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2024年10月15日 YAHOO!JAPANニュース 華盛頓Webライター「古代から湯に親しんできた、日本人と温泉の歴史
日本は温泉大国として知られており、多くの人が温泉を訪れています。
温泉の利用していたのは何も最近に始まったことではなく、太古の昔から人々は温泉を利用してきました。
そこで今回は、古代の人々が温泉をどう利用してきたのかについて紹介していきます。
神聖でありながらも、実利的な側面も持ち合わせていた古代の温泉
むかしむかし、狩猟時代の人々は、鳥や獣が温泉に浸かって傷を癒している姿を見て、「これはなんだか良さそうだ」と感じたに違いないでしょう。
彼らが岩の隙間から湧き出る熱い水に触れ、その効果を試してみた結果、温泉というものが人間の手にもたらされたのです。
温泉でくつろぐ動物たち――伊東のイノシシ、鹿教湯のシカ、野沢のクマ、平湯のサル、湯田川のシラサギ――これらの伝説は、まさにそのことを物語っています。
万座温泉風土記」の著者も、「温泉という天然の恩恵を、原始人が放っておく理由がない」と断言しています。
食事の調理や繊維の柔らかくするのはもちろん、治療や慰安にも使われたのだろうと想像するのは容易です。
当時の温泉は、所有者も支配者もなく、誰でも自由に利用できる「神の恵み」だったです。
時代が進み、農耕社会が形成されると、人々は自然の力に対して深い敬意を抱くようになります。
山の噴火を「御神火」と呼び、湧き出る温泉を「御神湯」と称えたのです。
温泉は、神聖な力の現れとして崇められ、その周りには神を祀る小さな祠が建てられるようになります。
この時期の温泉は、ただの癒しの場所ではなく、神聖な儀式や祈祷の場としての役割も果たしていたのです。
さらに、古代の天皇たちも温泉の力を信じていました。
『伊予風土記』によれば、景行天皇仲哀天皇、さらには聖徳太子道後温泉を訪れたという記録が残っています。
彼らが温泉を訪れた理由は「療養」が表向きだったものの、実際にはもっと深い目的があったのかもしれません。
一方、仏教の伝来とともに、温泉はさらに宗教的な意味を帯びるようになります。
仏教には、沐浴によって病を癒し、福を得るという教えがあり、奈良時代には多くの寺院に「大湯屋」や「浴堂」と呼ばれる施設が設けられました。
これらの場所は、庶民や病人に対する「施浴」という慈善活動の一環として利用されたのです。
また、修験道の修行者たちも、山岳信仰と密接に結びついた温泉を利用していたのです。
草津温泉では、修験者たちが12世紀にはすでに修行を行い、その噴火を山神の苦悩として祈祷を捧げたという記録が残っています。
彼らは温泉を発見し、薬師仏の功徳としてそれを広め、温泉の霊力を信仰の一部として取り入れていたのです。
こうして、古代の温泉は神聖でありながらも、実利的な側面も持ち合わせていました。
そして、時代を経るごとに、聖なる場所としての意味を保ちながら、庶民にとっての癒しの場へと発展していったのです。
しかし、古代の人々が温泉で遊びや快楽を楽しんだのかどうか、その記録は残されていません。
もしかすると、彼らにとっては聖と俗、そして遊びの境界が曖昧で、すべてが一つに溶け合っていたのかもしれないのです。
参考文献
茨城大学教養部紀要24号p. 295-314 「ゆ」と日本人に関する文化社会学的研究--聖・俗・遊のパースペクティブから
華盛頓
Webライター
歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。
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10月16日 YAHOO!JAPANニュース 華盛頓Webライター「清めの場から健康の場へと変わっていった、日本人と温泉の歴史
古の日本において、「ゆ」、すなわち温泉や風呂は、かつて聖なるものとして神聖視されていました。
