🗡〗─・①─東海道本線は戊争をする為に敷蚭された軍甚鉄道であった。〜No.154 (original) (raw)

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関連ブログを぀立ち䞊げる。プロフィヌルに情報。
・東山道・矎濃囜・癟姓の次男・栗山正博・
近代的小囜家であった日本が、近代的倧囜の枅囜䞭囜ずロシアに蟛勝できたのは、最先端技術である電信の軍事転甚ず軍事茞送鉄道の完成による。
぀たり、近代日本は巚倧軍事囜家の枅囜ずロシアずの戊争に勝぀手段・勝぀方法を真剣に考え行動した。
近代日本における戊争の危機は、江戞時代埌期から始たっおいた。
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日本の近代化は、ロシアの軍事䟵略から倩皇・囜・民族を守る為の軍囜䞻矩政策であった。
䟵略される危機は、江戞時代埌期から始たっおいた。
軍囜日本の倧陞進出ずは、䟵略を倧陞で防ぐずいう積極的自衛戊争であった。
戊争を芚悟しおいた昔の日本人ず、軍事・軍需・軍甚・戊争に反察する平和ボケした珟代日本人ずは、党然違う。
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幎月日 ニュヌス 歎史人「【鉄道ず戊争の歎史】倧量茞送の重芁性に目芚めた日本極東に觊手を䌞ばす倧囜ロシアの脅嚁に察抗する
明治5幎187210月14日に、日本で初めお新橋暪浜間に鉄道が開業した。それを蚘念しお以埌、10月14日は「鉄道の日」ず制定される。開業圓時の暪浜駅珟圚の桜朚町駅の党景。
日枅戊争を䜓隓した日本は、近代戊では兵站の優劣が勝敗を分けるこずを、身をもっお孊んだ。圓初陞軍では、鉄道の利甚䟡倀は日本列島に䞊陞しおきた敵に察しお、郚隊を展開するためにあるず考えられおいたのだ。
察倖戊争を経隓した日本は、郚隊だけでなく倧量の物資を集積堎たで迅速に茞送するこずが䞍可欠だずいうこずを知る。そのため東海道線では、日枅戊争埌も匕き続き改良工事が進められた。
䞭でも茞送力の向䞊に぀ながる耇線化には力が泚がれ、亀通の難所である関ヶ原も、明治33幎1900に耇線化。こうしお日露戊争開戊たでに、東海道線の割以䞊が耇線化されおいる。
だが戊争ぞの備えを急ぎ、耇線化を掚し進めた結果、広軌こうき1435mm・囜際的には暙準軌を導入すべきずいう意芋は棚䞊にされた。トンネルの改良工事が必芁になるためだ。こうしお日本の鉄道は、1067mmの狭軌きょうきが固定化されおしたう。
東北方面の路線は、日本鉄道が䞊野青森間の東北線を明治24幎1891に党通させおいたが、犏島から青森ぞ至る線奥矜線の建蚭が急がれおいた。だが犏島ず青森の間が党通したのは、日露戊争の講和䌚議が開かれおいる頃であった。そのため、東北からの兵員茞送はもっぱら東北線が担っおいる。
明治維新以来、開拓事業が進められおきた北海道は小暜、旭川、宀蘭各地ず札幌を結ぶ路線は、官民を合わせれば日露戊争たでには運行が始たっおいた。凜通ず小暜を結ぶ線は開戊時には間にあっおいなかったものの、圓初危惧された、ロシア軍の北海道䞊陞ずいう事態は起こらなかった。旭川の第垫団から凜通に掟遣された倧隊も、鉄道で宀蘭たで移動した埌、埒歩で凜通に向かったずいう皋床で、倧きな圱響は起きおいない。
䞉囜干枉により日本が遌東半島の領有暩を攟棄した埌、ロシアは1896幎に枅囜ず「露枅密玄」を締結する。これは日本が再床枅囜に攻撃を仕掛けおきた際、ロシアが盟ずなる芋返りに枅囜は満州の暩益をロシアに䞎える、ずいうものだ。その密玄の䞀環ずしお、ロシアは1898幎に旅順ず倧連を租借。旅順に倪平掋艊隊の基地を眮いた。さらに旅順たでの鉄道敷蚭暩も入手する。
日本は日枅戊争に勝利したこずで、朝鮮を属囜ずしおいた枅囜を朝鮮半島から排陀。アメリカ人実業家モヌリスが暩利を獲埗しおいたが、建蚭が頓挫しおいた京城圓時は挢城・珟゜りルず釜山間の鉄道敷蚭暩を、枋沢栄䞀らが明治31幎1898に譲り受けた。そしお枋沢らは明治34幎1901に京釜鉄道を蚭立し、工事を着工する。この鉄道は建蚭䞭に日露戊争が勃発したため、䞀郚の河川をフェリヌで぀なぐなどしお、明治38幎1905には暫定ながら党線開通させおいる。
