つるんとしている (original) (raw)
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デイリーポータルZで、本を紹介しました。
(DPZで記事を書くのはしばらくお休みなのですが、休止前にトーク収録したものが記事になりました。興味関心領域が似通ったデイリーライターのお二人と、わちゃわちゃと本を紹介しあうのはたいへん楽しかったです)
これは文庫本の背表紙にある解説。
生涯最後の旅と予感している夫・武田泰淳とその友人、竹内好とのロシア旅行。星に驚く犬のような心と天真爛漫な目を以て、旅中の出来事、風物、そして二人の文学者の旅の肖像を、克明に、伸びやかに綴った紀行。
星に驚く犬のような心と天真爛漫な目ときたか。同じことかもしれないけど、この紀行文には”ウソ”がなさそうのがすごいなと思った。
自分でも旅行記を書くからこそ思うのですが、旅行記に”ウソ”がないというのは本当にむずかしい。旅行では新しいことが目の前でつぎつぎに発生するので、その一瞬で感じたことをそのまま素直に書くような隙がない。あとから振り返ってみて、別の出来事と関連付けたり、意味を解釈しなおしたりということが行われるのが当たり前だ。ふつうそれは編集と呼ばれる作業なので、ウソという表現は正しくないのだけど、ともかく文章をある程度まとめて書こうと思えば、意図したものか無意識かにかかわらず、脚色が入り込んでしまうものだ。
『犬が星見た』は、著者本人の言葉では旅行中の「走り書き」の積み重ねだ。百合子さんが夫から「つれて行ってやるんだからな。日記をつけるのだぞ」と命じられるがまま、目にしたもの、心に残ったものだけを淡々と綴ったものだ。あとから雑誌に連載する際に手が入っているとは思うけど、原初の走り書きのままのストレートな正直さが、この作品の背骨だと思う。
「百合子。面白いか?嬉しいか?」ビールを飲みながら主人が訊く。
「面白くも嬉しくもまだない。だんだん嬉しくなると思う」と答える。
(9ページ)
旅行初日。上記は横浜からシベリアに向かう船上での夫婦の会話である。こんなんリアルな会話で言えるか?と思うし、しかもそれがそのまま文章として残って書籍になっているなんて奇跡じゃなかろか。これ旅行記なのに。と笑ってしまった。
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DPZの記事でもふれたとおり、見どころだらけのこの旅行記の中でも、おれの心を惹きつけてやまない登場人物はやはり、銭高老人である。日本人旅行団のアイドルであり、一級品の問題児でもある。
銭高老人は、ガイドの話をまるで聞いていない。首から吊るした双眼鏡で、そっぽを眺めている。この土地でとれる石を切り出して積んだという床や壁に、眼鏡をかけた顔をくっつけて、撫でたりたたいたりしている。ときどき大きなおならをしている。
(159ページ、トビリシ)
さきほど著者の百合子さんを天真爛漫と評する一文を紹介したが、この四字熟語は銭高老人にこそ譲りたい。このご老人は家族の大反対を押し切ってまで、たった一人で旅行団に参加している。団体旅行なのにあくまで自分のペースで旅を謳歌し、見聞きしたものにはバチバチの泉州方言で何か一言いわずにはいられない性分だ。
「こんなところに大きな町作りよって―――えらい国じゃあ。ロッシャはえらい国じゃあ」
「あっちの窓から見ていたら、貨物列車が長いんじゃあ。灯をつけて走っていくんじゃあ、長おて、長おて。ロッシャはたいしたもんじゃあ。わしゃ、よう知っとる。前からよう知っとった。わしゃ、よう知っとったんじゃ。ロッシャはえらい国じゃあ」
