東台湾に眠るもう一つの日本の歴史 新城事件と新城社(神社)後(現、天主教教会) 【花蓮縣新城郷】 (original) (raw)

【新城事件】

明治29年(1896年)12月23日、花蓮港守備隊新城監視哨の将校以下多数軍人が太魯閣族によって殺害された事件を新城事件と言います。

殺害された理由について2つの説があります。

一つは、太魯閣族の文化を尊重しなかった事への報復という説ですが、これは、台湾総督府の民政部が発行した「太魯閣蕃事情」の文字資料として残されている理由です。

もう一つは、太魯閣族自身の供述として残されている理由です。その内容は、Agiun(阿吉勇)、漢人名 李阿隆は清朝時代に宜蘭から移住して太魯閣族の女性と結婚。太魯閣語にも通じ、太魯閣族から鹿茸を買い取り、その見返りとして塩や銃弾を提供するなどして良好な関係を築いていました。清朝末期には清国役人と太魯閣族の通訳として働いていましたが、日本が台湾を統治すると、いち早く日本に恭順し、日本側にとっても、彼は「民族の架け橋」としての役目を期待しました。だが「新城事件」の数日前、非番だった日本兵が昼間から酒を飲み、酔った勢いで、阿吉勇の妻の妹(既婚者)に性的暴行をしました。すなわち、太魯閣族の女性をレイプしたのです。一夫一婦制と貞操が厳重に守られる太魯閣族の社会では、夫ある女性に別の男性が不埒な行いをすれば、その者は厳罰に処されるしきたりであり、これが太魯閣族らの怒りを買い、事件の発生に至ったのです。

また日本人は地元住民から悪感情を抱かれていました。明治29年12月下旬でも花蓮の気温は17.5度に達し、暑さに慣れない日本兵は上半身裸、あるいは褌姿で過ごしていました。しかし、気温に関わらず衣服を整えることを旨とし、裸体での外出をタブーとする漢民族日本兵の振舞いを「無作法」と受け止め、自然と両者は疎遠になっていました。

さらに主食のサツマイモが不足した日本兵は住民から強引に安い値段で買いたたいたり、立霧渓では勝手に砂金を採集するなど、住民生活に悪影響を及ぼしていたのです。

そんなある日、新城から8キロ離れたシラガン社の太魯閣族が猟の帰り、砂金採集をしていた日本兵とトラブルを起こしました。この事が発端となり、そこに、日本兵のレイプ事件が発生。遂に、太魯閣族達の怒りは頂点へと達し、漢族の李阿隆の協力の下でブスリン、コロ、フフス、カウワン(いずれも現在の花蓮県秀林郷、立霧渓河口から景美村付近の村落)などの集落の男子が結託して新城分遣隊監視哨を急襲、タロコ族の青年300名は総頭目のヤカオ・バヤシに率いられ兵舎を急襲、まず入り口付近で銃の手入れをしていた1名を射殺。当時、日本兵らは昼食を終え、昼寝の最中で機敏な反撃行動に移ることができず、結城享少尉が指揮刀を執って奮戦するものの全滅、日本兵全員の首を切断、兵舎を焼き払いました。さらに外出中の日本兵も発見されるや殺害された。こうして日本兵23人全員が殺害されたのです。

花蓮港郊外、十六股在住の漢人・許阿園が焼き払われた兵舎を見て驚き、夜陰に乗じて花蓮に逃れ、日本軍に知らせることで事件が発覚しました。

事件当時、新城は台湾人(漢民族)人口100人、日本人警官5、6人程度の小さな村で、中心地である花蓮港市(今の花蓮市)でも漢民族人口は230人程度でした。さらに、新城から花蓮市内までは20㎞程度の距離があり、コワチン(鬼茅)が生い茂り、毒蛇やマラリアの巣窟として新城は隔絶されていたのです。

許阿園から一方を受けた当時の花蓮港守備隊ですが、情報収集、遺体の収容は困難を極めました。花蓮港守備隊歩兵第三隊長・井上少佐は2度に渡って偵察を差し向けたが、途中の三桟渓で太魯閣族に襲われ「馘首」され生還しませんでした。日本軍は李阿隆を呼び事情聴取を試みるも応じず、再度差し向けた偵察兵も5人全員が行方不明になりました。

ここで第三大隊第一二中隊の篠原特務曹長が15名の部下を率いて三桟渓に至り、偵察隊の首無し遺体を発見したのです。

花蓮港守備隊は明治30年(1897年)1月10日、2個中隊を出動させるとともに阿美族南勢蕃600人を援軍として募りますが、外太魯閣(日本に対し最後まで抵抗した太魯閣族を外太魯閣、日本側に従った太魯閣族を内太魯閣と呼びます)の太魯閣族は徹底抗戦を行い、路上に逆茂木を並べ、山上から大岩や大木を転がすなどして交通を妨害。日本軍も必死に応戦するものの高所からの攻撃に反撃する術もなく、ただただ弾薬を浪費するばかりでした。ゲリラ戦では山を知り尽くした太魯閣族の方が数段上手だったのです。

