることも、感じています。しかし娘の立場から、母の呪いを解くことが出来ず(「いつかお母さんにとり憑いた悪魔を、やっつけてやる」)、自分の呪いにも無自覚に成長しているのです。津麦の中には、癒されない子供がずっと、解放を待っています。
反発して自ら商社を選び就職したものの、その仕事を「きちんと」しなければいけないあまりに、過労で倒れてしまい、転職を「余儀なくされた」ところから物語は始まります。母と娘の「呪い」の中心に会ったのは「家事」でした。津麦は、「理想の子供」に挫折したものの、気が付かないうちに「悪魔をやっつける旅」に出ていた、といえます。
織野家のお父さん、朔也は頑張っていました。ワンオペではもはやどうにもならないのに、あらゆることを抱え込み、こちらもまた「妻がしていた家事」という亡霊と闘っていました。彼は津麦とは逆に、「理想の親」という呪いに執り憑かれていた、といえます。
津麦の「家事」と朔也の「家事」は優先順位が食い違います。津麦は「きちんと」してこそ生活が成り立つと思いますが、朔也はとりあえず生活してこそその先に「きちんと」があると思っています。本来なら「手伝ってもらう側」と「手伝う側」として需要と供給が噛み合うはずが、互いに自分の向き合っている問題に比重が置かれ、相手の「望むもの」を理解できず、どこかで噛み合いません。
どういうわけか、自分の家のアラというものは目につきにくいものです。嗅覚疲労のように慣れると感じなくなる、鈍感になる、そういう側面があります。しかし第三者が家にはいることで、今まで見えなかったものが見えてきます。そこで初めてふたりはそれぞれに、自分を縛っていたものの正体に気が付くのです。
突破口を開くのは、いつも子供たちです。子供たちは自分も子供であると同時に、親のことも良く見ています。そしてどんな人も、誰かの子供です。津麦は母を許し、朔也は理想の親になれない子供を抱えた自分を許し、そうして自分の足りないところを誰かにゆだねることで、少しずつ、解放されていくのです。
家事ってほんと、なんなんすかね。永遠に、前にも後ろにも進まないで、犬が自分の尻尾を追いかけてるみたいに、同じところをくるくる回ってる感じなんですよね。
片付けても片付けても数分で汚されて。また片付けて、汚されて。この片付けた時間はいったい何の意味があったんだろうって。
料理だってそうですよ。作っても、作っても、すぐに子供の腹は減る。食べてる最中から、次の食事は何にしようか、って考えなきゃいけない」
海を眺めながらの、その朔也の独り言のような問いかけに、津麦は「家事は波のようだ」と思います。散らかったすべてを綺麗に消し去るのが家事だ、と思うのです。
私はこの朔也と同じ問いかけから、いまだに逃れることができていません。津麦の考えるように、毎日をクリアランスするように家事ができたら、どんなにか楽になるだろうと思いますが、それにはやはり津麦のようにてきぱきと家事がこなせるスキルが必要なのかもしれません。
それでも、家事が苦手なままに、折り合いをつけて生活していくのだろうと思います。それでいいじゃないですか、と、せやまさんと安富さんに言われているような気がします。読んだ後、清涼感があるラストです。
しいていうなら、吉本ばなな『キッチン』を読んだ後のような、癒しと開放を感じる『クリームイエローの海と春キャベツのある家』。
今の時代に、人々が求めているのがこの開放感なのではないか、と思います。
実をいうと、私はこの本を、なんと「謹呈」されています。
―――などというと、おいおいどうした、と思われると思いますが、これが事実なのです。
『50代から始めるデジタル出版 定年で名刺を失う前に考えよう』を著された鎌田純子さんは、株式会社ボイジャーの社長さんです。デジタル出版ツール「Romancer(ロマンサー)」を運営している会社、といったほうが、ピンとくるかたもいるかもしれません。
私はAmazonでkindle本を出版する際、初めてRomancer(ロマンサー)の存在を知りました。以来、愛用させていただいています。
kindleなどで本を出版するには、原稿を「EPUB」というファイル形式のデータにしなければいけません。原稿を「EPUB」に変換するには、変換できる機能を持ったソフトやアプリケーションなどの電子書籍制作ツールを使う必要があります(オーサリングサービスというのだとこの本で知りました)。Romancer(ロマンサー)はその制作ツールのひとつです。
厳密にいえば、電子書籍制作ツールは「電子書籍変換ツール」と「電子書籍制作ツール」に分けられるのですが、Romancer(ロマンサー)は「変換ツール」になります。
私はWordを使用して原稿を作っていたので、Romancer(ロマンサー)はベストチョイスでした。これまで15冊ほどの文庫本を作っているのですが、その都度、お世話になっています。どんなところが気に入っているか、というと、次のようなことです。
①縦書きで、変換したあとの原稿が美しい
多少融通の利かないところはありますが、ルビが入っても行間にすき間が開くこともありませんし、おおむね思った通りのヴィジュアルになります。
②電子書籍に立体的な表紙をつけることができる
電子書籍ながら「本」という手ごたえを感じられます。
③作品が出来た後の自由度が高い
出来上がった作品を「非公開」「公開」「限定公開」の中から選ぶことができます。
「限定公開」にすれば、作品のURLを利用してHPなどで公開することもできますし、LINEなどに添付して特定の人に読んでもらうこともできます。「公開」にすればRomancer(ロマンサー)の中に公開することもできます。
私は当初、自分の作品を本にしようなどとはさらさら思っていなくて、縦書きの電子書籍として友達とシェアしあえるこの機能があれば、もう何も要らないと思っていました。
最初はLINEにURLを貼って読んでもらい、次にCanvaで作ったWEBサイトに掲載しました。WEBに本を集めて一元化し、WEBサイトを自分の本の書店か図書館にしようとたくらみましたが、残念なことに、CanvaのWEBサイト上では非常に重く、その目論見は脆くも崩れ去りました。その結果、結局は紙の本を出すに至るのですが。
④出来上がった電子書籍を国立国会図書館に納本できる
このサービスもとても魅力的です。昔から、自分の本を国立国会図書館に納本するのが夢でした。電子書籍をロマンサーで、そしてAmazonで作った紙の本を自分で国立国会図書館に持ち込んで納本しました。
紙の本を納本するには15冊以上の販売実績が必要なのですが(調べられたりはしませんが目安として国立国会図書館のサイトにそう書いてありました)、電子書籍はできたらすぐ納本することができます。しかもRomancer(ロマンサー)の会員になれば納本の手続きはすべてロマンサー側がやってくれます。素晴らしいサービスだと思います。
使っていて残念だなと思う点もあります。
それは、原稿を自在に編集できないことです。いちどWordからコピペした文章は、ある程度削除することはできますが、ロマンサー原稿の中でコピペしたり、大幅に文章を移動したり、まとめて削除することができません。ロマンサーのなかで調子に乗って大きく文章を変え、それを再びWordにして保存しようと思っても、できないのです。
ルビをつけたり、文字を直したり、改行したりはできますが、空白ページをつくりたいとか、ページの中での空白を無くして次のページの文章を前の章につなげたいなどの自由がききません。おそらく他人が簡単に剽窃したりできないようにするためなのだろう、とは思いながらも、これが地味にストレスではあります。
それ以外は大満足のRomancer(ロマンサー)。
『50代から始めるデジタル出版 定年で名刺を失う前に考えよう』は、タイトル通り50代以上のシニア世代に向けての電子書籍の手引きになっています。
なぜ特に50代なのかというと、生まれた時からネット環境が整っていたデジタルネイティブ世代と違って、インターネットの黎明期から今に至るまで、その発展の一部始終を見聞し、経験してきた世代だから、なのだそうです。
だからこそわかること、だからこそ面白い体験を持っていると、著者の鎌田さんは言います。その経験、体験を本にすることは個人としての生きがいにも繋がるし、それらの体験から得たノウハウを後世に語り継ぐこともできます。
その「個人作家の作品例」の中に、私の『駐妻記』がピックアップされています。その関係で、協力いただいたから、という理由で、「謹呈」とあいなったわけです。
いえ。協力したどころか。私、ロマンサーのおかげで「kindle本」「文庫本」を作り、それをもとに神田神保町の共同書店の棚主になり、今度の文学フリマにも出店しようとしてますけど。むしろ完全に協力していただいているんですけど・・・!
本当に、感謝の言葉しかありません。
作品例として拙著を取り上げていただき、ありがとうございます。
さて、この本の凄いところは、このあとです。
様々な作家さんたちの実例を出した後、鎌田さんは「出版・デジタル出版の仕組み」から、「出版ビジネスの仕組み」「電子書籍をつくるためにどんな知識が必要か」「どのように準備するのか」ということを、非常に細かいところまで丁寧に説明してくださっています。
私はこのことに、心から感銘を受けました。
電子書籍をめぐる出版の現実を、きちんと説明してくださっている本やサイトには、なかなか巡り合うことができません。ネット上にあるのは断片的な「記事」です。私はこの本から、知識教養としてたくさんの気づきを得ました。やはり、デジタルであれ、紙の本であれ「書籍」として体系的にまとまっているものに勝るものはないと思いました。
特に学びが深かったのは、出版や出版をめぐるビジネスの仕組みと、EPUBについての詳しい説明、電子書店の仕組みと登録のしくみ、最後に、株式会社ボイジャーの歴史と電子書籍の歴史です。
ロマンサーでコピペなどの編集が自在にできない理由もわかりましたし、なぜロマンサーがソフトやアプリではなくWEBブラウザでのサービスなのかの理由もわかりました。
「デジタル出版30年の成長」はそのまま、ボイジャーの歩みであり、鎌田さんの歩みでした。確かに、直近の30年間を大人として過ごした50代は、この章をしっかり受け止めることができると思いましたし、知らないことばかりで驚きました。
私が考えるデジタル出版は、誰でも作ることができる、誰でも読むことができる、誰でも売ることができる。そして将来にわたって残すことができる。紙の本が担ってきた役割と同じように、文化を育てることに一役買う存在であり続けることです。
(p125 第5章 テーマを見つけて形にしよう「デジタル出版30年の成長」より)
この本を読んでいて、私はとある本を思い出しました。
『本はこれから』という本です。感想文も書きました。
『本はこれから』は、今から14年前、いよいよ台頭してきた電子書籍に対する当時の反響、反応といったものが様々な立場の方々のエッセイを通して語られている本です。株式会社ボイジャーの前社長さんである萩野正昭氏もエッセイを寄せられています。
こちらの本を読むと、当時の電子書籍に対する人々の考えは、今で言えばChatGPTやAIに対する不安や畏れや期待といったものに似た戦々恐々とした状況だったことがうかがえます。紙の本に執着する声が多く、電子書籍に肯定的な意見は少なかったように思います。たった14年前ですらそうなのですから、30年前は推して知るべしです。
実際、『50代から始めるデジタル出版』の「デジタル出版30年の成長」でもPC以外にまだ有効な端末がなにひとつなかったところからのスタートだと書いてありました。大変な逆風だったと思います。
しかし、スマートフォンが主流になった今、電子書籍のインタラクティブな面や、オーディブル(読み上げ)や拡大機能など、障害のあるかたや年配者にとってもアクセシブルな面は非常に重要な要素になっていると思います。なにしろ超高齢化社会です。紙の本にはない素晴らしさを享受する人は増え、需要は高まっていくと思います。
どんな時代も、新しいものが台頭してきたときの反応は夢や希望や期待と言ったポジティブなものより、恐れや不安が上回るもののようにも思われますが、その賛否両論渦巻く中を、果敢に立ち向かって電子書籍の未来を切り拓いてこられた萩野さんや鎌田さんに敬意を表さずにはいられません。
書くことは、労力、忍耐、努力を伴う活動です。何日もかけて数万文字を書いても一人の読者すら見つからないように思えるかもしれません。しかしあなたの本の読者は必ず世界のどこかにいます。
(p4 はじめに より)
心強い言葉に、励まされました。
50代に限定するものではなく、電子書籍に挑戦してみませんかという手引きというだけではなく、「本のこれまでとこれから」に思いを馳せるためにも、ぜひとも幅広い年齢層の、たくさんの人に読んで欲しいと思う本でした。
先日、吉穂堂の棚から旅立った山崎ナオコーラさんの『ミライの源氏物語』。
目にとめていただき、お買い上げいただきまして、まことにありがとうございます!