(58ページ、ノボシビルスク)
「汽車が走っとるわ。汽車が走っとるわ。えらいもんや。えらいもんや。こない仰山の砂ん中を。よう走っとる。よう走っとる。ロッシャはたいしたもんや」
(124ページ、タシケント上空)
「えらいこっちゃ。この国は。この国の女ごはよう働きまっせ。ロッシャはたいした国や」
(134ページ、タシケント)
「たいしたもんじゃ」と「前から知っとった」は銭高老人の持ちネタ。繰り返し繰り返し、20回くらい作中に登場する。百合子さんは終始、冷静というか冷淡といえるのほどの態度で旅行先の様子を描写するのだけど、この老人は、これはと思ったものには大袈裟なほどに感激する。このちぐはぐな二人のコントラストが作品に絶妙なリズムを生む。もはや銭高老人は本作の主人公の一人である。
「おいおい。タバコをくれ」銭高老人は女給仕に平然と日本語で注文し、まるで違うものを出された。水だった。
「ちがうがなあ。タバコじゃあ」老人は、また日本語で、情けなさそうに怒った。
(57ページ、ノボシビルスク)
情けなさそうに怒るという表現が、よい。念ずれば通ず。本気で伝えればロシア語でも日本語でも関係ないとでもいうような、老人のすごみを感じる。老人の「念」は団体旅行の仲間内にも容赦なく飛んで行く。
飛行機が動きはじめて、ほんの少ししか経たないのに、勿論、禁煙ランプがはっきりついているのに「吸いたい。吸いたい。わしゃ、吸いたい」と騒ぎだす。(中略)
「山口君。もう吸うてもかまへんやろ。吸うてもええかどうか、きいてくれへんかい」とせがむ。
(83ページ、タシケント上空)
この山口君というのは旅行団のツアーガイドである。おじいちゃんに無理難題ばかりを言われるかわいそうな役どころである。
老人は、大声で、滅茶苦茶に怒りだした。
「山口君。山口君。山口はどこじゃ。山口君をよんでくれ。山口君、タクシーをよばんかい。山口をよばんかい。山口に乗る!山口をよばんかい。タクシーに乗る!」
(121ページ、ブハラ)
銭高老人の狂気が感じられる作中屈指の好シーン。ブハラの酷暑にやられておじいさんの我慢は限界に至る。「山口に乗る(迫真)」。この発言をそのまま書き写す百合子さんはまことにすばらしい。
ブハラの太陽
終始キレ散らかしているだけではただのイヤな爺さんだけど、銭高老人は喜怒哀楽のすべてが弾け飛んでいる。齢80歳にして、3歳児のように瑞々しい感情が発露する。
「しゃあ……」老人がおどろきの声をあげた。
(90ページ、ブハラ)
博物館でネアンデルタール人の模型をみた老人の魂のひとこと。「しゃあ……」は流石に銭高老人がすぎる。この感嘆詞を読んだとき、会ったことも聞いたこともない銭高氏の声で「しゃあ……」が聞こえてきた気さえする。
「はっはーん。こりゃ愉快じゃ。あーあっ、おもしろ。あーあっ、おもしろ」
(200ページ、レニングラード)
楽しいときは徹底的に笑い倒す。あーあっ、おもしろって2回も言うなんてよっぽどのことだけど、もう本当にこのとおり言ったんだろうなと思う。ちなみに何がそんなに愉快なのかというと、人の遅刻を笑っているのである。たぶん悪気はない。
うしろ手を組んで、うつ向き加減に歩きながら、老人は一人呟き続けている。
「ああーっ、おもしろ。ああーっ、おもしろ」
呟きのようにも悲鳴のようにも聞こえる。私はあたりをみまわす。おかしなことはどこにも起こっている気配はない。
(68ページ、ノボシビルスク)
なんか急にホラー味が…。
「銭高さんは、大阪では誰からも叱られないで暮らしておられるんでしょうね。ロシアに来てから毎日叱られ通しね」
「ほんま。あなたのおっしゃる通り。わし、大阪におったら、誰も何も言わんがな。この国に来て、ほんまのこと言われて叱られ通しやがな。あっはあ、おもしろ。あーあッ、おもしろ。」
