ジキルとハイド「暗闇に潜む恐怖を聞く」 現代語版、夜の怪奇小説、 原作者、ロバート・ルイス・スティーブンソン、 現代語訳:Relax Stories TV (original) (raw)

ジキルとハイド:Jekyll & Hyde

ロバート・ルイス・スティーブンソンStevenson Robert Louis

現代語訳:Relax Stories TV

はじめに

ジキル博士とハイド氏はロバート・ルイス・スティーヴンソンによって1886年に発表された怪奇小説です。この物語は善良な医師であるヘンリー・ジキル博士と彼の中に潜む邪悪な人格エドワード・ハイドの二重生活を描いています。ジキル博士は自らの欲望を抑えきれず薬を使ってハイドという別人格を生み出しますがその結果彼の人生は破滅へと向かっていきます。この小説は人間の二面性や欲望の危険性を鋭く描き出しており読者に深い洞察を与えます。

人生の教訓

  1. 人間の二面性

誰しもが持つ善と悪の二面性を認識しそれをコントロールすることの重要性を教えてくれます。ジキル博士のように自分の中の悪を抑えきれないと破滅を招くことになります

  1. 欲望の危険性

欲望に屈すると自分だけでなく周囲の人々にも悪影響を及ぼすことがあります。ジキル博士がハイドを生み出したことで多くの人々が苦しむことになりました

  1. 自己制御の重要性

自己制御ができないとどんなに善良な人でも悪に染まる可能性があることを示しています。ジキル博士は自己制御を失った結果ハイドという邪悪な存在を生み出してしまいました

  1. 倫理と科学のバランス

科学の力を使う際には倫理的な視点を忘れないことが重要です。ジキル博士は科学の力を過信し倫理を無視した結果悲劇を招きました

この小説は現代においても多くの教訓を与えてくれる名作です。ぜひ一度読んでみてください。

キャサリン・ディ・マットスに

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神が結んだ絆は解かぬがよい。

わたしたちはやはりあのヒースと風の子でありたい。

ふるさとは遠く離れていても、それもまたあなたとわたしのためだ。

エニシダが、かの北国に美しく咲き匂うのは。

1. 戸口の話

弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑むことは決してありませんでした。話す時は冷たく、口数も少なく、話し下手でした。感情をあまり外に出さなかったのです。彼は痩せていて、背が高く、無愛想で、陰気でしたが、それでもなんとなく人々に好かれるところがありました。気楽な集まりなどでは、特に口に合ったお酒が出ると、優しさが彼の目から輝いていました。実際、それは彼の話の中には決して出てこないものでした。

しかし、食後の顔の無言のシンボルであるその目に現れ、また、普段の行動の中には、もっと頻繁に、もっと明確に、現れていました。彼は自分に対しては厳格で、一人の時にはジンを飲み、ワインを我慢しました。劇場が好きなのに、20年もの間、劇場に足を運んだことはありませんでした。しかし他人にはとても寛大で、人々が元気に遊び回るのを、まるで羨ましそうに、驚嘆することもありました。

そして、彼らがどんな窮地に陥っている場合でも、非難するよりは助けることを好みました。「私はカインの精神が好きだよ、」と、彼はよくこんな奇妙な言い方をしました。「兄弟が勝手に落ち込んでいくのを見ているだけさ。」こんな具合だから、堕落していく人々には最後まで立派な知人となり、良い影響を与え続けるような立場に立つことが多かった。そして、そういう人々に対しても、彼らが彼の事務所に出入りしている限り、全く態度を変えることはありませんでした。

もちろん、こういう芸当はアッタスン氏にとっては何でもないことでした。というのは、何しろ感情を表さない男だったし、その友人関係でさえも同じような人の良い寛大さに基づいているようでした。ただ偶然にできた出来合いの友人だけで満足しているのは内気な人間の特徴ですが、この弁護士の場合もそうでした。彼の友人と言えば、血縁の者か、でなければずっと長い間の知り合いでした。

彼の愛情は、常春藤のように、時間と共に成長したもので、相手が友人として適当だというわけではありませんでした。彼の遠縁で、有名な粋人であるリチャード・エンフィールド氏との友情も、もちろんそうして出来たものでした。この二人がお互いに何を認めることができたのか、あるいはどんな共通の話題を見つけることができたのかということは、多くの人々にとって解きがたい難問でした。

日曜日に二人が散歩しているのに出会った人たちの話によると、二人は口も利かず、ひどくつまらなさそうな顔付きをしていて、誰か知人の姿を見るといかにもほっとしたように声をかけるのが常だということでした。そのくせ、その二人はこの日曜の散歩をとても大事にして、毎週の一番の大切なものと考え、それを欠かさずに楽しむためには、いろんな遊びをやめたばかりではなく、しなければならない用事までも放り投げたのでした。

そんな散歩をしていたある時のこと、二人が何気なく街の賑やかな地域の横丁を通りかかったことがありました。その横丁は狭くて、まあ静かな方でしたが、それでも日曜以外の日には商売が繁盛していました。そこに住んでいる商人たちはみんな景気が良さそうでした。そして、みんなは競ってその上にも景気を良くしようと思い、儲けの余りを惜しげもなく使って店を飾り立てました。

だから、店々は、まるでにこやかな女売り子の行列のように、客を招くような様子で道の両側に並んでいました。日曜日には、いつもの華やかな美しさも覆われ、人通りも少なかったが、それでもその横丁は、くすんだその周辺と比べると、森の中の火事のように輝いていました。それに鎧戸は塗り替えたばかりで、真鍮の標札は十分に磨き立ててあり、街全体の調子がさっぱりしていて派手なので、すぐに通行人の目を引き、喜ばせました。

東へ向かって歩いていて、左手の一つの街角から二軒目のところに、路地の入口があり、街並みは途切れていました。そしてちょうどそこに、気味の悪い一軒の建物が切妻を街路に突き出していました。その建物は二階建てで、一階には戸口が一つだけ、二階は色のあせた壁だけで、窓は一つもなく、どこを見ても長い間汚れ放題にされていた跡がありました。

ベルもノッカーも取り付けられていない入口の戸は、変色していました。浮浪者はその凹んだ戸口にすりすりと入り込んで戸の板でマッチを擦り、子供たちは踏み段の上で店を張って遊び、学校の生徒は形状を作り出すためにナイフの切れ味を試したりしていました。そしてもう三十年近くの間、誰一人として出てきて、そういう勝手な客たちを追い払ったり、彼らが荒らした跡を修繕したりする者はいませんでした。

エンフィールド氏と弁護士は横街の反対側を歩いていましたが、路地の入口の真向かいまで来ると、エンフィールド氏がステッキを上げて指しました。

「あの戸口に気がついたことがありますか?」と彼は尋ねました。そして、相手がうなずくと、彼は言い足しました、「あの戸口を見ると、私は奇妙な話を思い出すのです。」

「なるほど!」とアッタスン氏は言いましたが、少し声の調子が変わっていました。「それで、それはどんなことなのですか?」

「ええ、それはこうなんです、」とエンフィールド氏が答えました。「私はある遠いところから家へ帰る途中でした。暗い冬の朝の三時頃のことです。その途中は、街灯以外には全く何も見えないところでした。どの通りも人はみんな寝ていて、どの通りも何かの行列を待っているように明かりがついていて、それでも教会のようにがらんとしていました。私は、人がじっと耳を澄まして警官の姿でも現れればいいと思い始める、あの気持ちになってきました。

と突然、二人の人影が見えたのです。一人は小柄な男で、足早に東の方へと歩いていきました。もう一人は8つか9つくらいの女の子で、十字路を一生懸命に走ってきました。そして、その二人は当然のことながら街角でぶつかってしまいました。

するとその時恐ろしいことが起こったのです。その男が子供の体を平気で踏みつけて、子供が地面で泣き叫んでいるのをそのままにして行ってしまうのです。

聞いただけでは何でもないようですが、見ていては地獄のようなことでした。それは人間の仕業ではない。憎らしい鬼か何かのような仕業でした。私は「こら待て」と叫んで、駆け出して行き、その男の襟をつかんで、元のところまで連れ戻しました。

そこには泣き叫んでいる子供の周りにもう人だかりができていました。その男はまるで平然としていて何の手向けもしませんでしたが、ただ私を一目見た眼付きの気持ちの悪さときたら、私は駆け足をした時のようにびっしょりと汗が出ました。

出てきた人たちは女の子の家の者で、すぐに医者もやってきました。子供はさっきその医者を呼びに行ったのでした。ところで、医者の話では、子供は大したこともなく、ただ怖がったのだということでした。で、あなたはこれでこの話は終わったと思ったかもしれません。ところが一つ奇妙なことがあったのです。

私はその男を一目見た時から、とても嫌いでした。子供の家の人々もやはりそうでしたが、それはもちろん当然のことでしょう。しかし、私が驚いたのは医者の場合でした。その男は世間一般の平凡な医者で、特に年寄りでも若者でもなく、特別に変わった様子もなく、ひどいエディンバラ訛りがあり、鈍感な男でした。それでも、その男もやはり私たち他の人々と同じでした。

私が捕まえている男を見るたびに、その医者は彼を殺してでもやりたいという気持ちになって胸がむかむかし、顔色が青ざめるのが、私にはわかりました。私が心の中で思っていることが医者にわかったように、医者が心の中で思っていることも私にはわかりました。でも、殺すなんてできることではないので、私たちはその次にできるだけのことをしました。私たちはその男に言いました。

私たちはこの事を世間に公表して、あなたの名前がロンドンの端から端まで噂の的になるようにしてやることができるし、またそうしてやるつもりだ。もし君に友人や信用があるなら、私たちは必ずそれをなくさせてやる、とね。そして、私たちは猛烈に非難している間じゅう、女性たちをできるだけ彼に近づけないようにしました。何しろ女性たちは怒り狂っていたので、あんなに憎らしそうな顔の集まりを私は今までに一度も見たことがありません。

しかも、彼はその真ん中に立って、むっとした、皮肉っぽい冷たい態度をして、

――怖がっていることは私にはわかったが、

――しかし、まるで悪魔のように平然と押し通していました。彼はこう言いました。

「もし君たちがこの事を利用しようというのなら、もちろん僕はどうにも仕方がない。紳士なら誰だってトラブルは避けたいのだからね、」とね。「金額を言ってくれ、」と彼は言いました。そこで、私たちは子供の家の人々のために彼から百ポンド搾り取ることにしました。

彼は明らかに嫌がって頑張りたかったようですが、私たちみんなの様子には何となく危害でも加えそうな気勢があったので、とうとう折れて出しました。次はそのお金を受け取ることですが、彼がどこへ私たちを連れて行ったと思います? なんと、それがあの戸口のところでした。――鍵をすっと取り出して、中へ入り、やがて、金貨でおおよそ十ポンドばかりと、残額をクーツ銀行宛の小切手にしたものを持って出てきました。

その小切手は持参人払いに振り出されたもので、ある名前が署名してありました。その名前がこの話の要点の一つなのですが、その名前は言えません。しかし、それはともかく世間によく知られていて、新聞などにもよく出る名前なのです。金額は大したものです。

しかし、その署名は、それが偽筆でさえなければ、それ以上の額でも支払うことができるものでした。私はその男にずけずけと言いました。何もかも疑わしいようだ。まともな世間では、朝の四時なんて時刻に穴蔵みたいなところに入って行って、百ポンドにも近い大金を他人の小切手で持って出て来る者なんていないよ、とね。

彼は全く平気な様子で皮肉っぽく笑っていました。「安心してください。私は銀行が開くまで皆さんと一緒にいて、その小切手を自分で現金に替えてやるから、」と言うのです。そこで私たちはみんなで出かけました。医者と、子供の父親と、彼と、私とですね。

そして私の部屋で夜明けまで過ごし、翌日、朝食を済ませると、一緒に銀行へ行きました。私は自分でその小切手を差し出して、これは偽造だと思うが、と言いました。しかし、そんなことは全くありませんでした。その小切手は本物だったのです。

「ちぇっ!」とアッタスン氏が言いました。

「あなたも私と同感なんですね、」とエンフィールド氏が言いました。「そうですよ、ひどい話です。何しろ彼は誰一人として相手にならないような奴で、本当に憎らしい男なんですからね。それから、その小切手を振り出した人というのは紳士の典型とも言える人だし、それに有名でもあるし、しかももっと困ったことには、いわゆる慈善家の一人なんです。

これはきっと、ゆすりでしょうね。立派な人間が若い時の道楽か何かを種にされて目の玉の飛び出るほどの額をねだり取られているのでしょうよ。だから、ゆすりの家と私はあの家のことを言っているのです。でも、それだけでは全てを説明したことにはならないんですがね、」と彼は言い足しました。そしてそう言い終えると物思いに沈んでしまいました。

その物思いから、彼はアッタスン氏の突然の質問で呼び覚まされました。「それで、小切手の振り出し人がそこに住んでいるかどうかは知らないんですか?」

「そうかもしれませんね。」とエンフィールド氏は答えました。「しかし、私は偶然その人の住所を覚えていました。その人は何とかいう広辻スクエアに住んでいるのです。」

「それで、人に尋ねてみたことはないのですか?その戸口の家のことを?」とアッタスン氏が言いました。

「ええ、ありません。ちょっと遠慮したんです。」という返事でした。「もともと私は人のことを詮索するのが嫌いなんです。そういうことは何だか最後の審判みたいでね。何か詮索を始めるとしますね。それは石を転がすようなものですよ。こちらは丘の頂上にじっと座っている。

すると石の方はどんどん転がって行って、他の石をいくつも転がす。そして、まるで思いもよらぬどこかの人の良いおじいさんが自分の裏庭で石に頭を打たれて死に、そのためにその家族の者は名前を変えなければならなくなったりしますからね。いいや、私はね、これを自分の主義にしているのですよ。物事が変に思われれば思われるだけ、それだけ益々詮索しない、というのをね。」

「それはなかなか良い主義だ。」と弁護士が言いました。

「だが私は自分だけであの場所を調べてみました、」とエンフィールド氏が言い続けました。「どうもあそこは人が住んでいる家とはとても思えませんね。他に戸口はなく、あの戸口にも、例の事件の男が極めて稀に出入りする以外は、誰一人として出入りする者がいません。

路地側の二階には窓が三つあるが、一階には一つもない。窓はいつも閉めてあるが、しかし綺麗になっています。それから、煙突が一本あって、大抵煙が出ていること。だから、誰かがあそこに住んでいるには違いありません。でもそれも大して確かなことではないんです。何しろあの路地のあたりは建物がぎっしり建て込んでいて、どこが家の区切りかよくわからないんですから。」

二人はまた暫くは黙ったまま歩いていました。それから「エンフィールド君、」とアッタスン氏が言いました。「君のその主義は良い主義だよ。」

「ええ、私もそう思っています。」とエンフィールドが答えました。

「でも、それにしても、」と弁護士は言葉を続けました。「聞きたいことが一つある。私は子供を踏みつけたその男の名前を聞きたいのだが。」

「そうですね。」とエンフィールド氏が言いました。「それは言っても別に差し支えないでしょうね。その人はハイドという名前でしたよ。」

「ふむ、」とアッタスン氏が言いました。「その男は見たところどんな男なのですか?」

「その人の顔立ちを説明するのは簡単ではありません。その様子には何か変なところがありました。何となく不快で、何となくとても憎らしい感じがしました。私はこれまでにあんなに嫌な人間を見たことがありませんが、それでいてそれがなぜかよくわからないのです。

その男はどこか異常に違いありません。異常という感じを強く人に与えます。しかし、どこがそうかということは私にもはっきり言えません。とても奇妙な顔立ちでしたが、それでいて何一つ普通から外れたところを挙げることも実際できません。いや本当に、私にはとても説明がつきません。私にはその男の顔立ちを説明できません。といって覚えていないわけではありません。なぜなら今でも私はその男の顔を思い浮かべることができるからです。」

アッタスン氏はまた黙って少し歩いていましたが、確かに何か考え込んでいました。とうとう「その男が鍵を使ったというのは確かなんですか?」と彼は尋ねました。

「一体あなたは……」とエンフィールドは驚いて言いかけました。

「うん、わかっているよ、」とアッタスンが言いました。「こう言うと変に思われるかもしれないが、実は、私がもう一方の人の名前を聞かないのは、私がとうにそれを知っているからなんだ。ねえ、リチャード、君の話はひしひしと響いたよ。もし今の話にどこか不正確な点があったら、訂正した方がいいよ。」

「そんならそうと言ってくれればいいのに、」と相手はちょっと不機嫌な様子で答えました。「しかし、私は学者的にもいいくらいに正確に話したのです。その男は鍵を持っていました。それどころか、今でも持っていますよ。一週間と経たないうちに、彼がそれを使っているのを私は見たのです。」

アッタスン氏は深い溜息をついたが、一言も言いませんでした。すると若者の方が続けてまた言い始めました。「何も言うものではないという教訓をまた一つ得ましたよ、」と彼は言いました。「自分のおしゃべりが恥ずかしくなりました。このことはもう二度と触れないという約束をしましょう。」

「よろしいとも、」と弁護士は言いました。「約束しよう、リチャード。」

2.ハイド氏の捜索

その晩、アッタスン氏は暗い気分で一人暮らしの家に帰り、食欲もなく夕食についた。普段、日曜日などには、食事が終わると暖炉のそばに座り、難解な神学の本を一冊机に置いて読み始める。近くの教会の時計が十二時を打つと、厳粛に感謝の祈りを捧げて床につくのが、彼の習慣だった。

