亀山郁夫「ドストエフスキー「悪霊」の衝撃」(光文社新書) 共産党支配からマフィア資本主義に転換したロシアでは、予言の書として衝撃となった。日本では? (original) (raw)

日本では「悪霊」の翻訳は5種類あり(入手しやすいのは新潮文庫江川卓訳と光文社古典新訳文庫亀山郁夫訳とKINDLE米川正夫訳)、当初から「スタヴローギンの告白」も挿入されていた。
ロシアでは事情が異なる。レーニンが「悪霊」を無価値とみなし、共産党社会主義を否定する悪質な本という扱いで発禁同然だった。読めるようになったのは1971年になってから。「スタヴローギンの告白」原稿が見つかったのは1906年だ(異稿発見が1921年)が、その版には「スタヴローギンの告白」は挿入されていない。「スタヴローギンの告白」がついた版が出版されたのは1990年以降だった。(亀山郁夫「謎とき『悪霊』」(新潮選書)によると、1930年代に「悪霊」の出版計画を立てた者はスターリン政権下で粛清されたとのこと。)

ソ連崩壊とマフィア資本主義を経験したロシアのドストエフスキー研究者のリュドミラ・サラスキナは以下のように言う。「悪霊」は世界を創りかえるという政治的情念を描き出し、悪と破壊の力を見せつけた小説だった。それはソ連共産党の支配の現実にあっていた。ソ連の崩壊は「悪霊」の世界のリアリティを失わせたが、代わりに資本主義の跋扈と金に対する欲望で「罪と罰」(だけでなく「白痴」「未成年」)の時代に人々が投げ出された。という指摘はとても大事。なるほど俺らはドストエフスキーが描いた異様な世界に生きているのか。
最近「悪霊」を読み直したが、うまくとらえられなかった。ことにスタヴローギンがわからなかった。そこで手軽に入手できる解説書を読む。この新書は「悪霊」を新訳した亀山郁夫(1949年生まれ)が、サラスキナ氏(1947年生まれ)にインタビューし、聞けなかった質問をメールで回答してもらうというもの。そこにサラスキナ氏らの論文を二編追加している。上のようなロシアの状況で研究しているせいか、応答はとても真摯。
それによると、「悪霊」はスタヴローギンの苦患遍歴の物語。彼は様々な罪(もっとも大きいのは少女マトリョーシャを凌辱して自殺に追い込んだこと、それを見て放置したこと:ただし少女は合意の上で性向に至ったので凌辱とは言えないかもとのこと)を犯してきた悪魔的存在だが、彼にも救いはあるかを検討してきた。ドスト氏の答えは再生の道はない、出口はない、自分を殺すだけしかないだった。だからキリスト教社会でももっとも美的ではなく、志としてもっとも低いとみなされる首つりで自殺させた(ユダの自殺を思い起こさせる)。似たようなキャラにラスコーリニコフがいるが、彼は真人間になり正しい道に戻り人間として復活できるとみたのと好対照(は亀山郁夫の評。サラスキナは再生の道はない、出口はないとみている。俺の見方は後者に近い)。そのうえスタヴローギンは苦患を克服する計画(「告白」の自家出版本を配布するとか、マリヤとの結婚を公開するとか、リザヴェータと結婚するとか)を持っていたが、ピョートルが先回りして奪い取っていった。そこに彼の影響下にあった人たちの大量死がおこる。五人組だけでなく、シャートフから奪い取って懐胎させたシャートワとその子供に、ステパン氏らも死ぬ。すべての過去が燃え尽きる。誰よりも強いことを自覚しているのにチーホンに心を読まれるという恥辱を受ける。そうなると、もはや生きていることが無意味になった。
だいたい納得。いくつか違うなと思ったのは、マトリョーシャが母親に折檻されていることに言及がないこと。少女マトリョーシャの「神を殺してしまった」はスタヴローギンを誘って身を投じたことに由来するというが、少女がDVの被害者であることをみると、そうは言えないのじゃないか。このあとマトリョーシャはスタヴローギンを避け続けたのだし。もうひとつはマリヤの足が悪いことについて。女性の足は男にとって魅力そのものであり、足が悪いのは魅力がないことを意味する。それは良いとして、足の悪い女性に魅かれる男がドスト氏のキャラにいる。スタヴローギンだけでなく、ラスコーリニコフとアリョーシャ・カラマーゾフ。魅力がないゆえに魅かれる、障害を持つ女と結婚したがる。ここは深堀りできそうなものを。
スタヴローギンをとらえそこねたのは、大事なこと決定的なことは小説の前にすでに終わっているせいではないか。すでに大学や別の街でさまざまな罪と誘惑を繰り返してきた。それを反省し生まれ変わるという意思をもって街に帰ってきた。どのような犯罪をどのように行ってきたかは現在の話として書かれない。そのできごとや苦痛をスタヴローギンは語らない。他の人の語りやテキストでしかわからない。反省や生まれ変わろうとする試みはない。スタヴローギンは街に帰ってきたときには抜け殻。そこから悪魔的存在であることを理解するのは難しい。

