たまに妄想して感想をさえずるブログ (original) (raw)

ハーメルンの死の舞踏

ハーメルン伝説の1つの回答

ハーメルンの笛吹き男~伝説とその世界~」を読んでハーメルンの伝説に興味を持ち、もっと別の側面からの話がないだろうかと探していたところ、本書を見つけてポチりました。ええ、衝動買いです。だから届いてから、「あれ、戯曲?」となりました。童話だと思ってた。だってミヒャエル・エンデって、「モモ」書いた人でしょ?(読んだことないけど)いや別に戯曲がダメってことじゃなくて、単に私が戯曲慣れしてないから、読んでわかるだろうか、という一抹の不安があったんです。

でも結論から言えば、杞憂でした。すごく面白かったです。そしてすぐ読めた(戯曲だから)。でもこれ、たぶん先に阿部謹也さんの「ハーメルンの笛吹き男~伝説とその世界~」を読んでたから良かったんだと思います。そのおかげで当時のハーメルン市の置かれた状況や一般庶民の暮らしなど、かなり史実に忠実に描かれているのがわかったから。

ただ戯曲として書く以上、伝説の元ネタまんまでは盛り上がらないし冗長だし、そもそも謎だらけの伝説に結論をつけないといけない。そしてこの伝説の研究者がこれまで重視してきたのは、「笛吹き男とは何者であったか」ということと、「子供たちはどうなってしまったのか」という2点でした。しかしこの戯曲は一味違います。それまでの研究者や童話にはなかった、新たなキャラクターをぶっこんできたのです。それが「大王ねずみ」。

大王ねずみ、っていうと、「王冠かぶってカボチャパンツとマントを身に着けた、熊くらいのサイズの巨大ねずみ」を想像しちゃいますが、そんなゆるキャラみたいな可愛らしい代物ではありません。作中から抜粋します。

できものにおおわれた脂ぎった胴体は、中腰の姿勢をとり、頭は、巨大なねずみの腐りかかった頭蓋骨である。化け物の首のまわりには、背後から尻尾が、首かせのように巻きついている。尻が前に回ってくるたびに、化け物は、祭壇上の大杯の中に、金貨を一枚ひり出す。同時に化け物と同じ形をした小さな影のようなものが放たれ、外へ飛び出ていく。

どう控えめに言ってもキモい。グロい。もはや「ねずみ」とも呼べないレベル。でもこいつ、金貨をどんどん出すので、為政者や権力者、金持ちたちがしまい込んで、神様みたいに崇めてます。でもこいつが金貨を1枚出すのは、1つの死と引き換え。その死は植物や無機物であることもあれば、人間ということもあるけど、結局は弱い者から訪れます。だからこいつを崇めている人々の順番はまだすぐには来ない(貧民ほど弱者となる)、だから金をためこめるだけためこんで、民衆にはもちろんこんな事実は知らされない。このグロい奴を崇める奴らもまた醜悪、という設定です。

なんでエンデは元ネタにない、こんなキモいキャラを新たにぶっこんで来たのか。それについては巻末の解説にありました。(原文は縦書きなので「右」ですが、ここでは「上」と考えてください)

(前略)彼(エンデ)がとりわけ鍵になる謎と見たのは、

1 ねずみの害が生じるに至った原因

2 笛吹き男に報酬が支払われなかった理由

の二点だった。(中略)エンデはついに、右の1と2とはじつは密接につながりあっているのではないか、つまり笛吹き男がよこせと言ったのは、氾濫するねずみの「原因」のことだったのではないかと思いいたるのである。

そういうことか。思わず膝打っちゃうよね。私も他の人たちと同様、笛吹き男の正体や子供たちの行方のほうが気になってましたが、さすがエンデ、目をつけるところが違います(でも他は読んだことない)。笛吹き男が報酬によこせと言ったのが「大王ねずみ」だったけど、市の権力者たちはもちろんそれをあげるわけにはいかない、でも日ごとにヤバくなる鼠害はどうにかしてほしいから契約した、とりあえずいまの鼠害さえ改善してくれたら後はどうにでもなる……という近視眼的な考えでさらなる不幸を呼び込む市側の姿勢は、現代日本と通じるものを感じてしまいます。「それ」さえ手放せばいいのに手放さない強者の愚かさ。と同時に、おこぼれに与るためにそんな強者に迎合する弱者。弱者が弱者から抜け出せないのは、強者が「それ」を手放さないからなのに……という堂々巡り。エンデ、マジ神じゃない?(他は読んだことないけど)。

ハーメルンの笛吹き男~伝説とその世界~」著者の阿部さんは、伝説を構成する要素ひとつひとつを気にするんじゃなくて、その伝説ができた頃のその国の状況や人々の暮らしに注目するべきだ、というようなことを言ってましたが、本書はまさしくそういう手法で導き出された答えの1つです。繋げる力。私も欲しい。

とりあえずエンデの他の著作も読んでみたいと思います。

診断名サイコパス: 身近にひそむ異常人格者たち (ハヤカワ文庫 NF 241)

