<小田原北条氏の防衛戦(その22)> 北関東最後の防衛拠点 鉢形城(1/2) (original) (raw)

こんにちは、rekikakkunです。

天正18年(1590年)3月29日の**山中城の戦い**

から始まった、豊臣vs後北条氏小田原防衛戦も、

6月に入り、いよいよ終盤戦となりました。

下の小田原防衛戦2のマップで見ますと、

①から⑩までの城豊臣軍に奪われ、

**⑪忍城**は籠城中です。

開戦当初、**豊臣秀吉本軍を迎え撃った山中城**と、

前田利家北方軍を迎え撃った⑤松井田城での

攻防戦は激戦となりましたが、その後一部を除き、

主力を**小田原城**に参陣させていた北条氏の支城は

豊臣軍により、比較的安易に落城していきました。

そして4月、5月が過ぎて6月に入りますと、

いよいよ**⑫鉢形城**等、北条本家が直接籠城防衛

している主要防衛拠点中心の激戦必須の攻防戦

となり、最終局面に向かいます。

簡単にまとめますと下記になります。

6/14 鉢形城 北条氏邦本人(氏康五男

⇒1カ月籠城後、降伏開城

6/23 八王子城 **北条氏照**家臣

⇒1日で落城、ただし壮絶な攻防戦

6/24 韮山城 北条氏規本人(氏康四男)

⇒3カ月籠城後、降伏開城

6/26 ⑮石垣山城 **豊臣秀吉**による築城

小田原城の眼前に築城し、心理的威圧

7/5 小田原城 北条氏政氏康次男)、氏直

⇒降伏開城

以後上記の順番でご紹介の予定です。

今回は北関東最後の主要防衛拠点とも言える、

鉢形城探訪となります。

1.鉢形城の歴史(日本百名城、国指定史跡)

**鉢形城(はちがたじょう)は埼玉県寄居町**にあります。

関越自動車道で川越から高崎へ北上する間、

だいぶざっくりですが、

東松山IC降りて、**松山城**(東松山市)。

・次の嵐山小川ICから、杉山城嵐山町)。

・そのまた次の花園ICから、**鉢形城**(寄居町)。

とそんな距離感になります。

寄居町の案内によりますと、**鉢形城**は文明8年(1476年)、

山内上杉家の家臣であった**長尾景春**により築城されたと

伝えられています。

う、**長尾景春**。。。やばいな~、難しいぞ😅

戦国初期の関東をややこしくした張本人の一人

というイメージ(笑)

まじめに少しだけ確認しますと、

長尾氏は**坂東八平氏**の一つです。

源平合戦の時は平氏に味方し、平家滅亡後は三浦氏

従ったものの、**宝治合戦三浦氏**滅亡と共に没落しました。

その後室町初期に**関東管領上杉氏**に従い、

白井、総社、鎌倉、越後長尾氏等、

関東を中心に分流し、勢力を広げていました。

越後長尾家は有名な**長尾景虎**を輩出します)

