誰も呼んでくれない夜 (original) (raw)

見始めてからリトルモアだと知る。

リトルモアの映画は『舟を編む』から毎度リトルモアと知らずに見て、上映始まってから気づく。それはリトルモアの戦略か、単に自分が情弱なのか。

また綾瀬はるかが連れて行く子が『こちらあみ子』と同じと最後までわからなかった。なんなら少年だと思っていたから、女の子と知り、さらに驚いた。

本当に何も知らないで見たわけで、予告編から想像した以上に生きてるか死んでるかわからない、幽霊か妖怪みたいな存在ばかり出てくる。上映中ずっとオフビートなイビキをかいてるお客さんがいて、それが意外と伴奏として機能しているのも驚いた。また『こちらあみ子』に比べると長回しのワンカットに留めず、カットにもリズムが貫かれていて、意図的に集中とユーモアと眠気を維持させる。その意味で前作より狙いはクリアな映画に見える。端正さを目指しているようで悪くない(アピチャッポンみたいにやりたいのかと済ませられるかもしれないが)。

ただ「リトルモア」らしく、また『こちらあみ子』の作家らしく、病人と孤児のような存在がさまよって、それが他人のようにも、この世に生きにくさを覚えている観客と重ね合わせられるようにも見える。ついでに喫茶店や旅路は『Helpless』『カナリア』を連想させる。しかしそうした映画以上に具体的な時代の変化を位置づける事件はない。ここに「子供たちの未来は地獄」と言っても、たとえば令和やコロナを連想させるものは見当たらなかった(あればいいというわけでもないが)。むしろ「病人」か「孤児」、はたまた幽霊や妖怪、動物と会話する何かへの作家自身の関心がどこから来るのか。それがただただ「映画」だった頃(清順、田中陽造?そこに戦争・戦後の「現実」に対する死への誘惑に近い強烈な拒絶はあるだろうか)より先の、たぶん相米あたりから続く、映画が現在に対して何かできる要素になるんじゃないかという感覚があるのは漠然とわかる。ただこの映画に「あの世」や幽霊というものは描けない(もう井川耕一郎もいない)という当たり前の事態が起きてて、もうあらゆる出来事が現在と切り離せない。別に「あの世」よりも現在(に取り残された存在)に関心があるのだろうが、結果「誰もが病人であり孤児」という既に出来上がった図式に当てはめているように見える。自分自身「生きてる」という感じを覚えられない働き方をしているが、その疎外感に対する、わかりやすい答えに見える。

誰が警察に通報したのかわからないことで二人が何を逃れ、どこへ向かうつもりか、抽象的で曖昧になっている気がする。特に落とし所が謎というか、あの切り返しは、何となくオチをつけれただけじゃないか(まだ国道29号線と41号線の境が強調されるのがわからないが、その理由を求めるのは観客の怠惰か)。