サイコパス」も、気づかれなければ「普通の人」

いきなりですが、私が初めて「サイコパス」という単語を聞いたのは、伝説のバンドBOØWYのアルバムタイトルの1つ、「PSYCHOPATH」でした。当時中学生の私にはこの単語が全く読めず、当然ながら意味もわからず、辞書で引いて「精神異常者」と出てきたものの、「えーっと……え?」くらいの感想でした。翻って現在の中学生は、「サイコパス」という単語を知っています。中学生どころか小学生でも知ってるし、なんなら日常会話で普通に使ってます。こいつ笑いながら彫刻刀使ってるよ、サイコパスだな、みたいな。現代の小中学生がなんで「サイコパス」という単語を知ってるかと言えば、やはり本や映画などフィクションの影響が強いのではと思いますが、そのせいか、サイコパスとは殺人鬼のことだと思ってる人が多い気がします。しかし実際はそうじゃないんだよ、というのが本書です。

とはいっても、サイコパスとは以下の特徴のある人です、みたいな書き方はされてません。一応、「精神病質チェックリスト」というものが掲載されていくつかの特徴が箇条書きにはされていますが、あくまでも指標の1つであり、専門家でも使用するのは難しく、「自分自身やそばにいる人を、これを使って診断してはいけない」とあります。確かにこの特徴には「衝動的」「自己中心的で傲慢」「責任感の欠如」などなど、程度とか状況とかによっては誰でもあるよね?っていうのばかりなので、これに1つでも当てはまる人がサイコパスなら、世の中みんなサイコパスになってしまうからだと思います。冒頭にはエド・ゲインやテッド・バンディなど、世界的に名の知られた殺人鬼の説明が網羅され、本編には何人かの「精神病質者」の実例が紹介されていますが、彼らの全員がサイコパスというわけではない、というのも最初に明言されています。

じゃあサイコパスってどういう人なの?という疑問はもちろんありますが、これはたぶん、著者を含め、断言できる専門家は、いまのところいないと思います。だからこそ本書では精神病質者をたくさん紹介してるんだと思うんですよ。断言はできないけど、感じ取ってください、ということで。これは、ジャズってどういう音楽?って聞かれたら、その歴史や楽器やリズムについて説明するより、とりあえずこれとこれとこれを聞いて、っていうほうが早いしわかりやすい、ということと一緒だと思うんです。

私は専門家でも何でもありませんが、これまで何冊か心理学の本を読んできて思うのは、Aさんはサイコパス、Bさんは自己愛性、Cさんはボーダー、と診断がついていても、だからAさんには自己愛性やボーダーの要素はない、ということではないし、それはBさんCさんも同様だ、ということです。むしろこれらのタイプはちょっとずつ混じり合っていることが多い印象で、おそらく専門家でも診断が分かれることがあるんじゃないでしょうか。だから本書のタイトルも単に「サイコパス」ではなくて、「診断名サイコパス」になっている。ちなみに原書タイトルは「Without Conscience」(Conscience:良心)。ある人を「サイコパス」と断じるのは専門家でも非常に難しいということがわかる一文が、本書にありました。

精神的に病んでいる殺人犯と、正気だが精神病質の殺人犯との明確な違いは、見分けるのが容易でない。(p62)

わかる。専門家じゃないけど、めっちゃ難しいだろうなというのはわかる。家族や友人みたいに長年よく知ってる人ならともかく、赤の他人ですから。

それでも「サイコパス」という単語が作られ、そういう人たちを研究する学問がある以上、明らかに「普通の人」とは違う、「普通の人」には理解できない特質を持った人たちがいることは確かです。そして彼らの異常さは、性格が悪いとか意地悪だとか、自分勝手だとか我儘だとか計算高いとか薄情だとか、そういった言葉だけでは言い表せられない何かであり、たまたま彼らの正体に気づいてしまった人たちが、ぞっとするような経験をすることもあるわけで、そういう目に遭った人からすれば、それは決して気のせいだとか、偶然だとかで片づけられることではありません。大袈裟ではなく、命の危険を感じた人もいると思います。でもその恐ろしさはたぶん、経験した人にしかわかりません。

というわけで、著者の気持ちもわかるんだけど、なんか内容的にはっきりしない感じがする本書ですが、訳者の「文庫収録にあたってのあとがき」にある説明がとてもすっきりするので最後に掲載させていただきます。

そもそも、“サイコパス”とは精神医学用語で、もっとも重い場合でも精神病ではないがもっとも軽い場合でも正常ではない、という厄介な人格障害のことだ。しかも、この障害を引き起こす決定因は突きとめられていない。内因性疾患、すなわち“脳の体質”によるものか、先天的器質性によるものかもはっきりしない。原因がわからないから、治療の方法すら見つかっていないのが現状だ。

本書が上梓されたのは30年以上前ですが、2024年現在でもサイコパスをめぐる現状はほぼ変わっていないと思います。何億光年も離れたブラックホールの写真撮影ができても、人間の心の闇のほうが深いんですね……

罪と罰(上)(新潮文庫)

読む前に知っておけ、難解と言われる理由

あの「罪と罰」です。昔から名作と名高い、「新潮文庫の夏の100選」とかに絶対出てるやつ。でも「読んだよ」という人に会ったことないやつ。読んだことないのに、もし読んだ人に会ったら、この人なんか気難しそうだなあ、って思いそうなやつ。

そんな本作を私が手に取ったのは、あるマンガがドストエフスキーの作風に似ているという話を聞いたので、ちょっと興味を持ったからです。ドストエフスキーと言えばやはり「罪と罰」だろう、なんだっけ、借金取りを殺しちゃう話だっけ?ってくらいの知識しかない状態でネットでポチり、上下巻が届いたときのあの絶望感。まじか。年内に読めるかな(当時10月)……年内は無理でした。