景春の父景信は、白井長尾氏の家系で、

山内上杉氏家宰(筆頭重臣)として、

景信、景春共に**山内上杉家**で活躍しましたが、

父の死後、景春家宰にはなれませんでした。

それに不満を持ち、文明8年築城した**鉢形城**で

反乱を起こしましたが、最終的には**太田道灌**

により4年後の文明12年に鎮圧されました。

これを**長尾景春の乱**と呼ばれています。

その後彼は懲りる事無く、**上杉謙信**の父で同族の

**長尾為景北条早雲**とも関係を持ち、

関東で反乱を続けましたが、最終的に

今川家に身を寄せ、1514年死去したとのことです。

相当波乱万丈の様ですね~。

**長尾景春**の歴史になってしまいました。

未だに分かった気にならないです。😆

時代は進み**鉢形城は、後北条家**の所有となり、

北関東支配の拠点となりました。

**武田信玄上杉謙信**からの攻撃も耐えたとの事です。

天文15年(1546年)、公方管領といった旧体制との

決戦に勝利し、**後北条氏**関東制覇への転機となった

川越夜戦後、**北条氏康五男氏邦**が同地域の豪族

藤田康邦の養子となり、元服後は娘の大福御前

結婚、**鉢形城主**となりました。

この**北条氏邦の時に鉢形城**が現在の規模に

拡張整備されていった模様です。

1590年北条防衛戦氏邦は北条家中内で

意見が合わなかった為、拠点の**鉢形城**に戻り、

約1カ月籠城戦を戦い抜きました。

その後開城し、廃城となった様です。

2.鉢形城の縄張り

鉢形城 縄張図

鉢形城荒川深沢川が合流する細長い断崖の上に

築城されているので、アクセスが南西の1辺

(上図では左上)しか無いという天然要害の立地です。

また深沢川の外側も外曲輪を配置し、大きな

土塁を巡らせ、その遺構が残っています。

昭和7年と早い時期に国指定史跡となったからか、

遺構が広く残され、発掘、復元、公園化等により、

安全でとても見易い城跡になっています。

3.鉢形城探訪

さて、自動車で鉢形城へ向かいます。

荒川に到着しました

荒川の左側(写真左半分)が**鉢形城**です

鉢形城歴史館に駐車します。

(ただし三の丸の近くにも駐車場があります)

鉢形城歴史館入口
駐車場がとても広いです。

コンビニでおにぎりを買って駐車場で食べようと思いましたが、

なんか団体さんが駐車場に隣接している屋根の下で

お弁当を食べてたので、私も車を出てその近くで食べました。

駐車場にある休憩所?みたいな所

念のためコンビニで買いました。
やっぱり食事処がほぼ無かったので良かったです。👍

さて、まずは歴史館に入ります。

歴史館内、これ1枚のみ

歴史館は、ほとんど撮影禁止だったので残念でした。

色々説明板とかありましたが覚えられない( ;∀;)

しかし**鉢形城**を廻った後、帰りに再度行き、

半券を見せて再入場して良いですか?って聞いたら、

どうぞと言ってくれたので👍です。

(せこいだけの話か😆)

さて、歴史館から自転車で**鉢形城**を廻ります。

歴史館から出たところ

深沢川の深い谷(天然の水堀)

深沢川を越える

道を西に進んで右手が伝逸見曲輪、奥が三の曲輪

秩父曲輪四脚門を拡大、後で行きます

道の左側の伝大光寺曲輪

~大手口側の巨大な空堀と虎口~

鉢形城の大手側

唯一川が無い城の南西側(大手側)に設置された巨大な空堀

大手側の**空堀**

巨大な切岸

**空堀の脇をJR八高線**が通っています。単線だね~

大手虎口

大手虎口

~三の曲輪、伝秩父曲輪、四脚門~

虎口を入ると三の曲輪内にある秩父曲輪の門
(ちょっと三の曲輪の範囲が分かってないですが・・・)

三の曲輪の東側

三の曲輪の南側
先程この先から秩父曲輪の門を見ました

とにかく広いです。

鉢形城の象徴、秩父曲輪復元四脚門。 よく**鉢形城**の紹介写真に出てきますね

縄張図で見ますと、赤丸の位置です

四脚門から秩父曲輪に入ります

入ると石積がありました。
これもよく**鉢形城**の写真で見ます

石積土塁が結構長く復元されてます

振り返ると石積土塁と四脚門

秩父曲輪には庭園があったそうです

秩父曲輪の北端を見てます
写真手前が庭園の池跡かも

秩父曲輪の北側、荒川の眺望、あまりよくは見えない

秩父曲輪

秩父曲輪
奥の山はもしかしたら豊臣軍が居そう

四脚門から秩父曲輪を出ます

~三の曲輪の南東側、馬出、伝逸見曲輪~

三の曲輪から下の赤丸付近に行きました。

縄張図ですと、この赤丸の辺りです

分かり難いですが、真ん中の凹みが水堀で、
左側の出っ張っている所が馬出かな?
写真の奥側は深沢川の渓谷になります。
川の内側に水堀があるのがちょっと不思議です。

遠くに曲輪とその上にも曲輪
伝逸見曲輪の範囲が分からなくて・・・

四脚門の方向

馬出先端側から水堀見る
凄い遺構ですね~
馬出以外の案内が無かった様な

馬出から水堀を見る
左側が深沢川

まだまだ凄い所があり長くなりそうなので、

**鉢形城**は2回に分け、今回はここまでとします。

次回は、下図赤丸の二の曲輪からで、

見所が多い所です。

二の曲輪

二の曲輪空堀

二の曲輪馬出