丸亀城 (original) (raw)

大手桝形から天守までを望める丸亀城前景

現存天守がある12城のひとつ。

丸亀城の前身は、宇多津城ともいう聖通寺城を本拠とした奈良元安が支城として築いたもので、砦のような小城だった。築城時期は不明だが、宇多津城が応仁年間(1467-69)の築城とされており、支城網の構築は、同じ頃かその少し後だろうか。

その後、奈良氏は多度津の香川氏に圧迫され、丸亀城周辺も香川氏の領地になったと見られるが、土佐から興って四国を統一した長宗我部元親の讃岐侵攻により、香川氏は臣従し、奈良氏は追われてしまう。そして、その長宗我部氏を、天正13年(1585)の四国征伐で降伏させた秀吉は、讃岐を仙石秀久十河存保に与えた。

丸亀は、この時に宇多津城を本拠とした秀久の領地となったが、秀久は翌年の戸次川の合戦で失態を演じ、早くも改易されてしまう。そして、秀久の領地を受け継ぐ形で同年末に尾藤知宣が丸亀城主として入った。

丸亀城天守を下から見上げる

ただ、知宣の入国は翌同15年(1587)正月で、前年の年貢は秀久が徴収し終えていた上、すでに九州征伐の軍令が出ており、財政難もあって治績らしい治績は残していない。そして、その知宣も、九州征伐の根白坂の戦いで慎重論を唱えて好機を逸したことから、秀吉の怒りを買い、領地を没収されてしまう。

こうして、九州征伐後の天正15年(1587)から、生駒親正が領地を引き継ぐこととなった。また、前年の戸次川の合戦での存保の討死により、彼の幼い子供は生駒氏の預かりとなったため、親正が讃岐一国を治めることとなる。

讃岐へ入国した親正は、翌年に海際へ高松城を築城して治所と定めたが、慶長2年(1597)からは丸亀の古城を西讃の支城とすべく修築を始めた。この修築が近世丸亀城の成立で、城主には子の一正を充てており、領内は政権継承期の共同統治だったようだ。

丸亀城御殿表門

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、親正は西軍に属し、細川幽斎の守る田辺城攻撃に兵を派遣したが、一正が家康の会津遠征に同行したため、戦後には一正に改めて讃岐が与えられた。この時、親正は西軍に味方したことを償うため、剃髪して高野山へ入り、隠居したが、すぐに赦されている。

江戸時代に入り、慶長7年(1602)に一正が高松へ移った後、丸亀城では佐藤掃部が城代を務めたが、元和元年(1615)の一国一城令で一旦廃城となった。その後、一正の孫高俊の時に、生駒騒動という家中対立を起こし、寛永17年(1640)に改易となってしまっている。

この改易により、讃岐は分割され、翌年に山崎家治が入部して丸亀藩が成立し、城が再築された。この時の縄張が、現在残っている丸亀城の形である。この頃は、島原の乱がまだ生々しい記憶としてあった時代で、その対策として、幕府は家治に銀300貫を与えて参勤交代を免除し、集中して築城に当たらせたという。

丸亀城年表

だが、財貨を投じて大改修をした山崎氏の治世は短く、俊家、頼治と続いて絶家となっしまい、代わって京極高和が入部している。高和は、それまでの搦手を大手を変え、高石垣を積むなど、子高豊の時代まで32年に渡る大改修を施し、そのまま京極氏が維新まで続いた。

丸亀城の最初の完成は、一正が高松へ移った慶長7年(1602)頃で、一国一城令の際には石垣の上に土を盛り、木を植えて厳しく立ち入りを制限し、破却を最小限に抑えたという。

だが、山崎氏の時代から京極氏の時代にかけて再築された城は、生駒氏時代の石垣の上にかなり盛り土をしており、大きく形が変えられたようだ。石垣の一部には野面積みが用いられており、この部分は生駒氏時代のものをそのまま流用したと思われるが、ほとんどが打ち込みハギや切り込みハギで、これらは再築時に築かれたものだろう。また、現存する天守の建設時期には、山崎時代説と京極時代説があるほか、武家諸法度天守の造営が禁止されていたことから、単に御三階櫓であったという説もある。

丸亀城の内堀と大手桝形の高麗門と多聞櫓門

縄張は、標高66mの亀山頂上部に本丸と天守を置き、その北東に一段下がって二ノ丸、本丸と二ノ丸を囲うように三ノ丸があり、三ノ丸の南側には帯郭があった。そして、これらの山の部分と内堀の間には藩主の屋敷などがあり、現存する藩主玄関先御門が屋敷の入口で、資料館や芝生広場辺りにかけて建物が建てられていたという。

維新後は、明治6年(1873)の廃城令で軍用地となり、広島鎮台第2分営が置かれて陸軍省の管轄下となった。そして、その翌年には兵営が完成し、明治9年(1876)から翌年にかけて、天守などの現存する建造物以外が破却されたという。だが、天守はその後も破却を免れ、昭和18年(1943)に旧国宝に指定されている。

この天守は、現存天守の中では最小であるものの、実際に下から見ると、高石垣の上にそびえているように見え、大きさ以上の存在感があった。この天守に高麗門の大手二ノ門、多聞櫓門の大手一ノ門、そして堀までが入る構図は、非常に絵になるために写真でもよく見られ、丸亀城を代表する構図となっている。また、三ノ丸の入口である見返り坂は、20m以上もあるという高石垣の反り勾配が美しく、こちらも非常に見応えがあった。

最終訪問日:2006/5/25

今や、お城より丸亀製麺の方が有名なんじゃないかと思われる丸亀のお城ですが、このお城は本当に絵になりますね。

素人が撮ってもそれなりに見えるのは、嬉しいものです。

周囲の穏やかな雰囲気もあって、清々しい時間を過ごせました。