お犬さまが見てる--映画『落下の解剖学』について (original) (raw)

(本記事は映画『落下の解剖学』のネタバレを含みます)*1

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ときどき奇妙なカットが挟まりますね。

「母親の裁判をもっと見たい」と裁判官に翌日の傍聴を訴える少年を左下から見上げてみたり、自宅近くの小高い丘から現場検証を見下ろす主人公の視点でズームしてみたり、終盤の中華料理屋でそれまで店内に据えられていたカメラが突然ワンカットだけガラス越しに人物を映したり。

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有名作家である女性、その夫が不審死を遂げ、殺害容疑が作家にかかる、果たして真相は? といった、ひとやまいくらのRASHOMONスタイルのプロットは、さして重要でもないといえるし、同時に大変重要であるともいえます。

たしかにその物語のためにある語りの仕方ではあるからです。

『落下の解剖学』は、謎に対してさまざまな角度から視線を浴びせる映画です。

謎はもちろん人間の数だけある。夫の死はジャンル的な意味でもミステリーであり、主人公は犯人なのかそうでないのか判然とせず、主人公の息子が実際になにを目撃したのかは観客には秘されていて、弁護士が心の底から主人公の無実を信じているのかどうかは不明です。

わたしたちは人間というブラックボックスを、外から観察してジャッジすることしかできない。

本作ではその多様な観察の方法を提示します。その手数が『落下の解剖学』のユニークさなのだといってしまってもいい。

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見ること、聞くこと、読むこと、すべてが総動員された映画ですが、とりあえずは見ることです。映像。あるいは画像。

オープニングクレジットでは数葉の写真が映ります。主人公家族のポートレイトで、どの写真も幸福そうです。

しかし、写真というのは瞬間を凍結させて切り取るメディアであり、結局長期的には機能不全を起こしている主人公家族を正しく表せなかったともいえるし、逆に、いや、一瞬であればこんなに美しい瞬間もあったのだと振り返られることもできる。実際映画の後半では、そのような使われかたもされていますね。

事件が起こってからは、「真相」を映すべくさまざまなタイプの映像が出てくる。どれもはっきり画面の質感が異なります。それはそれぞれのカメラのレンズがなにを欲望しているかの違いでもある。

報道のテレビカメラは主人公をだれにとっても他人にします。

いちおう中立的ではある。しかし、その中立性は「どちらに転んでもおもしろい」といった野次馬根性的なものでもあります。有名作家のゴシップですからね。

一方で、検察側はCGで作った棒人間的なアニメーション(日本でも報道番組でよく見るやつ)で犯行のプロセスを再現しようとします。

その非人間的な映像は非人間的なつめたさを帯びているが故に論理的な事実を提示しているかのような印象もある。たしかにこのような手順を踏まないと、あんな不自然な血痕の付着のしかたはしない。そうだ、検察はただしい。そのように印象づけられます。

そう、法廷劇というフィクションにおいて裁判とは印象をいかに操作するかというゲームなのです。

弁護士も主人公にホームビデオの前で証言のリハーサルをさせます。それも事実を洗うためではなく、印象を検証するためです。事件当時、なにをやっていたのか、言葉の上で再演させる。

現場検証も一種の再演です。しかしそこには主人公の息子という不確定の要素があって、証言がたびたびブレる。彼は事故で後天的に視神経に障害をおってしまって、眼がほとんど見えないわけです。

しかし、彼は見ないわけではない。法廷で密かに録音されていた事件前日の夫婦喧嘩のシーンで彼は実際に居合わせなかった現場を幻視しますし、終盤には生前の父の言葉を回想します[*2](#f-b763fcc5 "監督自身は「この映画には回想を入れなかった」と述べているにもかかわらず。あるいは私たちはこの発言を踏まえて、少年の"回想"をもう少し真剣に掘り下げるべきかもしれません。https://diceplus.online/feature/378")。

もうひとつ、彼は眼を持っています。

イヌです。

父親の遺体を発見するときに少年はボーダーコリーを連れているわけですが、それから警察が現着してからの騒ぎをカメラはこのイヌの目線の高さで捉えます。このイヌにも「視点」があることを提示しているわけです*3