同年2月6日。日本軍は三桟より手前の太魯閣族の部落、カウワン社を制圧する作戦に変え、湯地春吉第一連隊長の指揮のもと、参謀、大隊長、工兵小隊長、軍医、日本人軍夫200人、阿美族の青年らを従え、総勢1737人の大部隊を結成し作戦を開始。しかし、密林に分け入るや横から射撃を浴びせられ、日本語の命令は阿美族には通じず、ただ狼狽するばかりでした。 一方太魯閣族は個人個人が巧みに分散して障害物に隠れつつ林間を駆け、日本軍に射撃を浴びせ、日本側は、伝令兵は負傷し、あるいは「馘首」され、負傷者が増えるばかりでした。

この時の様子について、従軍記者の小城忠次郎氏は太魯閣族の戦術を「楠公千早城の風で要所の地点に大木大石を吊るし我軍の侵入を待って切り落とし、竹釘をさして行進を悩まし、最寄りの地点に銃座を作って狙撃し、裸体裸足で出没すること猿の如く、如何とも仕方ない」と称しています。

業を煮やした日本軍は澎湖庁に停泊中の巡洋艦 葛城を回航させ、艦砲射撃することで太魯閣族の屈服を計りましたが、部落は山中に分散しており、家々も竹で組まれているため砲撃の効果はありませんでした。太魯閣族も最初の内は砲声におびえていましたが次第に慣れ、竹かごを頭に載せて平然と出歩き、挙句の果てには、日本軍のラッパの口真似をしていたそうです。

戦闘の長期化で、日本側では傷病兵も含め損害が増える一方の日本軍。同年5月13日をもって作戦終了を迫られましたが、それでも三桟から新城の兵舎跡に達し、最初の犠牲者の遺体収容には成功しました。ここで一応の目的は達成されたため、同年6月をもって援軍は基隆に引き上げました。

一連の戦闘で、日本軍は大量の傷病兵を出した。小城忠太郎氏の記録によれば、戦地ではマラリア、黒水病、腸チフスが猖獗をきわめ、戦病死者は500人以上、1個中隊の兵員が20名ほどにまで減少しました。

さらに、日本側は、太魯閣族の勇猛な性質、そして太魯閣地区における李阿隆の影響力と謀略を痛感したのでした。これにより、花蓮地区の統治政策を見直す必要性にも迫られたのです。

【新城社(神社)】

新城事件で殺害された花蓮港守備隊新城監視哨の23名の日本兵を慰霊するために、大正3年(1914年)に、木造の納骨堂が建てられ、大正9年1920年)には、「殉難將士瘞骨碑」が建立されました。昭和7年(1932年)には、現在の聖母園のあたりに、鉄筋コンクリートの社殿が建てられました。

終戦後、日中国交樹立に伴い、台湾(中華民国)との国交を断絶した日本に対し、蒋介石は激怒し、日本時代の神社仏閣は全て取り壊しという事になりました。

昭和31年(1956年)、地元住民の要望によりキリスト教の布教のためにこの地を訪れていたスイス籍の神父がここに幼稚園を開き、ミサも執り行うようになりました。

神父は、蒋介石の命令で神社仏閣が全て取り壊しになる事を知り、まだ国民党軍の手が伸びていなかった新城社の鳥居、狛犬、灯篭を見て「政治的都合で歴史的建造物を壊すことは間違っている。」と考え、何とかこれらを守れないかと考えた結果、鳥居に「天主教会」という名前を付け、教会の看板であると言い張り、国民党軍を帰らせたという逸話が残されている。社殿は潰されてしまったが、鳥居、狛犬、灯篭は難を逃れることが出来、今でもその姿を私達に見せてくれています。

また、「殉難將士瘞骨碑」も国民党軍によって倒されたものを、教会の敷地内に保存して下さいました。現在は、教会の入り口付近の庭にあります。彫られた文字がかなり薄くなっていますが、よく見て頂くと、犠牲になった23名の兵隊さんのお名前が読み取れます。さらに、神社の手水も保存して下さっており、これは教会に入ったところに置かれています。

教会内へは自由に入る事が出来ますが、必ず、扉は帰る際には閉める様にして下さい。また、教会内に置かれている物には一切手を触れない事。大声で話はしない事。基本的なことですが、意外と守って頂けない事なので、ここで改めて申し上げておきます。