(212ページ、レニングラード)
ここで銭高老人の素性がすこしだけ明らかにされる。
「戦争前は、大阪では大名の暮しといわれる暮しをされた御方です。(後略)」
(82ページ)
老人は関西の土木建築会社の会長さんなのだそうだ。
(68ページ)
姓が銭高で土木といったらもう…ああ、これはもうめちゃくちゃえらい人だ。銭高老人はえらい人じゃ。わしゃ知らんかった。道理で行った先々で、建築現場に執着するわけである。
「見てみなはれ。壁も塀も門も、よおく見ると、皆、少しずつ、かしいでおりますがな。うまくかしいで建ててありますがな。ここは地盤がえろうやわらかいんじゃ。えらいもんでっせ。地震を見込んで、最初から、かしいで建ててありますのや(後略)」(122ページ、ブハラ)
銭高老人は足場を叩いて検分し「木の使い方が乱雑や。足場のかけ方がヘタや」と言う。
(160ページ、トビリシ)
社会的地位がありながら、権威を振りかざすようなところがないのもチャーミングなところである。わがままはいうが、いじわるではない。偉ぶるんだけど、憎めない。
「銭高氏よりの伝言です。『わしばかりええ車に乗っていては、なんとしても相済まん。ご婦人方をお乗せするように。わしは大きい車にかわる』言わはりますねん」
(108ページ、ブハラ)
老人は腰かけさせられたまま、きゅうりを齧りながらバザールの門を出て行く少年に、上機嫌の声をかける。
「あ!!御馳走様(ごっつぉさん)、御馳走様(ごっつぉさん)」
(87ページ、ブハラ)
「やあ、めでたい。めでたい。あんたも長生きをされて。おめでとうさん。おめでとうさん」と、そればかり、震える声でくり返していた。老主人は泣いていなかったが、銭高老人の眼から、どんどん涙が流れていた。
(162ページ、トビリシ)
そしてたまに、急に魂が飛んでいったぬけがらのようになってしまう銭高老人。
遅れまいと小走りに歩いていた老人がふっと立ちどまった。
「わし、なんでここにいんならんのやろ」老人のしんからのひとりごと。
(91ページ、サマルカンド)
銭高老人はチャイを飲みながら「わし、なんで、ここにおるんやろ」ひとりごとを言っていた。
(101ページ、ブハラ)
「わし、いつからここにおるんやろ。なんでここにおるんやろ」銭高老人は正気に返ったように呟いている。
(104ページ、ブハラ)
チャイ
老人は残念ながら旅の最終盤、モスクワにて周囲から体力を危ぶまれて残りの旅程を断念、途中帰国をすることになる。
「大阪へ帰ったら、1ヵ月ぐらいは、うとうとねとりますわ。ロッシャの夢でもみとりますわ。中央アジアは暑うおましたなあ。暑うて暑うてなあ」
(264ページ、モスクワ)
モスクワ、クレムリン
竹内さんはひとり感服したあと、「たいしたもんじゃ。たいしたもんじゃ」と銭高老人の抑揚をそっくり真似てつけ加えた。いままで眠たげで、ろくに返事もしていなかった主人が顔を上げて、「わし、よう知っとった。前からよう知っとった」と負けずに言った。
モスクワを発った飛行機の中から、主人は銭高老人になり代わっていた。早く銭高老人になり代わった方が勝だ。
(281ページと283ページ モスクワ上空)
ここは作中でも一番といっていいくらい本当に大好きなシーンで、銭高老人が一足先に帰国したあと、仲間内で老人をいじくっている。それだけみんな銭高老人のことが大好きだったのだ。
この世界において、銭高老人になることは、勝ちなのだ。
2024年ゴールデンウィーク。5年ぶりにウズベキスタン旅行に行ってきたので、旅の模様をデイリーポータルZに綴りました。ウズベク旅行記はこれが3本目。
(↑New!)