神田神保町の共同書店「PASSAGE」の3階にある棚、吉穂堂。
ただでさえ目立たない小さな棚。
常日頃宣伝が足りないなと思っており、それならば読書感想文を書いているブログで、置いてある本の紹介文を書き、それをXなどにポストすればどうか、と考え始めていました。
こちらの『ミライの源氏物語』は、紹介文を書く前に売れてしまった、ということになります。有難いことです。
紹介文ですので、普段のネタバレばりばりの感想文ではいけません。
とはいえ、今回は売れてしまった後ということもあり、少しネタバレ多めでお送りしようと思います。
まず、この本は第33回「2023年度」ドゥマゴ賞受賞作品です。
ドゥマゴ賞。
ひょっとしたらあまり馴染みのない賞だとおっしゃる方もいるかもしれません。
渋谷にありますBunkamura。
サイトにはこのように紹介されています。
Bunkamuraは1989年に誕生した日本初の大型の複合文化施設です。コンサートホール(音楽)、劇場(演劇)、美術館(美術)、映画館(映像)の各施設をはじめ、カフェやアート関連ショップなどからなるクリエイティブな空間は、オープン以来、新しい文化の発信基地として常に注目を集めています。さまざまな文化・芸術に触れることができるだけでなく、ゆっくりとした時間を過せる、渋谷の人気スポットとして、年間300万人もの方が訪れています。
現在、東急百貨店本店土地の開発計画「Shibuya Upper West Project」のため、オーチャードホールを除き、2027年まで休館しているそうです(一部の施設は、東急線沿線の施設や東急グループの施設などで継続しているそうです)。
そのbunnkamuraが創立1周年を記念して1990年に創設したのが、ドゥマゴ賞です。
パリのドゥマゴ賞のユニークな精神を受け継ぎ、Bunkamura創立1周年の1990年9月3日に創設した「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」。受賞作は、毎年かわる「ひとりの選考委員」によって選ばれます。
パリのドゥマゴ賞がどんな賞なのかということは、ぜひこちらのサイトからご覧になってみてください。
とても独創性が高く、アヴァンギャルドな香り高い賞だということがわかります。
2023年度の選考員は、俵万智さんでした。
来年2024年度の選考員は桐野夏生さん。
たったひとりが、たったひとりを選ぶ賞、というだけでも独創的です。
私がドゥマゴ賞というものを知ったのは、1997年第7回の受賞者が町田康さんだったことからです。その時の選考員が筒井康隆さんだったということは、後から知りました(非常に納得しました)。そのときはただ、「へえ、ドゥマゴ賞っていうのがあって、面白い賞なんだ」と思ったきりでしたが、毎年選ばれる賞が「攻めた」作家さんと作品ばかりで、なおかつ、必ずしも自分もいいと思うようなものではないことが、逆に新鮮だなあと思っていました。
芥川賞や直木賞、本屋大賞やすばる文学賞など、有名な賞を受賞する作品は、話題性があり、テーマによっては少々とっつきにくいものもあるものの、どちらかというと、その後の商業的活動をにらみつつ一般に浸透して親しみやすい作品が多いものです。
しかし、ドゥマゴ賞は違う。
なにしろ、たったひとりがたったひとりを選ぶ賞です。
ある意味、とても「偏って」いる。
その「偏り」がイイ!ということになります。
もうひとつ、わりと最近知った賞で「わたくし、つまりNobody賞」 という賞があります。こちらは、2007年に46歳で早逝された哲学者池田晶子さんを記念して創設された賞です。NPO法人が個別の作品ではなく人物に授与する賞で、賞の趣旨は「ジャンルを問わず、ひたすら考えること、それを言葉で表わし、結果として新たな表現形式を獲得しようとする人間の営みに至上の価値を置くもの」。
独創性が高い、という点で、このふたつの賞は私の中で燦然と輝いている賞です。
そんなアヴァンギャルドなドゥマゴ賞を受賞された『ミライの源氏物語』。
選んだ俵万智さんのお話や、山崎さんのお話、ふたりの対談などは、bunkamuraのHPから読む(観る)ことができます。
『ミライの源氏物語』が初めて源氏物語を読む人に向くか向かないか、というと、正直、向かないような気がします。もちろん解説は丁寧なので、初めて読む方にわからないということはないと思いますが、基本的にだいたいの登場人物やあらすじがわかっていないと、現代に照らし合わせてどのあたりが「問題」なのかがピンとこないかもしれません。
反対に、もしかしたら「源氏物語」にある種の「偏見」があって、読みたいと思わない、と思っていた人にとっては、初めて読む読み物として相応しい作品かもしれません。
「古典は難しくて嫌い」「宮中の恋愛ものなど、すました貴族の話で面白くない」と、そもそも手に取ることもなければ毛嫌いして避けてきたようなかたにとっては、もしかしたら現代にも通じる本質的な問題があることが、意外に感じるかもしれません。伊達に1000年読み継がれてきたわけではないことを、山崎さんは眼前に浮き彫りにしてくれます。
『ミライの源氏物語』は現代語訳ではありません。ところどころ、山崎さんの「超訳」というべき訳文がはいるものの、「1000年前にかかれた小説を現代の倫理感で照らし合わせてみたらこんな問題が浮き彫りになる」という斬新な作品です。
当時の言葉は、当時の時代が作り出しているのであり、当時の人と同じように受け止める読書などはなからできるわけがない、と山崎さんは言います。それならば、現代人として現代人らしく読んでみようではないかと言うのがこの作品のスタイルなのです。
山崎さんはご自身がノンバイナリー(性別を男性か女性かで分類する考え方をするジェンダーバイナリーに対して、男女二元論に囚われない考え方をする人)であると公言していらっしゃいます。そのため、少し潔癖なくらい性別を排除している部分があると感じられるかもしれません。でも、だからこそ、この作品はとても新鮮です。なぜならば源氏物語は「超バイナリー」の世界だからです。
多様性の時代に相応しい「ミライの源氏物語」。1000年前からこれまで一貫した視線が注がれてきた物語に「ミライの」視線を注いだ作品。少し行き過ぎと感じる部分もあるでしょうし、現代ならこうなるなと深く納得する部分もあるかもしれません。従来のフェミニズムとは少し違う視線です。ありがちでお手軽な共感とは違う、ざらついた感覚で思考が刺激されます。
新しい「読書」の形を味わえる一冊です。
石井ゆかりさんのLINE公式に入っている。
もう何年も、毎朝7時に、今日の星占いが届く。
毎日だから、ちゃんと読む日もあれば、流し読みの日もある。スルーしてしまう日もある。それでもやめる気はない。石井さんの占いの「言葉」が好きだから。
つい先日、そのLINEで『星占い的思考』の宣伝文が載っていた。力作なので読んでね、とある。2022年刊、である、本が出ていることになぜ今まで気づかなかったのだろう、信じられないと思いつつ、速攻でAmazonでと思ったが、用事もあったので書店で求めた。Amazonも待てないくらい読みたい、と思った久しぶりの本。どうして2年も知らなかったのだろう。
石井さんはLINEではあまり自著の宣伝をなさらない。そして、あまりに毎日、彼女のLINEに触れていることで、ちょっとした麻痺を起こしていたのかもしれない、と思う。そしてきっと「今がこの本に出合うそのとき」だったのだと思った。そう、運命。占いと言えば「運命」という響きが相応しい。そして私は心の隅で思う、「ふふ、運命」と。私はどこかで、どっぷりと運命という言葉に浸りきることができない。信じるとか信じないとかではない。決められた定めという概念に対して、ただただ、興味深いと思うのだ。根底にあるのは強烈な好奇心。
本を読みながら、ああやっぱり私は、石井さんのこの「占いとの向き合い方」やスタンスが好きなのだと確信した。石井さんは言う。
人間は少なくともまだ、象徴でできた世界に棲み、運命を生きることをやめられない
そして文学は、象徴と運命の世界である。
だからこそ、文学の世界を「星占い語」で解釈しなおすことは比較的容易なのだが、問題はそこに普遍的根拠がないことだ、しかしそれは「普通の文学作品の読み方」でもあるという石井さんの言葉に、私は深くうなずいた。
ずっとそう思っていた。私は石井ゆかりさんの「占い」に文学をみていた。
さらに石井さんは、こうも言う。
実際の星占いはむしろ「単純なステレオタイプに押し込まれそうになる事物を、象徴のしくみをつかって解体し、ふくらませ、再構築する」ための道具なのだ。更に言えばこの「ふくらませ、再構築する」作業は、人生の中で何度も何度も繰り返し、試みることができる。まさに、何度も読み返してはその印象が変化する、優れた文学作品にも似ているのだ。
西洋占星術の12星座、というと、人間のタイプを単純に12に分けるなんて乱暴だ、という向きも多いと思う。年輩の男性の中には「占いなんて女子供の好むこと」で「自分には関係ない」とおっしゃる方も散見される。
そもそも占いがいかがわしいインチキ商売に分類されるものだということを石井さんはくどいほど本の中で言っている。「統計学」だという人もいるが、これまでに星占いのデータの正統性は科学的に証明されていない、と。
ではなぜ、私達が占いを「あえて」求めるのかと言えば、人生の岐路に立ったり、窮地に陥った時にしばしば占いの力を借りることがあるからだ。星占いだけではなく、九星学や四柱推命など全て同じだ。タロット占いやオラクルカード占いなどの「直感型」の占いも同じ。霊的なものが入ろうが、オカルティズムとひとくくりにされようが、占いは占いとしての役目がある。方便として使うこともあれば、自分を見つめ直すきっかけにしたりすることもある。自分だけで自分を見つめているとだんだん自家中毒を起こしてくる。しかしたいていの悩みが他人との関係から生じる自己の悩みであるから、親戚や友人に「私ってどんな人」なんて聞けない。昨今は精神科やメンタルクリニックもずいぶん敷居が低くなったが、そうはいっても気軽には行きにくい。そんなとき「こういう傾向があるのではありませんか」とある種客観的な意見を示してくれるのが占いだ(と、私は思っている)。
占い師によっては断定的だったり誘導的だったりするものだし、最初から他人を騙そうとしている詐欺師まがいも存在するから、鵜呑みにすると大変なことになる。占いは内観の処方箋のひとつだと私は思うが、客観を客観視できる限りはひとつの側面として参考にすることができる有益なものだと思っている。統計学として証明されていなくても、古今東西の占いはなかなかよくできているものだ。出生時の星の動きを閉じ込めたような緻密なホロスコープの凄まじい説得力には思わず前のめりになる。
占いに興味が無い人ほど、振り回されているように見受けられることがある。宗教と一緒で、他人のいうことを妄信したり振り回される前に自分で学ぶ姿勢が大事だと思う。疑わしいと思う心も大切だ。疑わしければ学び、学べば裏がわかる。俗にいう「当たっているか当たっていないか」なんて関係ないのだ。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」である。
科学技術も進歩したし占い自体も一般に広く浸透したため、昭和平成ほどには「へえ、あの人牡羊座なんだ」とか「自分は何座だろう」と思わない人も増えているとは思うが、人間関係に悩んだときなどやイマイチついていないと思うような時、テレビから「今日の〇〇座の運勢は12位」なんて言葉が聞こえてくると「やっぱり!」なんて思ったりするものだ。「いい気持じゃないから何位、とランキングするのはやめてほしい」という人もいる。「今年は厄年だ」とか「二黒土星は家を建てるにはあまり良くないらしい」などのことが気になるくらいにはみんな「自分の星座」「自分の年まわり」くらいは知っているし、いくばくかの興味がある人はいなくならない。それこそ今年の大河の舞台、平安時代には、占いで生活のすべてが成り立っているようなところがあった。そういう時代でも、狂信者と侮蔑者がいたと思う。ただ、社会が占いを中心に動いているからそこにあわせざるをえない。時代と共に変化もするし、誰かにとって都合のいい単なるシステムにもなりうる、ということだ。
おっと。出だしから飛ばし過ぎた。
ともあれ、購入後は先を急ぐように読んだ。
この本はとても面白い試みからできている。