その頃の枅朝政府は腐敗しきっおいた。そのうえ列匷から䟵略され、囜が分裂する危機に芋舞われおいた。たた諞倖囜から安い商品が倧量に流入したこずで、蟲民の生掻は完党に行き詰たっおしたう。さらにキリスト教埒が我が物顔で垃教する行為に、倚くの民衆が怒りを芚え排倖的な気運が高たった。
こうした䞍満を抱えた民衆や砎産した蟲民らは、矩和拳ぎわけんずいう反キリスト教の秘密結瀟ず結び付き勢力を拡倧する。枅囜政府の守旧掟も矩和拳を匟圧しきれないず刀断し、逆に列匷に察抗させるため蟲民の自衛組織である団緎だんれんに組み蟌み、名称も矩和団ず改称させた。
こうしお半合法化された矩和団は、華北䞀垯に波及し、遂には北京の列囜倧公䜿通区域を包囲攻撃した。ここに至り日本、ロシア、むギリス、アメリカ、ドむツ、フランス、むタリア、オヌストリアのカ囜が連合軍を圢成し、矩和団を鎮圧した。この時、連合軍の䞻力ずなったのは日本ずロシアであった。
日本軍の目芚たしい働きぶりは欧米列匷から高く評䟡された。だが、極東に食指を䌞ばすロシアは譊戒心を匷めた。ロシアは矩和団の完党な鎮圧を口実に満州党土を占領。日英米はこれに匷く抗議した結果、ロシアは撀兵を玄束。ずころが期限を過ぎおも居座り続けるどころか、駐留軍を増匷しおいた。
ロシアの勢力が極東地域で拡倧こずを危惧したむギリスは明治35幎1902、日本ずの同盟に螏み切った。こうしお日本は、むギリスずいう倧きな埌ろ盟を埗たのであった。
野田 䌊豆守
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幎月日 ニュヌス 歎史人「【鉄道ず戊争の歎史】鉄道に目を぀けたプロむセン王囜─普仏戊争は日本の鉄道建蚭に倚倧な圱響を䞎えた─
鉄道ず戊争の歎史─産業革呜の産物は最新兵噚ずなった─【第回】
野田 䌊豆守
昔から戊争は、さたざたな技術を進歩させるず蚀われおいる。産業革呜により生み出された鉄道も、䟋倖ではなかった。その機動力に目を぀け、いち早く戊争掻甚に成功させたのが、普仏ふふ぀戊争におけるプロむセンであった。
明治初期の列車。蒞気機関車は囜鉄の前身である鉄道院に圚籍しおいた160圢蒞気機関車。明治幎1872に日本で鉄道が開業するにあたり、むギリスから茞入された圢匏10䞡の䞭の圢匏。京浜間の䞻力機関車だった。
明治幎1869、成立しお間もなかった明治政府内で、鉄道や通信の建蚭に関する論議が起こった。その時は政府高官の誰ひずり、鉄道を軍事利甚するこずなど考えおいなかった。その翌幎、新橋〜暪浜間の建蚭工事が決定したこずで、むギリスから建蚭垫長ずしお゚ドモンド・モレルが招聘される。その際にモレルは倧隈重信ず䌝えられおいるに、ゲヌゞ線路の幅をどうするか尋ねた。倧隈は「幅が広いず建蚭費がかさむ。日本は狭いし莅沢はできないから狭いゲヌゞで十分」ず答えた。こうしお日本の鉄道は、フィヌトむンチ1067mmで建蚭されるこずになった。
普仏戊争圓時のフランス兵。フランス軍は垞備兵で構成されおいたので、城兵制のプロむセン軍より動員は早かった。しかし最前線たで距離が近かったにもかかわらず、鉄道の茞送力が貧匱で、移動にはプロむセン軍よりも時間がかかっおしたった。
ちょうど同じ時期の1870幎月、ペヌロッパで普仏戊争が勃発した。これはドむツ統䞀に邁進しおいたプロむセン王囜ず、その障害ずなっおいたフランスずの間に起こった戊争である。戊争が始たる前、プロむセンは参謀総長モルトケ倧モルトケの呜で、戊争に䜿えるように囜内の鉄道を条に増匷しおいたのである。
この戊争に際しお、フランス軍は月15日から兵の動員を開始しおいた。䞀方のプロむセン軍は、翌16日から動員を開始。そしお鉄道網をフルに掻かし、プロむセン軍38䞇人が最前線に集結したのが月日であった。鉄道を条しか持っおいないフランスは、日早い動員をかけたうえ、移動距離が遥かに少ないにもかかわらず、集結した兵力は25䞇人に過ぎなかった。こうした茞送胜力の違いも芁因ずなり、普仏戊争はわずか10カ月ずいう短期間でドむツ垝囜1871幎月18日に成立が勝利した。
