残響の足りない部屋 (original) (raw)

ここは残響(残田響一、8TR戦線行進曲の残田響一、レッズ・エララの中の人)という人の日記ブログです。
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ぞわぞわしてくる。この本に書かれているのは、ある地方出身&在住の精神科医が見てきた、この日本という国の数十年だ。

そしてこの本は、熊代氏の血で書かれている。

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この本の著者は熊代亨氏という精神科医で、精神医学や社会学、そしてオタクとしての視点から、現代人や現代社会の病理を考察され続けています。同時に熊代氏はブログ「シロクマの屑籠」を長年運営されています。

初著書「ロスジェネ心理学」が2012年に発売される前から、私は「シロクマの屑籠」を読んでいました。というか熊代氏がブログを書かれる前に運営されていた「汎的適応技術研究」を私は学生時代に読んでいた記憶があるので、もう熊代氏の文章を読み続けてそろそろ20年くらいになりそうな気が。

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本書は熊代氏の人生を振り返るエッセイであり、そのクロニクルを通じて現代日本社会・文化・ネットの肌触りを今一度改めて思い返す内容になっています。
個人史を通じて1980年代から2020年代を概観すると同時に、これらの時代の雰囲気、風のにおいと質感、社会からの視線、緊張度……そういったものを熊代氏は描写しようとしています。

この本は熊代氏の視点から「私が見た風景はこうだった」を描写する本だ。NUMBER GIRL/ZAZEN BOYS向井秀徳の言葉を借りるなら「俺の目玉が見る景色」であり、かつ熊代氏が繰り返してきた「自問自答」の血の軋みが、うめき声が聞こえてくる本です。

はっきり言って、読んでいてぞわぞわしてくる。興奮や熱狂ではない。私はこれを読んでいて、とても落ち着けない。
もちろんのことながら、熊代氏が今苦しくて、そんなおれの苦しみをわかってくれ!なんて内心吐露の書き方の本では一切ない。

それでも熊代氏という人間が1980年代、90年代、ゼロ年代テン年代と日々を、歴史を重ねてきて、その折々で熊代氏が実際に「喰らって」きた様々の苦しみ、痛みが、文章の中にこだましている。でもそれをロスジェネ・氷河期世代の放つ怨嗟の声、と直接的に表現するのは、はばかられる。

なぜならこの血の声は、熊代氏個人の言葉だからだ。本書で熊代氏は最後まで「世代の代弁者」的な振る舞いを見せなかった。おそらく、熊代氏は世代の人間として語るべきことはあれど、軽々しく代弁者ヅラをすることの醜悪さもわかっている。しかし熊代氏が語る内容と、声の中に、確実にロスジェネ・氷河期世代の怨嗟はこだましている…。

最近、私自身にとあることがあって、「言葉遊びをしていてはだめなのだ、空理空論は意味がないのだ」と強く思うようになった。前々からそう、うっすら思ってきたが、改めてつくづく思うようになった。血の通った言葉でないとだめなのだ。

たとえば、鋭く理論や理屈でもって問題点を穿つことは出来る。同時に、過去のデータを引っ張ってきて確実に論敵の急所をしとめることも出来る。長く本を読み、文章を書いていればそういうことは出来るようになる。やがて思い付きから、試論をもてあそぶようになる…。言葉が言葉を重ねる空中楼閣。

でも、本当に大事な言葉というのは、血の通った言葉なのだと思う。自分が生きてきて負った傷や軋み、その血が放つ言葉でしか、人の心は動かせない。

「そんなことはない!正論の鋭い攻撃力も人の心を動かしうる!」という反論が聞こえてきそうだ。しかし私は見てきた。その妙に顔が赤い即レス的な反論には、m9(^Д^)プギャーにも通じるような自信の無さがこだましていた…。そして私もそのような即レスをかつてしてきたのだ…。

この本は読んでいてしんどい。ぞわぞわする。正直熊代氏の過去作「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」より個人的にしんどいのはなぜだ。

……決まっている。読書中、私自身の半生を逐一思い返すからだ。
明らかに発達障害だったが、その言葉(定義)がなかった私の幼少期。
学生時代、私自身がどうしようもなく幼く、キモオタだったころ。
いろいろな環境に耐えて耐えて、結果精神が歪んでしまい、病院のお世話になったころ。
大学院を退学し、何者かになろうとして文章を書き重ねて、結局何者にもなれなかったころ。
誰かを羨んで、嫉妬して、その癖自分では何一つ手を動かさずに作品を作らなかったころ。
迷惑をかけた人のこと、決裂した人のこと。
その時リアルタイムに見てきた作品、文章、ホームページ…。
人の目、世間からの圧迫妄想、そしていつまで経っても心からの自信が持てない自分自身への怨嗟…。

いろいろなものを思い返す。そして何故我々……いや、代弁者はよそう。なぜ「私は」、様々なものを羨み、憧れ、崇拝し、そして嫉妬し、抗弁し、虚勢を張っていたのか。

私は、自分自身に何もない、と思っていた。誰かの意見を引用することには長けていた。それで自分自身を守っていた。でもこういう姿っていうのは他人からしたら透けて見えるもので。その度に顔は赤く紅潮し、声色は強くなり、m9(^Д^)プギャーがこだまするのだ。…それが何になる? 自傷しているようなものではないか。

ところで、私は熊代氏の10歳下になる(1985年生)。なので、同じものを見ていても、ルートは違うように思える。例えば熊代氏が東浩紀動物化するポストモダン」から一歩進めてボードリヤールを通じてポスト構造主義に入っていったこと。

私も学生時代「動ポモ」を読んだが、その流れで私は文芸誌「ファウスト」を読んでいた。読んでいたというより、同時代の才能の煌めきに対し、めっちゃ嫉妬していた。西尾維新氏にも佐藤友哉氏にも奈須きのこ氏にも。そして「ファウスト」の東浩紀氏の連載は「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」という本になった。私はそれらの著作に対して、「フーンこれが今の創作シーンなのね軽薄な…(チラッチラッ」と冷静に見ているふりをして、内実めっちゃ嫉妬していた。そして自分自身がどんどん不自由になっていっているように感じていた。あまりに辛くなってきたので「ファウスト」は竜騎士07氏を特集する頃になったらブックオフに売った。どんどん自分が現代社会からズレていっているように思えた。でもそのズレは心地よいものではなかった。嫉妬ですからね…。

そういう「現代創作シーンの煌めき」への嫉妬があったから、それよりもちょっと「落ち着いている」ように見えたポスト構造主義やそれ以前の哲学の著作を私は読むようになった。そうすれば心が泡立てられずにすむから……でも正直ドゥルーズ=ガタリデリダヴィトゲンシュタインも、読んだはいいもののほとんど理解できませんでした。人間同士のコミュニケーションのやり方について、後期ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論のドライな見方は凄く助かった記憶があるけども。