石井さんの言葉を借りれば、「主に文学作品から一文を抜き出しフックとし、そこから「その時期の星の動き」を読み解いていくという、かなり乱暴な連載企画」だったという。文芸雑誌『群像』に連載されていたようだ。
連載当時そのままの状態では単行本化できないので、12星座を並べて章を作りなおしたのだいうが、かえってこそれが「物語としての12星座」を際立たせる秀逸な造りとなっていると思う。
そして何より素晴らしいのは、石井さんが読んで来た文学作品の幅広さだ。
初っ端の引用が白水社のウィリアム・ウィルフォード著『道化と笏杖』である。
読んでいないのだ。読みたくなるじゃないの!最初の1行から!ああもう、絶版じゃないの!図書館を探しかないのねと、興奮する。
最初の章は「牡羊座」についての物語だ。この『道化と笏杖』から「フール」をフックに牡羊座の物語が紡ぎ出される。フールは道化師でもあるが、タロットカードの「0」、出発点の「愚者」のカードでもある。象徴(シンボル)からイメージされる牡羊座の物語と、石井さんが占いで得た経験とが、まるでDNAの塩基がそれぞれくっついて二重らせんを描くように物語になっていくさまは圧巻だ。
かと思えば、中上健次や古今東西の神話、カルメンやドン・キホーテ、山折哲雄や佐々木倫子の『チャンネルはそのまま!』やパタリロなど、各星座から想起されるイメージの奔流が、この本には流れ込んでいる。
凄まじい知識と教養。なるほど石井さんの豊潤な文章の源はこの膨大な量の読書の中にあるのかと腑に落ちた。
いやぁこれは――ある種上級者向けかもしれない。正直、占い初心者に優しい本ではないかもしれない。もちろん実際に12星座についてのイメージが逞しくなり、星座についてよく理解できるのは確かだが、それ以上に「占い」というものへの理解が深まる。石井さんも「へんてこな本」と言っているが、あまり類をみない種類の本だと思う。占いの話をしているのに、文学論でもある。文学論かと思えば、なかなかにオカルトである。ただ「占い」についてのコアな部分、「人間にとって占いとは何か」を心に引っ掛かりとして持っている方には、たまらない1冊になると思う。
石井さんは、占いは「オカルト」でいいという。隠されたもの、という意味を持つオカルトであっていいし、「ナシ」でいいし、不道徳でいいのだと。だからこそ「アジール(避難所)」になりうるのだと。人間は通常、不道徳に生きることは許されていない。社会的に表面上、倫理的で、道徳的に生きることを望み望まれるものだ。かといって、それだけでは生きられないのも人間だ。それを「ハレとケ」に喩えて説明している。
先にわたしは「占いを知ることで得られるものがあり、自分を見つめ直すことができ、運命に従うも従わないもそれは自由意志なのだ。振り回されないで利用したいものだ」的なことを書いた。
しかし石井さんは、そういう心理の中にも「自由意志からの離脱の欲求」があるとみている。
自由意志ではどうにもならない運命という言葉にしか縋れないことというのは、この世にあるのだ。そうやって受け入れないと、心が壊れてしまうようなことがあるのだと説く。それは「運命に決定される人生観」というものを擁護するというよりは、そうやって「受け入れることで心や精神が護られる」ことを言っているのだとこの本を読んで私は受け止めた。そしてそれは、文学にも言えることなのだと思う。
なるほど、石井ゆかりさんの占いは文学だった。
毎朝とどくLINEの占いは「良い」とか「悪い」という占いでは、全くない。
たとえば最近は「しいたけ占い」も好きだが、あの占いは徹底的に「励まし」の占いだと私は思っている。あなたはよく頑張ってきた、今日は今年はこんな側面が強くなりそうだよ、とあくまでポジティブな語り掛けをしてくれる。大人気だ。
石井さんの占いはポジティブなのだが、そういう語りかけとは少し違う。
ともすれば抽象的になりがちにもなる象徴とイメージの言葉の奔流を、短い言葉に閉じ込めたような、裏側に膨大な言葉の大河があるような占いなのだ。
振り返ると「脅し」に聞こえるほどの断定の極致は細木数子さんだったと思うが、ゲッターズさんの占いも非常にソフトな断定型だと思う。いや、古くから「断定型」は占いの王道だったと思う。天気予報型、ともいう(この本でも占いは天気予報に似ているとおっしゃっているが、天気予報型、などという言い方は私の命名。笑)。
「銀のイルカのあなたはこういう性格、傾向があります」
「今年のあなたは、○○でしょう」
石井さんの占いの言葉は、他のどれとも違う。あえていうならオラクル的だけれど、その言葉は直感というより「解読して再構築した文学」で、表現がオリジナリティに満ちている。
素晴らしい本だった。
きっとこの先何度も読むことになると予感している。
謹しんで新年のお慶びを申し上げます。
昨年は大変お世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。
今年の大河は『源氏物語』を題材にした『光る君へ』。
いよいよ今夜から放送ですね。
私は毎週金曜日に、自分のWEBサイトのつぶやきというかエッセイを更新しているのですが、今週はこんな風に書きました。
源氏物語は、私は入り口が「あさきゆめみし」でしたが、それなりに各源氏に触れて来たような気がします。
私が好きなのは、角田光代さんの源氏物語で、あまり好きではないのが瀬戸内寂聴さんと林真理子さん。
持論ですが、あまりにも男と女の恨みつらみを前面に押しだすと、全く面白くないんですよ、源氏物語は。
実は源氏物語は、政治闘争に巻き込まれる女たちの話なんです。だから、ある程度ジェンダー的な視線は必要ながら強すぎてもなんかこう、ダメなんです。
恨みつらみの部分は六条御息所が全部引き受けてくださいますんで、「あなたはどうして私を愛してくださらないの」的なところは比較的さらっと、むしろ政治抗争と男の野心と嫉妬のドロドロをちゃんと描いてくれた方が面白いのです。
今度の大河はリアルなザ・律令制の貴族社会と、物語としての源氏物語をどう折り合わせていくのかに興味津々です。
noteでは年単位で少しずつ自力で『源氏物語』を現代的に翻訳されている方がいて、予習復習としてその方の『令和源氏』を冬休みにまとめて読ませていただくとともに、さらなる予習復習として、大塚ひかりさんの『嫉妬と階級の『源氏物語』』をついさっき読み終わったところです。
準備は万全です。笑
大塚さんのことは『ギケイキ』の解説を読んで初めて知りました。それ以来注目している古典エッセイストさんです。
今回直近で刊行されXTwitterでも紹介していらした2023年11月発売の『やばい源氏物語 (ポプラ新書 )』を予習に使おうと思っていたのですが、いずこかの書評で上記の『嫉妬と階級の「源氏物語」』をより平易に書かれたものだと聞き、それならばと『嫉妬と階級の「源氏物語」』を読むことにしました。
これは――特に「宇治十帖」の考察が見事でした。
私はやはりどうしても本編である「源氏物語五十四帖」の方ばかりに目がいき、宇治十帖はどうにもうじうじしている薫くんが好きになれず、綺麗なだけで可哀そうな浮舟とか、なんか勝手な人たちしか出てこないと敬遠して読み飛ばすことが多かったのです。いやはや今回、こんな物語だったっけ!?というくらいの華麗なる大塚さんの指摘に、目から鱗が落ちました。
また、以前読んでこちらのブログにも書いた酒井順子さんの『平安ガールフレンズ』が思い出され、私のなかではその対比も面白かったです。
というのは、酒井順子さんは清少納言推し。どうしても紫式部にあたりが強かったのですが、そこを大塚さんがこの『嫉妬と階級の『源氏物語』』で紫式部にとことん寄り添ってくださった感じです。
酒井さんは『平安ガールフレンズ』の中で、清少納言と紫式部をともに受領の娘という同じ階級であるということに注目されていましたが、『嫉妬と階級の『源氏物語』』ではさらにそこが深く追及されていて、大変感銘を受けました。
そもそも、歴史上紫式部が実在するか否かについては諸説あり、議論もあるようですが、現実にこうして1000年読み継がれている『源氏物語』が確固として存在する以上、「紫式部なんていたかいないかわからない」などと言うよりも、物語を通して当時の人間の社会、人間のあり方を知り、今となんら変わらない部分に学ぶという姿勢こそが、歴史を学ぶことなのではないかと私は思います。
大塚さんは、紫式部は道長の娘のサロンの一大プロジェクトだったと、この本で仰っていました。そして、人間として女性として紫式部という個人の感性やものの見方、考えかたが、源氏物語には色濃く出ているという考え方を打ち出しています。
さて、まずは大石静さん&吉高由里子さんの紫式部を、今夜からとくと拝見したいと思います。
平安時代は決して平安なことばかりではなかったし、実際のところ、武士の世界が生まれる土壌を作り出し、ひいては私たちの現代の世界にも実は影響を及ぼしている「仏教」「荘園」という魔物の姿を垣間見られたら面白いなと思っています。
ついに。
待ちに待って5年、ついに出ました『ギケイキ3巻 不滅の滅び』。
実際、最初の行を読んだとき「あれ?2巻はどこらへんで終わったっけ」、と、途方に暮れた気分になりましたが、すぐに世界に没入。そうだったそうだった、前回は吉野山で静御前と別れ、雪山を流離う義経、とのところで終わったのでした。
3巻は、前半が義経の逃亡で、潜伏していた南都(奈良)を去るまで、後半が静御前が京から鎌倉へ呼び出され出産し頼朝の前で舞を舞うまでの構成になっています。後半に向かって面白さは加速。途中から目を話すことができない――というか離脱不可能な領域になります。圧巻の3巻です。
2巻から3巻までの間に、三谷幸喜さんのNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を挟んでしまったため、この巻では登場人物が大河の配役で頭の中に登場し、いいような悪いような気がしました。もう頭の中で大泉洋さんや中村獅童さんや小栗旬さんやらがずっと――映像化の恩恵なのか弊害なのか・・・
しかしながら前半は、義経の麾下「佐藤忠信」の勇猛果敢な奮闘のくだりがメイン。大河ドラマでは武蔵坊弁慶など義経の従えていた部下たちについては「その他大勢」の扱いでほとんどモブ、歌舞伎に詳しい方などには物足りなかったのではないかと思います。当然ながら忠信の存在も非常に薄かったですね。義経にまつわる「物語性」はあの大河ではかなり端折られ削られていて、判官びいきの皆様におかれましては全体的に不満だったのではないでしょうか。仕方ないですね、頼朝が主人公でもなかったですし、ましてや義経はわき役だったので。
『源平盛衰記』では佐藤兄弟は義経四天王といわれています。佐藤忠信は奥州藤原秀衡の命令によって兄の継信義経とともに遣わされ、義経に従った忠義に厚い家臣のひとりです。兄は屋島で義経を庇って(と言われているが真偽は不明)死に、忠信も義経が落ちのびる途中、義経の身代わりになったりしながら(ってこれも物語の中の話なので真偽は不明)、宇治で義経と別れた後、都に潜伏中に襲撃され自害。
その壮絶な自害の様子は、『ギケイキ3』では若干トラウマになりそうな激烈なシーンとして描かれていました。これは12歳以下は読んで大丈夫でしょうか。今のアニメはぐちゃぐちゃのドロドロのスプラッタホラーが多いですし大丈夫だとは思いますが。
前半の終わりごろに登場する、義経を匿っていた南都興福寺の僧侶、勧修坊聖弘( 聖弘得業)の逸話がまた面白かったです。平家追討の際には義経の依頼によって祈祷を行った僧侶で、義経を逃がした後、頼朝から鎌倉に召喚され尋問されます。
この聖弘の人柄と思惑、義経との関係、そして尋問どころか逆に関東武士をオルグ(勧誘活動)しようとするさまが見事で、人間の心を動かす言論と言うものの力に関するある種の文学論ではないだろうかと思いながら読みました。
そして後半、義経の心痛を喚起しつつ語られる静御前の話は、作者である町田康氏がミュージシャンであることが最大限に活かされた素晴らしい名文でした。人間と音楽、芸術の真髄を描いたものにこれ以上はないかもしれません。
歴史を学んだり、物語を呼んだりするとき、静御前の話というのは「鎌倉に捕らえられて義経の子を出産、子供が男児だったので子供は殺され、由比ガ浜に捨てられた」「その後いやいやながら頼朝の前で舞を踊らされ、頼朝に反抗的な歌を歌いながら舞った」みたいな、もう、ものの数行で終わってしまうような話しか出てきません。
