桂林&南寧&・・・発 なんのこっちゃ (original) (raw)

石破茂さんが念願かなって、第102代の内閣総理大臣になった。日頃、彼の主張に共感していた人は少なくはないだろう。ところが、首相になった途端、彼はこれまでの主張を封印したり、ぼかしたり、あるいは真逆の行動を取ったりする。「なんだ、所詮は言行不一致の人物だったのか」と、がっかりした人もこれまた少なくはないだろう。

言行不一致の極め付きは、衆議院の早期解散を主張する意見に対してはかねがね、解散は予算委員会を開いて野党の意見を十分に聞き、国民の皆様に判断材料を提供してから、と主張していたのに、首相になるや否や、予算委開催に全く触れることなく、あっという間に解散してしまったことである。首相就任から8日後の解散は戦後最短である。ボロが出ないうちの選挙が狙いとは、衆目の一致するところだ。

石破さんに向かって何かと文句を言いたくなる。そこで、彼に「贈る言葉」をいろいろ探してみた。まず頭に浮かんだのは、まことに平凡ながら、中国の古い言葉「綸言(りんげん)汗のごとし」である。「綸言」は「君主・皇帝の言葉」のことで、一度、体内から出た汗は再び体内に戻らないのと同じように、君主・皇帝が一度、発した言葉は、撤回したり、訂正したりはできないという意味である。

石破さんは君主や皇帝ではないけれど、今や日本国の最高権力者である。彼の言葉は重いはずだ。彼のこれまでの主張は最高権力者になる前に、つまり自民党の総裁選などで語ったものだから、撤回や訂正は自由だということにはならない。そこで、「綸言汗のごとし」をまず石破さんに贈りたい。

もっとも彼は「汗のごとし」という表現を誤解しているかもしれない。つまり、汗はいくら出ても、タオルで拭けば消えてしまう。シャワーを浴びれば、跡形もなくなってしまう。だから、綸言も撤回、訂正が自由だと思っているのではないだろうか。まさか???

それにしても「綸言汗のごとし」とはいささか重々し過ぎる言葉だ。本場の中国では今もこんな言葉を使っているのだろうか? 中国人の知人に尋ねてみたら、(日本の漢字で書けば)「君子無戯言」と言っているとのこと。君子、つまり徳が高く品位のある人は、たわごとに無縁である、といった意味だろう。

うむ、これなら、日本語にも似た言葉がある。「武士に二言はない」「男に二言はない」。分かりやすい。この言葉も石破さんにお贈りしよう。余談ながら、ネットを繰っていたら、最近は「女に二言はない」という言葉もあるそうだ。もし高市早苗さんが首相になっていたら、この言葉を贈っていただろうか。いやいや、彼女は「内閣総理大臣 高市早苗」として靖国神社に参拝する、とオソロシイことを言っていた。とてもこの言葉は贈れない。

ところで、石破さんは国会での所信表明演説で「ルールを守る」「日本を守る」「国民を守る」「地方を守る」「若者・女性の機会を守る」の五つの「守る」を掲げた。これについて、朝日新聞政治記者がどこかに書いていた――一つ欠けているものがある。「言ったことを守る」。まずはそこから始めないと、とても国民の納得と共感は得られないだろう。――この言葉も石破さんにお贈りしよう。

もう一つ、思い出した。わらべ歌の「指切りげんまん、噓ついたら、針千本飲ます、指切った」という奴だ。最近では、やらないかもしれないが、僕の子どもの頃にはよくやった。何か約束をする時に小指を絡ませて歌うのである。ちなみに「げんまん」は漢字で書いたら「拳万」で、約束を破ったら、拳(こぶし)つまり、げんこつで1万回ぶつという意味だとか。では、石破さんには「拳万」と「針千本」も贈ろう。

もっとも、石破さんにもいいところがないわけではない。例えば、彼は当初、いわゆる「裏金議員」を次期衆院選で非公認とすることには、後ろ向きだった。だが、世論の強い反発があると見るや突然、一部非公認に踏み切った。さらに、最初は非公認6人の予定だったのを急遽12人に増やしたりした。後日、さらに非公認を3人、増やしている。

ただし、これは全体の裏金議員のごく一部だし、衆院選を有利に進めようという党利党略から出てきたものなので、あまり褒められた話ではない。だけど、裏金議員をすべて公認するよりも、少しはましである。ついては、げんこつ1万回を9千回、針千本を9百本にそれぞれ減らして、石破さんに贈ることにしたい。