東京国際映画祭にてゴダールの『Scénarios』。
DNAとMRIの二部構成。
映画作家MRIというと『監督ばんざい!!』を思い出す。
北野武の新作も同じ話を二回繰り返すらしいが、ゴダールのシナリオも二回繰り返す。
しかしゴダールの過去作で、二度同じような冒頭を繰り返して見せたことはあったか。ストローブの単独作『コルネイユ=ブレヒト』『ロボットに対抗するフランス』、または松村浩行『YESMAN NOMAN MORE YESMAN』、それと大島渚『帰ってきたヨッパライ』か?
二回やられると、差異を確認するために集中力を上げるか、ただ差異を認識できるまで意識が遠のくか。過去に見た映画を見直す時の、新しく見ているのか、ただ知っているものを流し見している怠惰に陥るか。試されている気がする。
そもそも『カルメン』など異なるテイクを繰り返し繋げた編集はあるから、いつものことかもしれない。それに『奇妙な戦争』に続く無音状態の始まりに対して、音が重なって、もしかすると絵解きになるんじゃないかと期待する。
MRIの通過を安易に連想しながら移動撮影を観ていたら、途中から過去作や過去の映画たちの演じてきた死のイメージが次々と蘇る。セラの『孤独の午後』で生と死のせめぎ合いを見てから、ゴダールで過去の記憶と、ほぼ誰も映画で経験したことのない「死」が浮かび上がる。誰かの頭をレンズの向こうから覗き見れば「死」への連想ばかりかもしれない。
それはともかく「あるものはある、ないものはない、いや、あるものはない、ないものはある」みたいな言い間違いか、真偽があるのか、言葉の哲学かわからないが、そんな稽古みたいなくだりを経て、「ノン」の作家が最後に「ウィ」ではなく呆気なくオッケー?というのは、感動的なような、最後まで煙に巻かれたような。
併映『Exposé du film annonce du film “Scénario”』はむしろ『奇妙な戦争』に通じる印象。『映画史』のラス・メイヤーにリカルド・フレーダまで同じページのグラインドハウスというか中原昌也アルバムジャケみたいだが。『1PM』にしてもゴダールの企画を聞いてるだけで嬉しい。

アルベール・セラ『孤独の午後』。

ファーストカットが牛。

次のカットも牛。

三カット目が車内の闘牛士を正面、やや仰ぎ見る(車内のアングルはほぼここからのみ、 一回だけ車窓のカットあり)。周りのメンバーたちも後景に映る。以前にお世話になった方と似ているからかわからないが、この人の顔や、口の動きを見ただけで興奮する。物凄く面白い。

四カット目からか、ホテルで血まみれの衣装を脱ぐ。ぴっちりした衣装だから(後でわかるが大きい陰部の位置も調整する)、どうにも時間がかかるけれど、これがまたどうしようもなく映画の時間が鏡の前で、風呂場で作られて、流れている。股の間から覗き見える聖母マリアの肖像がまた面白い。

眠気が襲うかと思いきや、むしろ躁状態で寝付けない夜を思い出すくらい興奮した。

完全にセラ流の劇映画と思って見ていたが、ドキュメンタリーらしい。でも月並みなたとえで『極北のナヌーク」のアザラシ猟を出すまでもなく、ただただ何かが起こって記録されて いる。

おそらくほぼ大半の劇映画で闘牛とロデオはスタントと入れ替わる(ロデオなら牛に跨ぐ、ゲートをくぐる)瞬間にフィクションや演じることの境界に触れるが(股の隙間から牛ではなく聖母が覗く構図は関係しているのか)、たとえばトム・クルーズが自らスタントをやることでスターとしての延命を試み続けるなら、この闘牛士はどのように見ても映画の顔である。しかし光に反射される存在として以上に、牛の血にまみれること、または自らの内に流れる血をたぎらせることで「スター」になる。その身振りの過剰さにはブルース・リーが宿るといえばいいのか。または千葉真一か、増村保造か。そこに迫る内面はない。妻の名前と顔も出るが、ドラマにはならない。ほぼ女性のいない世界。牛とのドラマもない。内面に迫らず、ただ闘いが「スター」をつくる。死を前にした牛たちとダンスをする。牛の眼は光を放って見える。死んで仰向けになる姿は、映画で演じられてきた死 の数々と共に、それが現実の死でありながら一種の切られ役としての型を見せる(「凡庸」なはずだった、まだらの牛のありえないほどの活躍)。それでも最初に牛に突進された時は、こちらの眼が悪いのかわからないが、これは瞬間的にCGではないがコマを飛ばされたような、ありえない出来事に立ち会って視界の狂う感覚が襲う。これに近い感覚は、もしかしたら『黒衣の刺客』かもしれないが、それはともかく、これほど主人公の周りで誰もが必死の掛け声をして煽る映画はない(その意味でセラらしい録音の技術が発揮されている)。「歴史と並ぶ」ために称える声の数々が、アルベール・セラの映画の倒錯した魅力にも繋がる。「世界最強の映画作家」というフレーズを黒沢清の文章か忘れたが、そういう存在がいるとして、もうゴダールもいない、ホウ・シャオションも撮らない、イーストウッドも引退作なら、ひょっとして高みを目指すのはセラだけになるんだろうか。セラにとっての比較対象がいるのか、そんな野心があるかはともかく、この倒錯に奮い立つような迫力がある。

