ゴールデンカムイと日本史③ウィルタとは? (original) (raw)
尾形と頭巾ちゃんの戦いの中で登場した「ウィルタの棺」は印象深いですよね。今回は樺太の少数民族ウィルタについて調べてみました。
ウィルタとは?
ウィルタは樺太(ロシア名でサハリン島)の東岸を主な居住域とする少数民族です。伝統的には樺太中部の幌内川流域と北部のロモウ川流域で生活していました。 少数民族のニヴフ(ギリヤーク)と共生しています。
ウィルタの人口はロシア連邦の2002年の国勢調査によるとロシア国内に346人おり、そのほとんど298人が樺太(サハリン)で生活しています。
世界に300人とは、、かなりの少数民族で驚きました。
ウィルタはトナカイの民?
『ゴールデンカムイ』樺太編では尾形がトナカイを撃ち殺してしまうところから始まり、移動手段はトナカイでしたね。
ウィルタはロシア人やアイヌから「オロッコ (Orokko) 」と呼ばれていました。
「オロッコ」の意味ですが、満洲・ツングース語の「オロ oro(家畜としてのトナカイ)」から由来すると考えられ「トナカイの民」「トナカイ飼養者」という意味になります。
オロチ族やオロチョン族と混同されることもありますが、異なる民族です。
『ゴールデンカムイ』に登場したウィルタの棺ですが、なかなかネット上に記載がありませんでした。ウィルタは土葬も行うようですが、冬の間は土が凍っていて土を掘るのが困難なので布に巻いて木の上に保管していたそうです。
ウィルタの歴史
ウィルタは文字で記録を残す文化がなく、日本や中国の歴史書に登場する記録を遡る必要があります。
人類学者で考古学者の鳥居龍蔵(1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1953年(昭和28年)1月14日))は『日本書紀』において阿倍比羅夫(あべのひらふ)が戦った「粛慎(しゃくしん)」をウィルタ族であろうと唱えています。
阿倍比羅夫は越後守でしたが斉明天皇4年(658年)に海を渡って蝦夷地を平定したと言われています。北海道には阿倍比羅夫を祀る「比羅夫神社」がありますね。
元以降の中国の文献にある「䚟因」「亦里于」「使鹿部」についてもウィルタである可能性が指摘されています。
1800年(寛政12年)に蝦夷地御用御雇に任じられて蝦夷地勤務となった間宮林蔵が、1808年(文化5年)に樺太探検する過程で樺太南部のタライカのウィルタ民族と遭遇しています。
『北蝦夷図説』において間宮林蔵はウィルタを「ヲロッコ夷」として紹介しています。
1856年に樺太を踏査した松浦武四郎は『北蝦夷余誌』を残し、ウィルタの詳しい図説が残っています。松浦武四郎は、ウィルタ語の語彙のいくつかをカナで書き残しており、ウィルタの人びとの気質については「懦にして惇朴也」と記しています。
ウィルタの言語
言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語ですが、ロシア語の影響から少しずつ話者が少なくなっているようです。
ウクライナの人口調査では、自身がウィルタ(オロッコ)に属すると答えた人が959人におよんだものの、ウィルタ語を母語とすると答えた人は12人(1.25パーセント)だけでした。
ウィルタがロシアの影響を受けた歴史を見てみましょう。ロシア帝国は、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約の後、ウィルタの住む土地を支配する事となります。
1857年から1906年にかけては、サハリンに流刑地が設定され、多数のロシアの犯罪者や政治亡命者がやってきます。流刑者の中には民族誌学者レフ・シュテルンベルクもおり樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタを研究しています。
ソフィアも樺太の監獄に収容されていましたね。
ゴールデンカムイの舞台の30年ほど前の1875年の「樺太・千島交換条約」によってサハリンは全島ロシア領となります。ロシアの影響下でロシア正教に改宗、ロシア風の名前を子どもにつけるウィルタも増えていったようです。
まとめ
・ 樺太に住む300人のウィルタ語を話すツングース系民族を限定してウィルタという。
・ロシア帝国時代流刑地だったので、ロシアと混血した人もおり、太平洋戦争後、網走、釧路に移住した人もいる。
・網走の北海道北方民族博物館。少数民族に関する展示あり行きたい。
キロランケニシパ。。