しかし、この夜は違った。食卓が片付けられるとすぐに、彼はろうそくを持ち上げ、自分の事務室に入った。そこで金庫を開け、一番奥から「ジーキル博士遺言書」と書かれた封筒を取り出した。眉間にしわを寄せながら、その内容をじっくりと読んだ。

遺言書は全文が本人の手書きだった。それは、アッタスン氏がそれを保管していたものの、作成には一切の助力を拒んでいたからだ。その遺言書には、医学博士、民法学博士、法学博士、王立科学協会会員などの肩書を持つヘンリー・ジーキルが死亡した場合、彼の全財産は「友人であり恩人であるエドワード・ハイドの手に渡ることが規定されていた。

しかも、ジーキル博士が「三カ月以上失踪したり、理由不明で不在になった場合、エドワード・ハイドは直ちにヘンリー・ジーキルの後を継ぎ、家族に少額の支払いをする以外には何の負担も義務も負わないことが規定されていた。

この証書は長い間、弁護士の不快感の種であった。それは、弁護士として、また人生の穏健な慣習を愛する者としての彼を不快にさせた。彼にとって、突飛なことは無謀なことだった。

しかし、今までは、彼がそのハイド氏について何も知らないために、彼の憤慨が増す一方だった。それが今や急に一変し、その人物のことを知っているために、彼の憤慨が増す一方だった。その名前だけを知っていて、それ以上のことを何も知らなかった時でも、それは十分に不都合だった。その名前が数々の嫌な特性を持つようになると、ますます不都合になった。

そして、長い間彼の視界を遮っていた変わりやすい朦朧とした霧の中から、突如として悪魔の姿がはっきりと現れた。「これは気が狂ったことだと思っていた」と、彼は不快な書類を金庫の元の場所にしまい込みながら言った。「しかし、今度は何か悪事ではないかという気がしてきた。」

彼はそう言って蝋燭を吹き消し、外套を着て、医学の牙城とも言われるキャヴェンディッシュ広街スクエアへと出かけた。そこには、彼の友人である著名なラニョン博士が邸宅を構え、患者たちに対応していた。「誰か知っている人がいるとすれば、それはラニョンだろうと彼は考えた。

彼を見知っている召使いが喜んで彼を迎え入れた。彼は待たされることなく、すぐに食堂へと案内された。そこにはラニョン博士が一人でワインを飲んでいた。元気で健康で、快活な赤ら顔の紳士で、もしゃもしゃした髪の毛はまだそういう年齢でもないのに白く、動作は大げさでてきぱきしていた。

アッタスン氏を見ると、椅子から飛び立って両手を差し出して歓迎した。この愛想の良さはこの人の癖で、少し芝居じみて見えたが、しかし真心から出ているのだった。というのも、この二人は古くからの友人で、小学校から大学までの同窓であり、お互いに十分な自尊心があり、相手を尊敬し、そして必ずしもそうとは限らないが、お互いに交際することをとても楽しみにしている人たちだったからだ。

ちょっとした雑談の後で、弁護士はひどく気になっている、例の問題に話を向けた。「ねえ、ラニョン、君と僕とはヘンリー・ジーキルの一番古くからの友人だったよね?」と彼は言った。

「その友人もお互いにもっと若かったらね」とラニョン博士が笑って言った。「でも君の言う通りだろうと思う。でも、それがどうかしたの? 僕は最近全然彼に会ってないよ。」

「なるほど!」とアッタスンが言った。「君たちは共通の関心で結ばれていると僕は思ってたんだ。」

「そうだったんだよ」とラニョン博士が返事した。「でも、もう十年以上も前から、ヘンリー・ジーキルはあまり突飛になってきて、僕には我慢できなくなったんだ。彼は変になりかけてきたんだ、精神的にね。

もちろん僕は昔の友情から今でも彼のことを気にかけてはいるけど、最近はずっとあの男にめったに会ってない。あんな非科学的なでたらめばかり言われてはと」博士は突然顔を真っ赤にして言い始めた。「デーモンとピシアスだって仲が悪くなるよ。」

「二人は何か学問上のことで意見が違っただけなんだな、」と彼は考えた。

そして、もともと学問的熱情などを持っていない(財産譲渡証書作成のことだけは別であるが)男なので、「ただそれだけのことさ!」とつけ加えさえした。

彼はしばらく友人の気がしずまるのを待って、尋ねようと思ってきた例の問題に近づいた。「君は彼が世話している――ハイドという男に会ったことがあるかね?」と彼は訊いた。

「ハイド?」とラニョンがきき返した。「いいや。そんな男は聞いたことがない。これまでにね。」

弁護士が大きな暗い寝床に持ち帰った知識はそれだけであった。その寝床で彼が寝つかれずにしきりに寝返りを打っているうちに、真夜中も過ぎてだんだんと明け方に近くなった。まっくら闇の中で考え悩み、いろいろな疑問に取巻かれて、思いまどった彼にとっては、くるしい一夜であった。

アッタスン氏の住居のすぐ近くにある教会の鐘が六時を打った。それでもまだ彼はその問題を考え続けていた。これまで、その問題は彼の知的な面だけに関わっていた。しかし、今では彼の想像力もそれに加わるようになった、というよりも、それに取り込まれてしまった。

そして彼がカーテンを下ろした部屋の真っ暗な夜の闇の中で、横になって寝返りを打ち続けていると、エンフィールド氏から聞いた話が、一連の幻灯の絵巻物となって彼の心の前を通り過ぎていった。

夜の都会を一面に照らしている街灯が現れる。次に足早に歩いていく一人の男の姿。次に医者のところから駆け戻ってくる子供の姿。それからその二人がぶつかり、人間の姿をした悪鬼が踏み倒して、その泣き叫ぶのを気にもかけずに通り過ぎていく。

それからまた、豪奢な邸宅の一室が見える。そこには彼の友人が眠っていて、夢を見ながら微笑んでいる。するとその部屋のドアが開かれ、ベッドのカーテンがさっと引き開けられ、眠っている友人が呼び起こされる。そして、見よ! その傍らに一人の男が立っている。その男は権力を与えられているので、そんな真夜中でも、友人は起き上がってその命令を聞かなければならないのだ。

この二つの場面に現われる男の姿が、夜通し弁護士の心につきまとった。そして、いつでも彼がうとうと眠りかけると、寝静まっている家々にその姿が一層忍びやかにすうっと入って来たり、または街灯のともった都会の広い迷路をその姿が一層速く、目まいがするほどにも速く駆け回り、街角という街角で女の子を踏みつぶして、泣き叫ぶままにして行ったりするのが、見えるのであった。

それなのに、その男には彼が見覚えのある顔というものがなかった。夢の中でさえ、その男には顔がなく、あったとしても、見ようとすると目の前で溶けてしまうのだった。

こんなわけで、弁護士の心の中に、本当のハイド氏の顔を見たいという異常に強い、まるで法外な好奇心が湧き上がり、どんどん大きくなってきたのだ。もし一度だけでもその男を見ることができたなら、大抵の不思議な事柄というものがよく調べてみればそうであるように、この不思議もはっきりして恐らくすっかりなくなってしまうだろう、と彼は考えた。

友人の奇妙なこのみ、または束縛(どちらに言ってもいいが)に対する理由、またあの遺言書の驚くべき文句に対する理由までも、わかるかもしれない。それに、少なくとも、それは見ておいて損のない顔であるだろう。慈悲心を持たない人間の顔であり、それを見ただけで、あの安っぽく感動しないエンフィールドの心に、忘れられない憎悪の念を起こさせたような顔だからだ。

その時からだった、アッタスン氏が商店の並んでいる例の横街にある例の戸口のあたりへ始終行くことになったのは。執務時間前の朝でも、事務が忙しくて暇が少ない昼時でも、霧のかかった都会の月光に照らされている夜でも、昼も夜も人通りの少ない時でも多い時でも、弁護士の姿は、その定めの見張り場に見つけられた。

「彼がハイド氏なら、自分はシーク氏になってやろうと彼は考えていた。

とうとう彼の忍耐は報われた。晴れ渡ったある夜のこと、空気は霜を結ぶほど寒く、街路は舞踏室の床のようにきれいで、街灯は、それを揺らす風もないので、光と影の模様をはっきりと描いていた。商店が閉まる十時になると、その横街はひどく寂しくなり、四方八方からロンドンの低いうなるような音が聞こえてくるが、大変静かになった。小さな音でも遠くまで聞こえた。

道路のどちら側でも、家々の中から漏れてくる音がはっきりと聞き取れた。そして通行人が近づいてくる足音は、その人がまだずっと遠くにいるうちからわかった。

アッタスン氏は、その見張り場に来てから数分たったころ、あの変な軽やかな足音が近づいてくるのに気がついた。毎夜見張りをしているうちに、彼は、たった一人の人間の足音でも、その人間がまだずっと遠くにいるうちに、市中の騒々しい騒ぎから、突然にはっきりと聞こえてくるあの奇妙な感じに、もうとっくに慣れていた。

しかし、この時ほど彼の注意が鋭く引きつけられたことは前には一度もなかった。それで、今度こそはどうもそうらしいという強い迷信的な予感を抱いて、彼は路地の入口へ身を隠した。

足音はどんどん近づいてきて、街の角を曲がると急に一層大きくなった。弁護士は、入口から覗くと、自分が対峙しなければならない人間の風体がすぐにわかった。小男で、地味な服装をしていて、そんなに遠くから見てさえも、その男の顔つきは、何となく、弁護士にはひどく気に入らなかった。

その男は近道をするために道路を横切って、まっすぐに戸口の方へと向かった。そして歩きながら、自分の家に近づく人のようにポケットから鍵を取り出した。

アッタスン氏は前に出て、通り過ぎようとするその男の肩にちょっと手を触れた。「ハイドさん、ですよね?」

ハイド氏ははっと息を吸い込みながら驚いた。しかし彼の驚きはほんの一瞬だった。そして彼は弁護士をまっすぐには見なかったが、大変落ち着いて答えた、「それは私の名前です。何のご用でしょうか?」

「あなたが入ろうとするところを見かけたものですからと弁護士は答えた。「私はジーキル博士の旧友で、――ゴーント街のアッタスンという者ですが、――あなたは私の名前を聞いたことがあるはずです。だから、ちょうどいいところでお会いしたから、通していただけるかもしれないと思ったのです。」

「あなたはジーキル博士には会えません。留守ですからとハイド氏は鍵の穴の塵を吹き飛ばしながら答えた。それから今度は突然、しかし、やはり顔を上げずに、「どうして私をご存じだったのですか?」と尋ねた。

「あなたに」とアッタスン氏が言った。「お願いがあるんですが?」

「どうぞ」と相手は答えた。「どんなことでしょう?」

「あなたの顔を見せていただけませんか?」と弁護士が尋ねた。

ハイド氏はためらっているようだった。しかし、やがて、何か急に思いついたように、挑戦的な態度で向き直った。そして二人は数秒間じっと互いに見つめ合った。「もうこれでまたお目にかかってもわかるでしょうとアッタスン氏が言った。「こうしておけば何かの役に立つかもしれません。」

「そうですとハイド氏が答えた。「我々は会えてよかった。それから、ついでに、私の住所も知っておいた方がいいでしょう。」そうして彼はソホーのある街の番地を教えた。

「おや!」とアッタスン氏は心の中で考えた、「この男もあの遺言書のことを考えていたのかな?」しかし彼は自分の気持ちを外に出さずに、ただその住所がわかったという返事に低い声を出しただけだった。

「で、今度は」と相手が言った。「どうしてあなたは私をご存じだったのですか?」

「これこれこういう人だと聞いていたから」という答えだった。

「誰から?」とハイド氏が尋ねた。

「私たちには共通の友人がいます」とアッタスン氏が答えた。

「共通の友人!それは誰ですか?」と少し声がかれたようにハイド氏が聞き返した。

「例えば、ジーキルと弁護士が答えた。

「あの男がそんなことを言ったことなんてありませんよ」とハイド氏は怒りを露わにして叫んだ。「あなたが嘘をつくとは思いませんでした。」

「まあまあ」とアッタスン氏が言った。「それは穏やかな言い方ではありませんね。」

相手は大きく唸ったが、それが獰猛な笑いに変わった。そして次の瞬間には、驚くべき速さで、戸口の錠を外して、家の中へと姿を消してしまった。

ハイド氏に置き去りにされた弁護士は、不安の化身のように、しばらく立ち尽くしていた。それからゆっくりと街を登り始めたが、数歩ごとに立ち止まり、途方に暮れている人のように額に手を当てた。

彼が歩きながらこんなに考え込んでいる問題は、難題の部類に入る問題だった。ハイド氏は色が青白くて小男だったし、どこと言って奇形なところはないが不具という印象を与えるし、不愉快な笑い方をするし、弁護士に対して臆病と大胆との混ざった一種の凶悪な態度で振る舞ったし、しゃがれた囁くような、幾らか切れ切れな声で物を言った。――これらすべての点は彼にとって不利であったが、しかし、これらを全部一緒にしても、アッタスン氏がハイド氏に抱いた、これまで経験したことのない憎悪、嫌悪、恐怖を説明することができなかった。

「他にまだ何かあるに違いない」と、この困惑した紳士は言った。「何と言っていいかわからないが、何かそれ以上のものが確かにあるのだ。本当に、あの男はどうも人間らしくないようだな! 何か洞窟人のようなところがあると言おうか? それとも、あの昔話のフェル博士のようなものだろうか?

それともまた、忌わしい霊魂から出る光が、あのように肉体から湧き出て、その肉体の形を変えたものなのだろうか? どうもそうらしいようだ。なぜなら、ああ気の毒なハリー・ジーキル、もし私がこれまで人間の顔に悪魔の相を見たことがあるとすれば、それは新しい友人のあの顔だ!」

その横街の角を曲がると、古風な立派な家の集まった一郭があったが、今では大部分はその高い身分から落ちぶれて、一階ずつに、また部屋部屋に区切って、地図版画師や、建築師や、いかがわしい代言人や、インチキ企業家など、あらゆる身分階級の人々に貸してあった。

しかし、角から二軒目の家だけが、今でもやはり、そのまま全体が一人の人が居住していた。玄関の灯り窓を除いて、今は闇に包まれてはいるけれども、いかにも富裕らしい趣のあるその家の戸口のところで、アッタスン氏は立ち止まって戸を叩いた。身なりの良い中年過ぎの召使が戸を開けた。

ジーキル博士はお宅ですか、プール?」と弁護士が尋ねた。

「見て参りましょう」と、プールは言いながら、客を大きな天井の低い、居心地の良い広間に案内した。そこは床に板石が敷かれ、かっかと燃える、むき出しの暖炉で(田舎の屋敷風に暖められ、樫の高価な箪笥が備え付けられていた。「ここの暖炉のそばでお待ちいただけますか、旦那さま? それとも食堂に明かりをつけてさしあげましょうか?」

「ここで結構、ありがとう」と弁護士は言って、その高い暖炉囲いに近づいて、それにもたれかかった。今、彼が一人取り残されたこの広間は、彼の友人の博士の得意にしているお気に入りの部屋だった。そしてアッタスン自身もいつもは、そこをロンドン中で一番居心地の良い部屋だと言っていた。

しかし今夜は、彼は気味が悪くてならなかった。ハイドの顔が彼の記憶に重苦しくのしかかっていた。彼は(彼には滅多にないことだが)人生が厭わしく感じられた。そして、気が滅入っているので、彼は、磨き立ててある箪笥に映るちらちらする暖炉の光や、天井に不安そうに動く影にも、凶事の前兆を見るような気がした。

やがてプールが戻って来て、ジーキル博士が外出しているということを知らせた時、自分がほっとしたのを彼は恥ずかしく思った。

「私はハイドさんがあの元の解剖室の戸口から入るのを見たんだ、プール」と彼は言った。「ジーキル博士が不在の時に、そんなことをしても差支えはないのか?」

「差支えなどございませんとも」とプールが答えた。「ハイドさんは鍵をお持ちなんですから。」

「あなたの主人はあの若い人を大いに信用しているようだな、プール」とアッタスンが物思いに沈みながら言葉を続けた。

「はい、旦那さま、全く信用しております」とプールが言った。「私たちはみんなあの方の言う通りにするように言いつけられています。」

「私はハイドさんと一緒になったことがないと思うんですが?」とアッタスンが尋ねた。

「ええ、ええ、おありではありませんとも、旦那さま。あの方は一度もここでお食事をされません」とその召使いが答えた。「実際、私たちはお屋敷のこちらの方であの方を滅多にお見かけしないのです。たいていは実験室の方から出入りされますから。」

「では、さようなら、プール。」

「おやすみなさいまし、アッタスンさま。」

こうして弁護士はひどく重苦しい心を抱いて家路についた。「気の毒なハリー・ジーキル」と彼は考えた、「彼が苦しい羽目に陥っているのではないかと気になってならない。彼は若いときには放蕩をした。確かに、それはずっと以前のことだ。

だが、神さまの法律には、時効法なんてものはないのだからな。そうだ、そうに違いない。何かの昔の罪という亡霊か、何かの隠してある不名誉な行為という癌なのだ。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年もたってから、罰というものは跛を引きながらやって来るものだ。」

そして、この考えに怖じ気づいた弁護士は、しばらく自分自身の過去を考えて、ひょっとして何かの旧悪がびっくり箱のように、いきなり明るみに飛び出してきはしまいかと思って、記憶の隅々までも探ってみた。彼の過去はまず過失のない方だった。