しかしこの3巻では、この「静の舞」が素晴らしかったです。静の舞にこれほどの情熱が注ぎ込まれた物語を私はこれまで読んだことがありません。だからといって「感動で涙が止まらない」といったような薄っぺらいものではなく、当時、静の存在が時代的にどんなものだったか、それがどんな音楽でどんな舞だったのか、渦巻く政治的な思惑を主軸に、芸能やエンタメといったものが当時どんな役割を果たしていたのかが、つぶさに描かれ、歴史の中にうずもれて出てこない「些末さ」「滑稽」「泥臭さ」こそが、人間の歴史ではないかと思わされ、強く感銘を受けました。
3巻は、既刊本の中でところどころ「ああここは写し書きしておかなければ」と思うような引用したい文章が特に多かったのですが、あえて引用は致しません。ただ、町田康氏の文学として、1巻、2巻よりもずっと、深まっていると感じました。↽偉そうな言い方。笑
とにかく「待っていて良かった」と胸に抱くような3巻でした。クライマックスに向かって、ひたすらクレッシェンドしていく感じ――きっとこれから何回も読むことになると思いますが、初読の感想です。
町田康さんはミュージシャンです。常々、音楽と文学というのは密接な関係にあるんじゃないか、と思っています。音楽家でもあり作家である町田さんが「琵琶法師」の世界を描く。もうそれだけでわくわくします。
「ギケイキ」は「義経記(室町時代に成立したと思われる源義経とその主従の物語)」です。「ギケイキ」はそれを原本として町田康さんが書き下ろしたもの、になります。
実は私、一度1巻を売りました。最初はただ「義経記」という古典物語を現代風に面白おかしくアレンジしただけのものと思っていて、読み返すことはないだろう、と思ったのです。ところが、なんとなくまた読みたくなり、電子版でもう一度購入。「あれ?やっぱりこれ面白いかも…」と思い、そしてどうしても紙の単行本で読みたくなり、もう一度買ったのです。私にしては珍しく、同じ単行本を三冊買ったことになります。しかも文庫本ではなく単行本(電子版も)。普段、そんなことは絶対しません。絶対に。なんでそんなことをしてしまったのか…。もはや、次第に魅力に取りつかれてしまった、という他に言い訳のしようがありません。
この小説、好き嫌いは別れると思います。この本の帯にも「デビュー20周年 超娯楽大作」と書いてあります。「古典」の「現代訳」だと思って読み始めると、もしかしたらブックオフに持って行きたくなるかもしれません(すみません)。これは「超訳」。もともと室町時代のエンターテインメントである「義経記」のさらなる現代版エンターテインメントなのです。断じて先入観禁止です。
町田さんの本で最初に読んだのは『パンク侍斬られて候』。
その音楽的で独特な文体に初めて出会い、衝撃を受けました。クドカン(宮藤官九郎さん)さんが映画化してますが、それはそれで綾野剛さん良かったですが、こちらはやはり原作をオススメいたします。
それから、拾ってきた猫のことを書いたエッセイ『猫にかまけて』も涙なしには読めません(町田さんは猫好き)。
さて。「ギケイキ」に戻ります。
この本の源義経は900年後の現代に生まれ変わっているか、あるいは魂をそのまま受け継いで存在している設定になっています。その視点から、現代人として過去の自分、つまり義経の生涯を振り返って語るのです。
そのSFともファンタジーとも言える設定自体に、違和感を覚える人もいるでしょうし、そのうえ、際立って特徴的な文体です。「いてこます」「マジか」など表現も下世話で現代的過ぎます。ですが、だからこそ、当時の息吹や空気感、そしてその当時の人たちが置かれた状況、感じ考えていたであろう心情が鮮やかに伝わってくるような気がします。とくに関西出身である町田さんと京都育ちの義経さんは言葉の相性がばっちり。
『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』はルポルタージュ作家の高野秀行さんと歴史学者の清水克行さんの共著ですが、この本も面白かったです。選択する本がまたちょっと一筋縄ではいかない本ばかりで、ガチンコでビブリオバトル。お二人ともすごく楽しそうです。
この中で「義経記に書かれていないことを義経自身が説明している箇所が適切」だという話がありました。そして、武蔵坊弁慶のキャラ設定が秀逸!と。町田さんの武蔵坊弁慶は、とにかく歌舞伎やドラマで定着しているこれまでの弁慶のイメージを軽く超えて、超えすぎていて、昔の、あるいは自分なりの弁慶のイメージを持っている人はびっくりしてしまうと思います。
町田さんの「ギケイキ」は確かに突飛で、一見現代語訳として不適切に思われますが、義経が生きた時代のことを適当に語ったり室町時代の原作を無視しているわけではありません。キンドル版一巻解説は古典エッセイストの大塚ひかりさんですが、大塚氏によると、この「ギケイキ」は、「音からの当て字や言葉遊び、果ては地名の命名までを繰り出す古典の技法」にかなり忠実だとのこと。リズム重視の町田氏の文体は、文中に出てくる無意味な音や言葉の繰り返しなど、いわゆる「とっぴんぱらりのぷう」に似た、中世には珍しくないオノマトペだったり、調子を取ったりすることに通じて、中世文学としてまったくの王道だとありました。
中世文学、とここで言いましたが、中世の文学の多くは琵琶法師などの「語り」、つまりストーリーテリングに寄って立つものです。「語り」の多くは室町時代に文字化され、「吾妻鏡」などの鎌倉時代に政府の肝いりで書かれた史書とは違い、リアルな時間とは下手をすると100年単位でタイムラグがあります。特に「義経記」は義経の時代から200年以上後の作者さんたちが虚実織り交ぜて創作した「お話」です。
「ギケイキ」では(もちろん「義経記」でも)、義経の軍事的な八面六臂の活躍は語られることはありません。そのへんのことは「平家物語でも読んでね」で済まされています。メインはそこではなく「どんな風に生まれ育ち」「なぜ頼朝に味方し」「なぜ恨まれ」「どうやって逃げたか」その道中。いわゆる「貴種流浪譚」です。当時の人々の「平家物語は知ってるから、もっと違う、下世話で面白おかしい話とか、泣ける話をしてよ」という熱烈な要望があったのかも、などと想像してしまいます。もともとが「平家物語スピンオフ」感あふれているものなのです。
さて、私が「ギケイキ」で最も興味をそそられたのは、平安末期から鎌倉・室町の人々にとっての「神仏」の在り方でした。
当時の「寺」は「神仏習合」で神も仏も集まるところであり、国内外の学問と思想、当時のインテリが集まる場所でした。そして社会からこぼれおちたアウトサイダーや、義経のように命からがら流れてきた「貴種」のように、身分は高いけれども行き場のない次男三男(もっと下も)が寄り集まる場所でもあったのですが、そういうことは授業で聞いたりしただけではなかなか具体的なイメージができないものです。私はこの本で、この時代の「寺」や「僧」というものを具体的にイメージできた気がします。色々な現代語訳や歴史ものなど読んだりもしてきましたが、そのあたりは「歴史を習って来たなら基礎知識である」とでも言うかのように、懇切丁寧な解説はなされないのが普通です。何を読んでもどうもどこかで現代のお寺やお坊さんのイメージを引きずっていました。そこに一線を引いてくれたのが「ギケイキ」の「超訳」解説だったと思います。確かに賛否両論あるであろう「超訳」ですが、イメージを喚起する力は抜群です。
末法の世の平安末期の都の周辺は、流浪のインテリセレブとヤンキー系僧侶とヤクザ系武士団で有象無象のエネルギーが満ち満ちた、ワイルドな世界だったのですね。そしてまた、当時の人々にとっての「神様仏様」に対しての感覚にハッとしました。お盆と正月しか縁のない現代人とは全然違っていて、生きるも死ぬもハッキリクッキリしていて、濃度が濃い、というか。義経の時代は「生命」を脅かすものが現代とは比較にならないほど数多くしかも強大で、そのぶん、神様や仏様の力も現代とは比較にならないパワーで存在していたのね、と素直に思えます。
平安末期、鎌倉、室町って歴史の勉強で嫌な部分だったりしませんでしたか。私は結構嫌で、すっとばして戦国いっちゃおう、みたいな感覚がずっとありました。なかなか興味がわかなかった、というか。「ギケイキ」のおかげですっかりこの時代に興味津々。結局、ここから派生した興味でさらに本を読む羽目になりました。
そんなふうに、思いがけない方向性を与えてくれた、想像力を刺激する「ギケイキ」。4巻刊行予定で、いまのところ2巻まで既刊です。3巻がいつ出るのか楽しみにしております。
ところで町田さんは河出書房新社の池澤夏樹個人編集日本文学全集でも「宇治拾遺集」を現代語訳していますが、これもまた、面白いのです。「ギケイキ」と同様、彼の日本語のリズムや音感センスには惚れ惚れとしますし、なにより愉快。古典をこんなに面白く読んだことはないです。
とにかくわかりやすい現代語訳なので、平成以後に生まれた人はこれ以上前の全集で古典を読むのは困難になってしまうんじゃないかと思うほど。やっぱり訳というのは同時代人のセンスというのが重要だなと感じさせてくれます。私も少しずつ図書館で借りては読んでいます。この全集では現代の作家さんが訳を担当しそれぞれに鮮やかな切り口で日本の物語を伝えてくれていますが、町田さんの訳は中世の空気感において圧倒的存在感があると思います。町田さんの「こぶとりじいさん」(別のタイトルで掲載されていますが実に滑稽洒脱なタイトルです)、ぜひご堪能あれ。
2023年追記:12月1日にふらっと書店に行ったら、11月末日発売の『ギケイキ3』に巡り合いました!呼ばれた・・・と思っております。近日中に、『ギケイキ3』の感想文を書きます。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/1/29 17:28:07
※今回のVol.20で終了いたします。読んでいただきありがとうございました。
(他にもいくつかシミルボンに掲載した記事があるのですが、そのほとんどがはてなからの転載だったので)
【鬼灯(ほおずき)の冷徹/江口夏美】。31巻(完結)。
地獄の話です。
表紙の鬼灯さんはもちろん鬼。獄卒を統率する閻魔大王の補佐官です。
この漫画の閻魔大王はおちゃめなおじさまといった雰囲気で、鬼灯さんの上司として毎日亡者の罪を裁いています。閻魔大王が「ちょっと休暇とってどこかにバカンスでも行きたいなぁ」「よその神様は結構、出かけてるんだよ?」なんてつぶやくといきなり鬼灯さんから「よそはよそ!うちはうち!」と怒られます。
補佐官の鬼灯さんは有能で仕事一筋(拷問含む)、まさに冷徹。怖い鬼、鬼神です。長身ですらりとしたクールな美青年の姿ですが、つねに巨大な金棒をかついでいて怪力、とんでもなく強いです。ツッコミもかなりのキレ味。
趣味は「金魚草」を育て愛でること。
1巻表紙の三つの角に描かれているものは、茎の上に生きた金魚の花?が咲く、植物と動物の中間みたいなもの、「動植物」だそうです。赤ん坊の悲鳴のような声で鳴きます。鬼灯さんは、キモカワイイものが好きなようです。
地獄では、戦後の人口爆発や悪霊の凶暴化により、亡者が溢れかえっています。獄卒たちは恒常的に人材不足に悩まされています。
鬼灯さんは閻魔大王を助けながら八大・八寒地獄全272部署を治めています。地獄って、そんなにしっかり細かく分かれてるんですね!とこの漫画で初めて知りました。地獄の仕組みやどんなところかが、事細かにわかる「地獄辞典」みたいな漫画でもあります。
基本的には読み切りのブラック・コメディです。たまに前編・後編でストーリー展開することもあります。鬼灯さんの子供の頃の話は、結構リアルに可哀そうだったりします。作者の江口さんの絵は、日本画の影響を受けているそうで独特の魅力があります。
鬼灯さんに会うといつも張り合っている中国の神獣・白澤(はくたく)、お伽話としても有名な英雄の桃太郎とそのお供のシロ(犬)、カキスケ(サル)、ルリオ(キジ)、新人獄卒の唐瓜(からうり)・茄子(なすび)などの主要登場人物(?)がいて、ファンタジックではあるのですが、やはりそこは地獄。
例えば動物をいじめたり、いたずらに生き物の命を断つものが落ちる「統括地獄」は、暴力による殺害、虐待などといった殺生関係の地獄群。蚊などの小虫を殺した者も、懺悔しなければ必ずこの地獄に堕ちます。また、生前争いが好きだった者や、反乱で死んだ者もここに落ちると言われています。中に不喜処地獄があり、シロは最初ここで働いていました。獄卒として地獄に落ちたものを襲って食べるのが仕事。