神父は、1959年には、教会の敷地内に神父会館を建て、1964年には、ノアの方舟を模した教会を建てました。1970年には天主教会病院を開院。当時、地元には病院もなく、地元の原住民は貧しい生活をしていた。そのために神父は、無料の病院を建てたのです。その後、原住民の生活水準も向上し、近くに病院も出来たため、1998年、病院は閉院しました。現在も建物は残されています。(教会の横のコンクリート建ての建物が元病院です)

これだけの状態で今も当時のままの状態で残されている神社跡は台湾でも非常に珍しいものです。この様に、宗教の壁を乗り越え、歴史的価値という部分で保存を決めてくださった神父に、日本人として心より感謝したいと思います。

【新城社秘話】

二の鳥居をくぐった左手に屋根の付いた休憩所(東屋)があります。実はここに昔は立派なヒノキ作りの建屋に手水がありました。戦後、この建屋、一部痛みが激しかったので、神父は職人を呼び、修理をお願いしたのです。

神父は修理をしてもらっている間、花蓮市内へ買い出しに出かけました。数時間後、戻ってみると、何と、ヒノキ作りの建屋が姿を消し、味も素っ気もない東屋になっていたのです。驚いた神父が職人に問いただすと、「痛みが激しかったので、修理するよりもこちらの方が安上がりだし、教会にはこっちの方がふさわしいでしょう」との返事。神に仕えるものとしては、怒りを爆発させる訳にもいかず、しかし、納得のいかなかった神父は職人に対し「ところで、以前の建屋は完全に潰してしまったのですか」と尋ねると、職人は「使用していたヒノキは質が良かったから、高値で売れましたよ。これも神のご加護ですかね」と答えたそうです。これ、決して笑い話ではなく、本当にあったお話しです。

【新城事件後の対原住民対応】

当局は太魯閣族の勇猛な性質と巧みな戦闘能力を体験すると同時に、彼らが泰雅族(タイヤル族)南澳蕃と敵対関係にあることを知り、台湾原住民同士の利害、敵対関係を利用して彼らを統制する「以蕃制蕃」を発案、太魯閣族を利用して泰雅族南澳群を平定する作戦を立ち上げたのです。明治36年1903年)11月11日、台東庁長・相良長綱は自ら花蓮に至り、台湾総督府より派遣された警視賀来倉太と合流、泰雅族南澳蕃へ出征。

同年12月1日、一団は1000人あまりの軍勢で侵攻を開始。戸数200あまりの集落を制圧して焼き払い,さらに大きな集落で2日間にわたる戦闘を繰り広げた末、その集落も焼き払って凱旋。また200人の別動隊は南澳蕃の別の集落を襲撃して13日に勝利し、太魯閣族は敵の首を挙げて凱旋した。時の台東庁庁長・相良長綱は彼らの働きをねぎらい、「以蕃制蕃」の戦いを終わらせたのです。

【歴史の生き証人のお話し】

国民党軍によって倒された石灯篭を再び組立てることになり、その作業を手伝った当時18歳だった方のお話です。ご本人のご希望で、お名前は伏せさせて頂きます。

「新城社再建計画が出た時、最初は私達の台湾を統治した日本人が作った神社など再建する必要はないと思っていました。しかし、私の母が『お前がこうやってこの世に生まれてくることが出来たのは日本人がいてくれたから』と聞かされました。

当時、私の家はたいへん貧しく、私が産まれる時も、出産費用がありませんでした。さらに、私は逆子だったため、出産には普通以上にお金がかかるという事で、両親は途方に暮れていました。その話を聞いた当時新城在住だった日本人のお医者さんが私の両親に対し『あなた達のお宝誕生の瞬間に立ち会わせてもらえることが私にとっては最高の報酬だよ』と言って、一切、お金の請求はしなかったそうです。母親からその話を聞かされ、私は今まで自分が学校で教わってきた日本人像が偽りであった事を知りました。日本人のお医者さんが居てくださった事で、今の私が存在します。だから私は神社再建のお手伝いをさせて頂いたのです。」

筆者は酒を飲まないが、酒に酔って許されない行為に至った一人の日本兵。このたった一人の酔っ払いの行為が、大勢の尊い命を奪う事件へと発展していった。

酒で人生を狂わせる人もいる様だが、歴史まで狂わせることになるとは、本当に悲しい話です。

日本統治時代の新城社 二の鳥居(鳥居、狛犬は今も残されています)

現在の新城社 一の鳥居跡

現在も残る、一の鳥居にあった狛犬

新城事件犠牲者の慰霊碑

天主教教会(外観はノアの箱舟

社殿跡にはマリア像

*新城社跡(天主教会):花蓮縣新城郷博愛路64號

台湾鉄道 新城(太魯閣)駅下車 徒歩20分