彼よりも少ない懸念をもって自分の生涯を振り返ることのできる人は少なかった。それでも彼は自分のなした多くのよくないことを思うと恥ずかしさに堪えなかったが、また、自分が今にもしようとして止めた多くのことを思うと、再び元気づいて厳粛な感謝の念を抱くのであった。

それからまた、彼は前の問題に戻って、希望の閃きを心に描いた。「あのハイドという若者もよく調べてみたらと彼は思った。「やはり秘密を持っているに違いない。あの男の顔つきから考えれば、さぞ暗い凶悪な秘密を持っているだろう。それに比べれば可哀想なジーキルの一番悪い秘密だってお日さまの光みたいなものだろう。

このままにしておくわけにはいかない。あんな奴が盗人のようにハリーの枕元へ忍び寄ることを考えるとぞっとする。可哀想なハリー、目を覚ました時にはどんなに怖いだろう! それにまた危険だ。というのは、あのハイドの奴が例の遺言書の存在を感じ取ったなら、奴は財産を相続するのを待ち焦がれるようになるかもしれないからだ。

そうだ、私は一肌脱いでやらなければならない、――もしジーキルが私にそうさせてくれるなら」と彼は言い足した。「もしジーキルが私にそうさせてくれるならだ。」するともう一度、彼の心の目の前に透明な絵のようにはっきりと、あの遺言書の奇妙な文句が見えたのだ。

3.ジーキル博士は全く安らかであった

それから二週間ほどたつと、大へん好都合にも、博士は五六人の親しい旧友を招いて、いつもの楽しい晩餐会を催した。みんな聡明で名声のある人々であり、よい酒の味がわかる連中であった。そしてアッタスン氏は、ほかの人々が帰ってしまった後までも自分で居残るように仕向けた。これは何も初めてのことではなく、それまでに何十回もあったことであった。アッタスンは、好かれるところでは、非常に好かれた。

彼を招いた人たちは、気さくでおしゃべりな連中が帰った後も、この無愛想な弁護士を引き留めることを好んだ。彼らは、思いっきり楽しんだ後に、しばらくこの控えめな客と向かい合って座り、この男の貴い沈黙によって心を冷静に落ち着かせることを好んだのである。このしきたりには、ジーキル博士も例外ではなかった。で、いま彼が炉をへだてて坐っていると、――大柄な、体の格好のよい、鬚のない五十ばかりの男で、かくれ遊びも多少あるかも知れないが、いかにも才能があり親切そうな人である――その顔付きから見ても彼がアッタスン氏に対して心からの温かい愛情を抱いていることがわかった。

「僕は君に話したいと思っていたのだがね、ジーキル」とアッタスン氏が話を切り出した。「君のあの遺言書のことを君は覚えているだろうね?」

この話題が気に入らぬことは、細かに注意して見る人にはすぐに察しられたであろう。が、博士は快活に受け流した。「気の毒だね、アッタスン」と彼が言った。「こんな依頼人を持って君は不幸だね。僕の遺言書で、君が困っているほど困っている人間ってのは見たことがないよ。もっとも、あの頑迷な衒学者のラニョンが、彼のいわゆる僕の科学的異端で困っているがね。いや、彼がいい男だということは知っているよ。そんなに顔をしかめなくてもいいじゃないか。なかなか立派な男で、僕も彼にはもっと会いたいといつも思っているんだ。しかしそれでもやはり頑迷な衒学者さ。無学で、やかましい衒学者だ。あのラニョンくらい僕を失望させた人間はなかったよ。」

「僕が、あれにはどうしても賛成できないということを、君は知っている筈だ」とアッタスンは、その新しい話題をあっさり無視して言葉を続けた。

「僕の遺言書のことか? うん、たしかに、覚えている」とちょっと鋭い調子で博士が言った。「君は僕にそう言ったことがあるよ。」

「では、もう一度そう言うよ」と弁護士は続けた。「僕はハイドという若者のことが多少わかってきたのでね。」

ジーキル博士の大きな、立派な顔は唇までも真っ蒼になり、眼のあたりには険しい色があらわれた。「僕はそれ以上聞きたくないのだ」と彼が言った。「それは我々が言わないことに約束したことだと思うがね。」

「僕の聞いたのは怪しからんことなのだ」とアッタスンが言った。

「それにしたって同じことだ。君には僕の立場がわからないんだよ」と博士は何となく辻褄の合わぬような様子で答えた。「僕は苦しい立場にいるんだよ、アッタスン。僕の立場は大変妙な――大変妙な立場なんだ。それは話してもどうにもならない事情なんだ。」

ジーキル」とアッタスンが言った。「君は僕を知っているはずだ。僕は信頼して貰ってもよい人間だ。そのことを内証ですっかりうち明けてくれ給え。そうすれば僕はきっと君をそれから救ってあげられると思うのだ。」

「ねえ、アッタスン」と博士が言った。「君は本当に親切だ。何と言ってお礼を言っていいかわからない。僕は君を十分に信じている。僕はどんな人間よりも君を信頼したいのだ。いや、どっちかと言えば、自分自身よりも君を信頼したいのだ。しかし、全くのところ、あれは君の想像しているようなことじゃないんだよ。そんなにひどいことではないのだ。で、ただ君を安心させるだけのために、一つのことを言ってあげよう。

僕はそうしようと思う時にはいつでも、ハイド氏と手を切ることができるのだ。そのことを僕は誓うよ。君には幾重にも感謝する。それから、ちょっと一言だけ付け加えておきたいんだがね、アッタスン。きっと君はそれを悪くはとらないだろうと思うんだが。それは、このことは一身上の事柄なのだから、どうかうっちゃっておいて貰いたい、ということなんだ。」

アッタスンは炉火を見つめながらしばらく思索にふけっていた。

「君の言うことが至極もっともだということは疑わないよ。」とついに彼は言って、立ち上った。

「それはそうとして、我々がこの件に触れたからには、触れるのもこれが最後にしたいものだが」と博士は続けた。「君に理解してほしいことが一つあるんだ。僕は可哀そうなハイドのことを本当に心配しているんだ。君があの男に会ったことは僕は知っている。彼が僕にそう言ったから。で彼が不作法なことをしはしなかったかと僕は気遣っている。しかし僕は、実際、心からあの若者のことをひどく、とてもひどく気にかけているんだ。それで、もし僕が死んだら、アッタスン、君が彼を我慢してやって彼の権利を彼のために取ってやると、僕に約束してほしいのだがね。もし君がすべてを知ったなら、そうしてくれるだろうと思うのだ。そして、君がその約束をしてくれるなら、僕の心から重荷が下りるのだが。」

「僕はあの男をいつか好きになれそうな風をすることはできないね」と弁護士が言った。

「僕はそんなことを頼んでいるわけじゃない。」とジーキルは相手の腕に手をかけながら懇願した。「僕はただ正当な扱いを頼んでいるだけなんだ。僕がもうこの世にいなくなった時に、僕のために彼の助けになってやって貰いたいと頼んでいるだけなんだよ。」

アッタスンは抑えきれない溜息をもらした。「よろしい。約束する」と彼は言った。

4.カルー殺害事件

それから一年近くたった一八――年十月のこと。ロンドン市民は非常に凶暴な犯罪によって驚かされ、しかもその被害者の身分が高かったので、一層世間の注意を引いた。そのいきさつは簡単ではあったが、驚くべきものであった。テムズ河から遠くないある家にひとり住まいをしている女中が、十一時ごろ二階へ寝に行った。夜中過ぎには霧が全市に立ちこめたが、夜が更けるまでは雲一つなく、女中のいる家の窓から見下ろす小路は、皎々と満月に照らされていた。彼女はロマンティックな性質だったらしく、窓の直ぐ下に置いてあった自分の箱に腰を下ろして、夢のような物思いにふけり始めた。

その時、彼女があらゆる人々と睦まじく感じ、世間のことを親しみを持って考えたことはなかった。そうして腰をかけている時に、彼女は一人の気品のある白髪の老紳士がその小路をこちらへ近づいて来るのに気がついた。するとまた、この紳士の方へ、ごく小柄な紳士がもう一人やって来たが、これには彼女を初めあまり気にとめなかった。その二人が話を交すことができるところまで(それはちょうど女中の眼の下であった)来たとき、老紳士の方がお辞儀をして、大そう立派なていねいな態度で相手に話しかけた。話をしていることは大して重大なこととは思えなかった。

実際、彼が指さしている様子から察するに、ただ道を尋ねているだけのようにも見えた。しかし、月が、話している人の顔を照らしていて、彼女はその顔を眺めるのが楽しかった。その顔はいかにも悪意のない、古風で親切な気質を表わしているように思われたが、しかしまた、正しい理由のある自己満足からくる何となく高ぶったところもあった。そして彼女の眼がもう一人の方にうつると、彼女はそれが、以前一度自分の主人を訪ねてきたことがあり、自分が嫌な気持ちになったハイド氏だとわかり、びっくりした。その男は片手に重いステッキを持っていて、それをいじっていた。が、彼は一言も答えず、じれったくてたまらない様子で聴いているようであった。

それから突然、彼はかっと怒り出して、足をどんどん踏みつけ、ステッキを振り回し、まるで狂人のように(女中の言ったところによれば)あばれた。老紳士は、大いに驚いたようで、また少し感情を害した様子で、一歩退いた。それを見るとハイド氏はすっかり自制力を失って、老紳士を地面に殴り倒した。そして次の瞬間には、猿のような凶暴さで、被害者を足で踏みにじり、続けざまに打ちのめしたので、骨は音を立てて砕け、体は路上に跳ねとばされた。その光景ともの音の怖ろしさに、女中は気を失ってしまった。

彼女が我に返って警官を呼びに行った時は二時であった。殺害者はとっくに行ってしまっていたが、被害者はめちゃくちゃに傷つけられて小路の真ん中に横たわっていた。凶行に用いたステッキは何かの珍しい、大そう丈夫で堅い木のものであったが、あの凶暴で残忍な力を揮ったために真二つに折れていた。そして折れた半分は近くの溝の中に転げ込んでいた。――片方の半分はきっと殺害者が持ち去ったのであろう。財布が一つと金時計一つ、被害者の身に着いていたが、名刺も書類もなく、ただ、封をして切手を貼った封筒が一つあり、彼は恐らくそれを郵便箱へ入れに行くところであったのだろうが、それにはアッタスン氏の住所と名前とが書いてあった。

この封筒は翌朝、弁護士がまだ寝床を離れぬうちに、彼のところへ届けられた。彼はそれを見、事情をきくと直ぐ、厳粛な顔をして言い出した。「その死体を見た上でなければ何とも申し上げ兼ねます」と彼は言った。「これは容易ならぬことかも知れません。身支度をする間どうか待って頂きたい。」そしてやはり同じ重々しい顔付きで、急いで朝食を済ませ、死体が運ばれている警察署へ馬車を走らせた。その死体のある小室へ入るや否や、彼はうなずいた。「そうです」と彼は言った。「僕はこの人を知っています。お気の毒ながらこれはダンヴァーズ・カルー卿です。」

「えっ、それは本当ですか?」と警官が大きな声で言った。そして次の瞬間、彼の眼は職業的功名心で輝いた。「これは大変な騒ぎになるだろう。」と彼は言った。「で、あなたにも狂人を捕える助力をして頂けると思いますが。」そして彼は女中の目撃したことを簡単に話し、折れたステッキを示した。

アッタスン氏はハイドの名を聞いただけで、心がひるんだ。がステッキが前に置かれると、もう疑うことができなかった。折れていたんではいるけれども、それは何年も前に彼自身がヘンリー・ジーキルに贈ったステッキであることがわかった。

「そのハイド氏というのは小柄な男ですか?」と彼は尋ねた。

「並外れて小柄で、並外れて人相が悪い、とその女中が言っているのです。」と警官が言った。

アッタスン氏は思案した。それからやがて顔を上げて言った。「僕の馬車で一緒にお出でになれば、その男の家へお連れできると思います。」

この頃には朝の九時ごろになっていて、この季節初めての霧が立ちこめていた。大きなチョコレート色の霧が空一面に垂れ下がっていた。しかし風が絶えず、この戦陣を張った水蒸気を追い散らしていた。だから、馬車が街から街へとゆらゆら進んでゆく時に、アッタスン氏は、薄明かりが濃く淡く驚くほどさまざまな色合いを示しているのを見た。あるところでは夕方遅くのように暗いかと思えば、またあるところでは、大火事か何かの明かりのように、濃いもの凄い褐色の輝きがあった。また、あるところでは、一時、霧がすっかり散って、やせ細った一条の日光が渦巻く雲の間からちらりと射し込んでくるのであった。

こういう刻々に変わる閃光の下で見るソホーの陰気な地域は、泥だらけの路や、だらしない通行人、これまでずっと消したことがないのか、それともまたも襲って来る陰気な暗さに備えて新たに火を点けたのか、それらの街灯などと共に、弁護士の眼には、悪夢の中で見るどこかの都会の一地域のように見えた。その上、彼の心に浮かぶ考えも非常に憂鬱なものだった。そして、彼が自分の同乗者をちらりと見る時に、正しい人をも時として襲う法律と、法律の執行者に対するあの恐怖を、かすかに感じたのであった。

馬車が指示された番地の前に停まった時、霧が少し晴れて、くすんだ街やけばけばしく飾り立てた酒場、低級なフランス料理店、三文雑誌や安いサラダを売る店、あちこちの家の戸口に集まっているぼろ服を着た子供たち、朝酒を飲みに鍵を手にして出てきたさまざまな国の女たちが、彼の目に映った。そして次の瞬間、黄土のように茶色の霧が再びそのあたりに降りて、彼をその野卑な周囲から遮ってしまった。そこがヘンリー・ジーキルのお気に入りの男、正貨二十五万ポンドの相続者である人物の住居であった。

象牙のような色の顔をした銀髪の老婦人が入口の戸を開けた。猫をかぶって愛想よくした悪相な顔をしていた。しかし客に対するふるまいは立派だった。彼女は言った。「さようでございます、こちらはハイドさんのお宅です。けれども唯今御不在です。昨晩は大そうおそくお戻りでしたが、一時間とたたないうちにまたお出掛けになりました。それは別に珍しいことではありません。あの方は普段から非常に不規則な習慣を持ち、よく留守にされます。現に、昨日お帰りになりましたのもかれこれ二月振りでした。」

「じゃよろしい、僕たちはあの人の部屋を見たいのだ。」と弁護士が言った。そしてその女がそれはできませんと言いかけると、「この方がどなただかおまえさんに言っておく方がよかろう。」と言い添えた。「これはロンドン警視庁のニューカメン警視さんだ。」

憎らしい喜びの色がさっとその女の顔に現れた。「ああ! あの人は挙げられたんですね!」と彼女は言った。「何をしたのでしょう?」

アッタスン氏と警視とはちらりと眼を見合わせた。「あの男はあまり好かれていないようですね。」と警視が言った。「では、お婆さん、僕とこの方にちょっとそこらを見せていただけますか?」

その老婦人がいなければ、空き家のその家全体の中で、ハイド氏はわずか二室しか使っていなかったが、その二室は贅沢で良い趣味の家具が備え付けてあった。戸棚には葡萄酒がいっぱい入っていたし、食器類は銀製で、テーブルかけも高雅だった。壁には立派な絵が懸っていたが、それは(アッタスンの推測では)なかなかの美術鑑識家であるヘンリー・ジーキルからの贈物であろう。絨毯は幾重にもなった厚いもので、色合いも気持ちの良いものであった。

しかし、この時には、最近にあわててひっかき回したらしい形跡がいろいろあった。衣服はポケットが裏返しのまま床に散らばっていたし、錠の下りる引き出しは開けっぱなしになっていたし、炉床には、たくさんの書類を焼いたらしく、黒い灰が山になっていた。その燃えカスの中から、警視は燃え残った緑色の小切手帳の端を掘り出した。例のステッキの片方の半分もドアのうしろから見つけ出された。これで彼の嫌疑が確かになったので、警視は喜ばしいと言った。銀行へ行ってみると、数千ポンドの金がその殺人犯人の預金になっていることがわかったので、彼はすっかり満足した。

「もう大丈夫ですよ。」と彼はアッタスン氏に言った。「つかまえたも同然です。奴はよほど慌てたに違いありません。でなければ、ステッキを置き忘れたり、小切手帳を焼いたりするはずがありません。だって、金はあの男にとって命ほどに大事なものなんですからね。もう銀行で奴を待っていて、犯人逮捕のビラを出しさえすればいいという訳です。」

しかし、このビラを出すのは簡単なことではなかった。なぜなら、ハイド氏には懇意な人がほとんどおらず、――例の家政婦でさえ彼には二度会っただけであったし、彼の家族はどこを探しても見当たらなかったし、彼は写真を撮ったこともなかったし、彼の人相を言うことのできる少数の人々も、世間普通の観察者がそうであるように、言うことが各々ひどく違っていた。ただ一つの点だけ、彼らの言うことは一致していた。それは、その逃亡者が彼を目撃した人たちに言うに言われぬ不気味さという妙に深い印象を与えたということであった。

5.手紙の出来事

アッタスン氏がジーキル博士の家の戸口にやっと辿り着いたのは、その日の午後遅くのことだった。彼はすぐにプールに案内され、台所の傍らを下り、かつて庭園であった裏庭をよぎって、実験室や解剖室とも言われている建物へ連れて行かれた。博士はこの家をある有名な外科医の相続人から買い取ったが、彼自身の趣味は解剖よりもむしろ化学の方だったため、庭園の奥にあるこの一棟の建物の使いみちを変えたのだった。