おかげさまでどの記事も多くの方にお読みいただき、ときには身に余るような素敵なコメントもいただきました。それを励みにさあまた頑張って続きを書こうぞとも思うわけですが、たいへん残念ながら、家庭の都合で次の渡航機会の目処が、今後10年は立ちそうにない。ひとまず三部作で完結ということになります。出会い、再会、そして恩返し。ほら思いがけず、きれいにまとまったことですし。
最後に未練がましく、本編には蛇足で盛り込めなかったエピソードを一つだけ。ウズベキスタンといえば、このおじさんのことを忘れてはいけない。
神学校との縁をつくってくれた、料理人のおじさん
おじさんはもう数年前に神学校のコックは辞しており、いまは近くにある古いモスクで、相変わらず料理の仕事をやっている。
「羊をめぐる冒険」のあいまにモスクを訪ねた
5年ぶりにあったおじさんは、煩わしそうに左足を引きずってはいたが、それ以外はいたって元気そうな様子だ。いかつい真顔と、そのせいでいっそう魅力的に見える笑顔は、初めて会ったときから変わらない。このときもおじさんは、おうおうよく来たなと全身で喜びを表現していた。気持ちが昂ったのか、おれを置いてけぼりで、なんかいま日本人が俺んとこ来てるわ!と親戚に電話で知らせ回っていた。
今こんなんしかないけどな、まあ食え食えと出してくれる肉の煮込みがじんわりうまい。
おじさんは英語が話せない。これまでは英語が話せる生徒たちを介して意思疎通してきたので、2人きりのときはお互いが言いたいことの10%も伝えられない。スマートフォンの写真を見せながら、簡単な単語のやりとりで補完するのが一番効率のいい通信手段だ。
「え、おじさんこんな小さい子どもいたんか。これ孫じゃなくて?で、明後日から家族でメッカに巡礼にいく?マジかすげえ」
「ほおー、お前も結婚したのか。なんで奥さんつれてこないんだ。妊娠中?そりゃあ楽しみだなあ」
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問題は、ひとしきり手持ちの写真を見せあって近況を報告したら、すぐにネタが切れるということだ。
お互いスマホを片手に会話の糸口が見出せず、すこし気まずい沈黙。かれはいきなり立ち上がり、戸棚から小さなチョコレート菓子をとりだして、微笑みをうかべて「サハール」と言いながら渡してきた。一瞬、あたまの中でなにかがパチッとはじける感触があり、なぜかわからないまま大爆笑してしまった。おじさんもげらげら笑い、おれの肩をたたく。笑いすぎてじわっと涙をにじませながら、なんでこんなに笑えるのか、ぼんやり思い出してきた。
はじめてあった8年前も、おじさんと意思疎通がままならなかったが、数少ないおれの手持ちのロシア語の単語に「サハール(砂糖)」があった(カフェでもらえる小袋の砂糖にサハールと書いてあるので覚えた)。
たぶんあのとき、おじさんがくれた小さな飴玉かなんかを受け取りながら精一杯のコミュニケーションとしておれが「サハール」って言ったんじゃなかったかな。飴玉をみて砂糖という。言いたいことはわかるけど、なんか絶妙に違う。舌足らずな子どもの言葉みたいにおかしくて、あのときおじさんはおれのサハール発言にがははと笑っていたような気がする。
そんな会話は今の今まですっかり忘れていたけど、おじさんはそのときのことを覚えていたんじゃないかと思う。たぶん。
ずっと心にとどめておきたい内輪ネタ。次回はこちらから仕掛けてやりたい
この冬も、また性懲りもなく手袋を落としました。あーあ、ノースフェイスだったのに。
手袋ってやつは、なんであんなに無くしやすいんでしょう。30年ちょっとの人生で財布も携帯も落としたことはないのに、手袋はどうもダメです。これまで2年と持ったことはなく、生き別れの双子ばかりを量産してきました。罪深い男です。
なくしやすいのは自覚しているから、手袋を外すときは細心の注意を払って、いつも左右を留め具でぱちんとまとめてからしまうようにしています。今回、手袋を落としてしまった瞬間にははっきりと心当たりがありました。スーパーで買い物をした帰り道、電力会社からかかってきた電話をとったときだ。間違いない。電話に出るときに慌てて左の手袋だけを外して、そのまま落っことしてしまったのだ。悔しい。悔しい。いまいましい電力会社め。
冷たい左手をポケットに突っ込み、どんより暗い気持ちで家に帰る途中、思い出しました。これまで片割れとして残された歴代の手袋は、衣装ケースの一角に未練がましくとってあるんだった。たしか以前にも同じノースフェイスの手袋を買った(そして1年で落とした)。しかも同系色のやつだったはず。これはもしかすると、もしかするかもしれない。偉いぞ、おれ。数年越しの伏線回収だ。さあ、奇跡の逆転ホームランを見せてくれ。