補完論文
サラスキナ「アイスランドのスタヴローギン」 ・・・ わずか二度登場するだけのスタヴローギンのアイスランド行(学術調査隊の一員として)。その意味を同時代の文献から探る。どうやらロシア人による調査隊は実在しないが、1865年にロシア語で翻訳出版されたヴェルヌ「地底探検」によっているとのこと。このときヴェルヌの小説はふしだらということで回収された。それを含めた地獄行きイメージがアイスランドにあるとのこと。
(この読みは見事!)
亀山郁夫アウラを求めて」 ・・・ スタヴローギンが最も罪深い人間であるのは、アウラ・霊的感覚・神秘感を喪失して世界と断絶していること、善と悪の判断基準をなくしていることにある。アウラを感じるためにはイコン(聖像)との感応が不可欠であるが、西洋的知性の持主であるスタヴローギンと五人組は聖像を冒涜してばかり。またスタヴローギンの周りには二人のマリヤがいるが、彼女らはスタヴローギンを救うことができなかった(ことに赤ん坊を失ったことが重大)。
(ドスト氏になったかのようにみると、アウラをキーワードにするのは正解。でも俺はドスト氏のように宗教国家に統合しようとは考えないので、これでは解にならない。人間や自然にアウラを見ることができないような、自然と社会と人間との断絶や喪失を持つようになった背景をもっとみないと。キリスト教に権威を認めない、内なるキリストを持たないという理由では不十分。)

で、このあとに亀山郁夫「謎とき『悪霊』」(新潮選書)を読んだ。著者畢生の大作で「悪霊」研究の総決算でとても熱のこもった本。でも、読後にメモしたいことがない。もちろん俺の読みが浅はかであることに恥じることになることばかりだったのだが(たとえばスタヴローギンの縊死はロシアの大地に触れない姿をとることで、ロシア主義・土壌主義を拒否するものであるという指摘に驚愕)、著者の詳細精緻な鑑賞と解釈は俺の生や読みと何の関係があるの、という思いだけが残った。「悪霊」という事件に張り巡らされた謎をとく手腕は名探偵の「さて皆さん」を思わせたのだが、事件の謎が解けても小説の神秘に全然届いていないと思うのだ。
その理由は俺の観念好きにある。シェストフの「不安の哲学」みたいな一読しても理解困難な文章と語彙を欲しがっているせい。そのような日本の難解好きに応えるような書き方をしない。この国の過去のドストエフスキー評論の大半が内容空疎な観念をもてあそぶものばかりだったので、そうではないスタイルで書いたのだろう。自分は江川卓の「謎とき『罪と罰』」のような、読後さらに想像(妄想)を膨らませるようなエッセイを期待していた。

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