弁護士が彼の友人の邸宅のこの部分に通されるのは初めてだった。で、彼は窓のないくすんだその建物を物珍しそうにじろじろ眺め、階段式になった解剖講堂を通り抜ける時には不気味な感じであたりを見回した。そこはかつて熱心な学生が詰めかけていたが、今ではもの淋しくひっそりとしていて、テーブルの上には化学器械が積まれ、床には編みかごが転がり、荷造り用の藁が散らばっており、明かりは霧のかかっている円天井からぼんやりと射し込んでいた。

その講堂のもっと先に階段があって、それを上ると赤い粗羅紗を張ったドアのところへ来た。そしてこのドアを通って、アッタスン氏はやっと博士の書斎へ迎え入れられた。それは広い部屋で、周囲に硝子戸棚が取りつけられ、いろいろな物の中でも一つの姿見鏡と一つの事務用のテーブルが備え付けられ、鉄格子のついた三つの埃だらけの窓が例の路地に面して開いていた。炉の中で火が燃えていた。ランプが一つ炉棚の上にともして置いてあった。家の中までも霧が深く立ちこめ始めたからである。そして、その炉に近く、ジーキル博士がひどく元気のなさそうな顔をして腰かけていた。彼は客を迎えるために立ち上がりもせず、ただ冷たい片手を差し出して歓待の挨拶をしたが、その声はいつもと変わっていた。

「ところで、」とアッタスン氏は、プールが出て行くと直ぐに言った、「君はあの事件のことを聞いたろうね?」

博士は身ぶるいした。「広辻スクエアのところで大声で言っていたよ、」と彼は言った。「僕はそれを食堂にいて聞いた。」

「一言だけ言っておくがね、」と弁護士が言った。「カルーは僕の依頼人だったが、君もやはりそうだ。で、僕は自分のしていることを知っておきたいのだ。君はまさかあの男をかくまうような馬鹿げたことはしないだろうね?」

「アッタスン、僕は神に誓って、」と博士は大声で言った。「神に誓って、もう二度とあの男には会わないつもりだよ。僕は名誉にかけて君に言うが、僕はもうこの世ではあの男と縁を切ったのだ。すっかり済んでしまったのだ。それにまた実際あの男の方でも僕の助力を必要としないのだ。あの男のことは君よりも僕の方がよく知っている。あの男は大丈夫なんだ。全く大丈夫なんだ。よく聞いてくれ、あの男はもうこれっきり、決して人の噂になることはないだろうよ。」

弁護士はむずかしい顔をして聴いていた。彼は友人の熱病に罹っているような態度が気に入らなかった。「君はあの男のことには大分自信があるようだが、」と彼が言った。「君のために、どうか君の言う通りであるようにと思うよ。もし裁判にでもなろうものなら、君の名前が出るかも知れんからね。」

「僕はあの男のことには十分自信があるんだ、」とジーキルが答えた。「誰にもうち明けることはできないが、僕には確かに根拠があるんだ。しかし君に助言をして貰えるかも知れないことが一つあるんだがね。僕はそのう――僕は手紙を一通受け取ったのだが、それを警察へ見せたものかどうか迷っているのだ。僕はそれを君の手に任せたいんだよ、アッタスン。君ならきっとうまく判断してくれるだろう。僕は君を非常に信頼しているのだから。」

「その手紙からあの男が見つかるかも知れんと君は心配しているのだね?」と弁護士は尋ねた。

「いや、そうじゃない、」と相手が答えた。「ハイドがどうなろうと僕は別に気にかけちゃいないのだ。僕はあの男とはすっかり縁を切ったのだから。僕はこの忌わしい事件のために自分の評判が幾らか危険に曝されていることを考えていたのだ。」

アッタスンはしばらく考え込んだ。彼は友人の利己的な面に驚いたが、それでも安心もした。「では、」と彼はやっと言った。「その手紙を見せて貰おうか。」

その手紙は独特な直立体で書かれていて、「エドワード・ハイド」と署名してあった。それには、筆者わたくしは、恩人ジーキル博士から長い間絶大な恩恵を受けながら、それに対して申し訳ない気持ちで報いをしてきたが、博士はもう私の身の安全について少しも心配される必要がない、私には確実に信頼できる逃亡の手段があるから、という意味のことをごく簡単に書いてあった。弁護士はこの手紙を見て非常に喜んだ。それでみると二人の親交は彼の予想していたよりも美しいもののように思われた。それで彼は今まで抱いていた疑惑を申し訳なく思った。

「この封筒があるかね?」と彼は尋ねた。

「焼いてしまったのだ。つい何の気もなしにね、」とジーキルが答えた。「でもそれには消印はなかったよ。その手紙は手渡しされたのだ。」

「僕にこれを預けて一晩考えさせてくれないか?」とアッタスンが尋ねた。

「君に何もかもそっくり僕の代わりに判断して貰いたいのだ、」というのがその返事であった。「僕は自分に信頼を失ってしまったのだ。」

「では、考えてみよう、」と弁護士が答えた。「ところでもう一言きくがね。君の遺言書にあの失踪について書かせたのはハイドだったのだね?」

博士は急に気が遠くなりそうな表情を浮かべた。彼は口を堅く閉じてうなずいた。

「そうだろうと思っていた、」とアッタスンが言った。「彼は君を殺すつもりだったのだ。君は危ないところを助かったのだよ。」

「僕はそれよりももっとずっと重大な経験をしたのだ、」と博士は重々しい口調で答えた。「僕はある教訓を得たのだ。おお、アッタスン、何と大切な教訓を得たことだろう!」そう言って彼はちょっとの間、両手で顔を覆った。

帰りがけに、弁護士は立ち止まって一言二言プールと言葉を交わした。「ときに、今日手紙が届けられたそうだが、その使いの者はどんな人物だったのかね?」と彼は言った。しかしプールは郵便で来たほかには何一つ来なかったときっぱり断言した。「そしてそれも通知状のようなものばかりでした、」と彼は言い添えた。

この知らせは帰る客の不安を再び呼び起こした。きっとあの手紙は実験室の戸口から渡されたのだろう。あるいは、実際、あの書斎で書かれたのかもしれない。そして、もしそうだとすれば、それは違った判断をしなければならず、一層慎重に取扱わねばならない。彼が歩いてゆくと、新聞売子は道ばたで声をからしながら叫んでいた。

「号外。国会議員惨殺事件。」それは彼の依頼人の一人である知人の訃報のように感じられた。そして、彼はもう一人の依頼人である友人の名誉がこの事件の渦中に巻き込まれはしまいかと思って、ある気がかりを抑えることができなかった。彼が決めなければならないことは、少なくとも細心の注意を要することだった。そして、普段は人に頼らないたちではあったが、彼は他人の助言がほしいと思うようになってきた。それも直接に聞くわけにはゆかなかった。が、うまく釣り出すことはできるかもしれないと彼は思った。

間もなく、彼は、自分の家の炉の一方に、主任事務員のゲスト氏と向かい合って、腰を下ろしていた。二人の間には、炉からちょうどよい距離のところに、地下室に長い間日の目を見ずに貯蔵されていた特別に古い葡萄酒が一罎置いてあった。霧はなおも霞んだ街の上に広がり、街灯はかすかに紅玉のように輝いていた。そしてその低く深く垂れこめた息詰まるような霧の中を、都会の交通機関が相変わらず強風のような音を立てて大通りを通っていた。

しかし室の中は炉火の光で気持ちがよかった。罎の中の葡萄酒の酸はとっくの昔に溶解してしまって、その紫色は、年代を経てやわらかになっていた。ちょうど窓の色ガラスが年月とともに鮮やかになっていくように。そして丘の中腹の葡萄畑に照った暑い秋の午後の日光が、今にも葡萄酒の中から解き放たれ、ロンドンの霧を消散させようとしているかのようであった。だんだんと弁護士は気分が和らいできた。

彼はゲスト氏には誰よりも多くのことを話していた。そして思わぬ秘密までもうち明けないとは限らないのであった。ゲストはたびたび用事で博士のところへ行ったことがあるし、プールをも知っていた。彼はハイド氏があの家と心やすくしていることを聞いていないはずはない。彼なら結論を引き出せるかもしれない。とすれば、あの不可解な謎を解く手紙を彼に見せてもよくはないだろうか?それに、特に、ゲストは手跡の熱心な研究家であり鑑定家なので、手紙を見せても親切だと考えるだろう。その上、事務員は助言をするのが得意で、ああいう奇妙な書面を読めば必ず意見を言ってくれるだろう。そうすればその意見によってアッタスン氏は今後の方針を決められるかもしれない。

「ダンヴァーズ卿のはお気の毒な事件だね、」と彼は言った。

「全くさようでございます。ずいぶん世間の同情をひいております、」とゲストが答えた。「犯人はもちろん気違いでございましょうね。」

「そのことについて君の意見を聞きたいのだがね、」とアッタスンが答えた。「僕はここにその犯人の書いた書面を持っているのだ。これはここだけの話だよ。僕はそれをどうしたらいいかよくわからないのだからね。何にしても厄介なことなんだ。だが、これだ。まさに君の得意分野だ。殺人犯の自筆だよ。」

ゲストの眼は輝いた。そして彼はすぐに腰を下ろして、それを熱心に調べた。「いいえ、」と彼は言った、「気違いではありません。けれども妙な筆跡ですね。」

「それにどう考えてみてもその書き手も大へん妙な男なんだ、」と弁護士が言い足した。

ちょうどその時、召使が一通の手紙を持って入ってきた。

「それはジーキル博士からのでございますか?」と事務員は訊いた。「見覚えのある手だと思いました。何か内証のもので、アッタスンさん?」

「ただ晩餐の招待状だよ。どうして? これを見たいのかい?」

「はあ、ちょっと。有難うございます。」そして事務員はその二枚の紙片を並べて、しきりにその内容を見比べた。「有難うございました、」と彼はようやくその両方とも返しながら言った。「大へん興味のある筆跡です。」

話がとぎれた。その間アッタスン氏は心の中で悶えていた。「どうして君はそれを比べたのかね、ゲスト?」と彼は突然きいた。

「さようで、」と事務員が答えた、「少し不思議な類似点がございますので。その二つの手跡は多くの点で同一なんです。ただ字の傾斜が違っているだけで。」

「ちょっとおかしいな、」とアッタスンが言った。

「おっしゃる通り、ちょっとおかしいのです、」とゲストが答えた。

「僕はこの手紙のことは人には言いたくないのだからね、わかったね、」と主人が言った。

「はい。承知いたしました、」と事務員が言った。

そして、その夜アッタスン氏は自分一人になるとすぐに、その手紙を自分の金庫の中にしまいこみ、それから後はそこから出さなかった。「何ということだ!」と彼は考えた。「ヘンリー・ジーキルが殺人犯のために偽手紙を書くなんて!」そう思うと、彼の血は血管の中で冷たくなるような気がした。

6.ラニョン博士の変事

時が経った。ダンヴァーズ卿の死は社会に対する危害として世間の憤慨を買ったので、数千ポンドの懸賞金が設定された。しかしハイド氏はまるで初めから存在しなかったかのように、警察の視界から消え失せてしまった。なるほど、彼の過去のことが大分明るみに出された。そのどれも評判のよくないものであった。その男の冷酷で凶暴な残忍さ、下劣な生活、奇妙な仲間たち、これまでずっと周囲から憎悪の眼で見られていたことなどについて、様々な噂が出てきた。

しかし、彼の現在の居どころについては、ささやき一つ聞こえなかった。あの殺害の朝ソホーの家を立ち去った時から、彼は全く姿を消してしまった。そして、時がたつにつれて、だんだんにアッタスン氏はあの激しい驚きから回復し始め、前よりは心が落ち着いてきた。ダンヴァーズ卿の死は、彼の考え方によれば、ハイド氏の失踪によって十分に償われたのであった。あの悪い影響を及ぼす人間がいなくなったので、ジーキル博士には新しい生活が始まった。

彼は孤独な生活を脱し、再び友人たちと交際するようになり、彼らの心安い客人として招かれるようになった。そして、彼は今まではずっと慈善行為で知られていたが、今では宗教心でもそれに劣らず有名になった。彼は忙しく活動し、外に出て多くの善行を積んだ。彼の顔は、社会に奉仕していることを内心意識しているかのように、明るく晴れやかになったように見えた。そして二カ月以上の間、博士は平和であった。

一月の八日、アッタスンは博士の家へ、数人の客と共に晩餐に招かれた。ラニョンもその席にいた。そして主人の顔は、その三人が離れられない友人であった昔のように、二人を交互に眺めていた。ところが十二日と、そしてまた十四日に、弁護士は玄関払いを食わされた。「博士はお引きこもりでございまして、どなたにもお会いになりません、」とプールが言った。十五日に彼はまた訪ねてみたが、また断られた。彼はここ二カ月間というもの、ほとんど毎日のようにその友人に会っていたので、博士がこのように孤独な生活に戻ったことが、非常に気になった。五日目の晩に彼はゲストを招いて一緒に食事をし、六日目の晩には、ラニョン博士のところへ出かけた。

そこではどうやら面会を拒絶されはしなかった。が、入ってみると、博士の様子が変わっているのにぎょっとした。彼の顔には死の宣告がはっきりと書いてあった。あの赤らんだ顔をした元気そうな男が蒼白くなっていた。肉は落ち、以前よりも明らかに頭が禿げ、年を取っていた。しかしながら、弁護士の注意を引いたのは、急激な肉体的衰弱のそういう徴候よりも、むしろ、何か心の深い恐怖を示しているらしい眼付きや挙動であった。

博士が死を怖れるということはありそうではなかった。しかしアッタスンにはそうではなかろうかと思われてならなかった。「そうだ、この男は医者だから、自分の容態や、自分の余命が幾らもないことを知っているに違いない。そしてそれを知っていることが彼には堪えられないのだ、」と彼は考えた。しかし、アッタスンが彼の顔色の悪いことを言ったとき、ラニョンは自分はもうやがて命のない人間だと非常にしっかりした態度で断言した。

「僕はひどいショックを受けたのだ、」と彼が言った。「そしてとても回復できないだろう。もうあと何週間かという問題だ。考えてみると、人生は楽しかった。僕は人生が好きだった。そうだよ、君、いつも人生が好きだった。だが、我々がすべてを知り尽くしたなら、死んでしまいたくなるだろう、と時々は思うことがあるよ。」

ジーキルも病気なんだ、」とアッタスンが言った。「君はあれから会ったかね?」

ラニョンの顔付きは変わった。そして彼は震える片手を上げた。「僕はジーキル博士にはもう会いたくないし、あの男のことも聞きたくない。」と彼は大きなきっぱりしない声で言った。「あの男とはすっかり縁を切ったのだ。だから、僕が死んだものと思っている人間のことはどうか一切言わないで貰いたい。」

「困ったな、」とアッタスンが言った。それからかなり黙っていて、「僕に何かできないかね?」と尋ねた。「我々三人はずいぶん古くからの友達だよ、ラニョン。もう生きている間にほかにこんな友達は出来ないだろう。」

「どうにもできないのだ、」とラニョンが答えた。「あの男自身に訊いてくれ給え。」

「あの男は会おうとしないのだ、」と弁護士が言った。

「それは不思議じゃないよ、と彼は返事した。「僕が死んだ後、いつかアッタスン、君はこのことの是非を知ることになるかもしれない。今は話す訳にはゆかないのだ。で、それはそうとして、もし君がそこに腰掛けてほかのことを僕と話すことができるなら、どうかゆっくりしていってくれ給え。しかし、もしその厭な話題に触れずにおくことができないなら、後生だから帰ってくれ給え。僕はそれには我慢できないから。」

家に帰るとすぐ、アッタスンは腰を下ろし、ジーキルに手紙を書いた。自分が家に入れないことへの苦情を述べ、ラニョンとの不幸な絶交の原因を尋ねた。すると翌日長い返事がきたが、それにはときどき非常に悲痛な言葉が並べられ、ところどころ意味がはっきりしないところもあった。ラニョンとの仲違いはどうにもできないものであった。「彼は我々の旧友を責めはしない、」とジーキルは書いていた。「しかし二人が二度と会ってはならぬという彼の意見には同感だ。私はこれからは極端な隠遁生活を送るつもりだ。

もし私の家の扉が君に対してさえちょいちょい閉ざされることがあっても、君は驚いてはならないし、また私の友情を疑ってもならない。君は私に私自身の暗い路を行かせなければならない。私は何とも言いようのない懲罰と危険とを身に負うている。もし私が罪人つみびとの首かしらであるならば、私はまた苦しむ者の首かしらでもあるのだ。この世がこんなに恐ろしい苦悩と恐怖とを容れる余地があるとは考えられなかった。

この運命を軽減するためには、アッタスンよ、君はただ一つの事しかなし得ない。それは私の沈黙を尊重してくれることなのだ。」アッタスンはびっくりした。ハイドの暗い影が取りのけられて、博士はもとの仕事と親交とに立ち帰っていたのだ。ほんの一週間前には、ゆくすえは楽しい名誉ある老年を迎えることのできそうな、あらゆる望みで微笑していたのであった。ところが今は忽ちのうちに、友情も、心の平和も、彼の生涯の全行路も破滅させられたのだ。これほどの大きな思いがけない変化は狂気としか思えなかった。しかし、ラニョンの態度や言葉を考えると、それには何かもっと深い理由があるに違いなかった。

一週間後にラニョン博士は病床につき、二週間とたたないうちに死んでしまった。大変悲しんだ葬式が終わった日の晩、アッタスンは自分の事務室の扉に錠を下ろし、陰鬱な蝋燭の光の傍らに腰を下ろした。そして、死んだ友の手跡で宛名が書かれ、封印された一通の封書を取り出して前に置いた。