まぁこれは例のひとつであるが、そんな風にして同じものをみていても熊代氏と私とで、世代の違いや能力や状況の違いもあって、ルートは違うということで。それでも…それでも熊代氏のこのエッセイで描かれる風景の、風のにおい、質感、緊張度、っていうものは、とても覚えがある。そりゃそうです。同じものをみていたのですから。

地方社会の泥臭い人間付き合い、そして「この程度しかないんかい!」的な常時文化欠乏症。
地方大学のミニマムな充足感と、都会への意識。あるいは泥臭い田舎からの脱出願望。
「オタク」なるものへの差別の時代の空気感。同時並行しての精神病理的世界観。
インターネット。ポストモダン
……とても、とても覚えのあるものばかりで。そしてその「覚えのある」とは、「私も傷を負ってきた」というのと同義で。

だから私は熊代氏がこの本を書くにあたって流してきた「血」を感じることが出来る。それはどこまで正確かわからないけども、ともかくこの本には血がある。なにか巨大なものに阻まれて、生傷を負い、しとどに流れた血の存在が、こだまのように聞き取れる。

これはあんまり言ってはいけないことなのかもしれないけど、本書には熊代氏が親しんできた作品や、オタクライフの断片が描かれている場面がありますが、本書ではそれらの充実感や楽しさについてはあまり描かれていません。

もちろん熊代氏はアニメ愛好家にしてゲーマー(とくにSTGのシューターです)として様々な喜びを、アニメやゲームから得てきたことは疑いようがありません。ただ、この本では「おれの魂の作品の喜びを聞け!」感がとても薄い。様々な作品が、そしてインターネットが熊代氏にとって「あって良かった」ことは疑いないし、実際熊代氏を救ってきたのだけれども、本書ではそれよりも、もっとヒリヒリした空気感、緊張度のようなものを色濃く感じさせる。それは「時代の風景を描く」という本書のテーマからしたら、「作品やオタクライフの個人的なたのしさ」にページを割くことは、おそらく本筋からズレることとなる…という判断なのかな、と思う。その判断は私は妥当だと思う。

というか、個人的な喜びを語るにしては、あまりにあの氷河期世代・ロスジェネ世代の視てきた風景の中にある巨大な「抑圧してくるもの」の存在感が大きかったのだろう、と私は思う。その巨大な抑圧は、大きいし、遍在しているし。希望があるんだかないんだかよくわからないし…そして今現在からしたら、2020年の現代社会の抑圧・鬱屈・相互監視・神経戦状態の萌芽はすでに蒔かれていたといえてしまうし。「歴史」だなぁ、と思うわけです。

でも、本書は絶対にあってよかった、って思う。読んでてしんどいけども、このしんどさは目をそむけたくない。というか、私もあの時代を生きてきた人間なわけですから、汲み取れるものは汲み取りたい。

時代が経るにつて、だんだん10年、15年、20年前が懐かしくなってきます。それくらい前っつったらアレですよ。「けいおん!」ブームだったころです。正直今はもうこれくらいの経年ですら懐かしい。でも、あのころはあのころで私も、熊代氏も、そして皆も、必死だったわけです。その必死さは覚えているよ。スマホ以前で、もう新たな「伝説」なんて生まれないのかな、とぼんやり閉塞感もあって。今にして思えば、まだあのころは微温的だったともいえるけれども。そういうあの時代の空気感を思い出す。

そうやってしっかり空気感を思い出すことは、なかなか出来ることじゃない。とくにネガティヴな様相もしっかり描こう、とすると余計に。本書で熊代氏は、世代の安易な一体感とかノスタルジーとかに頼らず、あの時代の空気感に向き合って、記録を残した。それは過去を断罪したり、嘲笑したりするのとは正反対です。むしろ、より大きな意味で過去を肯定……少し大仰な言い方を許してもらえれば、過去と、その過去を生きてきた自身、そして潰えていった同時代の者たちを「鎮魂」することとも言えると思う。

なんてったってこの本、ノスタルジーの甘味ってものがないのです。このブログでは散々Lo-fi HiphopやVaporwaveを皮切りに、ノスタルジー表現についてめっちゃ愛好してきました。なので言えるのですが、本書はそういうノスタルジーのノイズ交じりの追憶の甘美さってものが、「ない」!これは断言します。

本書の大事なところっていうのは、ノスタルジーに浸って現実逃避、ではない。過去をきちんと見据える。あくまで個人の視点からだけれども、確かに在ったことをきちんと記録する。そうして考えていくことが、確実に未来を少し良くしていくことだと固く信じて。「あいつら」を、そして自分自身を、無駄死になんかさせないぞ、と。何より、自分が見てきたものは無駄なんかじゃなかったんだ、と。

何回もこの感想記事では「血」という表現を出してきました。本書の書き方は、苦痛を吐露するものではありません。でも、熊代氏の抱いてきた苦痛の一端が垣間見える内容です。その苦痛を経て、血でもって書かれているからこそ、説得力があり、この著者は誠実に書いている、と信じられる。

私は熊代氏の血を感じながら読みました。しかし…ぞわぞわとしんどいながらも、この本の「血」に対して嫌悪感や拒絶反応を示すことはなかった。

私はこれからも、熊代氏の本を読んでいこう、と改めて思いました。この10年間、熊代氏の著作が発表されたら無条件に読む、と方針を定めてきました(過去のブログ記事でもそのように書いています)。今後も私は、熊代氏の文章を読んでいきます。ありがとうございました。

過去の熊代氏著作への感想

「「若作りうつ」社会」の感想と個人的重い思い - 残響の足りない部屋

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋

「何者かになりたい」とか、天啓とか、ルサンチマンとか人生とか - 残響の足りない部屋

何かを尊く思うこと −−熊代亨『「推し」で心はみたされる?』感想 - 残響の足りない部屋

映画を観てきました。

kiminoiro.jp

「映画を観てきました」となんだか古風な表現をしましたのは、この映画の作風が純文学的なものであるからです。心地よい100分の映写時間のあと「映画を観たなぁ」という感覚になりました。

まぁ今時、純文学だエンタメだ云々、という区分も不要な時代でしょう。ただこの作品が「ストーリーや感情のアップダウンの激しいエンターテイメント映画」とはずいぶん距離のある作品だというのも事実です。

とはいっても、小難しい作品ではありません。それでいて凄い静謐ということでもなく…「動」よりは「静」に寄った作品ではあります。しかしもっと的確な言葉があるような…。そして私はもっと言いたいことがあるような…。

というわけで、この日記ブログでいろいろ書きながら、考えてみます。なお、記事文章はストーリーの流れに沿ってはいません。

パブリック・プレッシャー/公的抑圧

人の存在に「」が見える主人公・トツ子です。難しい神経学的表現だと「共感覚」ってやつですね。この感覚が本作ではファンタジーとして描かれることはありません。人によっては現実にあります。私も数字に色や形が見える。3は黄緑色のカエルだし。