1巻では、桃太郎のところで働いていたシロたちお供の三匹は、桃太郎と一緒に地獄に鬼退治に地獄に来ていました。桃太郎は地獄に過去の栄光を取り戻そうと「鬼退治」に来たのですが、実際のところいわれなく文句をつけて騒いでいるだけのクレーマー扱いで、鬼灯さんにあっさり敗退してしまいます。桃太郎は改心して中国の「桃源郷」で白澤さんの薬局の助手として働くことになり、仕事を失ったお供の三匹は鬼灯さんに雇われました。お供ブラザーズは鬼灯さんのもとで大出世します。「カチカチ山」に登場するウサギの「芥子(からし)さん」は、普段は穏やかで可愛らしいのですが、いったん怒ると「おのれ!狸!」とものすごく怖くなります。狸への恨みはいまだ深い。
基本的に舞台は日本の地獄ですが、各国の地獄、黄泉の国なども登場します。ギリシャ冥界、エジプト冥界、キリスト教の地獄、その他妖怪や神仙なども数多く登場し、古事記の神様たちも。たまには鬼灯さんが現世に出張、なんてこともあります。個人的には鬼灯さんの出張回や、平安時代に井戸を通じて現世とあの世を行き来していたとされている小野篁の回が好きです。
もともとインド仏教に今の日本人が想像するような「地獄」はありませんでした。中国を経由した時に道教の影響を受けて日本に渡来、浄土思想とともに一般にも広まり、平安時代の末法思想後、源信が書いた『往生要集』によって広まったと言われています。道教の流れを汲んだときに官僚制度が加わって上下関係などが生まれたようですが、それにしてもお寺なんかにあるトラウマになりそうな「地獄絵図」などを見るにつけ、地獄の仕組みというのは微に入り細に入り、よくここまで想像できるものだと感心するほどです。
「鬼灯の冷徹」では、本来恐ろしすぎてとても絵や文章に書けないような地獄であっても、「地獄目線」でコミカルに描かれていて、妙に身近に感じられてしまうのが不思議なところ。身近に感じて、だからといって行きたいかと言われると・・・
全編にわたり、テンション変わらず最後まで楽しく読めます。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/3/9 15:08:51
SARSが2002年から2003年で、新型インフルエンザが2009年。どちらも日本は水際対策によって免れた、あるいは最小の被害で済んだ、とされています。この作品は、SARSと新型インフルエンザパンデミックの間、2007年に出版されました。本格的疫学小説、だそうです。
首都圏の海に近いとある小さな町で起こった感染症をめぐって、疫学のエキスパートたちが「元栓(感染源)を見つけて、締める(拡大をおさえこむ)」ために奔走する10日間(後日譚として半年後)の物語です。2019年から現在に続く新型コロナウイルスパンデミックとあまりにも重なるところが多く、驚きつつ読みました。これが小説とは。2007年刊とは。もはや予言の書にしか思えません。
というよりも「感染症をめぐる対策と収束」というのは、もともとこういうものなのだと思います。それを、私たちが知らなさ過ぎた、あるいは無視し続けていただけの話で、疫学や医学に携わっている方々にはあらゆることが「今にはじまったことではない」という感覚なのかもしれません。この小説は、それを詳細に丁寧に追っている、ある種のシュミレーションであり、モデルケースとも言えます。
「エピデミック」とは「ある特定の地域でとどまった感染爆発」です。SARSの時も新型インフルエンザのときもパンデミック(世界的大流行)でしたが、新型インフルエンザの時はともかく、SARSは日本ではどこか対岸の火事という感じで収束しています。それはひとえに水際対策に奔走した方々のおかげだったと思いますが、2019年のCOV-2により現在、ついにパンデミックに飲み込まれた日本においてはただでさえよくわからなかった感染症の正体以上に、「初めての体験」が多すぎたのではないかと思います。証拠に台湾はじめSARSの教訓を存分に活かして政策をとっている国も多いと聞いています。
さて、この小説の舞台にはたくさんの偶然があります。そして読者には、あらゆる「原因の可能性」がばらまかれて見えます。原因は果たしてどれなのか。感染拡大は押さえられるのか。スリリングな展開です。この小説に登場する疾病は相当の点で新型コロナウイルスに似ていますが、麻疹にもにています。ギリギリで空気感染ではないレベルというのが妙に暗示的に感じてしまいます。とはいえこの小説の第一次感染者の症状は劇症で、この疾病にり患した方の描写の衝撃度は高いです。
群像劇で、中心になる人物は、医師でフィールド疫学者である、島袋ケイト(しまぶくろ・けいと)です。ほかにも地元の小児科の医師、基幹病院の医師たち、ケイトの同僚で獣医資格をもつ疫学者、ケイトの上司と恩師、保健所の職員、マスコミ、感染症センター、厚労省と、様々な視点から描かれています。
ケイトは近くのC市での仕事を終え帰宅する途中雪に阻まれ、たまたまそこから遠くないT市のほうで壮年のインフルエンザ重症例があるという話を恩師から聞き、その街に降り立ちます。そしてそこで発生の初期段階から新興感染症に関わることになるのです。後から来た同僚の仙水望(せんすい・のぞみ)とともに、彼女は恩師で小児科出身の学者・棋理文哉(きり・ふみや)から与えられた知識と経験を総動員して、探偵のようにこの疾病の傾向と対策、そして原因を突き止めていきます。
棋理は「感染症とは、つまり生態系の問題なのだ」と言い、自分たちにとって「(感染を未然に防いだら、誰も病気にはならないのだから)成功とは評価されないこと」だと言います。彼ら疫学者たちは、疫学に対しそれぞれ思うところを持っています。仙水は「日本の社会に疫学が根付かないのは、根本的に我々の社会が科学的な思考に慣れていないから」だといい、ケイトは「実験ができる諸科学や、理論的な諸科学の領域から見ると―――つまり、ほとんどの科学から見ると―――かなり荒っぽいし、いい加減だ。そんなところでぎりぎり科学的であろうとするからこそ凄いのだ」と思っているけれども一般に伝わらないことも感じています。様々な想いを抱きながらも専門家としての矜持を持ちつつ、ケイト達棋理の弟子は、疫学の基本に忠実に「時間・場所・人」を調べ上げ、数理モデルを駆使しながら、フィールドワークで原因を探っていくのです。このあたりの頭のキレる恩師と優秀な生徒の活躍は、なんとなく森博嗣さんの小説を連想しました。
「XSARS」と名付けられたこの新興感染症をめぐって、地域、市、県、国という場所で色々な思惑が動き、様々な事柄が起こるのですが、この「エピデミック」はわずか10日間で原因がわかって収束に向かった感染症だったため、国や政が本格的に動くところまでは至りませんでした。しかしその一部のエリアをめぐる政治的な動きだけとっても、とても簡単に動くものではありませんでした。「集団感染の対応は、科学や医学だけで決まるものではない。むしろ政治なんだ」という厚労省の感染症課課長の言葉は小説内の言葉とは思えません。
人々の集団心理も相当なもので、作者はそのあたりも丁寧に描いています。「大きな感染症の流行があると、必ず陰謀説が持ち上がるのよ。SARSでも『陰謀論』があったの。でも、こういうので、いまだに本当だったためしはないわ」。島袋ケイトは断言します。また、メディアの役割についても棋理の一言で一石を投じています。「メディアはアウトブレイク対応の特殊性を学び、求めるべき正確さの水準を時々に応じて調整すべきなのではないかな。メディアの役割とは、情報の発信者と受け手との間に入り、そういった調整役を担うことなんだと思うよ」。
こういったことを考えると、このコロナ禍の現在、COV-2に関わっている臨床医師や感染症医、疫学や病理の専門家、病院や地方自治体など様々な関係者のご苦労がいかほどかと偲ばれます。そして小説に描かれるほど「パンデミック時には当然起こり得る」事柄について、今現在、現実的に「政治」「差別やデマの抑制」「メディア」がうまく機能し動いていかどうかというと、なんだかうすら寒いような気もしてきます。
途中正体不明の強大な脅威の暗喩として「リヴァイアサン」が出てきますが、謎の海の怪物としてのものと権力(あるいはそれに比肩する力)との両義的な意味でつかわれています。劇中示されるあらゆるヒントは、どれもこれもが「原因」のように見えます。動物愛護団体の施設や、過去に問題を起こした新興宗教の施設もあり、どれもそれらしく思えてくるのです。しかし最後には「ああ、あれが」という納得がおとずれます。リヴァイアサンともつながり、そうだったのか。そう言うつながり方か、と腑に落ちます。
感染症との戦いは終わることはありません。ひとつが終わったとしても、次は大丈夫とは限りません。そしてそれが、永遠に終わらないわけでもないのです。ひとつおわって、また始まり、また終わって、はじまる。それが感染症との闘いのすべてだと、この小説は教えてくれているようです。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/4/27 21:42:23
「この本を新米母だったあのころの自分に渡してあげたい」と思います。
正直、妊娠するまでワクチンのことを真剣に考えたことはなく、妊娠時に様々な検査をしたときに初めて意識した気がします。考えてみれば、かつて昭和・平成の時代は「出産するときにこういう病気を防いでいないといけないから、予防につとめよう」、という教育は皆無でした。本来、中学生・高校生には必須な情報だと思います。現在はそういう教育もすすんでいるのでしょうか。妊娠がわかったとき、母から自分の母子手帳をもらい「これはへその緒より大事だ」と思いました。自分がいつ何の予防接種を受けているのか、未接種のものがあるのか、ということは重要な情報です。
子供が小さかったころ、ワクチン接種は流れ作業的な「仕事」でした。産後あたふたしているときに先々までのスケジュール表が渡されます。検診のたびにチェックが入り、連絡が来たりかかりつけの病院で打つ定期接種はいいのです。問題は任意接種でした。任意っていうのは国は面倒見ないから親が判断するってことだよね?と、いまいち「任意」の真意がわからず、「はて、ワクチンのことを誰かにきちんと聞いたことがないぞ。これは絶対に打つべきものなのか?打たないという選択肢はありなのか?」と疑問が湧きました。
いろんな本を読んで調べたかったけれど、初産で嵐のように過ぎゆく日々の中で何か書物で調べ物をするような余裕などなく、母乳を出している時は特に、信じられないほど頭の中が空っぽになって集中して考えることが難しく、ただただネットを検索するのが関の山。そうすると出るわ出るわ、ワクチンを打ってはいけないとか、こんな害があるとか副反応がヤバイとか。それがデマや嘘なのかも検証できないまま、不安な心はさらに不安にまみれていきました。
様々な病院でそれとなく医師に聞いてみましたが、面倒くさい質問であることは間違いなく、軽くキレられたことはあっても丁寧に説明されたことは一度もありません。ワクチンについての考え方も様々なようでした。肯定的な方もいれば否定まではいかなくてもあまり積極的ではない方もいました。お医者さんの側も、時間が限られているし専門外だしということになればやはり「めんどくさい母親キター」になるのは当然です。
ポリオなんて「生ワクチン」だからオムツの取り扱い次第では自分もうつるかも、みたいなことを知ったときにはすごく怖いと思いました(この本でもそんな感じのことが書いてあります)。待合室では赤ちゃんたちがよだれベロベロで泣いているのに、接種後お母さんや誰かほかの人にうつしたりしないんだろうか…とか思った記憶があります。
そんなすべての疑問に応えてくれるこの本。漫画というのもいい。授乳中でもスッキリ頭に入りそうです。感染症の説明や、ワクチンの仕組み、歴史、さらに各病気ごとにまとめられてコラムで補足。非常にわかりやすいです。またいろいろな研究者、化学者、医師などのトリビア的な豆知識も面白く、北里柴三郎が尊敬するコッホが亡くなったときにコッホ神社を建ててコッホを神として祀ったという話はびっくりしました。
著者は外科医さんで、新型コロナウイルスのことがあって子供にワクチンについて問われて、改めてきちんと知りたいしお子さんにも教えてあげたいと思い、感染症専門医である実のお父さんに取材し、この本を上梓されたとのこと。子育てに仕事に忙しくされている最中には「母子手帳に書いているから打つ」としてそれ以上疑問に思わなかった、と述懐されています。専門外とはいえご自身が医師ですし、身近に相談できる人がいる安心感もあったのではと思います。