「親展。J・G・アッタスンの手にのみ開封されるべきで、彼が先に亡くなった場合は読まれずに破棄されるべきこと、」とそれにはそうはっきりと書かれてあった。そして弁護士はその内容を見るのを恐れた。「私は今日一人の友人を葬った。これを見たためにもう一人の友人を失うようなことにでもなったらどうしよう?」と彼は考えた。

しかし、彼はすぐにこの恐れを不忠実だと反省して、封を破った。中にはもう一通の封書があって、同じように封緘し、表には「ヘンリー・ジーキル博士の死亡乃至は失踪まで開封せられざること、」と記されてあった。アッタスンは自分の目を信じることができなかった。そうだ、失踪とある。ここにもまた、彼がもうずっと前にその筆者に返してしまったあの気違いじみた遺言書の中にあったように、失踪ということとヘンリー・ジーキルの名前とが結びつけられているのだ。

しかし、あの遺言書では、その考えはハイドという男の陰険な入れ知恵から生まれていた。それは非常に明白な恐ろしい企みを持ってそこに入れられたのだ。ところが、ラニョンの字で書かれたとなると、それはどういうことを意味するのだろう?禁止を破ってすぐにこの不思議なことの底まで探ってみたいという強い好奇心が起こった。しかし職業上の名誉と亡き友に対する信義とは、その委託者にとって厳しい義務であった。で、その包みは彼の私用金庫の一番奥にそのままにしておかれた。

好奇心を抑えることと、それに打ち勝つことは、異なる問題だ。その日からのち、アッタスンが彼の生き残っている友人との交際を、前と同じように熱望したかどうかは、疑わしい。彼はその友人のことを好意的に思っていた。しかし、彼の思いは不安で恐ろしいものだった。

確かに彼は訪ねた。しかし、面会を断られて逆にほっとしたかもしれない。おそらく、心の中では、自分を閉じ込めている人の家に入るよりも、広々とした都会の空気と音に囲まれて、戸口の段でプールと話している方が良いと思ったかもしれない。実際、プールも大して愉快な知らせを持ち合わせなかった。博士はこの頃では前よりも一層実験室の上の書斎に閉じこもり、時々はそこで眠ることさえあったらしい。彼は元気もなく、大変無口になり、読書もしなかった。何か心にかかることがあるらしかった。アッタスンはいつもこういう変わらぬ報告を聞かされるので、だんだんと訪問するのを少なくするようになった。

7.窓際の出来事

ある日曜日、アッタスン氏がエンフィールド氏と一緒にいつもの散歩をしているときに、偶然またあの横町を通りかかった。そして、例の戸口の前へやって来ると、二人とも立ち止まってその戸口をじっと眺めた。
「まあ、あの話もどうやら決着がつきましたね。」とエンフィールドが言った。「我々はもう二度とハイド氏に会うことはないでしょう。」
「そうでありたいものだ。」とアッタスンが言った。「僕が一度あの男に会って、君と同じように嫌悪を感じたということは、いつか君に話したかね?」
「あの男に会って嫌悪を感じないということは、まずありませんよ。」とエンフィールドが答えた。

「それはそうと、ここがジーキル博士の家の裏口だということを知らなかったなんて、僕も何て馬鹿だろうとあなたはお思いなったでしょうね! 僕がそのことを知ったとしても、それは幾らかあなた御自身のせいだったのですよ。」
「じゃあ君はわかったのだね?」とアッタスンが言った。「だがそれなら、この路地へ入って行って窓のところをちょっと見て来てもよかろう。実を言うと、僕は気の毒なジーキルのことが気がかりなのだ。で、たとい家の外へでも、友達が来ているということが、あの男のためになるような気がするのだ。」

その路地は大そう涼しくて少し湿っぽく、頭上の高い空はまだ夕焼けで明るいのに、もうはや黄昏の色が濃かった。あの三つの窓の真ん中の窓は半分開いていた。そして、その窓際に腰をかけ、まるで囚人のように限りなく悲しそうな顔をして風にあたっているジーキル博士を、アッタスンは見つけた。
「やあ! ジーキル!」と彼は叫んだ。「君はよくなったのだね。」
「僕はどうも元気がなくてね、アッタスン。」と博士は陰気に答えた。「どうも元気がないのだ。有難いことには、これも長いことではあるまい。」

「君は家の中にずっといるんだ。」と弁護士が言った。「外へ出て、エンフィールド君や僕のように血液の循環をよくしなければいけない。(これは僕の従弟で、――エンフィールド君だ、――ジーキル博士だよ。)さあ来てくれ。帽子を持ってきて、僕たちと一緒に元気よく散歩し給え。」
「親切にありがとう。」と相手は溜息をつくような声で言った。「僕もそうしたいが、いや、それは本当にできないんだ。しかし、アッタスン、来てくれて本当に嬉しいよ。僕は君とエンフィールド君に上ってもらいたいのだが、しかし、こんなところでどうもね。」

「なあに、それなら。」と弁護士は愛想よく言った。「僕たちがこのままにしていて、ここから君と話をすることにすれば一番いい。」
「それはちょうど僕がお願いしようと思っていたことだよ。」と博士は微笑しながら答えた。けれどもその言葉が言い終わるか終わらないうちに、その微笑はさっと彼の顔から消えてしまい、目もあてられぬような恐怖と絶望の表情に変わったので、窓下にいる二人は血までも凍るような気がした。

窓がすぐにぴしゃりと下ろされたので、二人はそれをほんのちらりと一目見ただけであった。しかしその一目で十分だった。彼らは一言も言わずにひき返してその路地を出た。やはり無言のままで彼らはあの横町を通り過ぎた。そして日曜日でさえ相変らずいくらか賑わっている近くの大通りへ出て来てから初めて、アッタスン氏はやっと振り返って連れの顔を見た。彼らは二人とも真っ蒼で、目にも同じような恐怖の色が浮かんでいた。

「ああ困ったことになった! 困ったことになった!」とアッタスン氏が言った。
しかしエンフィールド氏はひどく真面目な顔をしてただ頷いただけであった。そしてまただまって歩き続けた。

8.最後の夜

アッタスン氏がある夜、夕食の後で炉端に腰かけていると、プールが訪ねてきて驚いた。
「おやおや、プール、どうしてここへやって来たのだい?」と彼は大声で言った。それからプールをもう一度見て、「どうかしたのかい?」と言った。「博士がお悪いのか。」

「アッタスンさま、」とその男が言った。「どうも少し変なんです。」
「そこへお掛け。そしてまあこの葡萄酒を一杯飲むのだ、」と弁護士が言った。「さあ、ゆっくりしておまえの言いたいことをはっきり言っておくれ。」
「あなたさまは博士の習慣をご存じでいらっしゃいますね、」とプールが答えた。「博士がよくとじこもっておしまいになることも。ところが、また書斎にとじこもられたのでございます。私にはあれが気にかかるんです。本当に気にかかります。アッタスンさま、私は心配なんです。」

「ねえ、おまえ、」と弁護士が言った。「隠さずに言ってくれ。何がおまえに心配なのだ?」
「私は一週間ばかり前からずっと心配して参りました、」とプールは頑固に相手の質問をそらして答えた。「そしてもうとても我慢ができません。」

その男の様子はその言葉が本当であることをちゃんと証拠立てていた。彼の挙動は一層悪くなった。そして、初めに自分の恐怖を知らせた時のほかは、弁護士の顔を一度もまともに見なかった。今でも口をつけない葡萄酒のコップを膝の上に置いたまま、その目は床の一隅に向けられていた。「私にはもうとても我慢ができません、」と彼はまた言った。

「さあさあ、」と弁護士が言った。「おまえの言うことには何かもっともな理由があるということはわたしにはわかるよ、プール。何かひどく不都合なことがあるということはわかる。それがどんなことだかわたしに言ってみて御覧。」

「人殺しか何かがあったのだと私は思います、」とプールはしわがれた声で言った。

「人殺しだと!」と弁護士は、非常に驚いて、それで幾らか腹立たしくなって、叫んだ。「どんな人殺しなんだ? この男は何のことを言っているのだ?」
「私にはどうも申し上げられません、」という返事であった。「私と御一緒にお出で下すって御自身で見て頂けないでしょうか?」
アッタスン氏はそれに答えるかわりに、ただ立ち上って帽子と外套とを手に取った。しかし、彼はその召使頭の顔に大きな安堵の色が現われたのを見て不思議に思った。また、彼がついてこようとして葡萄酒を下に置いたとき、それにはまだ口がつけていないのを見て、それも不思議に思った。

その夜は、風が強く、寒い、いかにも三月らしい夜だった。蒼白い月が風に吹きかえされたかのように仰向きになって懸っていて、まるで透きとおった寒冷紗のような薄雲が一つ空を飛んでいた。風のために話すこともできず、顔には赤い斑点ができた。おまけに、風に吹き払われたように街路にはいつになく人通りがなかった。アッタスン氏はロンドンのこの部分がこんなに人気のないのは、これまでに見たことがないと思ったくらいだった。

彼は人通りがあればいいなと思った。人間に会って触ってみたいという、これほどに烈しい欲望を感じたことは、これまで一度もなかった。どんなに払いのけようと努めても、何か禍いがおこってきそうな強い予感をひしひしと感じないではいられなかったからである。

広辻スクエアのところまでやってくると、そこは一面に風と埃とが舞っていて、庭園の細い樹々は柵にぶつかっていた。途中ずっと一二歩先に立って歩いてきたプールは、ここへくると、道の真ん中に立ち止まり、身を切るような寒さなのに、帽子を脱いで、赤いハンカチで額を拭いた。けれども、急いで歩いてきたには違いないが、彼が拭ったのは急いだための汗ではなく、何か喉を締めつけられるような苦悩の脂汗だった。なぜなら、彼の顔は蒼白であったし、口をきいた時にはその声はかすれて途切れがちであったから。
「さあ、旦那さま、」と彼が言った。「参りました。どうか神さま、何も変わったことがございませんように。」
「アーメン、プール、」と弁護士が言った。

そこで召使頭はひどく用心深いやり方で戸を叩いた。戸は鎖のついたまま少し開かれ、内から誰かの声が尋ねた。「あんたかね、プールさん?」
「大丈夫だ。」とプールが言った。「戸を開けてくれ。」
二人が入ってみると、広間はあかあかと灯火をつけてあった。炉火も盛んに焚きつけてあった。そしてその炉のあたりに、家中の召使が、男も女も、羊の群れのように集まっていた。アッタスン氏の姿を見ると、女中が急にヒステリックなすすり泣きを始め、料理女は「有難い! アッタスンさんだわ。」と叫びながら、まるで彼に抱きつこうとでもするように走り出てきた。

「なんだ、どうしたのだ? みんなこんなところにいるのか?」と弁護士は気むずかしく言った。「とても不体裁だ。御主人が見られたら機嫌を悪くなさるぞ。」
「みんな怖がっているのでして。」とプールが言った。

黙って静まり返り、誰も言い訳しなかった。ただ例の女中だけが声を高くして泣き出した。
「静かにするんだ!」とプールが彼女に言ったが、その口調の烈しさは彼自身の神経も乱れていることを示していた。そして実際、その娘が急に泣き声を張りあげたとき、皆ぎょっとして、恐ろしいものでも待っているかのように奥のドアの方を振り向いた。「さあ。」と召使頭は言葉を続けて、ナイフ研ぎボーイに言った。「蝋燭を一本渡してくれ。わたしたちはすぐに片づけてしまおう。」それから彼はアッタスン氏について来るように頼み、裏庭の方へ案内した。

「さて、旦那さま。」と彼が言った。「なるべくお静かにお出で下さいまし。あなたさまに先方の言うことを聞いて頂きたいのでして、先方には、あなたさまのおられることを聞かれたくはないのですから。で、よろしいですか、旦那さま、もしひょっとしてあなたさまに入れと申しましてもお入りになってはいけませんよ。」

アッタスン氏は、こういう思いがけないことになったので、びくっとして、倒れんばかりになった。けれども、勇気をふるい起こして、その召使頭について実験室の建物の中へ入り、編みかごだの罎だののがらくたの転がっている外科の階段講堂を通りぬけて、あの階段の下まで来た。ここへ来るとプールはアッタスン氏に、一方の側に立って耳を澄ましているようにと合図をし、そして自分は蝋燭を下に置き、はっきりとわかるような非常な決心をして、階段を上り、書斎のドアの赤い粗羅紗を少しぶるぶるした手でとんとんたたいた。
「旦那さま、アッタスンさんがお目にかかりたいとおっしゃってお出ででございますが。」と彼は声をかけ、そう言いながらも、弁護士によく聴いているようにともう一度はげしく合図した。

ドアの内から声が答えた。「誰にもお目にかかれないと言ってくれ。」とその声は不平そうに言った。
「はい、畏りました。」とプールは何だか得意そうな調子で言った。そして蝋燭を取り上げると、アッタスン氏を導いて引き返し、裏庭を通って大きな台所へ入った。そこには火は消えていて、甲虫が床の上に跳んでいた。

「旦那さま。」と彼はアッタスン氏の眼を見ながら言った。「あれが私の主人の声でしたでしょうか?」
「声がひどく変ったようだな。」と弁護士は真っ蒼になりながらも相手を見返して答えた。

「変わったですって? まあ、そうですね、私もそう思います。」とその召使頭が言った。「二十年もあの方のお屋敷に奉公しておりながら、その御主人の声を聞き間違えるなんてことがあるでしょうか? いいえ、旦那さん。御主人は殺されたんです。神さまの御名を呼んでわめいているのを私たちが聞いたのは八日前です。御主人の代わりに誰があそこに入っているのか、またその者がなぜあそこに残っているのかということは、神さまに叫ぶような恐ろしいことなのですよ、アッタスンさん!」

「それはずいぶん妙な話だな、プール。それはむしろ突飛な話だよ、なあ、おまえ。」とアッタスン氏は指を噛みながら言った。「仮におまえの推測どおりだとしても、ジーキル博士がそのう――そうだ、殺されたとしても、その殺害者がいったい何のためにそこに残っているだろうか? そんなことはどうも辻褄が合わんな。理屈に合わないよ。」
「まあ、アッタスンさん、あなたを納得させるのはなかなか厄介ですが、でもそのうち納得させてあげましょう。」とプールが言った。「この一週間、あなたも知っておいてほしいのですが、その人間だか、何だか、とにかくあの書斎の中にいる者が、夜となく昼となく、何か薬をほしがってわめいているのです。そしてそれが気に入るのが手に入れられないのです。

紙っきれに御自分の注文を書いて、それを階段の上に投げ出しておくのが、時々あの方の、というのは御主人のことですが――癖でした。この週はそればかりでした。ただ紙ばかりが出されていて、ドアは閉めっきり。食事は誰も見ていない時にこっそり持ち込まれている、という状況です。でね、旦那さん、毎日毎日、いや、一日に二度も三度も、注文や小言が出まして、私はロンドンじゅうの薬問屋を駆けずり回されているのです。

私が薬品を持って帰る度ごとに、いつもきまって、これは純粋の品ではないから返して来いという紙と、別の店への注文が出るのでした。その薬が、何のためですか、旦那さん、とてもひどく入用なようでございます。」
「その紙というのをおまえはどれか持っているかね?」とアッタスン氏が尋ねた。

プールはポケットの中を探って一枚の皺くちゃになった手紙を手渡した。それを弁護士は蝋燭の近くに身をこごめて注意深く調べた。その内容はこうなっていた。「ジーキル博士はモー商会に申し入れます。モー商会の今度の見本は不純品でJ博士の目下の目的には全く役には立ちません。

一八――年にJ博士はM商会からかなり多量を購入したことがあります。どうか最も丁寧に探し、同じ品質のものが少しでも残っていたら、それをすぐにJ博士のところに送ってください。費用は問題ではありません。J博士にとってこの薬品はこの上もなく重要なものなのです。」ここまでは手紙はすこぶる落ち着いて書いてあったが、ここでペンが急に走り書きになって、筆者の感情が抑え切れなくなっていた。

「後生だから、私にあの前の品を少し見つけてくれ。」と付け加えてあった。
「これは妙な手紙だ。」とアッタスン氏が言った。それから、きつく「どうしておまえはこれを開けたのだね?」と言った。
「モー商会の男が大変に腹を立てましてね、旦那さん、それをまるで紙屑のように私に投げ返したのでございます。」とプールが答えた。
「これはたしかに博士の筆跡ではないか?」と弁護士が言葉を続けた。

「私もそうらしいと思いました。」と召使は少しむっつりして言った。それから声の調子を変えて「けれども筆跡なぞ何でしょう?」と言った。「私はあの人を見たんですもの!」
「あの人を見たと?」アッタスン氏はきき返した。「それで?」

「それなんです!」とプールが言った。「それはこういう訳です。私は庭から階段講堂へいきなり入ったことがありました。すると、あの人がその薬かそれとも何かを探しにこっそり出て来ていたらしいのです。というのも、書斎のドアが開いていて、あの人がその室のずっと向こうの端で編みかごの間をしきりに探していたからです。私が入って来ると顔を上げ、何か叫び声のような声を立てて、二階の書斎へ駆け込んでしまいました。

私があの人を見たのはほんの一分間くらいのものでしたが、私はぞっとして髪の毛が頭に突き立ちました。ねえ、旦那さん、もしあれが私の主人でしたなら、なぜ顔に覆面なんぞをしていたのでしょう? もし私の主人でしたなら、なぜ鼠のような叫び声を立てて逃げて行ったのでしょう? 私はあの方にずいぶん長い間御奉公しております。それに……」とその男は言葉を切り、片手で顔をこすった。

「これは何もかも非常に奇妙なことだ。」とアッタスン氏が言った。「しかしどうやら僕にはわかりかけたような気がする。おまえの御主人はな、プール、きっと病人を非常に苦しめて、顔かたちも変えるというあの病気の一種に罹っているのだ。そのために、多分、声が変わっているのだろうと思う。そのために覆面をしたり友人を避けたりしているのだろう。そのためにその薬をしきりに探して、その薬で、可哀そうに、あの男はどうにか回復しようという望みを持っているのだろう、――どうかその望みがかなえばいいが!

