<小田原北条氏の防衛戦(その22)> 北関東最後の防衛拠点 鉢形城(1/2) (original) (raw)
こんにちは、rekikakkunです。
から始まった、豊臣vs後北条氏の小田原防衛戦も、
6月に入り、いよいよ終盤戦となりました。
下の小田原防衛戦2のマップで見ますと、
①から⑩までの城が豊臣軍に奪われ、
**⑪忍城**は籠城中です。
前田利家達北方軍を迎え撃った⑤松井田城での
攻防戦は激戦となりましたが、その後一部を除き、
主力を**小田原城**に参陣させていた北条氏の支城は
豊臣軍により、比較的安易に落城していきました。
そして4月、5月が過ぎて6月に入りますと、
いよいよ**⑫鉢形城**等、北条本家が直接籠城防衛
している主要防衛拠点中心の激戦必須の攻防戦
となり、最終局面に向かいます。
簡単にまとめますと下記になります。
⇒1カ月籠城後、降伏開城
⇒1日で落城、ただし壮絶な攻防戦
⇒3カ月籠城後、降伏開城
6/26 ⑮石垣山城 **豊臣秀吉**による築城
⇒降伏開城
以後上記の順番でご紹介の予定です。
今回は北関東最後の主要防衛拠点とも言える、
⑫鉢形城探訪となります。
1.鉢形城の歴史(日本百名城、国指定史跡)
関越自動車道で川越から高崎へ北上する間、
だいぶざっくりですが、
・次の嵐山小川ICから、杉山城(嵐山町)。
とそんな距離感になります。
寄居町の案内によりますと、**鉢形城**は文明8年(1476年)、
伝えられています。
う、**長尾景春**。。。やばいな~、難しいぞ😅
戦国初期の関東をややこしくした張本人の一人
というイメージ(笑)
まじめに少しだけ確認しますと、
長尾氏は**坂東八平氏**の一つです。
従ったものの、**宝治合戦で三浦氏**滅亡と共に没落しました。
その後室町初期に**関東管領上杉氏**に従い、
白井、総社、鎌倉、越後長尾氏等、
関東を中心に分流し、勢力を広げていました。
(越後長尾家は有名な**長尾景虎**を輩出します)
景春の父景信は、白井長尾氏の家系で、
景信、景春共に**山内上杉家**で活躍しましたが、
父の死後、景春は家宰にはなれませんでした。
それに不満を持ち、文明8年築城した**鉢形城**で
反乱を起こしましたが、最終的には**太田道灌**
により4年後の文明12年に鎮圧されました。
これを**長尾景春の乱**と呼ばれています。
その後彼は懲りる事無く、**上杉謙信**の父で同族の
関東で反乱を続けましたが、最終的に
今川家に身を寄せ、1514年死去したとのことです。
相当波乱万丈の様ですね~。
**長尾景春**の歴史になってしまいました。
未だに分かった気にならないです。😆
時代は進み**鉢形城は、後北条家**の所有となり、
北関東支配の拠点となりました。
天文15年(1546年)、公方管領といった旧体制との
決戦に勝利し、**後北条氏**関東制覇への転機となった
川越夜戦後、**北条氏康の五男氏邦**が同地域の豪族
藤田康邦の養子となり、元服後は娘の大福御前と
結婚、**鉢形城主**となりました。
拡張整備されていった模様です。
1590年北条防衛戦で氏邦は北条家中内で
意見が合わなかった為、拠点の**鉢形城**に戻り、
約1カ月籠城戦を戦い抜きました。
その後開城し、廃城となった様です。
2.鉢形城の縄張り
鉢形城 縄張図
鉢形城は荒川と深沢川が合流する細長い断崖の上に
築城されているので、アクセスが南西の1辺
(上図では左上)しか無いという天然要害の立地です。
また深沢川の外側も外曲輪を配置し、大きな堀、
土塁を巡らせ、その遺構が残っています。
昭和7年と早い時期に国指定史跡となったからか、
遺構が広く残され、発掘、復元、公園化等により、
安全でとても見易い城跡になっています。
3.鉢形城探訪
さて、自動車で鉢形城へ向かいます。
荒川に到着しました
荒川の左側(写真左半分)が**鉢形城**です
鉢形城歴史館に駐車します。
(ただし三の丸の近くにも駐車場があります)
鉢形城歴史館入口
駐車場がとても広いです。
コンビニでおにぎりを買って駐車場で食べようと思いましたが、
なんか団体さんが駐車場に隣接している屋根の下で
お弁当を食べてたので、私も車を出てその近くで食べました。
駐車場にある休憩所?みたいな所
念のためコンビニで買いました。
やっぱり食事処がほぼ無かったので良かったです。👍
さて、まずは歴史館に入ります。
歴史館内、これ1枚のみ
歴史館は、ほとんど撮影禁止だったので残念でした。
色々説明板とかありましたが覚えられない( ;∀;)
しかし**鉢形城**を廻った後、帰りに再度行き、
半券を見せて再入場して良いですか?って聞いたら、
どうぞと言ってくれたので👍です。
(せこいだけの話か😆)
さて、歴史館から自転車で**鉢形城**を廻ります。
歴史館から出たところ
深沢川の深い谷(天然の水堀)
深沢川を越える
道を西に進んで右手が伝逸見曲輪、奥が三の曲輪
伝秩父曲輪の四脚門を拡大、後で行きます
道の左側の伝大光寺曲輪
~大手口側の巨大な空堀と虎口~
鉢形城の大手側
唯一川が無い城の南西側(大手側)に設置された巨大な空堀
大手側の**空堀**
巨大な切岸
大手虎口1
大手虎口2
~三の曲輪、伝秩父曲輪、四脚門~
虎口を入ると三の曲輪内にある伝秩父曲輪の門
(ちょっと三の曲輪の範囲が分かってないですが・・・)
三の曲輪の東側
三の曲輪の南側
先程この先から伝秩父曲輪の門を見ました
とにかく広いです。
鉢形城の象徴、伝秩父曲輪の復元四脚門。 よく**鉢形城**の紹介写真に出てきますね
縄張図で見ますと、赤丸の位置です
四脚門から伝秩父曲輪に入ります
入ると石積がありました。
これもよく**鉢形城**の写真で見ます
石積土塁が結構長く復元されてます
振り返ると石積土塁と四脚門
伝秩父曲輪には庭園があったそうです
伝秩父曲輪の北端を見てます
写真手前が庭園の池跡かも
伝秩父曲輪の北側、荒川の眺望、あまりよくは見えない
伝秩父曲輪
伝秩父曲輪
奥の山はもしかしたら豊臣軍が居そう
四脚門から伝秩父曲輪を出ます
~三の曲輪の南東側、馬出、伝逸見曲輪~
三の曲輪から下の赤丸付近に行きました。
縄張図ですと、この赤丸の辺りです
分かり難いですが、真ん中の凹みが水堀で、
左側の出っ張っている所が馬出かな?
写真の奥側は深沢川の渓谷になります。
川の内側に水堀があるのがちょっと不思議です。
遠くに曲輪とその上にも曲輪
伝逸見曲輪の範囲が分からなくて・・・
四脚門の方向
馬出先端側から水堀見る
凄い遺構ですね~
馬出以外の案内が無かった様な
馬出から水堀を見る
左側が深沢川
まだまだ凄い所があり長くなりそうなので、
**鉢形城**は2回に分け、今回はここまでとします。
次回は、下図赤丸の二の曲輪からで、
見所が多い所です。
二の曲輪
二の曲輪の空堀
二の曲輪の馬出