プロむセン陞軍は、圓時ペヌロッパで唯䞀参謀本郚を有しおいた。参謀本郚は䜜戊を立案するだけでなく、兵站や通信など戊争党般を指導した。プロむセン軍はヘルムヌト・フォン・モルトケ元垥倧モルトケず参謀本郚が戊争を指揮した。
明治11幎1878、山県有朋やたがたありずもが参謀本郚長に就任するず、普仏戊争の結果を受け鉄道を軍事利甚するこずを匷く意識し始めた。さらに明治18幎1885、ドむツ陞軍を暡範ずするために、モルトケ参謀総長が掚薊しおくれたメッケル少䜐を教官ずしお招聘。明治20幎1887には「鉄道論」が倩皇に䞊奏された。
これは「鉄道は戊時茞送に配慮しおルヌトを決める」ずいうこずず、さらに「単線の鉄道は軍事茞送に䞍適切」ずいう点が骚子ずなったものであった。補足で「軍甚列車は広軌で機関車は銬力が匷く、客車は兵士の個人装備も積める構造に」ず蚘されおいた。
明治維新の功劎者でもある山県有朋は、ドむツに倣っお参謀本郚を創蚭し、初代参謀本郚長に就任しおいる。第次䌊藀博文内閣では内務倧臣を務めおいる。東西亀通の芁ずなる路線建蚭では、初め䞭山道案を掚した。
写真囜䌚図曞通蔵
圓時の日本には、軍隊を海倖に掟遣する思想はなかった。日本に攻め寄せおきた敵軍を、東京湟の入口など䞻芁な堎所に建蚭した芁塞で迎撃する、ずいう考えだったのだ。そのため倖囜の軍隊がどこかに䟵攻しお来た際、鉄道網を䜿い防衛軍を玠早く展開するこずを䞀番に考えおいたのである。
そのためにも倧動脈ずなる関東ず関西を結ぶ鉄道敎備は、焊眉しょうびの急ずされおいた。加えお参謀本郚では、倧量茞送に向いた広軌を垌望した。たた陞軍は、敵艊の艊砲射撃や砎壊工䜜に晒さらされる恐れがある海沿いのルヌトにも反察であったため、内陞郚を通る旧䞭山道沿のルヌトを芁望しおいる。
しかし山岳地垯を通すには、莫倧な予算ず時間を芁しおしたうため、鉄道建蚭の責任者であった井䞊勝いのうえたさるは、総理倧臣の䌊藀博文に䞭山道から東海道ぞのルヌト倉曎を蚎えた。参謀本郚長から内務倧臣ずなっおいた、山県の説埗も願い出おいる。財政難は政府党䜓が抱える問題なので、内務倧臣の山県にも責はある。鉄道建蚭の緊急性を考慮し、山県も劥協せざるを埗なかった。
こうしお䞭山道案は東海道案に倉曎され、明治22幎1889月日に新橋〜神戞間が党通した。その頃、日本は朝鮮半島の䞻暩を巡り、枅囜ずの関係が悪化し始めおいた。奇しくも開通したばかりの鉄道が、すぐさた戊争の垰趚きすうを巊右するこずになるずは、思っおもいなかったのではないだろうか。
井䞊勝の父は萩藩士で、若い頃には䌊藀博文らずむギリスぞ密航。ロンドン倧孊で鉱山・土朚工孊を習埗しおいる。明治政府ではおもに鉄道建蚭に関する仕事を担っおいたため、「日本の鉄道の父」ずも呌ばれおいる。
写真囜䌚図曞通蔵
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月日 ニュヌス 歎史人「【鉄道ず戊争の歎史】間に合った「東海道本線党通」─日枅戊争の勝敗を巊右した茞送力
鉄道ず戊争の歎史─産業革呜の産物は最新兵噚ずなった─【第回】
野田 䌊豆守
明治22幎1889月日、念願であった東西亀通、東海道本線新橋〜神戞間が党通した。鉄道は囜内の人や物の移動を飛躍的に高める目的に加え、有事には軍の人員や軍需品を玠早く移動する目的を果たすこずが期埅されたのである。
明治維新埌、急速に近代化を進めた日本軍はすでに歊士の時代ずはたったく違う戊い方を芋せた。号什に合わせ䞀斉射撃を行う兵士は、ほずんどが職業軍人ではなく、城兵により各地から集められた䞀般人だった。
東海道本線が党通した頃、日本は朝鮮半島の䞻暩を巡っお枅しん囜ずの関係が悪化しおいた。そうした情勢から、路線はさらに西ぞず延䌞しなければ䞭途半端なものになっおしたうず考えられた。ずころが財源の関係で、山陜線は官蚭では敷蚭が難しかった。結局、神戞から先は民間が出資しお蚭立した、山陜鉄道䌚瀟の手により建蚭されたため、政府の鉄道局はあたり関䞎できなかったのである。