もちろんトツ子のこの感覚があったから、バンド「しろねこ堂」メンバー…作永きみ影平ルイと出逢い、バンドを結成出来ました。本作で一番強引だったシーンですね。トツ子が二人に色を見出さなければ、バンドの結成はあり得ませんでした。無論のこと、この作品においてバンドを結成し、彼女らが音楽活動をするようになっていったことは、寿ぐべきことです。バンド「しろねこ堂」はこの作品世界の祝福と言っていい。

にも拘わらず、トツ子の「色が見える」共感覚は、この世において素晴らしい才能(ギフテッド)とは見なされません。迫害こそされないまでも、周囲の人からは「なんかちょっと変な子」と見られます。心やさしいトツ子は社会に対して憎悪を向けることはないですが、トツ子は世界に対してちょっと違和感…「なんだか自然に受け入れてもらえてない」感覚を覚え続けています。

この、社会・世界に「なんだか自然に受け入れてもらえてない」感覚は、きみもルイも共通して抱いています。きみは、トツ子よりもっとソリッドに。「期待(パブリックイメージ)に応えることが出来ない」という。ルイは、家業と音楽活動の間をなんとか折り合いつけようとしています。より穏健策とはいえますが、違和感は覚えています。そもそもこの作品で一番コミュニケーション不全を抱えていて、親からもそれを心配されていたのはルイです。彼のどことなくアンドロジナス的(両性的)なパーソナリティも、社会・世界とこれまで上手くいかなかったことを想像させます。

アウトサイダー、とまで激烈なものではないまでも、作中でトツ子・きみ・ルイの三人=しろねこ堂は、「はじかれた者たち」としてのゆるやかな連帯感でバンドを組み、作曲活動に励みます。それを観ていて私は、あの古い教会での練習や合宿が、彼女らにとってのアジール(聖域)のように見えました。

しかし考えれば本来トツ子のミッション系女学校の聖堂や寮こそ、アジールになってしかるべきとこなのに、トツ子はそこに心安らかな聖域を見出しきれていないのですね。きみに至っては、耐えきれずに退学しています。この作品において、ミッション系女学校のキリスト教的なるものは、どちらかといえば「抑圧」に属するもののように読めました。

ただ、キリスト教的なるものが、トツ子やきみにとって悪しき抑圧オンリーの存在か、といったら、そうは言いきれなくて。トツ子が序盤から二ーバーの祈りを何度も口にして祈るのは、トツ子がこの祈りの視座に対して「ここから汲むべきものがあるかもしれない」と思っているからです。きみが「聖歌」に触れていたことも同じと思います。

この作品におてキリスト教的なるものは、何らかの規範…というかある種の深層的な影響としての「色彩」をもたらすものであります。そしてさらに、問題は彼女たちがそれをどう「自分ごととしていく」か、ということも語られます。何が善で何が悪か、という単純な善悪二元論はこの作品にはありません。色に善も悪もないのと同じです。彼女たちは世界のいろいろな物を見て触れて感じて、そこから何を汲み取り、自分ごととしていくか。そしてそれには時間がかかります。賢しらにすぐ答えなんて出るものではない。

イクトゥスはかくれざるを(SAKANA-Action is hidden)

制服左肩の校章=魚のシンボル(イクトゥス)(公式HPの予告映像からの切り抜き)

さかな。
キリスト教のことでいうと、やっぱりこのことについては書きたくなって。イクトゥス(魚のシンボル)は、古代キリスト教で用いられた隠れシンボルのことです。キリスト教は初期において迫害されておりまして、信仰を公に出来ない状況なので、キリスト者同士がお互いを確認するために用いられました。

劇中、制服を通してこのシンボルが何回も目に付くものですから、しろねこ堂→テクノポップサカナクション、という連想もあって、やっぱりこれ意図的に仕込んでいるんじゃないの?と想像(妄想)たくましくしましたw

しかしまぁ…この「隠れる」というモチーフは、本作において重要なものです。トツ子は共感覚を隠しますし、中盤において(ネタバレ)を(ネタバーレ)しますし。きみも祖母に退学を告げられず、ルイも自分の音楽活動を母に告げられず。それらはボタンの掛け違い的な側面もあって、彼女らが悪いことをしようとしてやった「隠し」ではないのは確かなのですが。

それからそもそも、彼女たちの「なんだか自然に受け入れてもらえてない」感覚は、社会・世界から「隠れる」ような行動・思考になっていきがちでした。彼女たちは「はじかれた」者たちでしたが、彼女たち自身も社会・世界とほどほどに融和はしてますが、それでも芯の部分では居心地悪そうにしています。

誰が悪いってわけでもないのですけどね。それでも、この作品の話の最初では、「こいつら(3人)大丈夫だろうか…」と思ってしまいました。私は。

映画公式HPでも、山田監督がこう書いています。

思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。
すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほど良く考えているな、と思うことが多いです。
「自分と他人(社会)」の距離の取り方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。
表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。
ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。
彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。
「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。

山田尚子監督の企画書より)

「きみの色」公式サイト「Message」より

監督の、この若い人の捉え方、僭越ながら私「わかるなぁ…」と思ったりします。今の社会って神経戦すぎますもの。しかもその神経度合いは年々深まっている。そして一度センシティヴに神経が研ぎ澄まされていったら、強迫的になっていって「緩まる」ことはない。大変ですよ。

清潔で緊張する社会の中で、自分を保ちながら、社会・世界と融和する……。社会に受け入れてもらって「いいね!」や承認欲求を爆稼ぎする、っていうことではもちろんない。自分が好きなものを通して、世界と握手する。そのついでに社会とまぁ良い感じの距離を構築する。自分自身と仲良く。そして世界と仲良くする……。難しいですね。

彼女たちはもう大丈夫だ。

音楽、バンドの話をしましょう。

ギター・ボーカル:作永きみ。
キーボード:日暮トツ子。
キーボード/オルガン、テルミン:影平ルイ。
この三人のバンド「しろねこ堂」。

www.youtube.com

YMOサカナクション直系の**テクノポップ**やぁ~!
まぁもうこのブログ記事のタイトルや記事中にそういうワードは散りばめてあるので今更ですが。

しろねこ堂の音楽は変則的なバンド編成ながら、ポップスとしてとても楽しく。かつシリアスに聞かせるナンバーもあり(これはテクノポップではない)。

で、私はこのトツ子作詞作曲・しろねこ堂編曲の「水金地火木土天アーメン」がとても好きなのです。リフにしろシンセ音にしろハンドクラップにしろ。

とにかくこの曲、ラストのライヴシーンでバーンと演奏されるのですが、背後の宗教画(ステンドグラス?)と相まって、私は凱歌のように聞こえました。世界に対する凱歌です。