某日。我が家のある川越市の図書館で雑誌を読んでいたら、ついさっきATMを使ってきた銀行の行員を名乗る男性から電話があった。「財布を落としていませんか? 財布の中に電話番号を書いた紙がありましたので……」。慌てていつも財布を入れているリュックのポケットを探ったら、確かに財布がない。

ただ、財布と言っても、上の写真の上部にあるような代物で、100円ショップで買った。普通は財布とは呼ばないだろう。以前に使っていたそれなりの財布が、破れて使えなくなった折、たまたま100円ショップで見つけ、「年金生活者にはこれで十分」と買ってきた。ちなみに写真の下部にあるのは、やはり100円ショップで買った小銭入れで、こいつにはこのブログの後半で登場してもらう。

で、先ほどの銀行に戻り、電話してくれた行員を訪ねると、「ATMのすぐそばに落ちていました。お客様からの届けです」とのこと。ATMからの去り際に財布を落としたのに気づかなかったのだ。

そして、また某日。東京・神田の歯医者に行った帰り、地下鉄で浅草に出た。いつも何十人かの行列ができている評判のどら焼きを買うためだ。やっと順番が来て、リュックから財布を出そうとしたら、ない!! この時はすぐ思い出した。歯科医院で診察代を払うために出した財布を、玄関の靴箱の上に置いたままにしていた。歯科医院に電話したら、思った場所に財布はまだあり、事なきを得た。

以上ふたつのチョンボは今年になってからのこと。みっともない。もう、やらないぞ、と決心していたが、またやってしまった。

9月初め、3泊4日で僕の生まれ故郷でもある大阪に行った。高校の同期会に出るのと、弟や従兄弟たちに会うためだった。ホテルでチェックインの際、カードで宿代を前払いし、そのまま出かけていたら、ホテルから電話が掛かってきた。カードなどを入れた財布をフロントに置いたままにしていると言う。慌てて戻ったら、ホテルマンは「勝手に財布を開けさせていただきました」とのこと。中には僕の名刺が何枚か入っている。それで救われたのだが、似たチョンボを1年足らずの間になんと3回もやってしまった。

冒頭の写真の下部は僕の小銭入れだが、こいつも今年になって3回、置き忘れている。うち2回は自宅近くのスーパーでのことで、気づいて戻ると、ちゃんと受付に保管してあった。あと1回は、東京・池袋の行きつけのビヤホールでのこと。店を出て駅に向かって歩いていたら、店員が「忘れ物でーす」と叫びながら、追いかけてきてくれた。

1年足らずの間に財布と小銭入れを各3回も置き忘れるとは、僕もどこかがおかしいのではないか? 少し不安な気持ちになり、ネットで「置き忘れ」を検索してみた。すると、物をなくしやすいのは、ADHD(英語の綴りは省略するが、日本語では「注意欠如・多動性障害」)のひとつだと書いてある。

へぇ、そうなのか。もっとも、ADHDのほかの特徴は①じっとしていられない、②待つことが苦手、③衝動的な感情や行動を抑えられない、ともある。僕は①②③のどれにも当てはまらない、とは思うのだけど、まあ、ADHDの一部であってもいい。それにしても、6回も大小の失敗をしているのに、一度も実害を被らなかった。神様、仏様の「ご加護」があったのかもしれない。

ここまで書いていたら、大阪にいる高校時代の友人から手紙が届いた。なんでも、家でゴロゴロしていたら、ブザーが鳴る。ベランダからのぞくと、ガス会社の営業員らしき青年が「玄関に鍵が刺さったままになってますよ」と叫んでいる。友人はいつそんなチョンボをしたのか、まったく思い出せなかった。そう言えば、僕も最近、夜に外出して戻ってきた折、玄関の鍵を掛け忘れていて、家人に叱られたことがある。

神仏のご加護だなんて、のんきなことは言っておれない。これからは、対策を取りながら、生きていこう。例えば、財布に入れるおカネは必要最小限にし、銀行のカードは一緒に入れない。鍵は掛けたか、ガスの火は消したか、などの「指差し確認」も徹底しよう。遅ればせながら、そんなことを考えている。