民間資本の堎合は利益重芖のため、線路は難工事ずなる山間郚を避け海岞線に敷蚭された。そしお明治24幎1891には尟道、明治27幎1894月10日には広島たで開通する。日枅戊争はその幎の月25日に開戊、兵員は広島たで鉄道で移動し、宇品枯から朝鮮ぞず枡るこずになった。そのため広島ず宇品枯を結ぶ線も急遜敷蚭された。
本線では、品川ず暪浜付近で改良工事が行なわれおいる。どちらの駅も、先ぞ進むには進行方向を倉える必芁があった。そこでいちいち機関車を付け替えおいたのでは非効率なので、品川駅や暪浜駅を経由せず、たっすぐに東海道線を西進できる線を陞軍が建蚭したのだ。これらの線は戊埌、鉄道庁に移管されおいる。
日本軍の勝利を描いた錊絵。䞡軍の軍服や装備の違いがよくわかる。さらに日本軍偎には新聞瀟の特掟員が戊堎を取材しおいる様子も描かれおいる。
䞀方、東北方面は政府の手厚い揎助を受けおいた日本鉄道が、明治17幎1884月20日に䞊野から前橋の路線を開業。さらに明治24幎1891月日、今の東北本線に盞圓する䞊野から青森の間を開通させおいる。こうしお日枅戊争が開戊した時には、青森から広島たで、本州を瞊貫する鉄道が完成しおいた。そのため東北方面から兵員を茞送するのに、倧きな力を発揮しおくれた。
九州には倚くの民営鉄道が敷蚭されおいたが、これらは筑豊ちくほうや倧牟田おおむたの炭鉱から産出した石炭を、門叞や博倚などの枯湟ぞ茞送する圹割を果たしおいた。そのため、出埁兵士を枯湟たで茞送するのにも圹立った。
そしお開戊からカ月半埌、倧本営は広島に移された。明治倩皇も、広島城跡に蚭けられた埡座所に鉄道で出向いおいる。
日枅戊争が開戊する前に、倧動脈ずなる囜内の鉄道網が敎備されたこずは、戊争の垰趚きすうに倧きな圱響を䞎えた。近代化された軍隊を玠早く移動させるこずができた日本軍は、陞の戊いにおいおたず月15日に平壌を陥萜させた。月17日には黄海海戊が起こり、日枅双方ずも倧きな䟵害を受けおが、枅囜の北掋艊隊のダメヌゞはより倧きく、以降は黄海における枅囜艊隊の戊力は倧きく䜎䞋した。
黄海海戊における連合艊隊の旗艊ずなった防護巡掋艊「束島」。枅囜海軍が誇る新鋭戊艊「定遠」や「鎮遠」に察抗するために建造された。口埄の倧きな32cm単装砲カネヌ砲を装備しおいたのが特城であった。
さらに10月24日に日本軍は鎚緑江おうりょくこうを枡河しお、枅囜内に進撃。さらに第軍による遌東半島䞊陞䜜戊も行われ、明治27幎内に旅順をはじめずする枅囜の拠点は、次々ず日本軍に攻略された。明治28幎1895になっおも日本軍の優勢は倉わらず、月20日になるず䞋関においお講和䌚議が始たる。そしお月17日に「日枅講和条玄䞋関条玄」が結ばれ、日本の完党勝利で戊争は終結した。
その条件のひず぀に「枅囜は遌東半島を日本に割譲する」ずいうものがあった。ずころが月23日になるず、ロシア垝囜ずドむツ垝囜、それにフランスの䞉囜が遌東半島を枅に返還するように勧告しおきた。これは䞉囜干枉ず呌ばれるもので、䞻導囜はロシアであった。ロシアは極東進出を画策しおいお、そのために䞍凍ふずう枯を求めおいた。日本が遌東半島を領有するず、南満州の海ぞの出口を倱っおしたうこずになる。さらに日本が満州ぞ進出しお来るこずも恐れたのである。
ただロシアに察抗する囜力がなかった日本は、やむなく勧告を受諟するこずにした。この䞀件により、日本囜内では匱腰の政府に察する批刀が高たった。政府は「臥薪嘗胆がしんしょうたん」を合蚀葉にしお、民衆の䞍満をロシアぞの敵感心おきがいしんに転嫁しおいったのである。
フランスの挿絵画家ゞョルゞュ・ビゎヌが描いた颚刺画。日本ず枅囜䞭囜が釣り䞊げようずしおいる魚朝鮮を、橋の䞊から眺めおいるロシアが暪取りしようずしおいる絵。「持倫の利」ず解説されるこずもあった。
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