有名な作品なのであらすじを知ってる人はたくさんいると思いますが、一応まとめておきます。ただしこのあらすじは世間一般で広範に定義されているものであり、私が個人的に思うあらすじとは微妙に違います。

頭脳明晰な貧しい大学生ラスコーリニコフは、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた人間は、その理想追求のためには時として道徳倫理を無視してもよい」という持論のもとに、強欲な高利貸の老婆を殺害し、奪った金銭を世の中のために使おうとするが、偶然その場に来た義妹まで殺害してしまう。この予定せぬ殺人にラスコーリニコフは懊悩し、恐怖と不安に怯えるが、偶然知り合った聖なる娼婦、ソーニャの自己犠牲に徹した生き方に感化され、ついには自らを法の裁きに委ねる。

めちゃくちゃ登場人物が多い話なのに、まとめると4人しか出てこないということに改めてびっくり。そうなんですよ。めちゃくちゃ長くてややこしい話なのに、まとめるとこれだけなんです。そして私の感想としては、

(感想)

ラスコーリニコフがひたすらめんどくさい。

いやもう、ほんとに申し訳ないですけど、私の場合はこれに尽きます。おまえ何なの、何がしたいの?っていうのが延々と続く感じ。

でも「罪と罰」はロシアの最高文学とも言われる作品であり、ドストエフスキーも天才と謳われる作家、いまでも彼の研究者が世界中にいるということは私も知ってます。だからどう考えても私の読解力がゴミなんでしょうが、上記のあらすじの内容は、全く読み取ることができませんでした。

頭脳明晰→単なる中2病に見える

大学生→授業料が払えなくて除籍されてるから「元大学生」か「無職」では?

一つの微細な罪悪は百の善行に償われる、云々→上巻終盤の論文のことなんだろうが、さっぱり読み取れない

強欲な高利貸の老婆→普通の質屋のおばあちゃんでは?

奪った金銭を世の中のために→空き地に埋めただけだし、どうする予定だったのかわからない

このお話って、たぶんですけど、当時のロシアの状況とかキリスト教とか、そもそもロシア文学とは、について、ある程度の知識がある人じゃないとわからないんじゃないでしょうか。私も最初はあまりにもわからなかったので、いろいろネット検索してみてちょっとだけわかったことを、備忘録として書いておきたいと思います。

登場人物の名前について

私もそうなんですが、たいていの日本人は外国人の名前にあまり馴染みがないと思います。英語圏ならともかく、それ以外となると、名前なのか苗字なのかも判然としなかったり。この「罪と罰」はロシアの話なのでロシア人名が多いんですが、ドイツ人とか、たぶんそれ以外の国の名前も出てきますし、しかも登場する人名がめちゃくちゃ多いです。とりあえず主要な登場人物を挙げてみると、

ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(主人公)

ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ(娼婦)

ポルフィーリイ・ペトローヴィチ(予審判事)

アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ(主人公の妹)

プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナ・ラスコーリニコワ(主人公の母親)

アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ(主人公の妹に言い寄る男)

ドミートリイ・プロコーフィチ・ウラズミーヒン(主人公の友人)

ややこしすぎない?もちろんこの人たちが登場するたびに毎回フルネームが出てくるわけではないんですが、厄介なのは登場人物同士で呼び合う場合と、作者のナレーション的な立場で呼ぶ場合で呼び方が変わるということ。例えば主人公の名前は、あらすじなどでは「ラスコーリニコフ」ですが、物語の中で他のキャラクターが彼を呼ぶときは「ロジオン・ロマーヌイチ」が圧倒的に多いですし、さらにこれが母親など親しい間柄の場合は「ロージャ」となったりします。なので最初に登場人物の名前をちゃんと把握しておかないと、そのうち、誰が誰に誰の話をしているのかさっぱりわからない、ということになってしまいます。しかも上に挙げた名前はほんの一部で、実際に出てくる名前はこの何倍もある上に、似たような名前の人もいれば、モブキャラだと思った登場人物が後になって何度も出てきたりするので油断できません。

当時のロシアの状態

罪と罰」を読んでると、内容は理解できるけど具体的なイメージが湧きにくい、という設定やシーンがたくさん出てきます。例えば主人公のラスコーリニコフが住んでいるのは日本で言えばアパート的な建物だと思うんですが、その建物にはなぜかナスターシャさんというお手伝いさんがいます。ラスコーリニコフのお手伝いさんじゃなくて、そのアパートのお手伝いさんとしか言いようがないんですが、住人のごはんを作ってくれたり、部屋を掃除してくれる人。ラスコーリニコフは貧乏学生という設定なので、彼の住んでるアパートが特別高級というわけではないはずですが、なぜかそんな人がいる。さらに「庭番」と呼ばれる立場の人もいて、日本で言ったら庭師さんとか門番的な?もっと重要な登場人物に関して言えば、ポルフィーリイの「予審判事」というのも謎の職業です。日本で言えばたぶん刑事というよりは検事みたいな立場だと思うんですが。

こういう、日本にはいない職業や立場の人たちがたくさん出てくるので、これはそういうものなんだな、と了承して読まなければいけないんですが、だからこそ、もしそこに伏線が張ってあってもわかんないよな、という諦めもあります。