ワクチンには様々な側面があり、副反応もゼロということはありません。メディアの報道如何によってもイメージが形作られ、デマなどもネット上には飛び交っています。そうしたことについて触れている本はこれまで少なかったので、その点にも踏み込んでいるこの本は画期的な本ではないかと思います。
日本人のワクチンに対する信頼度は世界最低レベルとのこと。この本では150年前に日本に種痘を広めた楢林宋建さんが「予防医学は報われない」と言った言葉が紹介されていました。今回新型コロナウイルスのワクチンについては連日報道されていますし、ワクチンについて知りたい、と思う人が増えているような気がします。まさにベストなタイミングでの刊行、かもしれません。
日本における新米母は多かれ少なかれ、疑問を抱えながらも曖昧なままワクチンを打ってきた、というのが実情だと思います。今後、何か色々聞かれて困るという小児科のお医者さんは「これ読むとわかるよ」とこの本を推薦してはいかがかと思います。新米母の不安も吹き飛びます。正しい知識と正しい理解をもって、初めてきちんと考えられることってあります。今読んでももちろん、大変ありがたい本ですが、返す返すも、あの時、この本が欲しかったです。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/2/22 23:35:34
山田太一さんが亡くなりました。
まさか酒見賢一さんに続き、こんなにすぐに山田太一さんの追悼記事を書くことになるとは思いませんでした。
いえ、思っていなかった、というのは少し語弊があります。
先月、山田太一の未発表シナリオが見つかって、それが書籍化されたという情報に接し、一も二もなく購入しました。その情報はテレビで、山田氏の娘さんが出ていました。脳出血で倒れて以来は闘病生活をしているとおっしゃっていました。
しばらく前から、最近山田太一さんの名前を全然見ないな、と思っていました。やっとキャッチした情報がそれでした。
ブログを始めてから、いつかは山田太一作品のことを書こうと思っていましたが、このごろ全く作品に接しないので、きっと引退してしまったのだろうと思い、なんとなく先延ばしにして、ちゃんと調べようとしませんでした。それで、2017年に倒れたという情報も知らずにいたのです。
ただ、そのテレビ番組を観た時、なんとなく予感がしたのです。
なんとなく――なんとなくの、予感です。
私が買い求めた『ふぞろいの林檎たちⅤ/男たちの旅路<オートバイ>山田太一未発表シナリオ集』は、頭木弘樹さんという方が出した本です。奥付をみると頭木さんの紹介欄には「文学紹介者」という肩書が書いてあります。そんなお仕事があるとは知りませんでした。頭木さんは長い時間をかけて、山田太一さんに全作品に関するロングインタビューをされていて、その関係で、こちらの未発表作品の発見につながったようです。
訃報に接して、あらためてこの未発表シナリオ集を読んでみました。
私は『ふぞろいの林檎』の少し下の世代です。絶大な人気を誇っていた時代を知っています。ドラマもシリーズのいくつかは観ていますし、『ふぞろいの~』と聞いただけで、俳優さんの立ち居振る舞いや登場人物の性格などがたちどころに思い浮かびます。「プッ〇ン女優」などと言われ、いまはもうテレビで見かけなくなった女優さんのことなども。
ちなみに、山田太一さんの代表作とされる『岸辺のアルバム』も、私はまだ子供で、親世代のリアルタイムでした。親世代が話題にしていたことが思い出されます。
『男たちの旅路』は、私はリアルタイムの時は小学生以下だったと思います。大人になってから再放送で1話か2話、観たことがある程度。しかし親世代や私よりもう少し上の世代のかたには、とても人気があったことは知っています。主役は鶴田浩二さんで、今は大御所と呼ばれるようになった水谷豊さんの出世作ということも。
大人になって再放送で観たときは、私はもう山田太一さんのファンだったので、かなり期待して観ましたが、やはりまだ戦争の影を引きずりながら、新しい時代との狭間に生きる当時の世相がリアルにはピンとこなかったのと、水谷さんの演技が「当時の若者」として少し過剰に思えて、うまく感情移入はできませんでした。もちろん「過剰」ではなかったのです。私は水谷さんの『熱中時代』の大ファンだったので、小学生の頃リアルタイムで観ていた時は「若く、一生懸命な先生」に強く憧れを抱き、演技が過剰だなんて思いもしませんでした。あのときの「北野先生」と、『男たちの~』の杉本陽平の間にはそこまでの差なんてなかったのに、時代を超えて視聴したらなんだか「熱すぎる」と感じたのです。不思議なものです。きっと今『熱中時代』を観たら、そう思ってしまうような気がします。なにしろ、今の水谷さんは「右京さん」ですから、あの押さえた感じの演技とは全く違う、水谷さん。それもすべてが時代、というものでしょう。
さて、シナリオ集を読むにあったって、まずは『ふぞろいの林檎たちV』を読みました。
馴染みがあったし、だいたいのストーリーは、なんとなくでも頭に入っていたからです。ちなみに、私の小中高時代は、テレビというのは地方局が番組を買ってくる時代でしたので、「観ることのできないドラマ」というのがたくさんありました。どんなに人気ドラマでも、テレビ局が買い付けなければみることができません。そのドラマの中のひとつが、『ふぞろいの林檎たち』でした。
私は中学校の昼休みに「TBSが視聴できるエリアにいる友達」であったH子ちゃんから、逐一、ドラマの内容を拝聴しました。それで、良雄はどうなったの?それで時任三郎はどうしたの?と、役名と俳優さんの名前をごちゃまぜにしながら、完全に、耳から聞くだけのダイジェスト。時任三郎かっこいいんだよ、とか手塚理美ってなんかキツい女でさとか、H子ちゃんの解説も入りつつ、です。
今だったらある意味タイパと言われてむしろ推奨されるのでしょうが、私はH子ちゃんからちょっと大人びたドラマの展開を聞くたびに、ああちゃんとテレビでドラマを観たいものだと感じつつ、必死で頭の中でドラマを組み立てたのでした。
未発表の『ふぞろいの林檎たちV』は、私の頭の中に完ぺきにドラマを届けてくれました。前後編。私の中では、ちゃんと40代設定の中井貴一や柳沢慎吾、時任三郎や手塚理美や国広富之や石原真理子や高橋ひとみが、見事に動いて、話していました。俳優さんのイメージのない新しい役には、勝手に今どきの俳優さんなどを脳内補足。
実をいうと、シナリオを読むのは不慣れです。これまであまり読んだことが無かったので、書籍が出ると聞いたときに「小説じゃなくて、シナリオか――」と少し躊躇していました。しかし、それはすべて杞憂でした。確かに小説を読む時とは違うのですが、むしろ「読んでいる」感じがありませんでした。完全なる脳内ドラマ。それがまさに、脚本家としての本領が発揮されている証なのだと思います。
『男たちの~』のシナリオを読む前に、私は少々記憶の旅をしました。
山田太一さんの小説が好きで、特に『異人たちとの夏』がとても好きで、影響もかなり受けました。他にも『飛ぶ夢をしばらくみない』や『丘の上の向日葵』『君を見上げて』など、特に1990年前後の本はよく読みました。
山田さんの作品と言うのは、テレビドラマでもそうですが、平凡な人間の平凡な日常が会話を中心に群像劇で描かれるものが多く、そこに唐突に異質なものが紛れ込んだり、違和感のある展開になったり、不思議なことが起こったりします。中でも私は少しSF風味のある『異人たちとの夏』が好きだったのです。
『異人たちとの夏』は、大雑把に言うと、ひと夏、「異人」と交流した男性を描いた作品です。どういう異人、だったかは、ぜひ、読んでみていただきたいです。少しだけネタバレすると、人がまばらにしか住んでいない「ゴーストマンション」に住む妻子に逃げられた男性が、同じマンションに住む女性と知り合い、親しくなります。そのころから、ちょっと小道を曲がると昭和時代に住んだ家にたどり着き、そこで亡き両親とも親しく交流を重ねるようになります。男性は、そのノスタルジーに魅了され、辛い現実から目を背けるように、その世界にどっぷりと引きこまれて生き、そして――。
結末は、衝撃的で、かつ、とても切ないものでした。
映画にもなりました。主役は風間杜夫さんでした。
ちなみにこの作品は、1988年に第1回山本周五郎賞と第8回日本文芸大賞を受賞しています。1988年が山本周五郎賞の第1回だったんだ!ちょっと驚き。
昭和の時代、テレビという媒体を通して、たくさんのドラマが生み出され、私たちのもとに届けられました。山田太一さんの作品は、常に「世代間の葛藤と軋轢」がテーマだった気がします。戦争も引きずっていて、戦後というものも意識されていたと思います。
例えば『ふぞろいの林檎たち』も、今の時代に似たようなテーマでドラマを作るなら、おそらく同級生たちのあれこれが描かれるだけで、その上の世代の人間模様まではあまり描かれることはないかもしれません。今は世代間ギャップの内容は「毒親」や「呪い」と言った言葉に置き換わっていることも多く、上下の世代をドライに切り離すことが推奨され、泥臭いような感情交流は避けられる傾向にあると思います。
今回、幻の「Ⅴ」を読んで、山田作品が主人公が年齢を重ねる中で、変化していく時代と世代感覚といったものに常に敏感だったことがうかがえました。
山田太一さんの最後のテレビドラマは2016年の渡辺謙さんのドラマだったようです。2016年というと私にとっては最近の部類なのですが、すでに7年前。その翌年に倒れられたことを考えれば、観ておけばよかった、と思います。残念です。
『ふぞろいの林檎たちⅤ/男たちの旅路<オートバイ>山田太一未発表シナリオ集』の巻末には今回のシナリオに関する補足も載っていて、舞台裏なども知ることが出来ました。著者の頭木さんのロングインタビューが、近く刊行されるようなことが書いてありましたので、それも楽しみにしたいと思います。
この本の刊行については、山田さんご本人も喜んでいたそうですが、「ただ、そんなもの買う人がいるかな」ともおっしゃっていたそうです。
――速攻で、買いましたよ、山田さん。
山田太一さん、素晴らしいドラマの数々、そして小説の数々を、届けてくださってありがとうございます。心からご冥福をお祈りいたします。
コロナ禍の日常の日記の出版が増えているそうです。
何が起こって、どんなことを感じたか、の日常の記録。
コロナ禍となり1年以上が経って、もっとこういう作品が乱発されるかなと思ったのですが、さすがにSNS全盛の現代、毎日のつぶやきはSNS上でされることが多く、私たちもそれを見ることに慣れているためか「出版物」としてはそこまでないなぁ、と、感じていました。
著者の桜庭一樹さんを、私はこれまで存じ上げず、これまで著作をを拝見することなく来ましたが、奇しくもこの本で巡り合うことになりました。
歴史には、正史(国家による歴史)と、稗史(我々庶民の日々の歴史)があるという。いまの、不安で寄る辺ない、この一日一日こそ、かけがえのない稗史なのだと思う。
また、こんな風にも書かれています。
自分には作家という職業の最低限の倫理というものがあり、生きている間は、”たったひとつの命の絶対的価値”のための稗史を記録し続けなければならない。
桜庭さんが述べている通り、この日記は「稗史」として書き出され、自身の生活に忠実な記録や資料でありながら、「土佐日記」のような日記文学になっています。そしておそらく、それがそのままいずれ来るべき未来には、史料になるであろう、とも思います。2021年4月に刊行されています。
虚構ではないのになぜ「日記文学」かというと、桜庭さんは「日々流れてくる情報」だけではなく「ある場所での人・モノ・出来事の定点観測」を行っていて、そこに1年の変化を描き出しており、1年後にはそれが鮮やかに浮かび出る手法を取っているからです。また、2020年11月から年末にかけての心情は甚だ悪く、記憶も背景も飛び飛びに、奇妙で居心地の悪いスピード感に描かれているところは「記録」というよりは「文学」だと受け止めました。
心情や情景は、その時その時に彼女がとらえた現実や感情で、後から手をくわえたものではないと思いますが(本に編集するときに加筆修正はしていると思いますが)、たとえば「路地裏の、青い看板が目印の、自家焙煎珈琲店」だったり「2020年2月半ばにオープンしたばかりの薄緑とレモンイエローの壁が目印のこぢんまりしたラウンジ兼カフェ」を定期的に訪れ、そこのマスターやバリスタのお姉さん、あるいは客たちを描写することで、1年の流れに自分の視点だけではないドラマを持ち込んでいます。
日記は2020年1月26日から始まり、2021年1月20日で終わっています。