恨みではない。自己否定でもない。仲間とバンドをし、音楽をする喜びがここにある。いいね!獲得合戦でもない。承認欲求モンスターでもない!ただ音楽をする。ただバンドを演る。その喜びです。

ここにおいてもはや彼女たちは自分自身とも世界とも和解が出来ています。アーメン(キリスト教的なるもの)とさえ和解が出来ている!
でもその和解には時間がかかった。ひとつひとつのエピソードを積み上げる必要があった。それこそルイが町のリサイクルショップで機材を買い集めるところから。

※余談:それはそうとこの映画、楽器マニアは見て楽しいですね。CASIO SA-46(いつも紙袋に入っている緑色の小型キーボード)、私持ってたよ。っていうかこのキーボード使い勝手が良すぎる。レコーディング現場やラジオ収録現場とか、いろんな場所で見るぞ。またきみの小型マルチエフェクターはZOOMのだし、ルイ君Cubaseユーザーなんだ、とか。そもそもきみのリッケンバッカーだってサカナクション山口が使…(以下略

思えばルイのメイン楽器・**テルミン**にしたって、まずもって発音からして難しい代物です。ドレミ(普通の音程)を出すのだって難しい。

(以下は人間椅子・和嶋がテルミンの教えを受けているところ。この後和嶋はライヴでギターを弾きながらテルミンを使いこなすようになります)

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しかし考えればこのテルミンの発音の難しさこそ、「世界との和解」を目指すメタファーにも思えてきます。なんとかして自分を調律・調整していく。それも、楽しくね。ルイはルイなりに自分を調律し、誠実に生きようとしています。そんなルイの姿にきみは「頑張れ」と言います。本当頑張ってほしい。そんな青年です。ラストのあの疾走が爽やかで、空に舞ったテープ、あれは「美しいものを観た」と私思いました。

この「美しいものを観た」という感覚は、覚えがあります。同じ山田尚子監督・吉田玲子脚本の「**映画けいおん!**」のラストでの、唯・澪・律・ムギが高校の屋上で走っていくシーンです。

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あれはあんまり美しく、時間が止まったようで、天使から祝福されているようで、見ていてなんだか涅槃の気分さえ覚えました。それを今思い出しました。山田監督は「きみの色」でも変わっていない。人間が、瞬間を頑張って生きる姿の美しさ、その美を活写したいのだな、ということを改めて思いました。

ラストのライヴシーン、しろねこ堂の3曲。自分自身へと、世界への凱歌。その姿を見て、私は、トツ子、きみ、ルイの三人は、「彼女たちはもう大丈夫だ」と心から思えました。世界は色に満ちていて、彼女たちはそれを楽しみ、味わうことが出来る。自分自身の色だって同じように!

そして彼女たちしろねこ堂は今後もバンドを続けるのでしょう。そうして三つの色は交わっていきます。彼女たちのバンド、そしてバンドサウンドには魔法がかかっているのです。もう彼女たちは世界と敵対することはない。それでいいんです。

何か特別なことがあった、という話(プロット)の映画ではありません。でも、彼女たちにはこのバンドで過ごす時間が絶対に必要だった。そういう、彼女たちの時間を観ることが出来た。私が最初に純文学的映画、と言ったのはそういう意味です。彼女たちの時間は、色は、とても心地がよかった。そして彼女たちが世界と和解出来たことを私は喜び寿ぐ。

最後の最後でトツ子は踊ります。それもまた美しかった。彼女は幼いころのバレエの呪いから今完全に自由になっている! 思えば、「色を見ることが出来る」彼女の共感覚は、彼女にとって「完全絶対の呪い」でもなかったのかもしれません。むしろ彼女にとっては、「色」問題より、バレエの挫折の方がより直接的にキツい呪いだったのかしら?と思わせるところすらあります。単純ではない。そう、純文学と評すだけあって、そのあたり単純なキャラ造形ではありません。結構、三人の屈折というものを随所のディテールから読み解くことが出来る。

まぁ、そこはこれから何回も見返していけばいろいろ出てくるところです。それを観るのもまた良いでしょう。ともかく今は、良いものーー美しいものを観た、という気持ちです。有難うございました。

参考記事&音源

yoshimitaka.hatenablog.com

義実さんが楽しまれている姿を見て、私も観る気になりました。

ja.wikipedia.org

この祈りの言葉は、アルコールや薬物の依存症回復プログラムでしばしば用いられることで知られています。

33man.jp

人間椅子テルミン動画の元となった記事

www.youtube.com

YMO。こういう風に人生を重ねたって良い。

www.youtube.com

シンセサイザーサウンドis so Love...(サカナクションのギタリストのギター&シンセひとり多重録音ライヴ演奏)

www.youtube.com

LAUSBUBの高校時代のライヴ。

www.youtube.com

CASIO SA-46はオルガンの音色が出しやすすぎると思いませんか?

残暑お見舞い申し上げます。

日差しは未だ暑いですが、吹き抜ける風に秋めいたものを感じるようになってまいりました。I can feel nice breeze of autumn. もう少しすれば、あの寂しげで輝かしい秋がやってまいります。

10月末に東京で開催される、音系・メディアミックス同人即売会「M3-2024秋」ですが、サークル8TR戦線行進曲でリアル&webスペースを頂いております。しかし、個人的な事情にてリアルイベントの参加が出来なくなりました。とても、申し訳ないです。この事は、サークル8TRのwebページできちんと書きます。少しお待ちください。

今日のブログ更新は、最近の日記です。外国語趣味の本と、自作まんがと、推し呉服店さんのイベント。

こまきときこ「つれづれ語学日記」

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英語、ドイツ語、エスペラント、トキポナなど、多言語学習のある日々の楽しさについてを描くコミックエッセイです。

面白かった! なにせ私は黒田龍之助氏の著作に触れて以降、さまざまな外国語があることを喜び、外国語学習をする日常生活を愛するようになった者です。いつか、この「外国語のある日常の楽しさ」について私もまんがを描けたらなぁ、とも思っていました。かれこれ2年くらい。

そんな中、書店の語学コーナでこの単行本を見つけたのです。一読驚嘆とはこのことです。私が著者こまき氏を「先駆者・先輩」と評するのもおこがましいですが、「外国語のある日常の楽しさ」を丁寧に、優しく、そして品よく描く本が、こうしてここにあることが、嬉しくてしょうがない。外国語学習者(趣味者)として、紹介されるエピソードごとに「そうだ、そうだよ!」と納得しきりです。

「無理せず、楽しく」というのが本書で提示される最大のモットーです。英語などを学ぶことを苦行としない。外国語学習は結局暗記って側面があります。それは確かだ。しかし、覚えられなかった=おまえはダメだ!式のマインドセットで外国語学習に臨むのは、かなりハードモード。その挙句に英語をはじめとした外国語を嫌いになってしまう人も多いわけです。