わからないと言えば、階級的なものもそう。「何等官の〇〇」みたいな人物紹介がよく出てくるんですよ。「9等官の退職官吏」とか「14等官未亡人」とか「8等官未亡人」とか。これは一体何なんだと思ってたんですが、調べたところ「国家公務員のグレード」的なもので、ロシア古典文学にはよく出てくるそうです。1等から14等まであり、数字が小さくなるにつれて偉くなるそうで、もちろん収入とかも上がるんでしょうが、その分付き合いに気を使ったり、等級に見合うような見栄を張ったり箔をつけたがったりと、これもなかなかややこしさに拍車をかけます。女性はそもそも官吏になれなかったそうですが、既婚女性の階級は夫の官等に準ずる、みたいなきまりがあったそう。でも「14等官未亡人」とか「8等官未亡人」という呼び方を見れば、夫の死後もその立場は変わらなかったみたいですね。

作中ではラスコーリニコフのお母さんや妹が、爪に火をともすようにして貯めて送ったお金を、ラスコーリニコフがけっこう簡単に使う(というかばらまく)ようなシーンがちょいちょいあって、個人的にけっこうイラっとしたんですが、たぶんこういう階級社会もその理由の一端なんじゃないかと思います。

キャラ設定とその温度差

あらすじと上に挙げた名前を見比べると、「強欲な高利貸の老婆」の名前が出てこないのが不自然に思えますが、正直言えば私の場合、この老婆は重要キャラには思えませんでした。って言ったらなんか私がヤバいやつみたいですけど、私自身、「罪と罰」を読みながら、この老婆の存在感のなさひどすぎない?って思ってたんですよ。

いやもちろん、主人公のラスコーリニコフが殺してしまう老婆ですし、その殺害がなければ物語自体が成り立たないし、殺害シーンもけっこう細かく描かれてるんですが、それ以外のシーンには出てこないと言ってもいい。老婆の名前はアリョーナ・イワーノヴナというんですが、あらすじを知ってると、ラスコーリニコフが罪の意識に苛まれて、ことあるごとにアリョーナの幻覚を見る、くらいに思っちゃいますけど、まあ出てきません。相手が「強欲な高利貸の老婆」だから罪の意識がないの?と思いきや、ラスコーリニコフはこのアリョーナ殺害直後にやって来たアリョーナの義妹のリザヴェータも殺しちゃうんですが、このリザヴェータの話も以降ほとんど出てきません。リザヴェータは「強欲な高利貸」じゃないのに。それどころか、いつも気の強い義姉(アリョーナ)にいいように使われている人の好いおばさんという設定なんですよ。

でもこのあたりは、時代や国による表現の違いということなのかもしれません。あるいは、単に私が登場人物の心象風景を細かく描く作品を当然だと思ってるだけかも。でもそんな私から見ると、だからラスコーリニコフという人は、罪の意識というより、ずっと自分の保身しか考えてないように見えるんですよ。2人の殺害後にラスコーリニコフは高熱を出したり、失神しちゃったりするんですが、そういう体の変化について特に説明がないうえに、やたらとポルフィーリイを意識した行動をするので、罪の意識というよりは、単にバレたくない、捕まりたくない、という自己保身とか現実逃避にしか見えない。殺害後の逃走経路とか盗んだ金品を隠すときも行き当たりばったりですし、頭脳明晰なのにそこまで計画してなかったの?って思っちゃう。っていうかペンキ屋のニコライだかミコライだか、彼はなんでやってない殺人を自白したんだろう。

その一方で、そんなに重要キャラには思えないのに、なぜかすごい存在感を出してくる登場人物もいます。代表的なのがスヴィドリガイロフで、この人はもともとドゥーニャ(ラスコーリニコフの妹)が家庭教師をしていた家の主人なんですが、奥さんがいるのにドゥーニャに色目を使ってきて、ドゥーニャがいたたまれなくなって家庭教師を辞めたものの、奥さんが死んだ後でドゥーニャを追いかけて来るという、現代風に言えばストーカーです。

主人公の妹のストーカーって、どう考えても重要キャラではありえないんですが、このキャラはなかなか強烈に複雑で、現代の心理学ではおそらくサイコパスとかナルシストに分類されるんじゃないかと思うくらいの不穏な雰囲気を醸し出します。彼のやることなすことすべて倫理的にはちょっと眉をひそめられるようなことばっかなんですが、見ようによってはめちゃくちゃドゥーニャを愛していたともとれる。でもサイコパスならそもそも他人を愛することはできないはずなので、彼の愛のように見えるものはたぶん別の何かなんだろう……とか思っちゃう。でもなんかこのキャラ、既視感があるんだよなあ……と思って考えたら、宮部みゆきさんの「理由」に出てくる八代祐司でした。わかる人にはわかってもらえると思う。

他にもソーニャのお父さんとか義理のお母さんもなかなか強烈で、時としてラスコーリニコフすら霞むほどの存在感を垂れ流すんですが、どっちもけっこう早い段階で死んじゃいます。もう前半は完全にこの夫婦に持っていかれると言っても過言ではない。っていうかなんでこのダメ親父からソーニャみたいな娘ができたのか不思議。