どの登場人物にも依らず、ただ出来事だけを見つめる眼、それは劇中で唯一中立的な眼でもあります*4

裏を返せば、そのほかのカメラの眼はどこかで印象が偏っている、誰かの視線だということ。

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本格的な審理に入る前に弁護士は主人公に警告します。「真相は問題じゃないんだ」と。

他人からどう見えるかが問題であって、そういう意味では本作における司法は真実を希求する場ではない。さまざまな人物の視点を観客に提供する場です。

主人公はその視線に耐えられない。

自らの私生活をセンセーショナルにフィクション化して、半自伝作家として名声を博している彼女は言ってみれば、それまで一方的にまなざす側であったわけですが、それが完全に反転する。この人は殺人犯ではないか、この人は夫と不仲ではなかったか、この人はバイセクシャルではないか、この人は淫奔な不倫女ではないか……そういう目が法廷とテレビを通して彼女にそそがれます*5

月並みな言い方が許されるならば、観客もまたそのスキャンダラスな好奇の視線に参加しているのです。

途中で彼女は親密になりつつある弁護士の眼の奥底に潜む考えに怯え、「私をジャッジしないで」と乞います。法廷劇においては、かなり直截的なことばです。まさしくジャッジするのが裁判の場なのですし。

しかし、彼女がもっともおそれているのは裁判官の眼でも一般大衆の眼でも、あなたの眼でもありません。息子の眼です。見えないはずの彼の眼に、殺人犯としての自分が映るのをなによりもおそれています。

結局は、無罪か有罪かというよりも、少年がどう事件を捉えるか、というのが重要になってくる話なのですね。

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本作における眼やカメラが現在しか捉えられない、あるいは写真のように限定的にしか切り取ることのできない一方で、音や声は過去を保存できている、ように見える。

夫婦喧嘩の録音、冒頭のインタビューシーンの録音、主人公の書いた小説の朗読、そうしたものは生々しい即物性を帯びています。

しかし、それらもまた結局のところ、解釈のアングルによって印象が左右されてしまいます。この人はわるい妻だ、いや、悪いのは夫だ、この小説に書かれた文章は本心を反映している、いや、それはフィクションであって現実じゃない……ここでは音や声もまた不完全なメディアなわけです。

それは冒頭のインタビューシーン、主人公の声を記録する作業を夫からのノイズによって邪魔されるというくだりからも示されています。

本作における声でもっとも重要なのは、劇中で一度も話されない声です。ドイツ人である主人公の母語*6

ロンドンで出会ったフランス人と結婚してフランスに住む彼女は家庭内では英語でコミュニケーションを取り、裁判でも当初はがんばってフランス語を喋ろうとしますが、途中から英語に切り替えます。

夫との夫婦喧嘩のくだりでは、英語は彼女にとっての「中間地点(字幕では妥協点)」であると表現されます。完全アウェイであるフランス語よりは幾分か親しい位置ですが、それでもやっぱり英語は彼女のホームグラウンドではない。

山ほどある羅生門スタイル映画でも本作をユニークにしているところは、ここでしょう。

夫を殺したか殺していないかの真実は彼女だけが知っています。しかし、その真実は他人には不可視の彼女の内奥に隠されたまま、外に曝け出されることはない。彼女のドイツ語の声がそうであるように。*7

裁判結審後の中華料理店での打ち上げシーンで不自然にはさまるガラス越しのカットもそういうことなのです。

観客は彼女という存在を一枚隔てた側からしか観察することができない。彼女を怪物扱いする視線も、彼女に寄り添った視線も、彼女をただしく捉えることはない。

いや、ひとつだけ。

ラストカットを思い出してください。ベッドに眠りにつく彼女に寄り添ったのは誰だったでしょうか? 愛する息子? 庇護者となった弁護士? いや、そのどちらでもない。

イヌです。

曇りなく、いかなるジャッジもくださないがゆえに彼女にそばにいることができる眼。*8

本作を本年度でも最高のイヌ映画たらしめているのは、そういうところなのですよ。

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