前々回のこのブログで「昔、東京五輪のおかげで就職できた僕」という話を書いた。内容は――初の東京五輪開催が「1964年」でなかったら、そして、僕が大学で「某教授のゼミ」にいて、かつ東京五輪の「前年」に大学を「卒業」する予定でなかったら、つまりこれだけの「幸運」が重ならなかったなら、無試験同様で朝日新聞の記者になれていなかっただろう、というものだった。

補足すると当時、朝日新聞社は、東京五輪に備えて取材記者をかなり増やしておこう、それには前もって、ある程度の学生を囲い込んでおこう、と考えたらしい。そこで、同社と親しかった我がゼミの教授に「学生を何人か、推薦してください」と頼んできた。――それが前々回のこのブログだった。

面白くもない話だが、それはそれでお許し願いたい。嘘は書いていない。だが、ブログが掲載されてから2週間やそこらが経った頃、僕の心はなんとなく落ち着かなくなった。原因は何だろう? まったく分からないが、格別に目的もないままに、過去の「なんのこっちゃ」をぼんやりと繰っていた。

そして、3年前の2021年、新型コロナウイルスの影響で1年遅れて開催された「2020東京五輪」の頃のブログを見た時、びっくりした。大げさではなく、背筋が少し寒くなった。そこには「『1964東京五輪』と僕」という記事があったが、その内容がなんと、なんと、なんと(3回繰り返しました)前々回の「昔、東京五輪のおかげで就職できた僕」と同じだったのだ。もちろん、言葉遣いはそれなりに違うが、話の筋は一緒である。

物書きの端くれとして(と言うほど、今は書いているわけではないけれど)、これは一番やってはいけないことである。もちろん、わざとやったわけではなく、気づかぬままにやったことだが、同じ話を同じ媒体に断りもなく2回も載せるとは、相撲や囲碁、将棋で言えば、まさに「禁じ手」である。例えば、大相撲では、握りこぶしで相手を殴ること、頭髪(まげ)をつかむこと、目またはみぞおちなどの急所を突くこと、などが禁じられている。これらをやると、反則負けになる。

僕のやったこともこれらと同じで、以後「執筆お断り」の処分を受けてもおかしくはない。だが、この「なんのこっちゃ」なるブログの執筆者は僕一人だから、執筆を断るわけにもいかない。厳罰を科すなら、ブログそのものをやめてしまわなければならない。なので、のうのうと今回も駄文を連ねているわけだけど、ほんとに恥ずかしいことをやった。ごめんなさい、ごめんなさい。そう謝るしかない。

ところで、わずか3年前に書いたことを、すっかり忘れているなんて、寄る年波で、僕もさすがに呆けてきたのだろうか。今回、はっきりと気づいたチョンボはこれだけだが、調べれば、似たことがほかにもあるかもしれない。4年後にはロサンゼルス五輪がある。この調子だと、その頃までこのブログが続いていたら、また「ロス五輪を見聞きしていて思い出した。昔、僕は東京五輪のおかげで……」なんて書き始めるかもしれない。

それに、このブログには多くはないけれど、読者もいらっしゃるはずだ。高校の同窓会に行くと、「読んでいるわ。面白いよ」と言ってくれる女性もいる。その方たちも何も気づかれなかったのだろうか。幸か不幸か、今のところ、何の反響もない。あるいは、気づいても、見逃してくださったのだろうか。

さらには、厳しい編集者(と言っても、我が娘だけど)もいる。記事を掲載する前には必ず、彼女が目を通していて、時には「最後の文は蛇足だから削りましょうか」なんて言ってくる。その編集者も気づかなかったみたいである。おかげで、自分の失態を自分自身で見つけた点だけが、今回の救い?と言えるかもしれない。

というわけで、このブログも普段とは違う変な内容になってしまったが、次回からは心機一転、新しい自民党……じゃなかった、生まれ変わった「なんのこっちゃ」にするために頑張ります。引き続き何とぞよろしくお願い申し上げます。

少し前、このブログで「補聴器とどう付き合おうかなあ」なんて書いたが、ついにそいつを買ってしまった。両耳で19万円也。乗用車などを除いて、こんなに高い買い物を今までにしたことがあったろうか。だが、これなんか、補聴器としては、まだ安い方である。補聴器店に行って、最初に試聴をすすめられたやつは両耳で28万円。そして、補聴器の価格一覧表を見ると、どこがどう違うのか、一番高いのは両耳で100万円である。