車内の席に主役不在のまま、各々メンバーたちが話すシーンで行き交う言葉たちは、称える相手がいない中で、それゆえの真実が聞けるかどうかもわからない。ただその空洞でも芝居は終わることなく続くかのような、この時間も愛おしい。逆説的に主人公の有り様がより浮き出てくる。そこに彼の実像が中心で結ばれずに、周囲の人々の(匿名的でもないが印象にも残らない)言葉や身振りが乱反射する。彼そのものが無くても、スターや、偉人たちを据え置く歴史≒舞台≒生は動き続けようとする(それはたえず死へ向かう芸術を体現する牛と切り離せない)。ただ玉座と呼ぶほどでもないリムジンの座席が、既に残骸だけかもしれない制度のおかしみにも見える。同時に『殺しの烙印』の宍戸錠ではないがナンバー・ワンへの倒錯した興奮には惹かれ続ける。

闘いを終えた彼の背後で、車窓から陽が暮れていき、また日が沈んだら、さらに暗くなる。この一時の経過が実感に訴えてくる。愉しみのうちに日が沈み、時間を奪う早さ。もはや映画の時間も苦痛ではない。またスポーツ観戦と同じかはわからない(自分には観戦経験がない)。ただ、これは真に「白熱」と呼ぶに相応しい時間かもしれない。

アルトゥーロ・リプステイン『聖なる儀式』。勝手にキワモノを予想していたが(サービスカットもあるが)意外と地味。
『深紅の愛』は『ハネムーン・キラーズ』という凄いカットが続く不世出の名作がある分、単純に長すぎる、かつ出頭前の母子殺害はさすがにむごい(『ハネムーン~』の出会って次のカットだと文字通り愛し合っている、理屈を越えた二人の異様さと感動が忘れがたいけれど、『深紅の愛』の精神の異常さは理解可能な領域に収まっている)。
そうした長さ・むごさ・地味さが『聖なる儀式』では最後の字幕にて触れられた、事実よりも訴える迫力、のようなものになる。「伝染病の原因はユダヤ人の儀式のせいだ!」というカトリックの司教たちの精神は「朝鮮人が井戸に毒を!」といったデマを広めた官憲と本質的に変わりないだろう。拷問器具もバーホーベンのように凝っていないが、単純に回すごとに腕を締めつける仕掛けは、質問と指示を繰り返す司教、無言で実行する白頭巾の拷問係、そして痛めつけられる者の叫びという簡潔さで発動しておぞましい。このような拷問と審判を下す側に天国などないだろう。ドライヤーほど視覚的でもなくブレッソンのようにオフにされることもない、フルサイズのシンプルな火刑の光景に対して、ほぼ同サイズで審問官たち三者と切り返す。生きたまま火あぶりにされ叫ぶ者、すでに合理的に思えるほど簡潔な仕掛けで絞殺された者、それ以前に亡くなって代わりに並べられた滑稽な人形、それらが等しく焼け焦げてドクロをむき出す、あくまで引いたサイズのままのショットに切り返されていく。このように審問官たちが燃やされることはないだろうが、同サイズで切り返される三者のカットは、せめて彼らこそ地獄で燃やされる姿を想像したいと思わせる。一方で伝染病と現状への鬱屈に対しユダヤ教徒への呪いをこめて野次を飛ばすメキシコの群集の顔も忘れがたいが、何より絶望というほかない顔で刑を待ち、晒されているユダヤ教徒たちが本当に痛ましい(ここにホロコーストの存在を意識しないわけにいかない)。しかしここで膨らむ憎悪は現在パレスチナでのイスラエルによる虐殺という、カトリックの司教たちと異なる側への切り返されているのだろう。どうしたいんだと見ていてもどかしくなる主人公の変遷を追うことで、その内面に寄り添うわけでもない。最後には既に首を絞められ息絶えているというのが、冷ややかな距離感を維持する。