これが僕の解釈だ。ずいぶん痛ましいことだがなあ、――プール、考えてもぞっとするようなことだ。しかしこう考えればはっきりわかって自然だし、ちゃんと辻褄が合って、いろんな途方もない恐れを抱くこともいらなくなるよ。」
「旦那さん、」と召使頭は顔色を紫色に変えながら言った。「あの者は私の主人ではありませんでした。本当です。私の主人は――」とここで彼はあたりを見回し、声をひそめて言い出した――「背が高く立派な体格の方ですが、その男はずいぶん小柄でした。」アッタスンは抗議しようとした。

「まあ、旦那さん、」とプールが大声で言った。「あなたは私が二十年も奉公していて自分の主人がわからないとお思いになるのですか? 御主人の頭が書斎のドアのところでどの辺まで来るか、これまでずっと毎朝そこで見ていながら、それがわからないとお思いになるのですか? いいえ、旦那さん、覆面をしていたあの者は決してジーキル博士ではありませんでした。何者だったかということは神さまだけがご存じです。決してジーキル博士ではありませんでしたよ。で、人殺しがあったのだということは私は心から信じています。」

「プール、」と弁護士が答えた。「おまえがそう言うなら、確かめるのが僕の義務になってくる。僕はおまえの御主人の気を悪くしたくないのは山々だし、この手紙を見ると御主人はまだ確かに生きておられるようで大変迷うのだが、私はあのドアを押し開けて入るのを自分の義務と考えよう。」
「ああ、アッタスンさん、それはごもっともです!」と召使頭が叫んだ。

「ところで第二の問題だが、」とアッタスンが言葉を続けた。「誰がそれをすることにするかね?」
「なあに、旦那さんと私で、」という臆しない返答だった。
「よく言ってくれた。」と弁護士が答えた。「で、どんなことになろうとも、きっとおまえに迷惑はかけないようにするよ。」
「階段講堂に斧が一丁ございます。」とプールは続けて言った。「それから旦那さんは台所の火掻きを御自分でお持ちくださいまし。」
弁護士はその不細工な、しかし重い道具を手に取って振り動かしてみた。「おまえはね、プール、」と彼は顔を上げて言った。「おまえと僕は多少危険なところへ入ろうとしているということを知っているかね?」

「さようでございますとも、旦那さん。」と召使頭が答えた。
「ではな、我々は包み隠しをしない方がよい。」と相手が言った。「我々は二人とも心に思っていることをみんなまだ口に出して言っていないのだ。すっかりうち明けて話すとしようじゃないか。そのおまえが見た覆面をした男だが、おまえはその男に見覚えがあったかね?」

「さようでございますね。何しろそれは大へん素速く逃げて行きましたし、そいつはひどく体を折り曲げておりましたので、そのことははっきり申し上げることはできません。」という返事であった。「けれども、それはハイドさんではなかったか? と旦那さんがおっしゃるおつもりなら、――そうですね、さよう、そうだったと私は思います。体の大きさも大体同じくらいですし、素早くて身軽な様子も同じでしてね。それに、ほかの誰が実験室の戸口から中へ入ることができましょう? あの人殺しの時にもあの人はやっぱり鍵を持っていたということは、旦那さんもお忘れではございませんでしょう? でもそれだけじゃありません。アッタスンさん、あなたがいつかあのハイドさんにお会いになったことがおありかどうか私は存じませんが?」

「うん、僕は一度あの男と話したことがある。」と弁護士が言った。

「それなら、あなたも私どもみんなと同じように、あのお方には何となく変なところが――何となく人をぎょっとさせるところが――あったということをご存じに違いありません。それを何と言えばいいか、私にはよくわからないのですが――骨の髄までぞっとするようなところですね。」

「僕も実はおまえの言うような気持がしたよ。」とアッタスン氏が言った。

「全くその通りです、旦那さん。」とプールが答えた。「ところで、その猿のような覆面をした者が薬の間から飛び出して書斎の中へ駆け込んだとき、その感じが氷のように私の背骨を走ったのです。おお、そんなことは証拠にはならないと知っていますよ、アッタスンさん。それくらいのことは私もちゃんと存じております。しかし人には感じというものがございます。で、あれがハイドさんだったということは、私は聖書にかけて誓います!」

「なるほど、なるほど。」と弁護士が言った。「僕もどうもそうじゃないかと思う。あの二人の関係から、よくないことが出来たのだろう、――よくないことが起こるにきまっていたのだ。なるほど、全く、おまえの言う通りだと思う。可哀そうにハリーは殺されたのだと僕も思う。そして彼を殺害した者は(何のためだか、神さまだけしかご存じではないが)まだその被害者の部屋に潜んでいるのだと思う。よし、我々は復讐をしてやろう。ブラッドショーを呼んでくれ。」
その馬丁は呼ばれて真っ蒼になってびくびくしながらやってきた。

「しっかりするんだ、ブラッドショー。」と弁護士が言った。「こういうどっちつかずの有様がお前たちみんなを怖がらせているんだよ。だが今我々はこんな有様にけりをつけようと思っているのだ。ここにいるプールと僕とがこれから書斎へ押し入るつもりだ。もしみんながよければ、僕が一切の責任を負うてやる。その間、何かへまをしたり、犯人が裏口から逃げ出したりするといけないので、おまえとあのナイフ研ぎのボーイは丈夫な棒を一本ずつ持って、角を回り、実験室の戸口で張番をしていなければならない。おまえたちがその部署につくまで、我々は十分間待つとしよう。」

ブラッドショーが立ち去ると、弁護士は自分の懐中時計を見た。「さあ、プール、我々も部署につこう。」と彼は言って、火掻きを小脇に抱えて、先に立って裏庭へ出た。風に吹かれて飛ぶ雲がちょうど月をおおっていて、そのときは真っ暗であった。建物に囲まれて深い井戸のようになっている裏庭には、ときどき隙間風が吹き込んできて、蝋燭の光を二人の足元へあちこちと揺り動かした。やがて彼らは風の当たらない階段講堂へ入ると、黙ったまま腰を下ろして待った。ロンドンのどよめきは重々しく四方から聞こえていた。しかしあたりは静かで、ただ書斎の床をあちこちと歩き回っている足音だけが聞こえていた。

「ああして一日中歩いているのですよ。」とプールが囁いた。「いいえ、昼間ばかりか、夜も大抵はああなのでございます。ただ薬屋から新しい見本が参りました時だけ、ちょっとやむのです。ああ、あんなに落ち着けないのは、良心が咎めるからです! ああ、旦那さま、あの一歩一歩に人殺しをして流した血があるんですよ! だがもう一度聴いてごらんなさいまし、もう少し近くへ寄って、――ようく耳を澄ましてごらんなさいまし、アッタスンさん。あれは博士の足音でしょうか?」

その足音は、非常にゆっくり歩いていたにも拘らず、威勢のよい調子の、軽やかな奇妙なものであった。ヘンリー・ジーキルの重々しい軋むような足取りとは全く違っていた。アッタスンは溜息をついた。「ほかに何も変わったことはないかね?」と彼は尋ねた。
プールはうなずいた。「一度、」と彼が言った。「一度私はあれが泣いているのを聞きました!」
「泣いていた? それはどうした訳で?」と弁護士は急に恐怖の寒気を覚えながら言った。
「女か、それとも地獄へ堕ちた亡者みたいに泣いておりました。」と召使頭が言った。「それを聞いて戻って来ますと、それが心に残って、私までも泣きたくなるくらいでした。」

しかしその時、約束の十分も終わろうとしていた。プールは積み重ねてある荷造り用の藁の下から斧を引き出した。蝋燭は、攻撃に備える二人を照らすため、最も近くのテーブルの上に置かれた。そして二人は、夜の静けさの中を、あの根気強い足首がやはり往ったり来たり、往ったり来たりしているところへと、息を殺して近寄って行った。
ジーキル、」とアッタスンが大声で呼んだ。「僕は君に会いたいのだ。」彼はちょっと言葉を切ったが、何の返事もなかった。

「僕は君にはっきり警告するが、我々は疑いを起こしたのだ。それで私は君に会わなければならんし、また会うつもりだ。」と彼は言葉を続けた。「もし正当な手段で会えなければ、非常手段ででも、――もし君の同意がなければ、暴力を用いてでもだ。」
「アッタスン、」とさっきの声が言った。「後生だから、容ゆるしてくれ!」
「ああ、あれはジーキルの声じゃない、――ハイドの声だ!」とアッタスンが叫んだ。「ドアを破れ、プール。」

プールは斧を肩の上にふり上げた。打ち下ろすと建物が揺れ動き、赤い粗羅紗を張ったドアは錠と蝶番に当たって跳ね返った。まるで動物的な恐ろしい叫び声が書斎から響きわたった。斧が再びふり上げられ、再び鏡板ががあんと音を立て枠板が跳ね返った。こうして四度打ち下ろされたが、木は堅かったし、取り付けの器具は丈夫に出来ていた。それで五度目になってやっと、錠がばらばらに打ち砕け、ドアの壊れたのが内側の絨毯の上に倒れた。

攻めかかった二人は、自分たちのやった乱暴と、その後の静けさとにぞっとして、少し後へ下って覗きこんだ。彼らの眼の前には、静かなランプの光に照らされた書斎があった。暖炉には気持のよい火がぱちぱち音を立てて真っ赤に燃えていた。湯沸しは低い調子で歌を歌っていた。引き出しが一つ二つ開いていたし、事務用のテーブルの上には書類がきちんと並べてあった。炉の近くには、茶道具があって茶を入れる用意がされていた。もしこの室に、薬品の一杯入った硝子張りの戸棚さえなかったなら、その夜ロンドン中でも一番静かな室とも、また一番平凡な室とも言えたろう。

室のちょうど真ん中に、ひどくねじ曲がってまだぴくぴく動いている一人の男の体が横たわっていた。二人は爪先立ちで近寄り、それを仰向けにすると、見えたのはエドワード・ハイドの顔だった。彼は、自分には大分大き過ぎる、博士の着るくらいの大きさの衣服を着ていた。

顔面神経はまだ生きているもののように動いていた。しかし、生命は全くなくなっていた。そして、片手に持っている割れた薬びんと、空中に漂っている苦扁桃水の強い臭いによって、アッタスンはそこに倒れているのが自殺者の死体であることを知った。

「我々は来るのが遅過ぎた、救うにしても罰するにしてもだ。」とアッタスンは厳いかめしい口調で言った。「ハイドは死んでしまった。あとはもうおまえの御主人の死体を探し出すことだけだ。」

その建物の大部分は、階段講堂と書斎で占められていた。階段講堂はほとんど一階全部をふさぎ、上から明りを取ってあったし、書斎は二階の一方の端にあって、あの路地に面していた。階段講堂と例の横町の戸口とは廊下でつながり、その戸口と書斎とは別にもう一つの階段で通じていた。そのほかには暗い物置が二つ三つと、広い穴蔵が一つあった。今二人はこれをみんな綿密に調べた。物置はどれも一目でわかるほどだった。

というのは、どれもみんな空っぽだったし、どれもみんな戸から埃が落ちてくるのを見ても、永いこと開けずにおいてあったことがわかったからである。穴蔵は、ほとんどがジーキルの前に住んでいた外科医時代からのもので、壊れかけたがらくたでいっぱいになっていた。けれども、戸を開けただけで、幾年も入口を閉ざしていたまるで莚のような蜘蛛の巣が落ちてきたので、それ以上探してみても何にもならないことを知らされた。生きているにしろ死んでいるにしろ、どこにもヘンリー・ジーキルの痕跡もなかった。

プールは廊下の板石を踏んでみた。「あの方はここに埋められておいでになるに違いありません。」と彼はその音に耳を傾けながら言った。
「それとも逃げたのかも知れない。」とアッタスンは言い、そして横町の戸口を調べに行った。戸には錠が下りていた。そしてすぐ傍らの板石の上に、二人はとっくに錆びている鍵を見つけた。

「これは使えるようには見えないな。」と弁護士が言った。
「使えるって!」とプールは繰り返した。「壊れているではございませんか、旦那さま? まるで人が踏みつけでもしたように。」
「ああ、ああ。」とアッタスンは言葉を続けた。「それに、折れたところまで錆びている。」二人はぎょっとしてお互いに顔を見合わせた。「これは僕にはわからないよ、プール。」と弁護士が言った。「書斎へ引き返すとしようじゃないか。」

二人は黙々と階段を上り、死体を恐れつつちらりと見ながら、書斎の中の物を前よりもさらに綿密に調べ始めた。一つのテーブルには、化学上の仕事をしていた形跡があり、いろいろの分量の白い塩のようなものが幾つも硝子皿に盛ってあって、その不幸な男が実験をしようとしているところを妨げられたかのようであった。
「あれは私がいつも持って参りましたのと同じ薬でございます。」とプールが言った。

ちょうど彼がそう言った時に、湯沸しがびっくりするような音を立てて煮えこぼれた。
それで二人は炉辺へ行った。そこには安楽椅子が心地よさそうに引き寄せてあり、茶道具が椅子に掛ける人の肘のところに用意してあって、砂糖までも茶碗の中に入れてあった。書棚には本が何冊もあって、一冊は茶道具の傍らに開けたままになっていた。それはジーキルが何度も激賞していた信仰に関する書物で、彼自身の手跡で神への驚くべき不敬の言葉が書き込まれているのを見て、アッタスンは非常に驚いた。

それから、二人がその部屋を調べているうちに、姿見鏡のところへやって来て、思わずぞっとして鏡の奥をのぞき込んだ。しかし、鏡の向きの関係で、ただ、天井にちらちらしている薔薇色の光と、戸棚の硝子戸に幾つにも映っているきらきら光る炉火と、屈んでのぞき込んでいる自分たちの蒼ざめた恐ろしげな顔とのほかには、何も映って見えなかった。

「この鏡はいろいろ不思議なことを映したのでございますよ、旦那さま。」とプールが囁いた。
「それに、こんな鏡があること自体が何よりも不思議だよ。」と同じ調子で弁護士が言った。「なぜって言えば、一体何だってジーキルは、」――彼はその言葉にぎょっとして止めたが、やがてその気の弱さに打ち勝って、「一体何だってジーキルはこんなものが必要だったのだろう?」と言った。

「全くその通りです!」とプールが言った。

次に彼らは事務用テーブルの方へ行った。その机の上には、きちんと並べられた書類の中に一通の大きな封筒があり、それには博士の筆跡でアッタスン氏の名前が書かれていた。弁護士がそれを開封すると、数通の封入書が床に落ちた。第一のは遺言書で、6カ月前に彼が返したのと同じ奇妙な条件で作られ、博士が死亡した場合には遺言状となり、失踪した場合には財産贈与証書となるものであった。

しかし、エドワード・ハイドという名の代わりにゲーブリエル・ジョン・アッタスンという名が書いてあるのを見て、弁護士は言うに言われぬほど驚いた。彼はプールを見、その後証書を見つめ、最後に絨毯の上に横たわる犯罪者の死体を見た。「頭がぐらぐらする。」と彼が言った。「この男はこのあいだじゅうずっとどうかしていたのだ。この男が僕を好むはずがない。自分の名前を僕の名前に書き換えられているのを見て非常に怒ったはずだ。

それだのにこの証書を破り棄てていないのだからね。」

彼は第二の書類を取り上げた。それは博士の筆跡の簡単な手紙で、一番上に日付が書いてあった。「おや、プール!」と弁護士は声を上げた。「博士は生きていたのだ、今日ここにいたのだ。そんな短い間に殺されてしまうはずがない、まだ生きているに違いない、逃げたに違いないよ! とすると、なぜ逃げたんだろう? 逃げたとすると、我々はこの自殺を発表してもよいだろうか? うむ、我々は慎重にならねばならん。うっかりすると、おまえの御主人を何か恐ろしい災難の中へ巻き込むようなことになるかも知れないぞ。」

「どうしてそれをお読みにならないんですか、旦那さま?」とプールが尋ねた。

「恐ろしいからだ、」と弁護士は重々しい口調で答えた。「どうか恐ろしがる理由なぞがありませんように!」そう言うと彼はその手紙を眼のところへ持って行って、次のように読んだ。――

「親愛なるアッタスン。――この手紙が君の手に入る時には私は失踪しているでしょう。どういう事情によってかは私には予想することはできないが、しかし、私の直覚と、私の言い表わしようのない境遇のすべての事情とは、もう終りが確実で、しかも間近いということを私に告げるのです。その時には、行って、先ずラニョンが君の手に渡すと私に予告していた手記を読んでいただきたい。そして、もし君がもっとよく知りたいと思うならば、私の告白を読んで下さい。