で、28万円を2週間ほど試聴した結果だけど、まあ、悪くはない。テレビの音もこれまでよりははっきりと聞こえる。だけど、年金生活者の僕には値が張りすぎる。「もっと安いやつを試させてくれない?」と言うと、店の人は嫌な顔はせずに、19万円のやつを貸してくれた。これも悪くはない。でも、さらに安いものを求めて、10万円前後のやつを2種類、やはり2週間ほど試聴してみた。これらも悪くはないが、操作にやや難がある。「機種が古いんです」と店は言う。

結局、19万円で手を打つことにしたが、たまたま幸運なことに、僕が住む埼玉県川越市ではこの7月から「高齢者補聴器購入費補助事業」なるものが始まった。「難聴を抱える高齢者の社会参加への不安を解消する」のが目的で、補助額は3万円まで。さっそく申し込んだら、すぐOKの通知が来た。19万円の補聴器が16万円で手に入れられた。

ただ、せっかくの補聴器だけど、普段はあまり使っていない。宝の持ち腐れの感がある。テレビを見ている時に「補聴器をつければ、聞こえがどのくらいよくなるだろうか」なぞと、まあ冷やかし半分に耳につけている程度だ。

そして、今さらながら感心しているのは、テレビの「アナウンサー」の声が一般にとても聞き取りやすいことだ。補聴器なしで、かなり音量を低くしても、「中程度難聴」の僕にも聞き取れる。これに対して、ゲストというか、他の出演者の声はくぐもっていたりして、聞き取りにくいことが多い。僕は以前、アナウンサーなんて、他人の書いたものを読むだけで、まともな職業とは言えない、と思っていたが、難聴になってからは、逆に尊敬するようになっている。勝手なものである。

それはそれとして、耳が不自由なのは、目とは違って、周りからは分かりにくい。それだけに、周りの支援も受けにくい。生活や仕事をする上で随分とつらいだろうな。中程度の難聴になってから、今さらながら、そう思う。これも勝手なものである。

新聞社にいた時、5年ほど後輩で、親しくしていた男がいた。二人とも定年退職してかなり経った頃、たまたま一緒に飲んでいたら、彼は突然「僕はもともと片耳が聞こえないんです」と言い出した。現役の記者だった頃には、そんな話は本人からも、噂としても、聞いたことがなかった。多分、自分の弱みを見せたくなかったのかもしれない。

その彼は会社人生の終わりの頃、関連会社の社長になった。そこで、その会社の生え抜きのトップを小料理屋のカウンター席に誘った。僕の後輩の聞こえない耳が右か左かは忘れてしまったが、仮に右としておこう。すると、相手は自分の左側に座ってほしい。よく聞こえる左耳の側に相手がいると、安心である。

ところが、そのように席を決めようとすると、相手は逆に自分の右側に座ろうとする。あわてた後輩はまた席を変え、すると、相手もまた席を変え……いささかマンガチックなことになってしまった。理由は単純なことで、僕の後輩と同じように、相手も右耳が不自由だったのだ。

僕は今、中程度の難聴だけど、これから10年、20年…経つと、どうなるのだろうか? やはり僕が新聞社にいた頃、世話になった先輩がいる。今は90歳。昔から耳はよくはなかったようだけど、話していてお互いに不自由はなかった。だが、いつ頃からか、補聴器を使っている。先般、久しぶりに一緒に飲んだが、意思疎通がどうもうまくいかない。「今日は補聴器を入れてないんですか?」と尋ねると、「いや、入れてるよ」とのこと。補聴器を使っても、会話が不自由になっているのだ。

補聴器も万能ではないみたいだ。とりあえずは、僕の難聴も今の「中程度」が末永く続いてくれるよう、祈ることにしよう。

パリオリンピックも終わった。僕はその報道を見聞きしながら、ちょうど60年前、1964年の東京オリンピックの頃を思い出していた。もし「東京五輪」が「64年」になかったら、そして、僕が大学で「猪木正道教授のゼミ」にいて、かつ東京五輪の「前年」に大学を「卒業」するのでなかったら、僕の人生はかなり違ったものになっていただろう。つまりは、東京五輪のおかげで僕は希望通りに朝日新聞の記者になり、60歳で定年退職するまで、まずは機嫌よくそこに勤めていたのだ。