家に帰って祈るような気持ちで衣装ケースを漁ってみると、これがなんとまあ、めでたくノースフェイスの黒い手袋の右手だけが、2つストックされることになりました。ままなりませんね。おとなしく、次も黒のノースフェイスを買おうと思います。
梅が咲き始めるころに、路傍で所在なさそうにしている片手袋を見つけると「かわいそうに。もう少しで今年の冬も越せたのに」と、痩せて凍え死んだ家畜を見守る遊牧民のような気持ちになります。
デイリーポータルZで記事を書きました。よろしければ読んでやってください。
記事冒頭では「神秘的」と表現したものの、よりストレートに表現すれば、取っ付きにくいアラビア文字。中東某国でレンタカーを借りるとき、外国人用の英語のメニューがあるのにアラビア語の資料を見せられながら雑に説明されたことがあり、ちょっと卑屈な苦手意識があった。実は今回の記事、おれ自身がアラビア文字との和解を図るためのものでもあったのだ。
(記事本文でも触れているように、菩薩のような山岡先生の丁寧なご説明によりアラビア文字への親近感は大いに増した。めでたしめでたし)
本編で盛り込まなかったお話がいくつかあるので、ここで供養させていただきます。
文字のカタチが変わるとて
アラビア文字は、単語のあたま・中ほど・お尻のどこに使われるかによって文字のカタチが変わる。
これによってアラビア文字初学者の心を的確に砕こうとしてくる。覚える文字、めっちゃあるやん…と。
ただよく考えればおなじみのラテン文字系列の言葉とて同じこと。文の初めは大文字で、という謎ルールがあるではないか。
古い兄弟であるギリシャ文字・キリル文字・ラテン文字にあって、実はアラビア文字にないもの。それが大文字・小文字の区別なのであった。アラビア文字サイドからしてみれば、なんの意味があるんだこのダルい区別はと思うことだろう。
右から左へ、左から右へ
祖先のヒエログリフは右からでも左からでも自由に書けるから、アラビア文字が右から書き始めるのはなんら不思議なことではない。取材中のハイライトともいうべきこの学び。本当にポンと膝を打ちたいような気分だった。
とはいえ、現代に生き残るヒエログリフの子孫たちの中で、右から書くのはアラビア文字とヘブライ文字くらいのもの。圧倒的に少数派になったのはなぜだろう。普通、右利きの人間が文字を書くとき、左から書いた方が手が汚れない。こう考えると左から始まるのが多数派であることは容易に説明がつく。石板に彫るという行為が、柔らかなシート状のものに書きつける行為へと変化する過程で、右から派は淘汰されていったのだろう。そう考えればやはり究極的には山岡さんのいう「アラビア文字がきわめて古いスタイルを保っているから」というシンプルな答えになるのかもしれない。(我が母語、日本語もこの間まで右から左という稀有な横書きスタイルを持っていたことはいったん置いておこう)
ちなみにこの話題で飛び出したしょうもない質問は「スーパーマリオみたいなゲームも、アラビア語話者は右から左にスクロールするほうがプレイしやすいんでしょうか?」でした。先生すみません。
神聖四文字とggrks
アラビア文字はほぼ子音のみで記述するというのもまた、初学者の意欲を効率的に粉砕する。
ただこれについてもアラビア文字固有の特徴というわけではなく、ヒエログリフから受け継いでいる遺伝子なのだ。
ヒエログリフのような象形文字は、初めはモノや概念そのものを指していた。見た目通りの機能。しかしだんだんと文字の便利さが理解されるにつれて、いちいち新しい文字を用意するのは大変になるし、外国の文化を表現するときなどにも支障がある。そこで本来は「手」の意味を持つ象形文字を、「T」という音も表現できるように工夫してみたのだ(創作の例です)。こうしてうまれた文字を音で表現するというシステムはたいへん便利で、のちに広く使われるようになっていく(別系統ですが、漢字という表語文字から仮名を作った日本語も同じ発想ですね)。
オリジンであるヒエログリフからして、実は子音中心なのであった。母音も一緒に記述したほうがわかりやすいなという発想は、後付けの発明。ヘブライ語の神の名前が、ヤハウェだかヤーウェだかエホバだか、正確なところがわからないという話をきいたことがある人もいるかもしれない(神聖四文字。YHVHとだけ記録されていてなんと発音するかは正確には不明)。
記事ではこうした特徴を説明するにあたり、天ぷら蕎麦(tmprsb)を例に持ち出してみたのだけど、SNSで「ggrksだな」「kwsk」などのコメントがたくさんあった。しまった。そうだな、そっちの例のほうがわかりやすったな…悔しい!