2020年1月26日からの第一章~2020年10月25日までの第七章は、「2021年文藝春季号」に掲載され、2020年11月15日からの第八章~エピローグの2021年1月20日までは書下ろしとなっています。
プロローグの文章が、なぜ「大麻」の話だったのかよくわからなかったのですが、ひょっとしたらコロナ禍になって心から楽しかったのは、たまたま偶然合法の大麻エッセンスが効いてしまったその時だけだったということを言いたかったのかな、と思います。素晴らしい演劇や文楽を観ても、どこかに心の底に、楽しめないものがつっかえていて、解放されない。それに対してのアンチテーゼ的なものだったのかなと思います。でもそこだけ、ちょっと違和感は感じました。
さて、彼女がどう暮らし、どう感じたか以外にも、政治や事件事故といった面でどんなことがあったか、というのが、日記には細かく書かれています。それが必ずしも自国の動きだけではなく、SNSを通じて諸外国がどう動いていたか、も書かれていますし、世間を賑わせた芸能人の事件や訃報といったゴシップにおいても、かなり細かく記されています。そのうえで、自らが特に感じた出来事や事件も、ことの大小にかかわらず、ピックアップされています。
また、お店の動向やサービスの変化などを通して経済対策やその時の状況にも触れ、映画やゲームなど何が流行っていたか、マスクなどの商品の市場の動きなど、克明に記されています。そういえばそうだったな、アベノマスクとか今となってはもはや懐かしいくらいの代物だなと思ったりしました。
日記は、それが大事なんですよね。事件の大きさや問題の深さに関わらず、その時に敏感に反応した「事件」には、そのときの自分が反映されている、と思います。
読んでいて「あ、ここで急に変化があったんだ」と知ったのが、「2月25日と26日」という日付です。この本が1月26日から始まっているのもそのためでしょうか。1か月前からスタートすることで、この日が際立ちます。
25日に「マスクマスクだな、妙に静か、パンデミック直前の不気味な静寂」と思っていたのが、2月26日になって急にバタバタと休止や延期の情報が流れてきて「突然現実化」する日です。日記の後の方でも「あの2月25日みたいだ」と思う日があったりするので、おそらくは桜庭さんにとってかなりインパクトのあった日なのではないかと思います。そして、一般の私たちにとってもコロナ禍の生活においてのビフォーアフターの潮目、「変わり目」の日付だったのかもしれません。
自分のラインを見ると、息子の卒業式や入学式がどうなるのか心配していました。まあ当時は色々バタバタしていた時期ですので、27日にはかなりヤバめの膀胱炎になってます。こうした出版物としての日記は、自分の記録と照らし合わせることで自分にカスタマイズされ、記憶が蘇る手助けにもなります。それも史料としての価値というものかもしれません。
現在はSNSがあるし、それぞれが各自の日記をつけているようなもの。あるいは自分が記録しなくても、誰かが記録している、という世の中だからこそ、こういった「文学的日記」は必要だと思います。SNSの記録は断続的で個人的で、結局は情報の大河の流れに飲み込まれて「自分の記録」は手元に残るけれども、SNS上に残された記録は「乱発されたつぶやきの重層」であって俯瞰され一般化されたものにはなりません。
この日記には、次第に周囲から人の気配が消えていくところがよく描かれていると思います。それまでも独り暮らしだった桜庭さん。友達もいるし仕事もあり、街の風景に心なごませ、お気に入りのお店でくつろぐこともできていた生活の中で、コロナ禍になって次第に周囲から人の「気配」が消えていく様子が描かれています。
ちょっとした人の行動や仕草に触れたとき「ああ、人間だ、ここに人間がいるぞ」とかみしめる場面が度々、出てきます。
また、桜庭さんは犬を飼ってらっしゃるのですが、花を買い求めることが増えていきます。気がついたら花を買っていた、という日もよく出てきて、そういえば、コロナ禍になってペットを買ったり、花を買ったりする人が増えたという報道があったなと思い出しました。
そういう、ささやかな潤いを求める心情だけではなく、ちょうど当時桜庭さんが戦時中のことを取材していたために、世の中の「空気」に不安や不満を感じたり、憤りを感じたり、我慢したり、様々な心模様も率直に書かれています。彼女の生活と私の生活はやはり違っていて、同じものを見たり聞いたりしていても、感じ方も違えば情報の取り方も違う。それでも、右往左往、試行錯誤しながらもがいている日常を、ここに読むことができました。
特に、桜庭さんが、人心が乱れたと感じ治安に不安を抱いていたころ、女性として怖い思いをすることが増えたと、美容院で話題にしたときのことが印象的でした。日常の中にある、通い合わなさや分断、そういったものの居心地の悪さが、よく理解できました。分断は、単に国家間という問題にとどまらないということを、改めて考えさせられました。
何か、おかしい。
そっと、話題を変える
上は、私がこの本でラインを引いたところです(電子書籍)。きっと多くの人が同じ感じを味わったことがあると思います。
「(大人だからと)平気なふり」をしながら生きている自分に比べ「若い人たちはそこまでウイルスをおそれなくなっているように思う。そのぶん、彼らは周りへの思いやりを保っているように見える」と、自身の倫理観の低下や利己的な考えをする自分に疑問を持ったりもしています。揺れ動くのは気持ちだけではなく、自分は何者なのだろう?と自身へも向いていきます。不安は伝播し、人の心は荒み、いい人ほど声を荒げたりすることに倦み疲れながら、町のちょっとしたアートに心を救われつつ、新しい生活を模索していく日々。
焙煎珈琲店のマスターが桜庭さんに言います。
「世の中にゃ、変えていかなきゃいけない問題がたくさんあるが、他に選択肢がなくなり、もう変わるしかなくなっちまうまで、人間ていうのはなかなか変われないもんだよなぁ」
ほんとだな、と思いました。
※2023年追記
コロナ禍の生活には、みんなが心底飽き飽きしていて、いまやコロナ禍前より自衛をする人が少なくなっている気がしないでもありません。コロナだけでなく、インフルエンザやアデノウイルスなどが猛威を振るっているようです。
桜庭さんの日記はいずれ確実に「史料」となると思います。災厄に対し「そんなものはない・なかった」ように捉える人もいますし、「あのときは~」と回顧的に考える人もいます。自分自身がどう感じ、どう行動していたのかについて、これほどSNSが溢れていても実際のところきちんとした記録として残している人はどれほどいるでしょう。私たちは、本来、あらゆる歴史から学んでそれを未来に活かさなければいけないと思います。貴重な記録、今より多くの人に「読まれる日」はもっと先の未来かもしれません。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/6/10 17:54:16
少女時代、というのがこのわたくしにも存在いたしまして、その当時「ど」ハマりしていたのが神坂智子さんです。残念ながら、引っ越しを繰り返すうちに手放してしまったようで見つかりません。そのため記憶を頼りに書いております。
どれがいちばん、とはとても決められませんが、しいて言うならこちら。
現在この中に収められているかどうかはわかりません。ともかく、始まりは「はるかなるシルクロード」という短編でした。単行本としてはもう古本でしか手に入れられないようです。
シルクロードシリーズは、SFというか、大河ドラマというか、時間や空間を飛び越えたり、地球ごと輪廻している世界観で、その壮大さと、人間くささを残す神々と人間の織りなす物語に惹きつけられました。
だいたいが一話完結のオムニバスで、時系列も登場人物もバラバラです。各地の伝説や民話なども題材にしていますが、天山山脈に住む少数民族の神(テングリ)と人間たちとの物語が中心になっています。
この神様たちはもともと人間で、前世の地球において滅亡しそうになっていた人類の中の、セーヤとアーニャという夫婦の遺伝子から人工子宮によって生まれた子供たち(きょうだい)です。銀鈴を持っていて、その鈴の音に反応します。十人だったのですが、長のオリジンが抜けて九人となり、長い年月が経ってから、オリジンの子孫であるシオリという日本人の女性がはいってまた十人になりました。シオリ以外は全員が男性で、長い金髪と碧眼が特徴です。シオリもテングリになってその姿になりました。
私は中でも『巻き毛のカムシン』という、熱風の神(神々の中では六男)が、人間の女性と恋に落ち、彼女が老いて死ぬまで添い遂げた話が大好きでした。
1980年代に喜多郎のシンセサイザーのテーマで有名な『NHK特集 シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-』という番組がありました。NHKアーカイブスの放送史というサイトには、
『NHK特集 シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-』東西文明交流の道である秘境・シルクロードの全容を初めてテレビカメラに収めた、日中共同取材のドキュメンタリーである。
放送は、1980(昭和55)年4月にスタート。中国・長安(西安)を出発し、パキスタンとの国境パミール高原までの行程を毎月1本・12集で伝えた。
と、あります。
番組は大ヒットし、続編が制作され、一大ブームになりました。この放送史も大変興味深い情報が満載です。この企画が現実のものになるまでには、なんと7年もの月日が経っていたとか。
話は1972年9月の日中国交回復にさかのぼる。この時、田中首相の訪中を中継で伝えるために北京を訪れたNHKディレクター鈴木肇は、帰国後、「マルコポーロの冒険」というタイトルで特集番組の企画提案を書き上げた。後の『シルクロード』の原案となったものである。企画は局内で大きな支持を得て、放送総局長の堀四志雄が先頭に立って中国政府や中国中央電視台(CCTV)を相手に取材許可を取ろうと交渉を重ねた。しかし、当初は文化大革命の時代。それまでシルクロードに外国のテレビカメラが入ったことはなく、許可は下りなかった。
神坂智子さんが「はるかなるシルクロード」を描いたのは1981年です。単行本の各巻には神坂さんが旅をした中東の旅行記などもついていて、それもなかなか読みごたえがあって楽しみでした。ロマンはたっぷりだけれども、衛生的に不安になるようなトイレの話とか、果敢に冒険に挑んでいく神坂さんはすごいなぁと感心することばかりでした。シルクロードの旅そのものが困難な時代でもあったと思うのですが、とても活き活きとした楽しそうな旅行記でした。
神坂智子さんは映画「アラビアのロレンス」の主人公トーマス・エドワードロレンスの伝記として『T.E.ロレンス』も描いています。自伝からインスピレーションを得たかなり衝撃的な内容でした。
自らを欺き無理をしながら得た結果が、次第に彼自身を壊していく過程や、映画では描かれきれていなかった、偶像的英雄になってしまってからのロレンスも丁寧に描いていて、最終的に彼が亡くなるまでの精神的葛藤は、途中から読むのがつらくなるくらいでした。少女漫画としては少々刺激的な描写もありましたが、名作だと思います。
神坂智子さんの作品には砂漠の少数民族がたくさん出てきます。『T.E.ロレンス』にも砂漠の民が登場して、ロレンスに強い影響を及ぼします。シルクロードシリーズでもそうですが、神坂さんの目はたびたび、忘れ去られそうになりそうな、小さなものが持つ誇りに向けられます。
『カレーズ』という作品には、まるで「100万回死んだねこ」のように何度も輪廻転生を繰り返す、オッドアイの少女が出てきます。カレーズというのは天山山脈の水をひく深く長い地下水路のことで、その水路を潜るたびに少女の魂は転生します。宇宙や輪廻や宗教や、ともすれば壮大すぎる世界観を小さき魂の目線で語る、神坂作品の数々。遠くインドのブラフマンとアートマンの梵我一如の世界のようでもあり、今のマインドフルネスに通じるようでもあります。人間の根源的な問い「自分はなにものか」といったことに踏み込む作品が多いのですが、スピリチュアルに走りすぎないのは歴史ロマンとうまい具合に融合しているからなのかもしれません。
※2023年追記