というのは、東京五輪の2年前の62年、京都大学法学部の4回生だった僕は新聞記者になりたかった。それも、朝日新聞の記者になりたかった。高い志があったわけではない。職業としてカッコいいといった、程度の低い志望動機だった。ただ当時、就職先として朝日新聞社は学生の人気が高く、人気度調査ではベストテン、それも上位に位置していた。厳しい入社試験を突破しなければならないが、僕は大学に入って以来、ろくに勉強もせず、サッカーの練習に明け暮れていた。試験に通る自信がない。

そんなある日、ゼミの授業に出たら、担当の猪木正道教授が「君らの中で朝日新聞の記者になりたい者はいないかね? 実は朝日新聞社から、僕のゼミの学生を推薦してほしい、と言ってきたんだ」とおっしゃる。びっくりした。思わず手を挙げた。こんなおいしい話があるなんて、信じられなかった。

猪木先生は政治史、政治学が専門で、朝日新聞にも寄稿するなど、同紙と親しいことは知っていた。しかし、そうだから、先生のゼミにいたわけではない。実は、法学部に入ったものの、僕の粗雑な頭には法律というものがどうもしっくりこない。法律関係のゼミには行きたくない。仕方なく猪木先生のゼミに入ったわけだけど、先生はそんな失礼な僕でも「歓迎、歓迎」と、にこやかに受け入れてくれていた。

そして、朝日新聞社がこんな話を持ち掛けてきたのは、64年の東京五輪と関係のあることが分かってきた。当時の日本にとって、東京五輪はまさに未曽有の大事業である。それに対し新聞社としてどう対応するか。いろいろある中で、とりあえずは取材に必要な記者の数を増やしておこうということになった。それにはあらかじめ、適当な学生を囲い込んでおきたい。そんなことから猪木先生に声が掛かったらしいのである。

で、猪木ゼミでは僕を含めて5人が「朝日新聞社に行きたいです」と手を挙げた。学生が20人余りのゼミだったから、結構な割合である。5人はそれぞれ朝日新聞社の大阪本社に行き、編集局幹部の面接を受けた。その結果、4人が次の段階に進んだ。落ちた1人は何でも「新聞記者にはなりたくない。『朝日ジャーナル』で働きたい」と言ったそうだ。この雑誌は今はないが、当時、学生たちに人気があった硬派週刊誌である。

残った僕らは次に、論説主幹の笠信太郎なる人物に会うことになった。彼は世間的にも有名で、僕も彼の著書を何冊か読んでいる。軽い気持ちで会いに行ったのだが、彼はこむずかしい質問を連発する。不勉強な僕はしどろもどろ、ろくに答えられない。ちょっとまずかったかなあ。やや落胆していると、面接の終わりに彼は言った。「君はものごとを深く考えない人間だなあ。そんな奴が新聞記者に向いているんだ」。皮肉を込めながら、最終面接に合格したサインだった。ゼミ仲間の他の3人も合格していた。

あとは形式的に筆記試験を受けるだけだった。かくして63年春、朝日新聞社に入ったが、同期の記者は55人ほどいたと記憶している。確か、普段の2~3倍の数だった。前年にも翌年にもこんなに大量の記者は採用していない。つまり、最初に書いたように、東京五輪が64年に開かれ、僕がその前の63年に大学を卒業するのでなかったら、そして猪木先生のゼミにいなかったら、僕は朝日新聞記者になれなかったかもしれない。

入社してから、同僚などに「君は裏口入社なんだって?」とからかわれることもあった。僕は真っ向から反論した。「裏口入社とは、こちらから『入れてください』とお願いし、賄賂も持っていくやり方ではないのかね? 僕らの場合は、朝日新聞社から『ぜひ来てください』とお願いされ、『じゃあ、行ってあげようか』となったのだから、裏口入社だなんて、とんでもない話だよ」

ただ、そうは言うものの、ちょっと列を乱した「横入り」かもしれない。正規の試験を受けながら、僕らのせいで不合格だった者がいるだろう。僕は数々の幸運に恵まれて朝日新聞記者になったが、在社中、歴史を変えるような特ダネを書いたこともないし、世の中をよくするような記事を多くは書いた覚えもない。そう思うと、能天気に「東京五輪のおかげ」とばかりは言っておれないな、と今さらながら申し訳ない気にもなってくる。