以上を踏まえても、なんでこのキャラが必要だったんだろう、とか、あのシーンにはどういう意味があったんだろう、とか、なんでこういう立場の人は出てこないんだろう、とかいう謎が読後に大量に残る作品ではあります。興味のある方は読んでみてください。ちなみに私の読んだ新潮文庫版は、カバーのそでとかに登場人物の説明とかは載ってないので、あらかじめWikipediaとかで登場人物の名前等を印刷してから挑むことをお勧めします。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

経営学の視点から非営利団体を考える

私はたまに、そういえば昔けっこう話題になったなあ、という本を読みます。話題になったということはそれだけ面白いはずだし、たくさん出回ってるから古本でも安いだろうし、というセコイ考えからですが、本書はその1冊です。長いタイトルを「もしドラ」と略されて話題になったのが、考えてみればもう10年以上前です。

さて本書のタイトルにある「ドラッカー」とは、ピーター・ドラッカーというユダヤオーストリア人の経済学者、経営学者で、日本ではおそらくこの本で有名になったのではと思いますが、Wikipediaとかを見ると、とんでもなくすごい人です。ユダヤ人って賢い人多いよなあ。そんなドラッカーさん、生涯でたくさんの本を書いてるんですが、「マネジメント」というのは彼の著書のうちの1つで、私は読んだことないですが、組織とは、経営とは、などについて書かれた本らしいです。

本書の主役はみなみちゃんという女子高生なんですが、そのみなみちゃんが弱小野球部のマネージャーをすることになり、マネージャーって何をすればいいんだろうと本屋に行って、上記の「マネジメント」を買ったというところから始まります。なんで部員とかに聞かずに本屋に行ったんだ、というツッコミはおいといて、そこからこの本の物語が始まります。

とはいえ「マネジメント」は経営とかについて書かれた本であって、部活のマネージャーとは関係ないということはみなみちゃんもすぐに気づくんですが、あーしまったテヘペロ~☆とはなりません。なんとみなみちゃん、この「マネジメント」を野球部の運営に活かそうとします。営利団体ではない「都立高校の野球部」の運営にドラッカーの「マネジメント」を応用しようというのはなかなか突飛な考えですが、読んでいると、なるほどそういう解釈もできるよね、と唸ってしまいます。

例えば「マネジメント」では、まず「顧客は誰か」を考えるところから始めるんですが、もちろん都立高校の野球部は誰かに野球を見せてお金をもらってるわけではないので、この顧客の定義が難しい。しかし、その人(たち)がいなければ野球部が成り立たないことを起点とすれば、部員たちの親や先生、学校、東京都、東京都民、高野連、野球ファン……とどんどん広がっていって、最終的には部員たちもそれに入る、と考えられます。そうやって顧客が定義できたら、今度はその顧客が何を求めているのかを考える、といった具合。そうやってみなみちゃんはずっと「マネジメント」を基にして、野球部を盛り立てて行くのです。

みなみちゃんの所属する程校野球部は部員たちが全体的にやる気がなく、部員どころか顧問の先生も決して積極的とは言えない状態で、甲子園なんて夢のまた夢。そんな弱小野球部を甲子園に連れて行こうとするみなみちゃんにはそれなりの事情があるんですが、それについてはおいおい語られていきます。そして「マネジメント」を実践する中で、部員たち、顧問の先生、他のマネージャーなどの心情が明らかになっていき、成果も出てくる……という、いやそんな上手くいくかなあ、という疑問があるにはあるんですが、高校野球の持つ魅力のせいか、最終的には結果オーライだよな、と思えてしまう。エースじゃない部員が輝くとかね。青春です。

ただ、小説だと思って読むと、ちょっと期待外れかもしれません。いや、小説は小説なんですけど、理系の人が書いた小説、みたいな感じがしないでもない。女子高生が主人公のわりに、女子高生っぽい視点があまりないですし、全体的になんとなく、取説を読んでるみたいな印象を受けます。終盤の展開はちょっと唐突ですし。と思って著者のプロフィールを見たら、東京芸大美術学科建築学部卒で、放送作家をしていた方でした。なるほど。また、可愛らしい表紙絵から若い女の子が手に取るかもしれませんが、ある程度の野球知識がないと、読んでてもあまり入り込めないかもしれません。

この回の程校は、先頭バッターが塁に出ると、すかさず盗塁を決め、ノーアウト二塁のチャンスを作った。しかし、続く二人の打者が凡退し、ツーアウトとなった。

例えばこれはクライマックスのワンシーンなんですけど、野球を知っていれば、うおお盛り上がってきたぜえ!ってなるところですが、知らない人にはちんぷんかんぷんじゃないでしょうか。ちなみに主人公のみなみちゃんは小学生の頃に野球をしていた、しかもかなり上手かったという設定なので、野球のことはわかっている前提で話が進められていきます。もちろん野球を全く知らなくても、なんとなく空気感で読めるかもしれませんが、感動はだいぶ薄くなるかも。あと、どうでもいいことですが、みなみちゃんの名前ってたぶん「タッチ」から来てるよね?

