興福寺西円堂(奈良県奈良市) (original) (raw)

興福寺西円堂 】

所在地: 奈良市登大路町48 興福寺境内

西国三十三ヶ所霊場第9番札所。本尊は不空羂索観音菩薩坐像。

弘仁4年(813)、藤原北家藤原冬嗣が父である藤原内麻呂追善のため建立し

た。基壇築造の際に地神を鎮めるため、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したこと

が発掘調査で明らかとなっており、鎮壇に弘法大師空海が係わったことが諸書に記さ

れています。

興福寺は度々被災しており、その都度再建を繰り返したことで知られています。永承

元年(1046)12月24日、大火によって南円堂は焼失(北円堂を除いて全山焼

失)。永承3年(1048)に再建されるも、治承4年(1180)、治承・寿永の乱

(世にいう源平合戦)の最中、平重衡による南都焼き討ちによる被害も甚大なもので大

半の伽藍が焼失した。

文治5年(1189)、再び再建。しかし、嘉暦2年(1327)に焼失💦💦

さらに享保2年(1717)、興福寺はまたしても大火災に見舞われ💦中金堂・西金

堂・講堂・南大門などが焼失しており、南円堂も焼失してしまう。

平安時代には藤原氏長者、鎌倉・室町期には大和武士や僧兵など強大な兵力を背景に

実質上の大和一国を支配し、織豊時代・江戸時代には寺領21,000石であったことか

ら、再建費用を捻出可能であったのだが・・・この時期には費用捻出が困難となってお

り、大規模な復興はなされていない。

そんな中、南円堂は寛保元年(1741)に立柱され、寛政元年(1789)によう

やく再建されています。再建に際して古代・中世の残存円堂を参考にしたと推察されま

すが、東面の間口1間、奥行2間の拝所や唐破風など、江戸時代の細部様式も見られま

す。

現在、堂の扉は常時閉ざされており、御開帳は毎年10月17日の大般若経転読会の

みとなっていますが、御朱印は常時いただけます(^^♪

奈良観光で興福寺は欠かせない場所ですが・・・、改めて是非「興福寺南円堂」へお

越し下さいませm(__)m

(参考資料)

現地案内板