そんな「苦行の果ての挫折」から距離をとる。外国語があり、それに触れることの喜び……その小さな「ことばの喜び」をたくさん集めていく。そうして生活が豊かになっていく。外国語を好きになる。

私は前にこのブログで、そんな外国語のある喜びを「異国情緒」と呼んだことがあります。その楽しさと嬉しさは、間違っていないんだよ、と本書に励まされるような気持ちになっています。

風のように異国情緒 - 残響の足りない部屋

そして本書の励ましは、「よっしゃ私も外国語趣味の漫画を描くか!」と意気軒昂し、次の作品(新作まんが)になりました。
こちら「外国語であそぼ」です。

redselrla.com

語学ギャグまんがです! これから不定期に描いていきたいと思っています。詳しくは上記ホームページにて。
(このまんがの世界観は、私が今までやっているレッズ・エララ神話体系の世界観とは関係がありません)

済東鉄腸「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」

sayusha.com

こちらも「外国語学習の楽しさ」を綴る、愛と熱たっぷりの本です。熱い…著者済東氏のルーマニア語ルーマニア映画ルーマニア文学/文壇(文芸シーン)、ルーマニア人の友や師匠--「ルーマニア文化」への愛が、熱すぎる! 今日読み終わって、すぐにファンファーレ・チョカルリアやタラフ・ドゥ・ハイドゥークスといったルーマニア民族音楽のアルバムをかけております。

www.youtube.com

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前からこの本、絶対面白いだろうと思っておりました。そして読んで「もっと早く読んどきゃよかった!」と思いましたw

著者済東氏の抱える鬱屈・屈託から本書は始まります。そんな中ある日ルーマニア映画に触れ、そこからあれよあれよという間にルーマニア文化にハマりまくっていく姿、その突進力!行動力!

ところで実は最近私、ルーマニア人の方と仕事でちょっとお会いしたのですね。会話はお互い英語でしたが、そこでちょこっとだけ、以前少しだけ知っていたルーマニア語を挟んでみたのです(東欧諸語をざーっと知る過程で雑学的に)。挟んだといっても「こんにちは(Buna ziua ブナ・ズィウァ)」と、ちょっとお疲れみたいだったので「お元気ですか?(Ce mai faceţi? チェ・マイ・ファチェツィ?)」だけでした。そしたら相手の方は喜んでくださって、

相手「おー、ルーマニア語じゃないですか!(英語)大丈夫です、有難うございます(ここだけルーマニア語)。何で知ってるんですか?(英語)」
残響「お会いする前に、ちょこっとだけ学びまして(英語)」
相手「インターネットで?」
残響「HAHAHA、はい(YES)」

そういえばこの方とお話した時、私、ルーマニア音楽についてなぜか頭から抜けていたのです。話のタネとして出せばよかった、と後になって気づくの巻。近々またお会いするので、今度は音楽話をしてみましょう。

閑話休題…でもないですが。こんな風にルーマニア語で相手の方が喜んでくださったのはよかったな、と思います。
ほんと…こういう些細なことからなんですよね、外国語のある生活の喜び、っていうのは。
未知の言語文化世界に対する興味とリスペクト。たまたま知らない言語文化に触れた時、それを「チャンス!」と捉えるのが外国語趣味者です。済東氏が怒涛の如くルーマニア語にハマっていった勢いも、根本はこういうところだと思います。本書はまさに、そういった様々なルーマニア文化やルーマニア人の方々との熱いエピソードが満載です。冒頭の鬱屈とした屈託が、いつの間にか愛ある生活へと変化していくのが素晴らしいです。その一方で、済東氏がルーマニア語で小説作品を書くようになるのですが、小説作品の主題は、済東氏がかつて抱えてきた鬱屈、屈託、社会への違和感、反骨精神、怒り、というものです。

人生というのはどう繋がるかわからない。もちろん氏だって、抱え続けてきた鬱屈・屈託を肯定なんてしてやいません。それでも、氏の抱いてきた闇をルーマニア語に託し「日系ルーマニア語文芸」として昇華していかんとするこの熱すぎる熱こそが、まさに文学といわずして何というのでしょう。

笹井呉服店「2024 秋の大きもの市」

www.sasaigofukuten.jp

春のきもの市紹介記事

modernclothes24music.hatenablog.com

去年の秋の大きもの市紹介記事

modernclothes24music.hatenablog.com

さて、本日9/7(土)~9/9(月)まで、岡山県井原市商店街の笹井呉服店さんにて、秋の大きもの市が開催されております。

推し呉服店のイベントを今までこうしてご紹介してきましたが、今回間に合いませんでしたごめんなさい!ひとえに残響(筆者)の怠慢です。イベント当日に記事をupするという始末です。

今回の企画は以下の通りです。

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この和装の絢爛豪華をご覧になっていただきたい!

また、今年もお手入れキャンペーンを行っていらっしゃいます。素晴らしい!このブログでは物品のメンテナンスの重要性について何度も書いております。笹井呉服店さんの方も、やはりメンテナンスに重きを置いていらっしゃって。「趣味のきものと帯」のある生活、というのはそういうことですよ。愛とはメンテナンスのことなのです(断言)。黒田龍之助氏も千野栄一氏も清涼院流水氏も、延々と、永遠と続く外国語学習生活では、言語メンテナンス…復習の重要性を挙げています。言葉の忘却に抗う術として、そして外国語力を上げる術として。メンテナンスなき趣味は、真に軽薄である、と断言してしまいましょう。…うっ!(自らを省みて切り裂かれるような反省を覚ゆ)

岡山のあたりにお住まいの方々で、和装ーー日本の伝統文化にご興味のある方は、ぜひ秋の大きもの市、チェックしていただけると嬉しく思います。着物の新作発表、着物のメンテナンス。この循環のある生活を愛し続けることが文化であり趣味でございます。

そんなこんなで、今日の日記の話題は外国語趣味と、推し呉服店さんでした。
ダイエットも継続しております。体重は減ってはおりませんが(96kg)、まずはこの酷暑の夏を、体調総崩れもせずに越したことを喜びましょう。
そうそう、かかりつけの病院で採血検査もしたのでした。結果は、中性脂肪がヤバいですが、それ以外はまぁまだ大丈夫…主治医曰く「まだ引き返せます」とのことでしたので、ええ、頑張ります。はい。糖尿病とか痛風とか怖いなぁ。

お久しぶりです。ブログ管理人・残響と申します。
このダイエット日記は、38歳の太ったオタク男性が書いています。2024年の正月~春のあたりで100kg、血圧150台ありました。
このままだと将来は必ず肥満による苦痛(病気)が来ます。それが怖いので、生活を改善していき、体重を落としていきたく思っています。