ギヨーム・カイヨー×ベン・ラッセル『ダイレクト・アクション』。ZADについてのドキュメンタリー。ZADといえば『西風』か(偽ゴダールによる気の利いたアジ映画)。
四時間。ヘトヘト系かと身構えたが、ぼんやり眺めることで全然疲れることなく見終えた。ジェームズ・ベニングほども疲れない。ラストのわかりやすさといい、これはこれでアジ映画か。シュリンゲンズィーフが「8時間労働するくらいならウォーホルの『エンパイア』見ようぜ!」とアジっていたのを思い出した。
最初はデスクトップ上で警官隊と対峙した時の映像を見る。今思えば、一番白熱しそうなフェイス・トゥ・フェイスのパートを過去として距離を置いて眺めているわけで、考えられている。これから闘争の舞台へフラッシュバックするかと思いきや、『三里塚』シリーズでも見覚えのある鉄塔を見上げるカットが延々と続く。その青空にハッとさせられる。続いて、最も冗舌な、取り調べの手口を読むカット。ここに凝縮されているとも言える。同時に話者の女性が横たわった恋人に語りかけるようだが、相手は子豚さんだった。
電ノコのワイヤー、ドローンが避ける電線と、領域を意識させる線が見える。または音が耳障りな粘土はじめ、泥と壁が見える。どのカットも、始まりにキレはあって、ハッとさせる繋ぎになって、それでいてボンヤリと続くも、苦痛より心地よい(粘土つくりの音は苦手だが)。ある面では物足りないが、これはこれでアジだから間違ってないか。その中で動物たちが目立ってきたり、人物に対して動物を優しく見るような愛着も湧いてくる。
インターミッションが雨降る光景で、トイレ行って帰ると心なしか雨の勢いが増して見える。映画を見てる間に外でにわか雨が降ってたのか晴天になってるというパターンはあるが、映画を中座してる間に雨が強くなってるというのも、なかなか面白い気がする。
ただ近年では真逆の『理大囲城』のほうが印象深くはある。

東京国際映画祭にてエリーズ・ジラール『不思議の国のシドニ』。面白かった。普通に年内公開決まっていたので無理に見る必要なかったかもしれないが、イザベル・ユペールを拝めてよかった。フォトセッション長すぎて背を向けてスタスタ帰っていったのもカッコよかった。それでも会場から帰り際のファンからのサインのお願いには快く答えていたそうで、好感度あがる。
吉武美知子プロデューサーの企画としては『ONODA』(アルチュール・アラリ)が小野田を主役に選んだこと自体の危うさが興味深くもあったが、おそらく最後の企画になった『不思議の国~』は(ある意味予想通り)微妙に「国辱」の趣きがあって、そう考えると監督の上映後の「日本での素晴らしい経験をもとにした」という言い回しも、なかなか性格悪いが、そこをユペールの不思議ちゃんな振舞いが相殺している。ユペールが通訳の方(ご本人登壇にも驚いた)の顔を間違えるシーンが、日本人から見るとかなり失礼だが、自分らだって他所の国に行ったらやりかねないかもわからない。ある場面で旅館で慌てて「部屋を替えてほしい」とユペールがお願いする場面での掛け合いも双方おかしくて笑った。何より初対面の伊原剛志の日本人男性らしい(?)振舞いを、最後にああしてお返しするのは、大変に粋な演出だと思った。「福島」のエピソードはどう受け止めるべきか悩む。
桜・桜・桜とスクリーンプロセスがおかしいが(伊原剛志の風貌も黒沢清を思い出すが、このパートは清を通り越して篠崎誠『女王陛下の草刈正雄』みたいな)、それでも終盤の夢にまで至ると、月並みな連想だが鈴木清順へのオマージュとして成立している。幽霊映画としても役名からして溝口(健三≒堀越謙三?)は意識させつつ、正面向いて唐突な幽霊の登場も清順のやり方だろう。ただ幽霊の出番は監督自身が『幽霊と未亡人』を参照したというが、マンキーウィッツかどうかはともかく基本的にユーモラスで切なく(彼の死に交通事故が頻出するのは成瀬か?)、幽霊が車中にお邪魔したことでユペール・伊原の距離を文字通り縮めるのもいい。車中での手指の絡ませ合いはエリア・スレイマンの『D.I.』を思い出すが、それは世界の現状と奇遇にも重なったのだろうか。ユペール来日映画として『鱒』は見直したくなった。また最初の夫の顔写真がクリストファー・ウォーケンに見えて、これってユペール繋がりで『天国の門』なのかもしれないが、まあ、このくらいで。