記事中に参考文献としてつけるのを忘れてしまっていたけど、この本にもだいぶ助けていただいたのでした。ありがとうございました。
中央アジアはお茶の国。とても居心地の良いオープンカフェの記事を書きました。
記事の構成上、盛り込めなかった余話があるのでここにあとがきとして。
緑茶か紅茶か
老若男女がしょっちゅうお茶を飲みながら暮らすこの国で、お茶のスタンダードはホットの緑茶。地域差があって北部はおもに紅茶、中央部から南部にかけては緑茶が好まれるらしいけど、おれが旅行してきた地域は圧倒的に緑茶優勢だった。
あまり緑茶になじみのない国でたまに見られるような、砂糖入りとかでもなく、拍子抜けるくらい普通の緑茶。それがとにかくほっとする。日本で飲むものより、色は黄味がかっていて味もすこしワイルドな感じ。
あとなぜか、やたらと茶柱が立つ。ただしここも日本とは違って、どちらかというと縁起がいいことではないようなことを地元の人に言われた。吉凶は逆でも、湯呑みに茶の茎が立った立たないに注目する共通点はおもしろいなあ。
みんなが同じ湯呑みを持っている
記事中でも頻出するけどこの特徴的な模様の茶器がとてもかわいい。
白い陶器に深い青色で描かれた綿花柄。ふちどりには安っぽくて屈託のない金色。どこの家庭にもこの柄のポットや湯呑みがあり、そのあたりにお茶飲み文化の力強さを感じる。日本でみんなが同じお茶碗で白ごはんたべてるなんてこと、ないもんね。
伝統の綿花柄もいいけど、びたびたにゴージャスなこのあたりの茶器もかわいい。
こんなにかわいいポットが、ひとつ4ドルか5ドルくらい。重たいけど、いいお土産になる。
カテキンで客をもてなす文化
外からやってきた人間に対するもてなしの気持ちがとても篤いこの地の人々。どこにいってもお茶を勧められる。ホテルや人の家ではもちろん、市場でお店で買い物をしていてもすこし話が込み合うとお茶が出てくる。10分以上会話をするときはお茶がないと失礼、というルールでもあるのだろうか。
これは友だちの家で受けたおおごちそうのおもてなし
ガラス職人のおじさんに写真を撮らせてもらっていたら、親方みたいな人がシームレスにお茶を持ってきてくれた
旅行中は本当にあちこちでお茶のもてなしがあるので、毎日カテキンの加護を受けることができる。あなたの上に平安とカテキンあれ、だ。
デイリーポータルZで記事を書きました。
そういえば東海林さだおさんとの出会いは、割とはっきりおぼえていて、ロシア語通訳者 米原万里さんのエッセイの中に出てきたのだった。
「モスクワへ向かう機中で読んでいたのだが 、わたしがあまりにもしばしば座席でのたうち回って笑い転げるものだから 、隣席のロシア人のおっさんの好奇心がどんどん膨張していくらしくて 、少しずつこちらに身を乗り出してくるのがわかる 。」
この一文を読んだおれもやはり、ロシア人のおっさん同様に好奇心がどんどん膨張し、すぐさま『トンカツの丸かじり』を購入した。電子書籍なので購入日も記録されている。2017年1月30日。これがおれと東海林さだおさんとのファーストコンタクト。さだお記念日。なお翌31日にはすぐさま『キャベツの丸かじり』に手を出している。
ここからは坂道を転げ落ちるようにハマってゆき、3年後には40冊の丸かじりが本棚からはみ出し枕元に積み上げられているのだった。しかも最近は丸かじり以外のさだお本にも手を出し始めている。ドラッグ撲滅のポスターではないが、まさに「軽い気持ちで手を出したせいで…」というやつであった。おれは米原万里さんの仕掛けた罠に見事にかかったのだ。