それでは、前回からの体重や血圧などの変化を…

体重 98kg(4月末)→96kg(8月現在) 身長は175cm(ずっと変わらず)

血圧 140台。前みたいに150台にいくことはまず無くなりました。

体重ですが、少~しずつ減ってはいるようです。

嬉しいことは数値そのものよりも、去年(2023年)の夏に比べ、体が楽なんです。去年よりも今年の方が暑さは厳しいのに(35℃越えが珍しくない)、私個人の体感は今年の方がまだ余裕があるのです。これは確かに、体重が減ったことや生活改善によって健康になったから、楽になったのだと思っております。もちろん、毎日暑いは暑いのでしんどいですが、それでも。

今年からダイエット…実際はゆる~いものではありますが、一応は生活&体調改善を心がけてきて、「効果」と呼べるものだったのではないでしょうか。よかったですね。

ラジオヘッド体操

猛暑なので、夕食後のウォーキングの頻度は減らしております。それよりも部屋の中で体操をするようになりました。ウォーキングの時は軽快なリズムの音楽を聴きながらでしたが、部屋での体操はビート感のないアンビエント系の音楽を聴きながら、ゆったり体を動かしています。最近はなんとラジオヘッドの「キッドAムニージア」を聞きながら。ちょっと暗すぎませんか。

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これが本当のラジオ体操か、とひとりほくそ笑んでおりますが、猛暑厳しき折皆様いかがお過ごしでしょうか。空間的な音の響きに合わせて、自由に体を動かす感じで体操をしています。

この体操がいわば動的ストレッチなら、静的ストレッチの方もかなりこまめに行っています。猛暑、冷房などで体が冷えて固まるのでしょうか。いつの間にか全身が凝っているように感じます。下半身など触ると、ちょっとひんやりしていたり。そんな時は布団の上でストレッチをします。体をひねるごとに、ゴキゴキッと音を立てます。これは確かに固まっていましたね~。軽く汗ばむくらい念入りにストレッチをします。

この体操=動的ストレッチと、布団の上での静的ストレッチは、かなり継続して行っています。ほぼ習慣になりました。ウォーキングが今も続いていれば、もっと運動量は増えていたのでしょうが、熱中症も怖いですからね。

食べ物の話 ~私はもはや豚骨ラーメンと餃子を食べられない?

先日、町で用事をすませた後、時間があったのでスーパーのフードコートで豚骨ラーメンと餃子を食べました。外食というものが本当に久しぶりだったので、たまにはいいかな…と思ったのです。

そしたら、食べて帰宅した後、胃や腸が「重い」感じがしたのです。食あたりではありませんが、重めの胃もたれみたいでした。そもそも、豚骨ラーメンや餃子の食事中も、なかなか「入っていかない」感じがありました。

ほぼ毎日私は自分で家族の食事を作っています。私のダイエットに家族をつき合わせるわけにもいかないので、普通の食事を作っています。そんな料理でも、毎日自炊をしていると、それなりにヘルシーな食事になっていたということなのでしょうか。

それとも、体の組成が変わっていって、脂たっぷりの食べ物を受け付けなくなっていったのか。そして食の好みが変わっていっているのか。

最近私の体に一番嬉しいのは蕎麦サラダです。蕎麦と細切りレタスと若干のハム、そしてたっぷりの夏野菜や香味野菜を、酢を入れた蕎麦つゆで頂くのですが、これが大変美味しく感じられまして。しかも夏バテにも効く。これを食べていると大変体が楽です。

なるほど、こういうのばっかりを食べているから、たまに豚骨ラーメンを喰らうと、「喰らって」しまうわけです。

それとも、単純にこれが加齢(中年化)ってことなのかなぁ。38歳でここまで豚骨ラーメン&餃子がキツくなるのでしょうか?

そんでもって、食生活がヘルシーになるのは良いことですが、「脂を分解しきれない弱い体」というのもよろしくないことです。バキの範馬勇次郎が言っていた言葉で、

「防腐剤…着色料…保存料…様々な化学物質。身体によかろうハズもない。
しかし、だからとて健康にいいものだけを採る。これも健全とは言い難い。
毒も喰らう 栄養も喰らう。
両方を共に美味いと感じ血肉に変える度量こそが食には肝要だ」

この言葉を私は結構大真面目に受け止めているのです。ヘルシーな食物ばかりが「善」で、ラーメンやカップ麺やジャンクフードは「悪」なのか、って私は疑問に思います。私自身が食品業界で働いているということもありますが。いろんな人の努力によって食品というものがあります。それを善悪で分けるのって、個人的に結構躊躇いがあります。むしろ食における善悪を考えるならば、食物を「活かしきる」個人の態度と強さ・弱さ。それは個人の生活そのものを考えることであり、ひいては人生哲学の話であろう、と思います。

漫画のために痩せるということ

つまり、ただ痩せれば良い話ではない、という風にも言えます。体を絞るのは、もちろん生活を楽に行うためですが、生活を楽にするのは何のためか。もちろん、創作や趣味を行うためです。

漫画を描くのを例に出しますが、集中して絵を描くのって、私の場合かなり腰にクるんです。漫画のコマのペン入れをしていて、「楽しいけど、こりゃずっとこの作業を続けてはいられないな」と、ダイレクトに身体的にまざまざと感じます。

となったら、やはり筋トレを頑張りたくなります。痩せて体を絞って楽になっていけば、それだけ絵を、漫画を描けるのです。よろしいことではありませんか。そのためなら、絵を描く時間を1日10~20分くらいは減らしても、ダイエットに投資するだけの価値はあります。

もう少ししたら、一年ぶりに病院で採血をしてもらいます。そこでいろいろ「結果」が出ますね。つまり、平野耕太ドリフターズ」で第六天魔王織田信長が云うてることです。

合戦そのものはそれまで「積んだ」事の帰結よ。
合戦に「到るまで何をするか」が俺は戦だと思っとる。

過去のダイエット日記

前回

ダイエット日記4月末 血糖値スパイク疑惑、漫画のための腰痛対策 - 残響の足りない部屋

前々回

ダイエット日記0320 手持ちの確認、料理、仕事、散歩 - 残響の足りない部屋

発端の回

ダイエット日記 2024年0313 - 残響の足りない部屋

Hurray!について

私は以前から映像制作チーム「Hurray!」のファンでしたので、初映画作品の当作「数分間のエールを」を観ないわけにはいかないのでした。

yell-movie2024.com

この日記ブログでHurray!については2年前にちょっと書きました。その時はヨルシカの「老人と海」Inspiredムービーのことでした。

modernclothes24music.hatenablog.com

Hurray!の作るMV(ミュージックビデオ)の特色は主に、

といったものです。加えてヨルシカ「ただ君に晴れ」「藍二乗」といった実写MVでのお仕事も含めて、Hurray!のキャリアは2010年〜2020年代の映像表現…もっと露骨な言い方をすると「エモ路線MV」の旗手(トップランナー)と評して良いと思います。あんま良くない表現でファンとしてイヤんなりますが、とりあえずわかりやすさで…(すいません)。