それはともかく、経営学ってこういう感じにも活かせるのかもな、という視点を持つために、読むのもいいと思います。本格的な経営本を読むのは抵抗があるけど興味はある、という方は、とりあえず読んでみても損はないと思います。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(新潮文庫)

子供よりむしろ大人が読むべき名著

率直な感想を言えば、これが課題図書でいいの?ってことでした。いや、ディスってないですよ?むしろこれ、ものすごい名著だと思います。でも、課題図書ってことは子供が読むことを勧めるんですよね?そういう意味だと、ちょっと、どうなんだろうっていう。別に、残虐なこととか、過度にセクシーなこととか書いてあるわけじゃないんですが、正直言えば、小中学生がこれを読んで、どれくらい理解できるだろう、っていう疑問はあります。(同じ意味で、「君たちはどう生きるか」も。正直、あれも小学生が読んで理解できるとは思えませんでした。)

著者である、ブレイディみかこさんの息子さんが、地元のちょっと荒れた中学校に入学してから、たぶん1年くらい?の間に起こった出来事をエッセイ風に書かれているお話なんですが、母と息子の会話ももちろんありますけど、基本的には母親目線からの話です。さらに、「地元」とはいっても日本じゃなくてイギリスの話。ブレイディみかこさんは日本人ですが、配偶者がアイルランドの方で、息子さんはどちらの血も引いている。そんな3人が暮らすのはイギリスのブライトンというところの中でも、あまり治安はよろしくない地域。小学校は家からちょっと離れたところにあるカトリック系の、いわゆる品行方正な学校に行っていた息子さんですが、中学校からは地元の荒れた中学校(著者は「元底辺校」と呼んでいる)に通うことになったので、それにまつわる親の心配や本人の葛藤などが、母親目線で淡々と綴られています。

なんで子供では理解が難しいかと言うと、まずは年齢的なもの。著者のブレイディみかこさんが当時何歳だったのかわかりませんが、本編から察するに、たぶん50歳前後。その年齢の人の目線から見えるものって、やっぱり小中学生から見えるものとは違います。そしてその違いを受け入れるのは、小中学生はまだちょっと難しいのではと思うんです。

また、興味がある対象の違い、というのもあります。本書に何度も「ブレグジットEU離脱)」という単語が出てきますが、これ、大多数の日本人はたぶん知らない単語だと思います。一時期、けっこう日本のニュースでもやってましたけど、イギリスがEUに入ろうが入るまいが、そんなに興味ある日本人っていなかったんじゃないでしょうか。でもこれ、イギリスに暮らす人にとっては大問題で、っていうのも、イギリスやヨーロッパの人々からすれば、近隣諸国の動向っていうのは嫌でも自分たちの生活に直結してくることなので、気にしないわけにはいかないんです。ヨーロッパというのは地続きなので、昔から人もモノも文化もあっちこっちから入って来ては出て行って、っていう繰り返しで、それが当たり前という中で暮らしてきた人達の視点は、やっぱり日本人のそれとは違います。なので著者の視点もそういうところが大いに入っていて、政治はもちろん、人種問題や教育格差、多様性や階級社会など、日本の一般的なお母さんの興味や関心あるテーマとは明らかに違うんですよ。

さらに言えば、このお話の中の息子さんは大体10~11歳くらいですが、同じくらいの年齢の日本の子供に比べたら、やっぱり視点が違います。簡単に言えば、とっても大人。息子さんは大多数が白人、しかもガラが悪い、という中学校へ進学したことで、いじめられはしないものの、友達や学校のことでいろいろ悩みます。でもそれをちゃんと友達と話し合ったり、お母さんをはじめとする大人に相談したりと、ちゃんと言語化して、自分の着地点を探そうとするんですよ。日本の子供だったら、ちょっと仲良くなった子がいても、その子が徐々に変な言動で周りから浮き始めたら、そうっと距離を置く子が多いと思うんですが、この息子さんは、ちゃんとその友達をサポートしようと頑張るんです。それをお母さんが傍で見ているんだけど、お母さんも、息子に相談されたらちゃんと答えるんですよ。うーん、どうだろうね?とか、あなたはどう思う?とかって日本のお母さんなら流したり投げ返したりしちゃうようなことも、私はこう思う、っていう意見をはっきり返します。

だからブレイディみかこさんすごい、息子さんもすごい!と言いたいわけではありません。でもイギリスのようにさまざまな人種がひしめき合っている国では自分の意見を持ち、そしてそれをちゃんと表現しないと、当然もらえるはずの権利が奪われてしまうということもあると思うんです。そしてその表現の仕方によっても結果が変わるというのは、日本にいる私たちでも理解できるところですが、日本ではその変化の幅が狭く、小さい気がします。そこまで変わる!?というのがあまりないような。これは人種や宗教、文化、信条など、さまざまな違いが積算する結果ですから、「ツーカー」や「阿吽の呼吸」や「忖度」というものが通用しない世界であり、日常的にそんな世界で生活している子供と、逆に「ツーカー」や「阿吽の呼吸」や「忖度」の中で生活している子供では、やはりものの見方や考え方はかなり違ってくると思います。

グローバル化の進む現代、前者は増え、後者は減っていく一方です。そんな世界で生きていく子供たちのことを思えば、いまは特に必要性を感じなくとも、世の中にはいろんな人がいるんだ、ということは知っておくに越したことはありません。世の中にはいろんな人がいるなんて当たり前じゃん、と思われるかもしれませんが、「本当に」いろんな人がいるということは、知識ではなく、肌で感じることだと私は思います。このエッセイに出てくる息子さんも、(日本で言う)小学校はカトリックの、かなり品行方正な学校に通われていて、そのまま同じ系統の中学校へ行くほうが流れ的には自然だったみたいですが、そこへ「元底辺校」という、かなり荒れた学校の選択肢を持ってきたのは著者のブレイディみかこさん本人であり、最終的に決めたのは息子さん本人ですが、そこにはもしかしたら著者の、井の中の蛙になってほしくない、という息子さんに対する気持ちがあったのではないかと考えてしまいます。イギリスという白人社会(2024年現在はもうそうでもないかもしれない)から「東洋人」と見られてきた彼女が、逆にその「東洋人」の立場から白人社会を見た結果の行動だったのでは、と。