東京国際映画祭にて『英国人の手紙』(セルジオ・グラシアーノ)。上映後の舞台挨拶では、やはりパウロ・ブランコが拝めてよかった。恥ずかしながら原作のカルヴァーリョのことは全く知らず、脚本のジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザも検索して邦訳が出ているのを知ったくらいだが(アグアルーザは読まなくては)。
いかにもパウロ・ブランコ製作の(赤坂太輔さん言うところの)「上演の映画」らしい見事な長回しでの対話が見どころだろうけど、編集がタヴィアーニ兄弟と組んでいるロベルト・ペルピニャーニだからか、過去を挟みながらルーツをめぐりさまよう荒野の旅には、ポルトガル映画という枠を越えた、特異な時間の流れを感じる。
祈祷師の女性と交わるシーンあたりから、褐色の肌と混ざり合おうとするような、弛緩した逃亡の日々の時間が過ぎていく。そこでの日中の闇に対して、終盤の夜の焚火へ至る色と光の力関係に惹かれる。日が暮れて、黒人男性の朗読の合間に吐く煙草の煙の白さが美しい。再び彼が跛を引いて歩くまでを捉えたワンカットも充実している。「馬鹿なポルトガル人がいなくなってよかった」という言葉に『秋刀魚の味』の笠智衆加藤大介の会話をどうしても思い出すし、そこに「だがアンゴラの人々は共産主義者だろうが誰だろうが一人残らず去るべきではなかった」と返される。日記の物々交換や、夜の焚火(日記における「愛」の調子が変化するタイミングでの暗さは忘れがたい)になると、その地がアンゴラではなくモニュメント・バレーと変わりなくも見えてくる(やはりジョン・フォードのこともよぎる)。あえて、ここにあるのは植民地における振舞いであって、やはり故郷など存在しないといえるかもしれない。それでもポルトガルではなくアンゴラの地の人間になること。パレスチナイスラエルにおける問題をポルトガル映画作家たちはどう思うのか、『永遠の語らい』の終盤含めて興味はある。
大変面白かったが、フィルモグラフィを見ると同一人物か疑わしいもので、とても不安になる……。

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続けて『死体を埋めろ』(マルコ・ドゥトラ)。以前に見た『空の沈黙』は嫌なものを見る予感はあっても、どこか慎重に演出されている気もしたが、今回は初っ端から自動車に突っ込んだ馬の死体の解体といい、悪趣味路線に振り切っている。最終的にはアリ・アスターや『ポゼッション』のようにうんざりしたのだが、それでも最初から延々わけがわからないなりに持ちこたえていたように見える。子供の歯を抜く瞬間にカットしたり、生理的嫌悪感ギリギリのラインで「見せない」演出はある(これが演出力か?) むかしビデオで見たレナード・ポルセリ『イザベルの呪い』とか(正直詳しくない)、あのあたりの間の抜けたおぞましさに近い魅力はあるかもしれないが、それを新作として見る興味が持てない。『タイタニック』とかカーペンター・サウンドの使い方とか、これこそ秘宝系な気がしなくもない。そういう方がウケるのかもしれないが。