今回の記事に寄せられたありがたいコメントを読んでいると、こうした「東海林さだおにいざなう罠」はいたるところに張り巡らされているのだなと実感した。ある人は小学校の図書室で勧められ、ある人は親の本棚から拝借して。おれのように著名人がファンを公言していたからというのもあるし、有名ブロガーやライターが推薦していたという声もあった。
そしておれもまた、このたびネットの海に新たな罠を一つ仕掛けたということになる。作品を楽しむだけでなく、人に語らないと気が済まないのが東海林さだお作品の魅力。おれが仕掛けたこの罠に誰かがはまって、さらに新しい罠を再生産してもらえればこれほど嬉しいことはない。
突如話はかわって、うなぎである。
何かというと、本編記事の冒頭で引用した「ドックあがりのトンカツ」。1500編の丸かじり作品のなかでマイベストがこのお話なのだけど、つい昨日、奇しくも東海林さだおさんと同じ、16時間絶食明けの昼下がりを経験する事態にいたった。
あと1時間でメシが食えるぞ、そういうタイミングで頭の中にぐるぐる食べ物が駆け巡り、運命的にぴたりと止まったメニュー。おれの場合、それがうなぎであった。
食事の30分前。うなぎと決めた以上、もう一つの悩みどころは等級である。グレードである。松竹梅である。低血糖の頭でうなぎ屋についてから考えるのでは、気が急いて適正な判断ができない。あらかじめ決断しておいて、席につくなり注文するのがスマートだと考えた。
久しぶりのうなぎだからな。松か竹か。胃の方面からは、最近は小食気味だし竹くらいでどうかと伺いを立ててくるが、脳みそは16時間の絶食をタテにして最上位の注文を猛プッシュしてくる。
目当ての店に歩きながら考える。OK、ではこうしよう。等級ありきではなく、予算制だ。松が3000円を超えるようなら竹でいく。シンプルにして明快、最適な決定方法だ。鼻息荒く店の引き戸をがらがらと開ける。
果たして、店のメニューはこのようなものであった。
2850円…!「菊」に決定の瞬間だった。予算スレスレ、しかも特上の一言がわざわざ添えられている。「梅」との価格差750円にぐっと期待がかかる。一般的な松竹梅とは違い、菊が最上位というのは予想外だった。
しかし注文は決まったのに、おじいさんの店主はなかなかやってこない。ワンオペなのだ。お年寄りのワンオペに無理をいってはいけない。おじいさんは焼き場で先客のうなぎにかかり切りだ。その背中をみて、焦りが募る。胸にそわそわが去来する。もやもやが去来する。もうやめてくれ。胸中は黒い磁気テープを滅茶苦茶に引っ張り出したみたいに、ぐじゃぐじゃになる。
ふと、ぐじゃぐじゃの奥のほうから、何か穏やかに訴えかけるような声が聞こえたような気がした。ゆったりとした足取りで漸くやってきたおじいさんに告げる。「うなぎの梅と…あとビールをください」。
おじいさんはこちらをちらりとみて言う。
「大と小があるけど」
「大でお願いします」
予算3000円で最高のランチが決まった瞬間であった。あのぐじゃぐじゃの向こう側から「ビールはいいのかい?」という天啓を送ってくれたのは東海林さだおさんだっただろうか。
ステイホーム。酒場が空いていないのなら、うまいビールは家に持って帰って飲みましょう。そういう記事を書きました。