ちなみにタイトルの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」っていうのは、イエロー(東洋人)とホワイト(白人)の両親から生まれた、ちょっとブルーな気持ちのぼく、という意味ですが、この息子さん、中学に入るまで、「ブルーな気持ち」を「怒りの感情」だと思っていたそうで、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」っていうのも、息子さんがノートの隅に書いた落書きらしいですが、それを書いたときに「ブルーな気持ち」を正しく「悲しい気持ち」と理解していたかどうかは不明だそうです。それをタイトルにしてしまうあたりも、答えがない感じで、息子さん世代的にぴったりだな、と思ったり。

というわけで、「課題図書」としてはちょっと、と思うんですが、内容的にはとても素晴らしいので、子供よりむしろ大人に読んでもらいたい。ただ、イギリスの教育システムとか、住居や雇用の問題、イギリスの音楽など、知らない、興味ない、という人にはちょっと読み辛い面もあるかもしれません。また、英単語も頻出しますけど、一応カタカナで書いてあるものの、それほど詳しい説明のないところが多いので、ある程度の英語の知識もあるに越したことはないです。著者の配偶者の話し言葉がけっこうべらんめえ口調というか、ガラ悪い感じで書かれてるんですけど、イギリスって労働者階級とポッシュ(上流)階級では、話し方も違うんですよ。(でも大部分のイギリス人は労働者階級なので、ポッシュ英語は嫌われる傾向にある)そういう、日本の英語教育では習わないような、でも現地では当たり前、っていうことがたくさん出てきます。もしこの本が英語に翻訳されてイギリスで出版されても、おそらくベストセラーにはならないだろうと思います。だって、イギリスでは当たり前のことばかりだから。でも日本人にとっては、世界を考えるきっかけになる一冊では、と個人的には思います。

ハーメルンの笛吹き男 ――伝説とその世界 (ちくま文庫)

謎は謎のまま、でもその壮大さが奥深い

とあるYouTuberさんが、日本でも有名なあの「ハーメルンの笛吹き男」の謎を解いたのが日本人だった、これはその人が書いた本だ、と紹介していて、そりゃすごい、と思ったのがこの本を読んだきっかけでした。でも結論から言うと、この本で「ハーメルンの笛吹き男」の謎は解けてないです。っていうかそもそも「ハーメルンの笛吹き男」の謎を解明する本ではないです。しいていうなら、「ハーメルンの笛吹き男」について、過去にいろんな人がいろんな説を唱えてますよ、ほらほらこんな感じに、っていう紹介本です。

とはいっても著者の阿部謹也さんは一橋大学名誉教授で西洋史学者なので、私のように特に歴史に詳しいわけでもない一般人が読むには、なかなかハードルの高い文章でした。論文ってこういう感じなのかな、っていう。加えて1935年生まれの方なので、言い回しとか使う漢字とかもいまとだいぶ違います。もともとヨーロッパ、特にドイツの中世史に造詣の深い人ならすらすら読めるんでしょうが、私の場合は、ちょっと読んでは検索して、の繰り返しでした。日本語も含め、ちょっと何言ってるかわかんない、的なところがちょいちょい出てくるんですよ。でもこっちは謎解き本だと思って読んでるもんだから、これはあれだ、ミステリーっていうのはたいてい最初のほうをちゃんと理解しないとダメなんだろ?と思ってたんで、けっこうしっかり読み込みましたよ。結果、謎は解けなかったけど、解けないんだ、っていうのはわかったので無駄ではなかったと思う。そういう意味では件のYouTuberさんに感謝なのかも。

ただ、ハーメルンでは昔、大勢の子供たちが一斉にいなくなったことがある、ということだけはどうも事実らしい、ということだけは文中で述べられています。でも、どうしてそういうことになってしまったのか、子供たちはどこへ行ってしまったのか、ということは謎のままです。もちろん他にもいろんな謎があって、ドイツのみならずいろんな国の人が、ああでもない、こうでもないと、長年にわたって自説を披露しているんですが、そのうちの1人によれば、大別して25通り。すべて細かく説明されてるわけではないんですが、この違いがなかなか面白いんですよ。

例えば「笛吹き男」は何者だったのか、という謎にしたって、この時代は〇〇があったから××という立場の人間だった、という説の人もいれば、こういう状況で〇〇するやつはたいてい悪魔だと相場は決まっている、みたいな説の人もいます。子供たちはどうなってしまったのか、という謎も、戦争や病気で死んだのだ、という説の人もいれば、神様に供えられた犠牲者だったのだ、という説の人もいます。中にはけっこう詳細な説明が載せられている説もあって、ヴォルフガング・ヴァンの「東方移住者理論」なんかは著者はあり得ないという立場ですが、私はけっこうおもしろく読みました。っていうかこの説、なんで無理があるのか著者に説明してほしかった。