それは山岳信仰や自然崇拝と深く結びつき、人々は湧き出る温泉に神の霊力を感じ、治癒や祈りの場であったのです。
だが、時が流れるにつれ、この神聖なる「ゆ」は次第に世俗化し、やがて「遊」の側面をも帯びるようになります。
この変遷は、中世の貴族や武士、庶民の生活を反映しつつ、多くの象徴的な出来事に彩られているのです。
神聖な場から癒しや遊びの場へと変わっていった湯
平安時代の宮中において、「御湯殿」と呼ばれる天皇のための風呂が存在しました。
これは日常的に利用されるもので、女官が奉仕し、天皇の身を清める場として機能したのです。
しかし、この沐浴が毎日行われたわけではなく、凶日には避けられ、また神事や儀式の際には特別な意味を持ちました。
産湯や即位、婚儀など、重要な節目には「御湯殿の儀」と呼ばれる儀式的な沐浴が行われ、これが上流階級の風呂文化として発展していきます。
時を経て、武家社会でも風呂が重要な役割を果たすようになるのです。
将軍室の女性たちは、年末に「両親追福」の風呂を催し、親族や縁者を招き、入浴と共に食事を楽しむという習慣がありました。
また、将軍義政が新年の入浴後に酒を奉ったことも記録されており、これらは単なる沐浴ではなく、施浴の一環としての儀式的な意味を持っていたのです。
しかし、次第にこれらの風習は社交的な場としての色彩を帯び、風呂そのものがもてなしの一環となります。
風呂の周りに山水や滝を設け、客を招いて酒宴を開く「風呂ふるまい」が流行し、これは風呂が「遊」の要素を取り入れた象徴的な出来事でした。
ここに、温泉や風呂が貴族や武士にとっての「ステータス・シンボル」として機能し始めたことが窺えます。
さらに、戦国時代には、温泉が軍事的な意味合いを持っていました。
武田信玄が「かくし湯」として温泉を利用し、戦場で負った傷を癒すための治療に使ったという逸話がその代表例です。
温泉は単なる癒しの場ではなく、戦略的な価値をも持ち、兵士たちの体を回復させる重要な役割を果たしました。
一方で、庶民の間でも「ゆ」は徐々に広まっていきました。
絵巻物や「洛中洛外図」には、庶民が川でみそぎをする様子や風呂屋でくつろぐ姿が描かれており、これは「ゆ」が貴族や武士だけでなく、広く庶民に普及していった証拠と言えます。
特に、季節の行事として催される「潔斎浴」や「石風呂」が庶民の間でも重要な習慣となり、信仰と結びつきながらも、農閑期の楽しみや癒しとして利用されていました。
こうした庶民の「ゆ」の文化は、特に農村部で発展し、冬の農閑期には多くの人々が湯治を楽みました。
草津温泉などでは、地元の農民たちが温泉に浸かり、一年の疲れを癒すとともに、翌年の活力を養う場として利用していたのです。
温泉場の近くに住む農民たちは、寒い冬には山の麓に下り、そこで温泉に入りながら、厳しい寒さから逃れ、生活を送っていました。
こうして中世における「ゆ」は、次第に世俗的な側面を強めていきました。
天皇家や公家、武家の間では日常化し、個人的な所有物としての風呂が普及した一方で、庶民の間では湯治が一般化し、温泉は健康と娯楽の場となったのです。
そして、風呂は単なる清めの場から、遊びや交流の場としての側面を持ち始め、次第に「聖」と「俗」が交わる場所となったのです。
こうした変遷をたどる「ゆ」の文化は、ただの沐浴ではなく、日本人の生活や信仰、社会階層の象徴として、多様な意味を持ち続けたのです。
神聖なる「ゆ」が、庶民の手に渡り、遊びや癒しの場へと変わっていくその過程には、日本の文化や価値観の変化が凝縮されています。
参考文献
茨城大学教養部紀要24号p. 295-314 「ゆ」と日本人に関する文化社会学的研究--聖・俗・遊のパースペクティブから
華盛頓
Webライター
歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。
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