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もうちょっとHurray!オタクトークをすると、この映像チームは、ぽぷりか氏(監督)、おはじき氏(副監督)、まごつき氏(キャラデザ)という、同じ美大出身の三人によるものです。
チーム名の由来は、応援の言葉…あの掛け声「フレー!フレー!」からきています。

自分の作っているもの自体に驚きを見出し、自分が属するHurray!というチームの友情とクリエイティヴに胸を張りたい!そして誰かの存在や創作物にエールを送りたい……、

↑これはHurray!の公式サイトのコンセプト欄を概略としてまとめたものですが、これ、ほとんど「数分間のエールを」の内容ですよね。

hurray.fun

tablet.wacom.co.jp

そんなこんなで、スタッフロールの末尾にぽぷりか、おはじき、まごつき御三方のお名前が列挙された時、非常にこう、じーんとしたオタク心でありました。

作品感想、あるいは自分の作品が届かなかった時の感情

映画を見て、帰宅して思ったことを書きます。あらすじについては公式サイトで確認してください。いつものようにネタバレありまくりです。

中盤あたりで、彼方くんが作ったMVは織重せんせに「ごめんなさい」と却下されます。この失敗の理由は、彼方くんの解釈ミスでもあり、彼方くんと織重せんせがロクにMV制作上のコミュニケーションを取らなかったから、とは言えます。

ただ、私はこの映画を観ていて、そこは「おかしい」とは思わなかったのです。作品が世に出た以上、彼方くんのような解釈ミスというか、一部のみを切り取った解釈っていうのも、あって当然だと思います。どういう解釈であっても自由。

ただし作曲者には、自分を表現する上でMV(世界表現)を選ぶ権利があるし、むしろここで安易にほだされて「OKです」をいう方がよほど欺瞞です。織重せんせの絞り出すような「ごめんなさい」は、私は誠実なものと思いました。

そもそもMV制作上のコミュニケーションにしたって、今回の彼方くんと織重せんせはチームを組んでいるわけではないですから。織重せんせは自分の意志で曲を作って歌った。彼方くんは勝手にMVを作り、織重せんせの為になろうと思った。相互のコミュニケーションをもとにした創作(共作)ではなく、彼方くんは織重せんせにただぶつけただけのようなもの。その一方向性は織重せんせもだいたい同じで、

だから初めから、一般的な意味でのコミュニケーションはやっていないわけです。やっているとしたら、ある種の勝負というか、強烈な表現欲のぶつけあい。そのように私は思いました。そしてそれは全然悪いことではないのです。むしろ燃え上がる創作の熱。私はその創作の熱は素晴らしいものだと思う。

今回私がこの文章で書こうとしているのは、「ああ…届かなかったな…」という感情についてです。

織重せんせは曲を書き、ライヴをし、曲を書き、ライヴをし、100曲書き、ライヴをし、この世の大勢の人には届かなかった。

彼方くんも、MVを作ったけれども、爆発的にヒットすることもなく、織重せんせに最初に見せたMVは見事なまでに届かなかった。

そしてトノ。ずっとずっと絵を描き続けたトノ。本当に絵が好きで、努力を重ね続け、それでも限界を見てしまったトノ。だから織重せんせのことがわかってしまったトノ。それが分からない彼方くんに苛立つトノ。そうであっても彼方くんが気にかかってしょうがないトノ。夏の空に沸き立つ入道雲のように果てしない方向へ走っていける眩しさを持った彼方くんのことを憧憬の瞳で笑みすら浮かべて見つめてしまうトノ!…っと、トノのことがちょっと多すぎやせんかw

まぁしかし。作品、表現って、届かない時ぁほんと、届かないもんです。ものを作って、それだけで満足出来ていりゃあそれで良かったはずなんですけどね。ちょっと、欲が出てしまう。これだけ頑張ったんだからー、とか。自分の愛するこの作品世界を、よかったら誰かも愛してくれないかなー、とか。そういう弱い心が出てしまう。

もし、「届いてほしい」という欲を前提として、多くの人に良い評価を得たいと思うのならば、弱い心の愚痴を言っている暇なく、作品のレベルアップに勤しむのみなんです。それしか本当にやることはない。これだけ頑張ったんだからー。そんなことは皆はどうだっていい。
まぁ、我々の頑張ったエピソードが「艱難辛苦ストーリー」に化けるとしたら、その作品がヒットした後、答え合わせ的にインタビューされてようやく化けるんだから、やっぱり作品のレベルアップしか道はない。今の私たちにインタビューなんて誰もしない。

自分の愛するこの作品世界を誰かも愛してー。それこそ作品世界の強度以外に頼るものなんてないのだから、やっぱり作品のレベルアップしか道はないです。
もし、私たちが頑張って作った作品に対し、友人が「頑張ったで賞」を引きつり笑いでむりやりプレゼントしてくれる、っていう状況、やっぱり辛いですよ。私の作品世界に付き合わせちゃったな…ごめんな…時間を無駄にさせちゃったし、余計に神経使わせちゃったな…っていう。あれ、誰も悪くないから辛いですよ。まぁもちろん一番悪いのはつまらない作品を作ってしまった私なんだが。そしてこれに対する答えも、やはり作品のレベルアップしか道はないんです。

うわー辛い話であります。彼方くんが、織重せんせが、トノが、夜空の星に向かって「届いてほしい」と願いながら創作活動をするのって、そんな辛い道のりなのか。創作ってそんな辛いものなのか。

…ちょっと考えにミスがあるんですよ。「届いてほしい」って、何?って話です。

誰かに見てほしい。読んでほしい。聞いてほしい。よかったら、喜んでほしい。よく言われることですし、私も未だにちょこっとは思います。
ただ、それが創作の「100%の前提」なのかな、っていうと、それはどうかな。まず自分の創作物が、自分を納得させてから…って、「今の私は」思います。納得、というか、自分自身に対するエールというか…自分が作った創作物や、創作している過程自体が、自分を励まし癒やし勇気づけるように、っていう。そこをまず味わっておきたい。

私の場合、以前そこで少しこじらせちゃったというか。「誰かにヒットするだけの強度・熱をもった作品でないといかんのじゃー!」式の考えを、前に持っていたんですよ。

でもそこを100%の前提にしちゃうと、話が一気にハードモードになるんです。これは結構怖い考えですよ。創作物が「届く」かどうかは、創作物のレベルだけではなく、受け取る相手のその時のコンディションもありますからね。どうなるかはわからない。