2か月前、実に久しぶりに「ジョギング」を再開した。僕は長い間、「脊柱管狭窄症」を患っていた。ちょっと長めに走ったり、歩いたりすると、足が痺れてくる。時には、立っていられなくなり、その場に崩れ落ちてしまう。従って、ジョギングは敬遠していたが、コロナ禍の前には脊柱管狭窄症を手術で治し、痺れは出なくなった。

ところが、ほっとしたのも束の間、その後には「変形性膝関節症」やら「椎間板ヘルニア」とやらが控えていた。いずれも走るのに困難をきたす。ジョギングには二の足を踏み、1日1万歩以上の散歩でお茶を濁していた。だが、最近は様々な「意地悪」たちも姿を消しているみたいだ。そこで、ジョギング「再開」を思い立った。体力をつけるには、散歩よりもやはりジョギングだろう。

で、2か月前、わが家の近くを流れる川の土手を散歩中、ちょっと走ってみた。距離は歩数から勘定してわずか50mほどを2回だけだが、自分でも恥ずかしいくらい、まさによたよたしている。走っているとは、とても言えない。他人様には見られたくはない。当日の日記に「無様で情けない限り。だけど、希望なしとはしないようだ」とある。

翌日は、思い切って距離を少し伸ばして、100mを8回走ってみた。なんとか走れた。ただし、100m以上続けるのは無理で、息が切れてしまう。100mごとにしばらく「はあ、はあ」と言いながら、心臓を休ませなければならない。

こんなことを週に2回から3回、4回とやっていて2か月も経つと、100mぐらい走っても、息は切れなくなった。200m、300m、あるいは400mぐらい続けて走っても、息は大丈夫である。ただ、以前のように、何kmも続けて走るのには、今はまだ少し抵抗感がある。そこで、例えば100mを10~15回、200mを3回、300mを2回といった感じで、昼間なら川の土手か池の周り、夜ならわが住宅団地の中を走っている。パンツに入れているスマホを見ると、最高で時速6・5kmくらいだ。

ところで、ジョギングとランニングは意味が違う。大ざっぱに言うと、時速6~7kmがジョギング、それ以上がランニングと呼ぶようである。それはそれでいいのだが、情けないことには、現在の僕には時速6・5km以上では走れそうにない。ジョギングとは言え、一生懸命に走っている。時速6・5kmが精いっぱいの速度である。時速10kmでランニングを、と言われても、今のところはお断りである。

そこで、ふと、僕と同年配のほかの人たちはどれくらいの速度で走れるのだろうか? 例えば、100mは? 気になり出し、調べてみた。「マスターズ陸上」というのがある。18歳以上なら誰でも出られ、5歳刻みでクラスが分かれている。その中で「男子100mマスターズ陸上日本記録」をネットで探し、眺めてみた。

すると、僕と同年代の80~84歳では14・24秒、85~89歳では15・08秒が日本記録だ。エッ? 僕の時速6・5kmを100mに換算した時の数字とは、あまりにも違い過ぎる。恥ずかしいから、ここには記さないけど、興味のある方は勝手に計算していただきたい。

それ以上の年齢も見ていくと、日本記録は90~94歳が16・69秒、95~99歳が21・69秒。100歳以上もあり、100~104歳が29・83秒、105~109歳が42・22秒である。ちなみに、42・22秒は世界記録で、これを出したのは当時105歳の宮崎秀吉さんという方。2019年に108歳で亡くなっている。元陸上の選手などではなくて、現役時代は農協の職員、ごく「普通の人」である。

僕が仮に今の体力を105歳まで維持していても、宮崎さんの記録を抜けないかもしれない。いやはや、ジョギングを再開して、少しは前途に明るさが見えてきたと思っていたのに、暗い気分になってしまった。

でも、悲観はやめよう。何しろ、2か月前は50m走っただけで、顎を出していた。それが今や、インターバルながら、3kmやそこらは楽に走れるようになった。昔に戻りつつある。長足の進歩である。伸び代もあるはずだ。そのうちに100mを40秒、いや30秒か20秒くらいで走れるようになるかもしれない。前途洋々である。