現在、東欧、中東において起こっている出来事には、すべて歴史が関係しています。シルクロードは、そのほぼど真ん中を通り抜けている道です。そこにまつわる「物語」を描き続けたのが神坂さんです。歴史というのは物語を包括するものだと思います。フィクションやファンタジーが今の歴史を動かしている部分もおおいにあり、神坂さんの漫画には現在の出来事を示唆するようなものも数多いです。私はこの記事のタイトルをつけるときに「夢と憧れがつまっている」と書きましたが、今は「シルクロードの歴史と浪漫がつまっている」と書きなおしたい気持ちです。
私は神坂さんの歴史を見る視点から多くのものを学んでいたと今改めて思います。漫画だから、デフォルメされているから、想像に過ぎない、と言わず、これらの漫画は後世に残すべき漫画だと思います。我々日本人は実は中東の孕む歴史の複雑さをうまく理解できていないものです。特に『TE.ロレンス』などは、BL要素が強いと言われて特に男性に敬遠された部分もありましたが、ロレンスの人間的葛藤だけでなく、第一次世界大戦当時のヨーロッパの様子が非常によく描かれています。
清水玲子さんの記事の時、白泉社オンリーで小さな絶版を繰り返しながらも今も何かしらの形で漫画を読むことができると書きましたが、同じ白泉社発の神坂さんの本は、現在ほとんどが絶版で、ネットには古書としてしか上がってきませんでした。とても残念に思います。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/5/4 18:14:27
岡野玲子さんが好きです。
2001年に手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。
2006年に第37回星雲賞コミック部門受賞。
とにかく絵が繊細で優美です。そして幻想的。「筆」を使って作画されることが多く、まさに芸術です。そしてまた、岡野さんの使った資料が各巻末に載っていますが、こちらはもう教科書レベルを超えています。すごいです。こういうのを、絶賛、というのかもしれませんが、手放しで絶賛してしまいます。常日頃、季節の行事や祭事などについて気になったときには時折読み返したりします。
原作は夢枕獏氏で、初期の頃は原作に忠実なところもあるのですが、途中から完全に岡野ワールド全開。
岡野玲子さんはこの作品で「手塚治虫文化賞」を受賞されていますが、手塚治虫の息子さんである、手塚真さんの奥様でもあります。
この物語があまりに好きすぎてなにから言えばいいかわからないくらいですが、まず、全巻の表紙を並べて掲載したいくらい絵が好きです。そして物語の見事さ。構造も構成も伏線も伏線回収も人物も見事。岡野さんは人物を描くときは相当に史実を調べ、できるだけ忠実に描かれるそうで、そのあたりも歴史に嘘のない世界観を構築する要因になっていると思います。とはいえ、物語は時を超え宇宙に至る、想像力が限界まで刺激されるマジカルな展開。
陰陽師や安倍晴明の物語は、たくさんの人が題材にし、小説や漫画やアニメや映画にしている、日本ではある意味「大人気キャラ」なわけですが、その安倍晴明を、これほど見事に表現している作家はほかにいないのではないかと思います。占い師であり、天文学者であり、(身分の低い)文官でもある。野心もあれば、神聖な世界をつかさどる神官でもある。伝説の数々からは、サイキックな力もあり、オカルトも許容範囲。酸いも甘いも嚙分けている人物であることがうかがえます。クールだったり「炭火のように」熱かったり、ピカレスクな感じがするかと思えば天使みたいな顔もする、ものすごく複雑で、怪しげで、謎に包まれた男性として、豊かに表現されていることに感服いたします。
岡野さんの物語が進むにつれ、夢枕獏さんの原作を大切になさっている方などは、原作とのあまりに違いに、途中から、ついていけない…という気持ちになったりもするようです。とはいえ、原作者の夢枕獏さんはそのあたり、岡野玲子さんの才能を愛しつつも、自らの世界観を失わず、ゆるぎなく余裕。そう言う意味で夢枕さんはすごい方だと思います。原作は原作として、二次創作を自由に許す度量というのは、なかなかないことだと思います。
『陰陽師』は巻を重ねるごとに分厚くなっていき、話が壮大になっていくのでどうなるのだろうとハラハラドキドキわくわくしつつの13巻目で完結。そしてその後『玉手匣』という続編が描かれて、こちらも7巻で完結しています。これがまた、宇治拾遺集や今昔物語の世界を取り入れてもう、まさに魅惑の「匣」です。
ついに『玉手匣』では夢枕氏が「原案」ということになったようです。1巻では晴明の息子が東寺で幻の空海と出会うシーンがあって、興奮しました。笑。
さて、内容については、書きません。
その時代の「しくみ」まで迫る緻密なストーリーに、見えない世界が絡み、鬼が出てあやかしが出て霊魂が出て、式神を操りそれらを鎮める「安倍晴明」。そこにナチュラルに神に愛される相棒の源博雅と、晴明を支える妻、真葛が素晴らしいアシストを展開。それをささえる岡野玲子さんの冴えわたる資料解釈と感性の塊のような絵。素晴らしいです。作中には篳篥や笛など楽を奏でる場面も多いのですが、実際に音楽、特に雅楽にも造詣が深いとのこと。というか、造詣の深くない分野がおありなのでしょうか、と思うくらい、どんな分野でも深く深く掘り下げられていて、お見事としか…
岡野玲子さんの作品は、力士の恋愛を描いた『両国花錦闘士』、禅寺の跡取り息子のコメディで映画化もされた『ファンシィダンス』、『コーリング』『イナンナ』などそこまで数多くはないけれども力作ぞろい。
中でも陰陽師の次に好きなのがこれ。
:book:297611:妖魅変成夜話 1:
中国(唐)が舞台の神仙のお話です。この作品あたりから完全に筆で作画されるようになってきたのではないかと思います。独特の世界観とユーモアに魅了されます。西遊記とか水滸伝とか金庸とか、チャイニーズファンタジーがお好きならばぜひ、読んでいただきたい作品です。
岡野玲子さんのマジカルで不思議な世界と筆が織りなす芸術的な絵から、二十年以上前くらいから、ひそかに岡野玲子さんの「タロットカード」が見てみたいと思っている私です。きっとすごく魅力的なタロットカードになりそうな気がします。
魅惑の岡野玲子さんの「ザ・ワールド」(DIOのスタンドの話ではありません。笑)、ぜひご堪能いただきたく思います。
※2023年追記
岡野さんのことではありませんが、このところ「AIでブラックジャックの続編を制作」が話題です。ニュースやテレビの番組で岡野さんのご主人、手塚真さんをお見掛けすることが増えました。このブラックジャックについては賛否両論のようですね。ブラックジャックを心から愛する私にとっても無視できない話題ですが(笑)、私は「全く別の新しい二次創作」という受け止めです。手塚先生の絵柄ソックリに描ける漫画家さんも多数存在しますし、「ヤングブラックジャック」など別の漫画家さんが続編を描くといったことと同じようなことかなと。「AIブラックジャック」は半年ほどかかったとのこと。手塚治虫は何本も連載を抱えて寝る間も惜しんで物凄いスピードで描いていたそうですから、もうそこからして違いますよね、と思いますね。これについてはまた、別の時に書こうと思っています。「はてな」でスタートしようとしたブラックジャックネタも完全に止まっていますし。笑
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/3/12 0:06:23
「この1冊で私の人生が狂いました」…いえいえ、そこまでではないですが、でも私にとって「人生に食い込んでる感じ」がするのが、清水玲子さんです。ほぼほぼ、リアルタイムで追い続けてきた漫画家さんでもあります。
最初に読んだのは『ミルキーウェイ』。高校時代、友達が授業中に(!)熱心に読んでいて「そんなに面白いの?」と聞いたら「面白いよ~読んで読んで!」と貸してくれたのが始まりです。
ハマりました。絵がとてもきれいで、線がアールヌーヴォーっぽくて好みでしたし、ファンタジックで軽いタッチの、コメディ要素もあるけれどもどこか切なくて抒情的なジャックとエレナの物語が大好きになりました。
そこからは手当たり次第に既刊の作品を読み、ジャックとエレナのグッズなんかも買い、単行本の余白のコラムを熟読し、清水さんが作品を描きながら『E.L.O』のアルバムを聴いていたというのでアルバムを買い、エンドレスで聴き…笑、清水さんがバレエにハマっていた『月の子』まではよかった。しかーし。衝撃は突然やってきました。
このあたりから、グッと雰囲気が変わったのです。「禁忌(タブー)」に踏み込む内容や、グロテスクな表現があり、シリアスになりました。絵が美しいだけに、悲惨さや儚さが際立つので、必要以上に心に刺さる感じ、といいましょうか。
特に『22XX』は、衝撃でした。『ミルキーウェイ』の登場人物「ジャック」のシリーズでしたし、スピンオフ的な話なので物語自体は好きなのですが、「生きること」「食べること」に関わるタブーを真正面から扱っていて、それ以来食べ物に対する感覚がすごくナイーブになりました。いまだに忘れることができないコマがあります(後述の『秘密』の第九に行ったら間違いなくあのコマが出てきそう)。
このあたりも、なんとかクリア。でも次第に、ちょっとずつ、絵柄と、物語がはらむ重厚な問題とがちょっとちぐはぐに感じてきたのです。
そしてついに、
『輝夜姫』の長い連載の後で、久々の長編の予感がする『秘密』第一巻を読んで、そのあまりに綺麗な絵と、綺麗が故に、よりグロテスクに感じる表現に「ヤバい、トラウマレベル」と感じ、読むのを断念。封印しました(清水先生、ごめんなさい)。
だいぶ経って、おもむろに読み始めたのは、新シリーズから。今確認したら、最初の一巻が出たのが2000年くらいなので、なんとほぼ十年近く、清水さんから遠ざかっていたことになります。
『秘密』は、近未来、人間の脳に残る記憶を映像化する技術が発達し(MRI捜査という)、それをもとに事件を負う「第九」と呼ばれる科学捜査研究班の刑事さんたちのお話。サイコホラー&サスペンスです。「暴く(あばく)」という言葉がぴったりで、ぴったりすぎて、人が隠しておきたいもの、本来は表に出さないものが赤裸々に暴き出され、結局「見たくないものを見る」ことになってしまいます。そんなサイコな要素に加え、絵が美しいだけに精密すぎるグロ。ホラー度が増します。
アニメ化と、確か生田斗真さん主演で映画化されています。どちらも未視聴です。
原作漫画の物語は短編や長編の組み合わせで進行しますが、過去の事件で友人を失ったトラウマを持つ主人公の設定も、事件のたびに傷を抉られるような捜査も、とりまく周囲の人間関係も、また事件そのものも、惹きこまれる魅力があります。登場人物たちは触れられたくないところに踏み込まれることでえぐられ傷つき、読者もまた、自分自身に問いかけて自分の傷を見るような、ある種痛々しいシビアな漫画です。絵柄と内容のギャップを愛せるか否かが、この作品の好き嫌いの分かれ目になりそうな気がします。
惜しむらくは、主人公の薪と、薪が過去に失った友人の面影を重ねる青木が、どうしてもエレナとジャックに見えてしまうこと。私の中で、ジャックとエレナは永遠のパートナーなので、なんとなく釈然としないものが心の隅にあったりするのです。薪が30代の「おっさん」にはどうしても見えません。もしかしてエレナと同じアンドロイドで設定20歳くらいなのかもしれません。いや、そんなことはないですね。はい。薪が若く見えることも、この作品の「要素」ではあるのですが。
甘く美しい夢のような絵に惹かれて読み始めると、心に刺さった棘が抜けなくなるのでご用心。最近の清水玲子さんの作品を読むには、少しばかり覚悟が必要です。
※2023年追記:今回、はてなブログに転載するにあたり、ネットで清水玲子さんの漫画を検索したところ、すべてが「白泉社」のみで完結していました。清水さんは白泉社さんオンリーだったんだなと、それが今さらながらすごいと思いました。どういった事情があるのか詳細はわかりませんが、割と珍しいことなのではないかと思っています。他の漫画家さんは他所でも描くのが普通で、絶版本も多く過去の作品が文庫などにもなっていない、という方も多くいる中、清水さんの作品は20年以上経っても今もほぼ紙で読むことができるのは、凄いことだなと思います。ここ2年半ほど「秘密season0」の連載を休載されていたようですが、2023年10月27日発売のメロディ12月号(白泉社)から連載再開されているようです。
※2023年10月1日にサービス終了となった「シミルボン」では、希望者ひとりひとりに投稿記事のデータをくださいました。少しずつ転載していきます。
初回投稿日 2021/5/19 12:50:28