そもそも自分のコンプレックスを、作品を通じて誰かに「届かせる」ことにより癒やしてもらおうなんて、悪手もいいとこです。ちょっとそれは怖い発想に足を踏み入れかけている。

じゃあ…どうすればいいんだよ、って。

自分の費やした時間や努力。自分が作り上げた世界。それは自分にとって愛しいものです。とってもね。でも他人にとってはそうじゃない。ただそれだけの話。それだけの話が、どうにもこのように寂しくこじれてしまうのは何ででしょう。「届かなかった」という思いが、理屈ではこのようにわかっていても、それでも夜空の星のようにどこか寂しげなのは何ででしょう。

誰かに届いてほしい、と欲を持つことがそんなに悪いはずはなかったのに。それを自分の中で、100%の前提ではなく、4〜5%くらいの「ほの灯り」であったら良かったんですけど。でもいつしか100%の前提の業火になっちゃった。そうしてしまった私が悪い。

じゃあどうすれば、って思う。

もし誰かに届いてほしい、と思うのであれば、「こんな私を認めてくださぁい」ではなく、「私の世界を褒めてくださぁい」でもなく。自分自身がまず落ち着いた上で、誰かを応援するかのような。そんな自然なエールでようやく届くのかな、と、映画を見終わって今、思うのでした。

先に、自分自身に対するエール、と書きました。創作物であり、創作した時間そのものであり。そういう創作生活そのものが、自分自身に対するエールになればいい、と。
そのようにして健全になった心から、余裕があれば誰かへのエールを作れれば良い。今、作れなかったら作れなくてもいい。作れる時に作れれば良い。

というか、これも先に書いたことですが、「評価されたかったら、作品のレベルアップしか道はない」って話、これもよく考えたらちょっとミスってるな。まず落ち着け、負の怨念放ちがちな今の自分をまず落ち着かせろ、っていう話だと思う。

序文で書いた、Hurray!の公式ページのチームコンセプトの概略まとめをもう一度。

−−−自分の作っているもの自体に驚きを見出し、自分が属するHurray!というチームの友情とクリエイティヴに胸を張りたい!そして誰かの存在や創作物にエールを送りたい。

…これだよなぁ。まぁ原文は公式サイトを見ていただきたいんですが、「自分自身の創作に驚きたい、胸を張りたい」っていう健全さから、全ての創作は生まれてほしい…と思います。ルサンチマン&コンプレックスの暗い炎爆発じゃなくてさ。

そして自分の創作がそんな風に健全に力強くあれるのだったら、誰かの創作にだってエールを送れるはずですし、たぶんそういう順番でないとおかしくなる。初めから「誰かにウケよう!」とのみ考えて(100%の前提)、ものを作ったりレベルアップしようとするからおかしくなるんであって。

そもそも自分がこれまで見て聞いて読んできた創作物&クリエイターだって、自分を攻撃しようとしているわけじゃないですからね。ついつい嫉妬しちゃいがちなこれら創作物ですが、これらだって上の理屈でいったら、彼ら彼女らの健やかさがあって初めて成長のループに入り、やがてヒットしたわけですし。世の中にある創作物は、ライバルのような顔して、結構エールだったんですよ。

まぁ、わかっちゃいるけどね!w
わかっちゃいるけど、創作やってて、暗い炎の嫉妬やらルサンチマンやらコンプレックスやら、「どうして届かないんだ」って思いがちなのが人間ですよ。そのあたりの業というか、暗い側面。そこをこの映画は、美しい画面とともに、しっかり描いています。

あー、本気になれる、っていうことは悪いことじゃないんだよなぁ。その本気の勢いが、時になぜかこじれてしまう。すれ違ってしまう。なんでなんだろう。

それでも、時に盲目的だの狂信的だのと言われても、どうにも止まれない勢いでもって創作をしてしまう時が人にはあります。そこはこの映画は完全に肯定している! どうにもならない創作熱、あのバチバチした紫電が脳内に散って、体全体が「作る」のみで動かされている瞬間!

だから、そこで「誰かに評価されるために…」とか「自分のルサンチマンを癒やしてくれるために…」とかって言ってるのではなく、その創作の瞬間をバチバチにやっていってほしい! そのメッセージは確かに受けとりました。

そこで、ラストの「未明」MVをガツンと作中で展開することについて。

私は、これがあってこそのこの作品だと思いました。
時に私達は創作の日々でミスる。対象をミスる。表現をミスる。創作生活のスケジュールをミスる。レベルが追いつかなかった。デバッグ的な工程でヤバいミスがあった。いろんなミスがあります。
コミュニケーション不全については考えたくない!(いや、考えます…)
そればかりか、創作生活をいつまで続けていられるかわからない。創作の傍らの仕事がうまくいかなかったとか、日常でいろいろあったとか、親の介護とか、たまたま病気にかかってしまったとか、いろいろ…。さらには、自分自身の才能だとか、情熱が消えたとか、惰性になりつつあるとか…。実際、筆を折った人。もうこの世に居ない人も、いる。

それでも「創作の日々」は本物だった。その勢いは本物だったし、今も本物です。創作において、最上位に置くべきはその熱情ですし、その熱情がやがて闇ではなく、健全な光、光のある生活にやがてなることを祈るばかりです。祈るばかり、というのがちょっと頼りないですが、でももっと創作を続けたいでしょう、やっぱり。

やれることはいっぱいある。いっぱいやろう、創作を。

最後に…この作品の風景は徹頭徹尾「夏」だったな、と思います。序文でHurray!の作風を「2020年代のエモ路線」と書きました。この路線、今や定番となりつつありますからね。それは事実だ。でも、この路線を先頭切って高品質なMV作り続けてきたHurray!だからこその総決算的映像表現だと思いました。自転車、青空、雲、教室、海、夕焼け…。その美しさと、創作の屈託と。ビジュアルと作品のメッセージ性が一体となっている。そんな作品です。

でも、映像の美しさだけではないんです。正直この映画を見るまでは、Hurray!のグルングルン動く3DCGアニメ表現「だけ」の面白さだったら、ちょっと残念だなぁ、ファンくらいしか楽しめないのでは、と勝手に気をもんでいたのです。

いやいや、まったくHurray!ファンたり得ませんでしたね私は。結局私が映画を見て、帰宅後書いているのがこの文章ですよ。映像だけではない。内容も、創作の屈託だけではない。考えさせられる…という手垢のついた表現で語りたくもない。

そうですね、創作する人たちへのエール。ものを作ることの屈託から逃げない作品でした。そういう意味ではいろんな意味で「甘さのない」作品だったかもしれません。でも、こういう作品では余計な添加物的甘みってものは不要でしょう。

ただ、創作の日々の熱さを。そういう日々を送る人々に対してのエールを。そしてエールを受け取った私達は、各々の創作の日々に活かしていくのが筋でしょう。ありがとうございました。

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