でも著者が言いたいのはそういう一つ一つの謎解きではなくて、「ハーメルンの笛吹き男」という伝説がどうして何百年もの間世界中で語り継がれてきたのかに注目せよ、ということだと思うんです。そのためには伝説の内容とか単語とか言い回しみたいな要素について考えるより、当時のハーメルン市がどういう状況にあったのかを知るべきだし、その中で伝説を語り継いでいった人々、特に権力者ではない一般市民の立場について考えるべきだ、というのがこの本の骨子であり、これは私も激しく同意するところです。ある人の言ったことをずっとあれこれ気にするよりも、その人がそう言ったときどういう状況に置かれていたかを知ることのほうが、最終的にはその人を知るためにずっと近道になると思うんですよ。

というわけで、後半(というか2/3くらい)はほぼほぼ中世都市の下層民について書かれている本書は、どっちか言うと民俗学っぽい感じもしますが、当時の女性や子供のナチュラルに虐待的な扱われ方とか、乞食は知的職業だったとか、宗教を利用するヤツって昔からクズだな、みたいな話と共に、「伝説とはおとぎ話・メルヘンとは違って本来何らかの歴史的事実を核として形成され、変容してゆくもの」というのを考えると、私のような凡人でも、想像の翼が広がりそうな感じはあります。最後のほうに紹介されるシュパヌート博士がこの伝説の論文を書いたのはなんと78歳のときといいますが、確かにこういう歴史的な謎解きって、生涯をかけるくらいの面白さがあるんだろうな、とちょっと羨ましい気もします。

「カルト」はすぐ隣に: オウムに引き寄せられた若者たち (岩波ジュニア新書 896)

カルトを知り尽くした著者からのアドバイス

生涯忘れられない3大事件をあげろと言われたら、私の場合、その1つは間違いなくオウム真理教関連事件です。私の年代だと、オウムと言えば江川紹子というくらい、当時はテレビで彼女を見ない日はなかったように記憶しています。オウムが地下鉄サリン事件を起こして、とんでもない集団だったとテレビ各局が一斉に報道するよりずっと前からオウムを取材し、自身もオウムに殺されかけた経験があるにもかかわらず、テレビカメラの前で淡々と事実だけを述べる彼女の姿は、当時まだうら若き乙女だった私にはなかなか衝撃的なものでした。世はバブル(の終わりころ)でキャリアウーマンという単語が飛び交っていた時代、男性と同等に働く女性というのはワンレン・ボディコンでハイヒールを履いて気が強く、常にかっこよくいなければいけない、みたいな風潮があったような気がします。しかしそんなイメージとは真逆の風貌だった江川さん(失礼ながら、普通のおばさんに見えた)を見て、キャリアウーマンというのは本当はこっちなんじゃないか、と思ったのを覚えています。

本書はそんな江川さんが若者向けに書いた、カルトに気をつけてね、という本です。なので目黒公証役場事件とか坂本弁護士事件とか松本サリン事件、地下鉄サリン事件など、どれも登場はしますが、事件そのものにはあまり触れていません。元信者のうち何人かに焦点を当て、彼らがどういう経緯でオウムに入信したのか、なぜ殺人などの凶悪犯罪に手を染めることになったのかなど、その人生の岐路でどう考えて何を選択したかという、あくまでも元信者側から見た教団や麻原彰晃とのやり取りを追体験するような内容が基本になっています。本書の出版が2019年ということは麻原の死刑執行の翌年であり、さらに95年の逮捕からは約四半世紀が経過していることを考えれば、事件の風化による第二、第三のオウムを生まないための予防措置と言えるのかもしれません。

しかし「若者向け」とは言っても小中学生くらいだとたぶん難しい……最低でも高校生くらいの理解力は必要だと思います。内容的にはそんな難しいことが書いてあるわけではないんですよ。ですます調だし。ただ、彼らがどうしてオウムに入信し、のめり込み、引きずられていったのかを想像して理解することは、本書を読んだ上でも、なかなか難しいことだと思うんです。信じたいことを信じ、都合の良い情報だけを探してしまい、時には殺人ですら世のため人のためと思い込む、それは決して彼らが弱かったわけでも自己中だったわけでもなくて、人間なら、ある一定の条件下では、誰でもそうなる可能性がある……というのを想像して理解することができるのが、最低で高校生くらいかな、と。

あとはやはり事件、特に殺人に関する記事への耐性、でしょうか。事件そのものにはあまり触れていないと言いましたが、あくまでも江川さんの本業レベルで踏み込んではいない、というだけで、信者側の視点、特に死刑判決を受けたような人たちの話では、殺人へ至る経緯やそのときの状況説明などは、避けては通れません。その描写が江川さんの話し言葉のように淡々と、それがどんなに残虐で残酷で理解不能なことであっても冷静に、感情を挟まずに書いているところが、ローティーンには逆に厳しいかもしれないと思います。

というわけで、受験を控えた高校生には時間がないかもしれませんが、これから社会に出て行くくらいの人には、ぜひとも読んでほしい。もちろん大人でも。オウムのように「一見無害どころか親切でいい人に見えるけど、実はヤバい人や集団」というのは、今後まだまだ増えてゆくと思います。多様性の時代とは言われますが、何でもかんでも受け入れることが多様性じゃないんだよ、というのは、普通のおばちゃんの私も思うところです。