君の価値なき不幸なる友、
ヘンリー・ジーキル。」

「もう一つ封書があったね?」とアッタスンが尋ねた。

「ここにございます、旦那さま、」とプールが言って、数カ所で封じてあるかなりの包みを彼の手に渡した。
弁護士はそれをポケットに入れた。「僕はこの書類については一切しゃべらぬつもりだ。おまえの御主人が逃げられたにしても死んでおられたにしても、我々は少なくともあの人の評判を傷つけぬようにすることができるのだ。今は十時だ。僕は家へ帰って落ち着いてこの記録を読まなければならん。しかし十二時前には戻ってくる。それから警察へ届けることにしよう。」

二人は階段講堂のドアに錠を下ろし、外へ出た。そしてアッタスンは、広間の暖炉のあたりに集まっている召使たちをもう一度あとに残して、今こそこの謎を明らかにするための二つの手記を読むために、自分の事務所へとぼんやりと帰っていった。

9.ラニョン博士の手記

今から四日前の一月九日に、私は夕方の配達で書留の手紙を一通受け取ったが、それには私の同僚であり、古い同窓であるヘンリー・ジーキルの手跡で宛名が書かれていた。私は非常に驚いた。なぜなら、我々は普段手紙をやりとりする習慣はまるでなかったし、実は、私はその前夜、彼と会って、一緒に食事をしたのだし、我々の交際では書留などという堅苦しい形式をとるようなことは、何一つ考えられなかったからである。その内容となるとますます私は驚かされた。その手紙にはこう書いてあったからである。――

「一八――年十二月十日。
親愛なるラニョン君、――君は私の最も古い友人の一人です。そして、我々は科学上の問題では時によって意見の違ったこともあったかもしれないが、我々の友情が途切れたことは少なくとも私の方では思い出すことができないのです。もし君が私に向かって『ジーキル、私の命も、私の名誉も、私の理性も君だけを力にしているのです』と言ったなら、私が君を助けるために自分の財産も、左腕もみな犠牲にしようとしなかった日は、一日もなかったでしょう。ところが、ラニョン君、今こそ、私の命も名誉も理性もすべて君に委ねています。もし君が今夜、私の言うとおりにしてくれなければ、私は破滅することになるのです。こんな前置きを並べると、君は、引き受けたなら何か不名誉になるようなことを、私が君に頼もうとしているのだと想像なさるかもしれないが、それは君自身で判断して下さい。

私は、君に今夜だけは他のあらゆる用事を延期してもらいたいのです、――そう、もし君が国王の枕頭に招かれたとしてもです。そして、君の馬車が今戸口にないなら、辻馬車を雇ってください。そして、参考のためにこの手紙を持って、まっすぐに私の家へ馬車を走らせて欲しいのです。私の召使頭のプールには言い付けてあります。彼は錠前屋と一緒に君の来るのを待っているでしょう。それから私の書斎のドアをこじ開けることになっています。

そして、君は一人で入って行って、左手の硝子張りの戸棚(E文字の)を、もし鍵がかかっていたら錠を壊して開け、上から四番目の、あるいは(同じことだが)下から三番目の引き出しを、その中身をすべてそのままに抜き出して下さい。私はひどい心痛のため、君に指図を誤ってしまうのではないかと、病的な不安を感じています。しかし、たとえ私の言葉が間違っていても、君はその中身でその引き出しを知ることができるでしょう。散薬と、一つの薬瓶と一冊の手帳が入っています。その引き出しをそのままキャヴェンディッシュ広辻スクエアに持って帰って頂きたいのです。

これがお願いの第一の部分ですが、今度は第二の部分です。君がこの手紙を読んですぐ出掛けてくれるなら、夜の十二時よりずっと前に戻れるでしょう。しかし、それだけの時間の余裕を残しておくことにしましょう。それは避けられない障害を気にするだけでなく、君の召使たちが寝てしまった時刻が、それから後にすることが都合がよいからです。それで、十二時に、君は一人で君の診察室にいて、私の代理で訪ねて行く男を、君自身で家の中へ通し、君が私の書斎から持ってきた引き出しをその男に渡して下さい。それだけすれば、君は君の役目を果たすことになり、私は心から感謝いたします。

もし君がどうしても説明を聞きたければ、五分も経てば、これらの手筈が大へん重要なものであること、その手筈がいかにも奇異なものと思われるかもしれないが、それを一つでも省いたならば、私が死ぬか私の理性が破滅するかして、君の良心が苦しめられることになるだろうということが、君に理解されるようになるでしょう。

君がこの願いを軽んずることはないと信じていますが、万が一そんなことがあったらと思うだけで、心が沈み、手が震えます。どうか今、私のことを考えてみてください。ある妙なところにいて、どんな空想もとどかないほどの暗い苦痛に悩んでいるのです。しかも、もし君がちゃんと私の頼みをきちんと聞いてくれれば、私の苦しみは一息のように過ぎ去ることを、よく知っています。どうか私の頼みを聞いてください、親愛なるラニョン君、そして私を救ってください。

君の友人、H・J

追伸。これを早く封じてしまってから、また新しい恐怖が私の心に起こりました。郵便局の都合で思い通りにならないこともあり、この手紙が明朝まで君の手に届かないということも、ないとも限りません。その場合には、ラニョン君、明日中の君に最も都合のよい時に、私の頼んだ用事をして下さい。そして、夜の十二時にもう一度私の使いの者を待って下さい。が、その時はもう遅過ぎるかもしれません。そしてもしその夜が何事もなく過ぎれば、君はもうヘンリー・ジーキルに会うことはないものと思って下さい。

この手紙を読んで、私は私の同僚が気が違ったのだと思い込んでしまいました。しかし、そのことが疑いの余地がないということが証明されるまでは、私は彼の頼みを果たさなければならないと思った。このごたごたしたことを理解しなければならないだけ、私はそれの重要さを判断することができない訳だし、こんなにまで書いてきた願いを捨て置いたなら重大な責任を負わなければならないことになる。

そこで私はテーブルから立ち上がり、貸馬車に乗って、まっすぐにジーキルの家へ向かった。召使頭は私の着くのを待っていた。彼も私のと同じ書留郵便で指図の手紙を受け取り、すぐに錠前屋と大工を呼びにやったのだった。我々がまだ話しているうちにその職人たちがやって来た。それで我々は一緒に、もとデンマン博士の外科の講堂だった建物へと入って行った。

ジーキルの私室へ入るには(君も無論知っているように)そこからが一番便利である。ドアはごく丈夫で、錠は上等のものであった。無理に開けようとすれば、厄介になるし、ひどく破損させることになるだろうと、大工は言った。それに錠前屋もほとんどあきらめかかった。しかしこの錠前屋の方は器用な男だったので、二時間もやってみたところ、ドアは開いた。Eという記号のついている戸棚の錠を開け、その引き出しを取り出して、それに藁を一杯に詰め、敷布に包んで、それをキャヴェンディッシュ広辻スクエアへ持ち帰って来た。

家へ帰ってから、私はその中身を調べにかかった。散薬はかなり手際よく包まれていたが、調剤師がやるようなきちんとしたものではなかったので、ジーキルの手作りであることは明らかだった。その包みの一つを開けてみると、白い純粋な結晶塩のように見えるものが入っていた。

次に薬瓶に注意を向けると、それには血のように赤い液体が半分ばかり入っていた。とても嗅覚を刺激する液体で、燐と何かの揮発性のエーテルが含まれているように思われた。その他の成分は私には考えつかなかった。帳面というのは普通の練習帳で、日付が続けて記してある以外にはほとんど何も書いていなかった。この日付は幾年もの間にわたっていたが、私はその記入がかれこれ一年ほど前のところでばったりと止まっているのに気がついた。

ところどころに簡単な言葉が日付に書き込まれていて、大抵はほんの一語に過ぎなかった。総計数百の記入の中で「二倍」というのがたぶん六回ほどあった。また、そのリストのごく初めの方に、幾つもの感嘆符を付けた「全くの失敗」というのが一回あった。このすべてのことは、私の好奇心を刺激したが、はっきりしたことはまるでわからなかった。ここに、何かのチンキの入った薬瓶と、何かの塩剤の入った紙包みと、実際の役に立たなかった(残念ながらジーキルの研究の多くのものと同様に)一連の実験の記録がある。

私の家にこういう品物があることが、一体どうして私の気まぐれな同僚の名誉や正気、生命に影響するのだろうか? 彼の使いの者が私のところへ来ることができるならば、なぜその者は彼のところへは行けないのだろうか? それには何かの差し支えがあるとしたところで、なぜその紳士は私によって密かに迎え入れられなければならないのか? 私は考えれば考えるほど、相手が精神的に不安定であると確信するようになった。それで私は召使たちを寝させてしまったが、正当防衛ができるようにと、一丁の古い連発銃に弾を込めた。

十二時の鐘がロンドンの空に鳴り響くか響かないかのうちに、ノッカーが戸口でごく静かにこつ、こつと耳を立てた。それに応じて自分で行くと、一人の小男が玄関の円柱に寄りかかって屈んでいた。「ジーキル博士のところから来たのですか?」と私は尋ねた。その男は気詰まりそうな身振りで「そうです」と言った。そして私が中へ入れと言うと、その男は振り返って広辻スクエアの闇の方をちらりと探るように見てから、私の言うことを聞いた。そう遠くないところに一人の巡査が角灯を照らしながらやって来た。それを見ると、私の訪問者はぎょっとして一層急いで入ったように思われた。

こういう一々のしぐさは、実際のところ、私に不快感を与えた。それで、彼について診察室の明るい光のところへ行くまで、私は絶えず自分の武器に手をかけるようにしていた。診察室へ来ると、やっとその男をはっきりと見ることができた。私はそれまで一度もその男を見たことがなかった。それだけは確かだった。前にも言ったように、その男は小男であった。その上、私に強い印象を与えたのは、ぞっとするような彼の顔つきと、非常な筋肉の活動力と、ちょっと見ても非常に虚弱な体質との異常な結合と、それから――最後に、と言っても前のに劣らないのだが――彼の近くにいると何となく妙な不安を感じることであった。

これは悪寒の初期の症状に幾らか似ていて、脈拍のひどい衰えが伴った。その時は、私はそれを何か特異な個人的な嫌悪のためだと考え、ただその徴候のひどいのを不審に思っただけだったが、その後、その原因が人間の本性にもっとずっと深く存在して、憎悪の原理よりももっと崇高な、何かの原則によるものだと信じるようになったのである。

この男は(入ってきた瞬間から厭らしい好奇心と呼ぶしかない気持ちを私に抱かせたが)普通の人が着ていたらとてもおかしい風に衣服を着ていた。というのは、彼の衣服は、服地こそ贅沢で地味なものではあったが、どの部分の寸法もみな彼には恐ろしく大き過ぎて、――ズボンは脚にだぶだぶぶら下がり、地面に引きずらぬように巻き上げてあるし、上衣の腰のところは臀の下まで来ているし、カラーは肩の上にぶざまに拡がっているのだ。

ところが不思議なことには、この滑稽な服装を見ても、私は笑う気になるどころではなかった。いや、むしろ、今私と向き合っている人間の本質そのものには何か病的な普通でないところが――何か強い印象を与える、不思議で胸を悪くするようなところが――あるので、この鮮やかな不釣合はそれと調和し、それを強めるだけのように思われた。だから、その男の性質や性格に対する私の興味に、さらにその男の素姓、その生活、その財産や社会における身分などを知りたいという好奇心までも加えられたのであった。

こういう観察は、それを書き記すにはずいぶん長くなったが、ほんの数秒の間にしたことであった。私の訪問者は、実際、陰気な興奮に燃えていた。「あれを持って来てくれましたか?」と彼は叫んだ。「あれを持って来てくれましたか?」そして彼はじれったくてたまらなくて、手を私の腕にかけて私を揺すぶろうとしさえした。

私は彼に触れられると血が凍るような感覚がし、彼を押し除けた。「まあ、君」と私は言った。「私はまだ君とお近付きになってはいないということを君は忘れておられる。どうか、お掛けなさい。」そして私は彼に手本を示して自分のいつもの座席に腰を下ろし、患者に対する自分のいつもの態度をできるだけ装ったが、時刻も遅かったし、先入主もああいう風であったし、その訪問者に対する恐怖感もあったので、十分いつものような態度はとれなかった。

「失礼しました、ラニョン博士」と彼は非常に丁寧に答えた。「あなたのおっしゃることはいかにももっともです。気がせいていたものですから、つい無作法をいたしました。私はあなたの御同僚のヘンリー・ジーキル博士の依頼で、ちょっと重大な用事でこちらへ参ったのです。で、きっと……」と彼はちょっと言葉を切って、片手を自分の喉にあてた。そして、その落ち着いた態度にもかかわらず、病的な興奮の発作が起こりそうなことを抑えているのが私にはわかった。――「きっと引き出しが……」

しかし、この時、私はその訪問者の不安な気持ちが気の毒になり、またたぶん自分自身の好奇心がだんだん高まってくるのをいくらか満足させたくなった。「そこにありますよ」と私は言って、例の引き出しを指さした。そこにはそれがまだ敷布におおわれたままテーブルの後ろの床の上にあった。

彼はそれに跳びかかった。それからちょっと立ち上がり、片手を胸にあてた。顎がひきつり、歯がぎしぎしと軋む音が聞こえた。顔は見るももの凄くなったので、私は彼が死にはしまいか、また気が狂いはしまいかと驚いたほどであった。「まあ、気を落ち着けなさい」と私は言った。

彼は私に恐ろしい微笑を向け、捨て鉢の決心を固めたかのように敷布を引き除けた。その中身を見ると、彼はひどく安心したらしく、大きなしゃくりあげるような声を出したので、私はびっくりして坐ったまま身動きもできなくなった。次の瞬間には、ずいぶん落ち着いた声になって、「メートル・グラスがありますか?」と彼は尋ねた。

私はやっとのことで座席から立ち上り、彼の求めるものを渡してやった。

彼はにっこり頷いて礼を言い、赤色のチンキを数滴、分量を測って入れ、それに一包みの散薬を加えた。最初は赤味を帯びていたこの混合物は、結晶塩が溶けるにつれて色が鮮やかになり、ぶつぶつと音を立てて泡立ち、少量の水蒸気を発散しだした。と同時に、その沸騰が止み、その化合物は暗紫色に変わり、それがまた前より少しずつ薄い緑色に色あせていった。こういう変化を見つめていた私の訪問者は、にやりと笑って、メートル・グラスをテーブルの上に置き、それから振り向いて、探るような様子で私を見た。

「ところで今度は、」と彼が言った、「残っていることを片づけるとしましょう。君は知りたいのか?それとも教わりたいのか?君は私にこのグラスを手に持ってこれきり何も話をせずにこの家から出て行かせるつもりですか?それとも好奇心が強くて、聞かずにはいられないのですか?よく考えてから返事して下さい。

君の決め方によって、君をそのままの状態にしておこう。前よりも富むのでもなく、前よりも知識があるのでもなくしておいてあげよう。死ぬような苦しみをしている人間に尽力をしてやったという意識が一種の精神上の富と見なされるのでなければですがね。それともまた、もし君が望むなら、知識の新しい領域や名声、権力を得る新しい道を、ここで、この部屋で、君の前に広げてみせよう。魔王の不信仰をも揺るがせるような奇怪なものを見せて、君の眼を眩ませてあげよう。」

「君、」と私は、冷静さをほんとうには持っているどころではなかったが、強いてそれを装って言った、「君は謎のようなことを言われる。わたしが君の言葉を大して信用しないで聞いていると言っても君はたぶん不思議にも思われはしないだろう。しかし、わたしも訳のわからぬ御用をここまでして深入りしたんですから、おしまいまで見せてもらうことにしましょう。」

「よろしい、」とその訪問者が答えた。「ラニョン君、君は自分の誓ったことを覚えているでしょうな。これからのことは我々の職業上秘密を守るべきことなのです。さあ、君は長い間実にかた意地な唯物的な見方にとらわれてきたが、そして霊妙な薬の効能を否定して、自分の目上の者たちを嘲笑してきたが、――これを見給え!」

彼はメートル・グラスを口にあてると、ぐっと一息に呑み下した。すると叫び声をあげて、ひょろひょろとよろめき、テーブルを掴まえてしっかりとしがみついたまま、血走った眼でじっと見つめ、口を開けて喘いだ。見ているうちに変化が起こったように私は思った。――彼は膨れるように見え、――彼の顔は急に黒くなり、目鼻立ちが融けて変わったように思われ、――そして次の瞬間には、私は跳び立って壁に凭れかかり、その怪物から自分の身を護ろうと腕を上げ、心は恐怖でいっぱいになった。

「おお、これは!」と私は叫び、さらに二度、三度と「おお、これは!」と繰り返した。それは、私の目の前に――色が蒼ざめ、震え、半ば気を失い、死から蘇った人のように手で前方を探りながら――ヘンリー・ジーキルが立っていたのだ!