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『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(アレックス・ガーランド)。なかなか面白かった。戦争映画・従軍記者の映画というよりロメロの衣鉢を継ぐようなアクション映画に近い……とか思ったが、既に千浦さんがTwitterに書いていた。
銃撃戦の合間に写真を挟む編集がカラー(デジタル)・モノクロ(フィルム)という使い分けなど正直うまく機能しているかわからないけれど、ひょっとしたらペキンパーか、そうした複数の視点が絡む劇になるかもしれなかったのに、終盤の肝心なスローモーションはかなり微妙だった……。あと最初のパシャ!切り返しも小っ恥ずかしかった。『東京公園』かとツッコミたい(『寝ても覚めても』にもあったような)。
また従軍カメラマン同士での師弟関係、撮る倫理、shootのダブルミーニングみたいなテーマ、どれも凡庸というか型通りの展開に見えて、そのあたりがロメロだけでなくアルドリッチやカーペンターと比べても「思想弱め」に見えてしまう。ラスト手前の写真は動かないほうがいいし、彼女に切り返したせいで大分インパクトも薄れた気がする。このあたり『ことの次第』の正体不明のどこからか狙撃されるのに対してカメラを向けるラストのような衝撃はない。
銃を携帯せずにカメラを手に同行する撃ち合い自体は面白いし、これで軍人の誰かが常にガイドする役になると『地獄の黙示録』になるかもしれないが、あえてジェシー・プレモンズ以外はほぼ記憶に残らなくしているんだろうが。とにかく終盤の大統領◯すのは、トランプ時代だろうが、日本なら『風流夢譚』映画化くらいまでいけばやる意味あるか。
関係ないがジョー・ダンテの『セカンドインパクト』の話もツイッターを見ると触れられていて(サムフリークスでは見逃した…再上映希望!)、これは戦争が起きそうになる背景がメインのようだし、『ピラニア』もベトナムに放流する予定の生体兵器がアメリカ全土に広まるところで終わり、『スモール・ソルジャース』も(これこそアルドリッチの影響は明らかだが)人工知能つきの軍事兵器がアメリカ全土で暴れる前に一軒家でのバトルで防ぐともいえるし(ラストの感動的な別れはピラニア達を本来いるべき故郷へ帰すようだ)、『マチネー!』は核戦争がキーになり、『ゾンビの帰郷』はアメリカ全土がイラク戦争の死者たちをめぐってロメロの映画での終末になるまでを語る。こうした終末の前触れ≒週末を語る作家という点が、そうなってしまった後を語る時に本領発揮するロメロとの差異かもしれないし、『地獄の黙示録』と『ピラニア』の時期が近いのはコーマンの教えをあえて破るコッポラと、やはり忠実に限られた空間へテーマを詰め込むダンテの分かれ道か。ただそうした話は自分らの世代は本当は疎く、既にある評価の影響から抜け出せている気がしない。