米軍基地が集中する沖縄で、米兵による性犯罪が続発している。それ自体が大きな問題だが、県警や地検はこれを公表せず、外務省も米側に抗議はしたものの、県には伝えていなかった。その理由を「被害者のプライバシー保護のため」と言うが、とても納得できない。素早く公表・連絡していれば、その後の性犯罪からの身の守りようもあったはずだ。公表・連絡を避けた本音は、米軍への気兼ねと反基地感情の高まりへの恐れからだろう。その背景には日米安全保障条約とこれに基づき在日米軍を特別待遇する日米地位協定がある。

上は最近の毎日新聞に載った写真である。撮影は4年ほど前だが、説明の記事によると、上方は東京都庁第1本庁舎の手前を飛ぶ米軍のヘリコプター「ブラックホーク」2機。高度は都庁展望室(高さ202メートル)より低い。下方は東京スカイツリーの展望デッキ(高さ350メートル)周辺を飛ぶ米軍のヘリ「シーホーク」2機である。

軍事訓練なのか、遊覧飛行なのか。都内だけではない。以前の朝日新聞によると、山間を縫うように飛ぶ米軍機の低空飛行訓練は、北海道から沖縄まで日本全土で日常的に行われている。日本政府への連絡もなく、やりたい放題だ、と記事は指摘する。そして、これらがもし墜落して日本人が巻き添えになっても、日本側はなんともできない。残骸は米側のものだから、米側に引き渡され、日本側は原因を究明できない。あれやこれや、全ては不公平な日米地位協定から発している。だが、その見直しが進む気配は一向にない。

そんなことを考えていると、「日本はいつになっても、米国の『属国』だなあ」と、暗い気持ちになってくる。僕が生まれた1940年、日本は愚かな戦争の泥沼にはまっていたが、どこの「属国」でもなかった。堂々たる?「独立国」だったが、1945年の敗戦で連合国に占領された。東大阪のわが家に近い未舗装の道路を米軍のジープが土煙を上げて疾走するようになった。電車に乗ると、米兵が日本人の女性と戯れていた。1951年の平和条約で日本は表向き再び独立国となったが、実質は米国の属国に甘んじてきたわけだ。

僕は独立国の時代も一応は経験している。だが、僕の子供たちや孫たちは独立国の時代をまだ一度も経験していない。放っておくと、一生涯、属国の国民として過ごすことになるかもしれない。なんとかしないといけない。ちなみに、我が国に脅威を与えているとされる中国やロシア、北朝鮮――政体は気に食わないが、国民はみんな独立国に住んでいる。ある意味で、うらやましい。

では、どうすればいいのか。簡単である。日米安保条約を破棄すればいい。1960年に改訂された日米安保条約、正確には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は最後の第十条で次のように述べている。「……この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する」。つまり、米国に対して「終了」を通告するだけでいい。そうしたことがないから、日米安保条約は毎年「自動延長」されている。

では、米軍が引き揚げた後、日本が不埒な国に襲われる心配はないのか。その恐れは当然ある。でも、心配はご無用、僕には「名案」がある。米軍抜きの自衛隊くらいは残しておいてもいいのだが、僕の名案とは柔道、空手、剣道、合気道、それにボクシング、レスリングなど、武器なしで身を守る方法を国民それぞれが身につけることだ。小中学校では、身体の都合で無理な人を除いて、義務的に修練することにしたい。高校大学でもできるだけ修練を続けたい。国民のほとんどがそんな屈強な人たちで占められていれば、侵略をたくらむ不埒な国も、もし当方に軍事力がなくても、二の足、三の足を踏むのではないか。

ついでに、思い起こしてほしいのは、今や忘れられた感のある日本国憲法第九条である。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という文言である。

日米安保条約を破棄すれば、日本はがらりと変わる。真の「平和国家」に(自衛隊がそのまま存続していても)ぐんと近づくのではないか。憲法第九条に対してもそう恥ずかしくはない国家になれる。「暴論」「妄想」なぞと言ってほしくはない。柔道、空手うんぬんの話はひとまずおくとして、日米安保条約の破棄に力を尽くした先人も現にいる。例えば、鳩山一郎内閣の重光葵外相は1955年、米国に対して、地上軍を6年以内、海空軍を地上軍の撤退から6年以内、つまり合計12年以内に米軍を完全撤退させるよう提言している。今の政治家や官僚たちに「重光氏の爪の垢を…」と言いたくなる。

現状を眺めれば、提言は全く実を結ばなかったわけだけど、それぐらい思い切ったことをそろそろやってもらわないと、僕も属国の民として不本意な生を終えることになるだろう。