豊田市貝津町『お助け地蔵』 (original) (raw)

貝津神社から南の県道58号線を右折、一本目を左折して伊保川を越えた右側に赤い幟のはためく小さな堂を見付け立ち寄ってみました。

赤い幟が立つお助け地蔵から南の眺め、伊保川沿いの田んぼが広がる一帯に貝津町、猿投山の眺め。
この道を更に南に上ると高台の伊保原町に至ります。
緑の看板は貝津町リサイクルステ―ション。

上は明治頃と現在の周辺の比較です。
これまでは伊保川左岸を巡って来ましたが、今回は貝津神社から車で2・3分程の伊保川右岸にやってきました。
大きく変わっていないように見えますが、山にはゴルフ場、丘陵地は造成され里山は住宅地へ姿を変えている事が分かります。

お助け地蔵全景。
祠はリサイクルステ―ションの入口左に鎮座しています。

たくさんの赤い奉納幟がはためくお助け地蔵、これがなければ素通りしていただろう。
切妻の拝所と開けっ放しの堂で、左に緣起が刻まれた石碑が立っています。
地蔵堂としては奉納旗の数が多く、それだけ地元で親しまれている証だろう。

地蔵尊の緣起
大正の中頃、詠歌講六人あり、その中の深見はま女、霊夢の中に「湧き清水のほとりに地蔵を祭って人々の幸せを守るように」とのお告げを受け、講の人々と相談して地蔵尊を建立した。
その前に、きれいなおいしい清水が滾々と湧いて桶からいつも流れ出ていた。
通行人、村人たちは、この清水に喉をうるおし、 お地蔵様にこの清水をおかけしては、お参りして幸せをを願い「水かけ地蔵さん」と呼んて親しんでいた。
重病で食物が喉を通らないとき、この清水て命をつないだとも伝えられている。
時移り第二次世界大戦起り、伊保原に海軍飛行場が建設され、このあたりもその一部となった。
終戦時、世は混乱し、お堂も傾き清水の桶もなくなったが気にとめる人もなかった。
昭和24年、渡辺広吉氏夫妻が当地に来住され、ここに休むおり、草むらの中に放置されている地蔵尊に気づき、ほこらを起して清掃し信仰をしていた。
昭和37年水野元夫氏や渡辺広吉氏が中心になり、村人や少年院の方々の援助によってお堂は完成した。人々、尊像の多くのお助けに誰いうことなく「お助け地蔵」と呼ぶようになった。
雨来益々参詣する者多く「祈願してかなえられざることなし」と信者いや増し村人そのお慈悲に感謝している。
平成6年六月吉日 お助け地蔵奉賛会 」

ここにあった伊保原の海軍飛行場の場所について、過去の地図や航空写真で調べて見たが地図には現れなかった。
ここから南の愛知少年院の南側に、東西に2㌔程の直線道路が延びており、このあたりが滑走路の跡と言われています。(右の地図の赤線部分)
お助け地蔵の鎮座地も基地の一部とあるので、かなり大きな規模だったと思われます。
終戦が昭和20年、草むらの地蔵尊が見つけられたのが昭和24年、終戦直後の混乱の時代、人々の記憶から地蔵が忘れ去られるのも当然かもしれない。

お助け地蔵祠の正面全景。
大きなおたすけ地蔵尊の額の先には二体の石像が安置されています。
手前の椅子に腰かけ、内に抱えた悩みを聞いてもらうのだろう。

堂内の石像。

左がお助け地蔵で、右の像の詳細は良く分からなかったが、戦前、戦後の混乱の中で野に打ち捨てられていた地蔵。

お告げを受け人々の救済のために地蔵を祀ったその思いは、その後もこうして受け継がれている。
悩める人を助ける地蔵と人々の助けにより護られているお助け地蔵、ともに助けられ存続している。

お助け地蔵

創建 / 大正中頃
祭神 / お助け地蔵
境内社 / ・・・
所在地 / ​豊田市貝津町西向畑
参拝日 / 2024/09/06
貝津神社から 車移動 / ​​​貝津神社から南へ県道58号線を右折、一本目を左折、伊保川を越えた右側移動時間2・3分程​​​

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