アンソニー・チェン『国境ナイトクルージング』。
この男女三人の話は「いずれ三宅唱監督が撮りそうな設定か」と思っていると、足の傷が露わになる時の性愛描写など全くの別物になる。日本でも「ロマンポルノ」(あの流れない涙を流すために額から浸す氷が睡眠薬の代わりと思うと、むしろ武田一成の『闇に抱かれて』など思い出した)、「ピンク映画」という枠で許されていたことに近く見えて(とはいえOrgasmの方々みたく有象無象のロマンポルノは見ていないし、そんなセックス描写が繰り返されるわけでもないのだが)「今夜はやめるかと思ったら、やはりやる」という流れが不思議とよかった。終盤のシーンで胸部が見えないのは単にレーティングかもしれないが、かえって非常にエロティックな「見せない」演出として印象深い。書店での万引きが失敗して辞書代を払うくだりなど『きみの鳥は歌える』からわざとズラしてるんじゃないかという気にもなるが、はたしてどこでどう話が交わるのか気になる指名手配中の窃盗犯エピソード含めて、それが終盤に活かされるのもよかった。検索したら二人はちょうど三か月違いの同い年だった。
変な邦題だが、英題の『THE BREAKING ICE』にもある「氷」のテーマと、中国と北朝鮮(というより「朝鮮」と見るべきか)との境界線という舞台は切り離せないのも確かか。中国・韓国・日本の行き来をするチャン・リュルもよぎった(この作家も『春の夢』など男女三人を絡ませる)。アンソニー・チェンはシンガポールの監督だが、そのことが延吉というハングルの混在した国籍の曖昧な空間を意識させるのかもしれない。どこからきて、どこへ向かい、どこで終わらせるのか、そのあたりも観客が知りうるのはこれくらいという不思議な塩梅を貫く。たとえば精神を病んだ彼が死に場所を探すようにふらふらと来て、それまでに何があったのか。そして彼がどこへ行くのか。最低限は語れているとも言えるし、あえてルーツなど語っていないようにも見える。そして腕時計。中途半端ともなりかねないようだが、この試行錯誤は最近の邦画たちとはおそらく『胴鳴り』が近く、そのあたりも一種の「ピンク映画」らしさに近いかもしれない。
最後はまさかの『コカイン・ベア』かと思ったが、ンなことはなかった。

田坂具隆特集にて『雪割草』(51年)。
後半になり三條美紀が夫の宇佐美淳也を迎える場面になって、その手で触れる一つ一つの仕草のアップからサイレント期の画づくりが移植されたようになる。それでも音声面が後退するわけでもなく、少年は玩具の電話を手に「もしもし、お母さんですか」をただただ延々と繰り返す。ロッキングチェアに座り込んだ三條美紀の狂気を感じる佇まいに対して、宇佐美が空襲に遭った日、そこでの水戸光子との一夜を語る。戦争を挟んで蘇る陰影の強い画面。「わたしは生きている」という言葉も字幕にして浮かび上がりそうな力を持つが、その過去では生きているはずの三條美紀こそ死霊のように迫ってきて、彼女の幻影が行きずりの女の肉体と入れ替わり、一夜のあやまちというには、ただただ生き延びたことの証明としか言えない時を過ごす。(その行為はオフにされる。一方で三條美紀と血の繋がらない子供が風呂に入る場面では、おそらく乳房に触れたらしき瞬間が音声のみ聞こえてきて、性的な行為に近い興味を呼び起こす)。夜が明けて、水たまりにパシャッと足の突っ込む音と、視界を覆う水滴によって現在に引き戻される。
それにしても冒頭の少年がタイトルの続く間にただただ歩く道の長さに反して、本当は見送っている母親の水戸光子との距離は物語上の辻褄が合わないくらい離れてしまうのだが、それでも彼女の「お母さんはいつでも見守っている」という言葉によって、逆に彼女が生きていても二度と会うことのない、少年にとって死者に近く、また母にとって死に近い別れの経験なのだとも受け取れる。空襲で生き延びた肉体が、息子との別れで死者に転じる倒錯。
三條美紀は生まれない子供のために作られた部屋で、オーバーラップで入ってくる夫婦の過去とも亡霊ともつかないイメージを見送る。冒頭から死んだ夫でも見守るような写真の扱い。そして鏡の前で楽し気な鼻歌が本人の顔と遊離して、別の声のように響いてくる。鏡の中の彼女、母子の別れの窓、フラッシュバックの終わり際のレンズにかかる水滴、そうした視界を覆うモヤが「あの世」を見るように感覚を狂わせる。