それから一時間ばかりの間に彼が私に物語ったことは、私はとても書く気になれない。私は確かに見、確かに聞いたのであり、私の心はそのために病んだ。しかしながら、そのとき見たことが私の眼から消えてしまった今、そのことを信ずるかと自分に尋ねてみると、私は答えることができない。私の生命は根こそぎ揺り動かされている。睡眠は私を見棄ててしまった。最も烈しい恐怖が昼も夜も絶えず私の傍を離れない。

私は自分の余命が幾らもなく、自分が死ななければならないことを感じる。しかも私は信じられぬままで死ぬであろう。あの男が悔悟の涙さえ流しながら私にうち明けた悖徳行為については、思い出してもぞっとする。私は一つのことだけ言っておこう、アッタスン、そしてそれだけで(もし君がそれを信じる気になれれば)十分であるだろう。その夜、私の家へ忍び込んで来たかの人間は、ジーキル自身の告白によれば、ハイドという名で知られ、カルーの殺害者として全国の隅々までも捜索されている男なのであった。

ヘースティーラニョン。

10.この事件に関するヘンリー・ジーキルの詳しい陳述書

私は一八〇〇年に、大財産の相続者として生まれた。その上、すぐれた才能に恵まれ、生まれつき勤勉な性質で、わが同胞の賢明な人や善良な人を尊敬することを好んだ。だから、誰にでも想像されるように、名誉ある、すばらしい将来を十分に保証されていた。だが、実のところ、私の最も大きな欠点は抑えきれない快楽癖だった。それは、多くの人たちを楽しませもしたが、また、気位が高くて世間の前では人並以上にえらそうな顔をしていたいという私のわがままな欲望とは、折り合い難いものであった。そのため、私は自分の遊楽を人に隠すようになり、分別のある年頃になると、周囲を見回し、世間での栄達や地位に気を配るようになった。その結果、私は深い二重生活を送ることになった。私がやったような不品行は、かえって世間に言いふらした人も多いだろう。

しかし、私は自分の立てた高い見地から、それをまるで病的と言ってもよいほどの羞恥の念をもって眺め、また隠したのである。だから、私をこんな人間に作りあげ、また、人間の性質を二つの要素に分けている善と悪との領域を、私の場合にあっては、大部分の人の場合よりも一層深い溝をもって切り放したのは、私の欠点が特別に下劣であるためよりも、むしろ私の理想を追う心が厳しすぎたためであった。それで私は、宗教の根元に横たわり、最も多くの苦悩の源泉の一つであるところの、あの苛酷な人生の掟について深く執拗に考えない訳にはゆかなかった。私はひどい二重人格者であったが、決して偽善者ではなかった。私の善悪両面とも、いずれも飽くまで真剣であった。私は、学問の進歩や人間の悲しみ、苦しみを救うために公然と努力している時も、自制を失い恥ずべき行いにふけっている時も、変わらず私自身であった。

そして、偶然にも、私の科学上の研究の方向がもっぱら神秘的なものと超絶的なものの方へ向かっていたので、それがこの両面の絶え間ない闘争という意識に反応して、それに強い光明を投げたのである。こうして、私の知性の両方面、道徳的方面と知的方面から、一日一日と、私はあの真理、つまり人はほんとうは一つのものではなく、ほんとうは二つのものであるという真理に、着々と次第に近づいてゆき、その部分的発見によって私はこのような恐ろしい破滅を招く運命となったのである。私が二つのものであると言うのは、私自身の知識がその点に達していないからだ。

今後この同じ方面である人々は私の後に続き、ある人々は私を追い越すであろう。それで私は、人間というものはさまざまな互いに調和しない独立の住民からなる単なる一団体として結局は知られるようになるだろう、ということを思い切って予言しておこう。私はと言えば、自分の生活の性質から一方の方向に、ただもう一方の方向だけにまっしぐらに進んだ。私が、人間はもともと完全に二重性のものであることを認めるようになったのは、その道徳的方面でだった。しかも私自身の意識の分野の中で互いに争っている二つの性質のどちらかが自分であるとはっきり言えるのは、ただ自分が根本的にはその両方であるからである、ということを知った。だから、私の科学的な発見の進行がそういう奇跡の可能性を少しも暗示しない前から、私はもう、愛する白日夢として、この二要素の分離という着想を好んで考えるようになっていた。私はこう考えた。もしその各々の要素を別々の個体に宿らせることさえできたなら、人生はあらゆる耐えられないものから救われるであろう。

正しくない要素は、自分と双生児の一方である正しい要素のすべての志望や悔恨から解放されて、自分の欲するままの道を行くことができるであろうし、正しい方は、自分の喜びとする善事を行ない、縁もないこの悪の手によって恥辱や悔悟にさらされることなしに、安心して堅実に向上の路を歩むことができるであろう、と。この互いに調和しない二つの薪束がこのように一緒にくくりつけられているということ――意識という苦しみの胎内でこの両極の双生児が絶えず争っていなければならないということが、人類の禍であったのだ。では、どうしてこの二つを分離させようか?

私がここまで考えてきた時、前に言ったように、実験室のテーブルからその問題に側面からの光が射しかけたのである。私は、我々がそれに包まれて歩いているこの見た目には頑丈そうな肉体が、極めて不安定で実体のない、霧のようにはかないものであることを、今までに述べられた以上に深く理解するようになった。

ちょうど風が天幕小屋の幕を吹き飛ばすように、ある要因がその肉体という衣服を揺り動かして引きはがす力を持っていることを、私は発見した。二つの理由から、私は自分自身の告白のうち、この科学的方面へは深く入らないことにする。第一は、我々の人生の運命と重荷が永久に人間の肩に結びつけられていて、それを投げ棄てようとすれば、却って一層不思議で恐ろしい圧力が我々に戻って来るだけだということを、私は悟ったからである。

第二は、私の記録が十分に明らかにするであろうが、ああ、なんと、私の発見は不完全であったからである。だから、次のことだけを記すことにしよう。つまり、私は、私の生まれながらの肉体が、私の心霊を構成する力から発する精気と光輝に過ぎないことを認めただけでなく、ついに苦心して調合した薬によって、それらの力を最高位から押しのけ、私の霊魂の劣等な要素の表れである、刻印が押された第二の形体と容貌に代えることに成功したのであった。

私はこの理論を試すまで、長い間ためらった。それが命懸けであることを私はちゃんと知っていた。なぜなら、そのように強力で、個性の城塞までも揺り動かすほどの薬は、ほんのちょっとでも飲み過ぎたり、服薬の時が少しでも違ったら、私が変化させようとするその実体のない肉体をすっかり抹殺してしまうかも知れないからである。

しかし、そのように深遠で非凡な発見の誘惑は、ついに、不安の念に打ち勝ってしまった。私はずっと前からチンキの方は調剤してあったので、すぐに、ある薬問屋から特別な塩剤をたくさん買い込んだ。それは、私の実験によって、最後の必要な成分であることがわかっていたものである。こうして、ある呪うべき夜遅く、私はそれらの薬品を調合し、それらが硝子器の中で一緒に煮え立ち、煙を上げるのを見つめ、その沸騰が静まったとき、勇気をふるい起こしてその薬液を飲みほした。

次に非常に激しい苦痛が起こった。骨が挽かれるような苦しみ、恐ろしい吐き気、生まれる時か死ぬ時よりも強い精神の恐怖。やがてこれらの苦悶は急に静まって、私はまるで大病から回復したみたいに我に返った。私の感覚は何となく妙で、何とも言いようなく清新で、また、その清新さそのもののために信じられないほど甘美であった。

私は体がこれまでよりも若々しく、軽やかで幸福であると感じ、心の中には、たけだけしく向こう見ずな気持ちと、空想の中を水車のように回る流れのように奔流する混乱した肉感的な幻影、義務からの解放、未知でありながら潔白ではない精神の自由を意識した。私は、この新しい生命を呼吸するとすぐに、自分がこれまでよりも邪悪で、しかも十倍も邪悪で、自分の本来の悪に奴隷として売られたものであることを知った。そして、そう考えることが、葡萄酒のように私の心を引き締め喜ばせた。私はこういう感覚の新鮮さに狂喜して両手を差し伸ばした。そうしていると、ふと、自分の身長が短くなっていることに気がついた。

その時分には、私の部屋には鏡がなかった。今これを書いている時に私の傍らにあるものは、全くこういう身体の変化を見るために、後になってここへ持って来たものなのである。ともかく、夜はよほど更けていて、――まだ真暗ではあったけれども、やがてもう夜も明けようとしていた。私の家の者たちはぐっすり熟睡していた。で、私は、希望と成功で得意になっていたので、その新しい姿のままで自分の寝室まで行こうと決心した。私が裏庭をよぎって行くとき、一晩中眠らずに見張りをしている星座も、今までに見たことのない種類の最初の生物である私を、いぶかりながら見下ろしていたことであろう。自分自身の家の中を他人となって、私は廊下をこっそりと通った。そして自分の部屋へやってきて、初めてエドワード・ハイドの姿を見たのであった。

私はここでは、自分が知っていることではなく、そうであるらしいと想像したことを理論的に話さなければならない。私が今具体性を与えた自分の本性の悪の面は、私がたった今捨てたばかりの善の方面ほどには強くもなく、発育もしていなかった。また、私のこれまでの生活は、結局十分の九までは努力と徳行と抑制との生活であったから、その悪の方は善の方よりも使われることがずっと少なく、消滅されることもずっと少なかったのである。

だから、エドワード・ハイドがヘンリー・ジーキルよりもずっと小さく、弱く、若かったのだろうと、私は思うのだ。ちょうど善が一方の顔に輝くように、もう一方の顔には悪がはっきりと刻まれていた。その上、悪は(それは人間の死をもたらす側面であると、私は信じざるを得ないが)その身体にも欠陥と衰退の痕跡を残していた。それなのに、鏡の中にその醜い姿を眺めた時、私は何の嫌悪も感じないで、むしろ跳び上がるような歓びを感じた。

これもまた私自身なのだ。それは自然で人間らしく思われた。私の眼には、それは、私がこれまで自分の顔と言い慣れてきたあの不完全などっちともつかぬ顔よりも、一層生き生きとした心の映像を示していたし、一層はっきりして単純に見えた。そしてここまでは確かに私の考えは正しかった。私は、自分がエドワード・ハイドの外貌をしている時、誰でも初めて私に近づく者は、必ず明白な肉体の不安を感じずにはいられないことに気がついた。これは、私が思うのでは、我々が出会う人間はすべて善と悪との混じりあったものであるが、エドワード・ハイドだけは、人類全体の中でただ一人、純粋な悪であったからであろう。

私は鏡のところにほんの少しの間しかぐずぐずしていなかった。まだ第二の決定的な実験をやってみなければならないのだ。自分がもう回復できないほどに自分の本体を失ってしまって、もはや自分の家ではないこの家から、夜の明けないうちに逃げ出さなければならないかどうかを、確かめることがまだ残っているのだ。それで、急いで書斎に戻ると、私は再びあの薬を調合して飲み、再度解体の苦痛を感じ、再びヘンリー・ジーキルの性格と身長、容貌を持って我に返った。

その夜、私は運命の十字路に立っていた。もし私がもっと崇高な精神で自分の発見に近づいたのであれば、もし私が高邁な、あるいは敬虔な向上心に支配されている時にあの実験を敢行したのであったなら、すべては違った結果になったに相違ないし、あの死と生との苦しみから私は悪魔ではなく、天使として出てきたであろう。その薬には何も差別的な作用がなかった。悪魔のようにするのでも神のようにするのでもなかった。

その薬はただ私の気質が閉じ込められている獄舎の戸を震い動かすだけであった。すると、あのフィリッパイの囚人のように、内にいたものが走り出るのであった。その時には私の徳性は眠っていて、野心のためにずっと目を覚ましていた私の悪が、すばしこく迅速にその機会をとらえたのだ。

そして跳び出して来たのがエドワード・ハイドであった。だから、私はいまでは二つの外貌と二つの性格を持ってはいたけれど、一方はぜんぜん悪であって、もう一方はやはり昔のままのヘンリー・ジーキルで、その矯正や改善はとても見込みがないと私がとうに知っているあの不調和な混合体なのであった。こうして悪い方へとばかり向かっていったのである。

その頃でさえ、私は研究生活の味気なさに対する自分の嫌悪の念にまだうち勝っていなかった。私はやはり時々遊びたい気持ちになった。そして私の遊楽は(控えめに言っても)体面にかかわるものであったし、私は世間にも十分有名で、大へん尊敬されていただけでなく、初老の年齢になりかけていたので、私の生活のこの矛盾は日ごとに苦痛となっていった。私の新しい力が私を誘惑して、とうとう私をその奴隷としてしまったのは、この方面においてであった。

私はあの一杯の薬を飲むだけで、高名な教授の肉体をすぐに脱ぎ捨て、厚い外套のようにエドワード・ハイドの肉体を纏うことができるのだ。そう考えると私は微笑した。その考えはその時には滑稽なように思われた。そして私は極めて注意深く自分の準備を整えた。私はハイドが後に警察に追跡されたあのソホーの家を手に入れ、家具を備えつけ、無口で怠惰な彼女を家政婦として雇った。

一方、自分の召使人たちに、ハイド氏という人(その人相を私は言った)は広辻スクエアの私の家では思い通りに勝手なことをしてもよいのだということを知らせた。そして、間違いを避けるために、自分の第二の人格になって、訪問までして自分を彼らによく見せておいた。次に私は君があれほど反対したあの遺言書を作った。これは、もしジーキル博士としての自分に何事が起こっても、私が金銭上の損失を受けずにエドワード・ハイドの身になれるようにするためであった。そして、このようにあらゆる方面で用心堅固にしたつもりで、私は自分の立場のその奇妙な免疫性を利用しにかかったのである。

暴漢を雇ってそれに自分の罪悪を行なわせ、自分の身体や名声は安全にかばった人たちがこれまでにはあった。ところが、自分の遊楽のためにそんなことをしたのはこれまでには私が初めてであったのだ。快い名声の重荷を背負い、社会の中でせっせと働きながら、私はまるで小学生のように、その借り物を脱ぎ捨て、自由の海へまっさかさまに飛び込むことができたのだ。しかも私は、あの見通しのできないマントを着ているので、その安全は完全なものであった。

そのことを考えてみ給え――私という人間は存在しもしないのだ! 私はただ自分の実験室の戸口の中へ逃げ込んで、いつでも用意してある薬を調合してのみ下すのに、ほんの一秒か二秒をかけさえすれば、彼が何をしてこようと、エドワード・ハイドは鏡に吹きかけた息の曇りのように消えてしまうのだ。そして彼のかわりに、ヘンリー・ジーキルが、嫌疑を笑うことのできる人間として、静かにくつろいで、研究室で真夜中の灯火をかき立てているのだ。

私が姿を変えて求めようと焦がれた遊楽は、前にも言ったように、体面に関わるものであった。私はこれよりひどい言葉は使いたくない。しかし、エドワード・ハイドの手にかかると、その遊楽は間もなく恐ろしいものへと変わっていった。そうした出遊びから帰ってきたとき、私は時折、自分の身代りのやる悪行につくづく一種の驚きを感じることがあった。私が自分の霊魂の中から呼び出して、思いのままに振舞わせるために出したこの小悪魔は、生まれつき悪質なものであった。

彼のすること考えることはすべて自己中心で、少しでも他人を苦しめて獣のような貪欲さで快楽をむさぼり、石で出来た人間のように無慈悲であった。ヘンリー・ジーキルは時折、エドワード・ハイドの行為に愕然とすることがあった。しかし、こういう立場は普通の法則からは離れていたので、うまく良心の手を弛めていた。罪のあるのは、要するに、ハイドであり、ハイドだけであった。ジーキルは少しも変わりがなかった。彼が目覚めれば、見たところ少しも損われていない元の善良な性質に返るのであった。彼は、それができる場合には、ハイドのした悪事を急いで償おうとさえした。こうして彼の良心は眠っていたのであった。

私がこのように見過ごしていた悪行(今でも自分でそれを行ったとは認めがたいが)については、詳しく記すつもりはない。私はただ、懲罰が自分に近づいてきた前触れと、それが一歩一歩迫ってきた順序を指摘するつもりである。私は一つの事件に出会ったが、それは何も大したことにもならなかったから、ちょっと書いておくだけにしよう。ある子供に対する私の残酷な行為が一人の通行人をひどく憤らせた。

その人が君の親戚であることを、私は先日知ったのだが、医者とその子供の家族とがその人に加わったので、一時は自分の生命も危険ではないかと心配した。そして結局、彼らの極めて当然な憤慨をなだめるために、エドワード・ハイドは彼らをあの戸口まで連れて行き、ヘンリー・ジーキルの名で振り出した小切手で支払わなければならなかった。しかし、こういう危険はたやすく将来から取り除かれた。それはエドワード・ハイド自身の名義で新しく別の銀行に預金したからである。そして、私の手跡を後へ傾斜させて私の分身の署名の書体にすることにすると、私はもう災厄の手の届かぬところにいるのだと思った。

ダンヴァーズ卿の殺害事件から二カ月ばかり前、私はいつもの遊興に出かけ、夜が更けてから帰って来たが、翌日寝床の中で目が覚めると少し変な感じがした。自分の周りを見回したが駄目だった。広辻スクエアの自分の部屋の上品な家具や天井を高くした作りを眺めたが駄目だった。寝台のカーテンの模様やマホガニー材の寝台の意匠をそれと認めても駄目だった。自分は自分のいるところにいるのではない。自分は自分の目を覚ましたように見える場所で目を覚ましたのではなく、いつもエドワード・ハイドの体になって眠る習慣になっているあのソホーの小さな部屋で目を覚ましたのだ、とやはり何かが主張し続けるのだ。

私はひとりで微笑し、いつもの心理学的方法で、ゆっくりとこの錯覚の諸要素を調べ始めたが、そうしながらも、時々また心地よい朝のまどろみへ陥るのであった。こんなことをしているうちに、目が幾分はっきり覚めている時、目がふと私の手に止まった。ところで、ヘンリー・ジーキルの手は(君もときどき見たように)形も大きさも職業にふさわしいものだった。大きくて、しっかりして、白く、きれいなのだ。ところが、今、私が夜具に半ばくるまりながら、ロンドン中部の朝の薄い光の中で、十分はっきりと見た手は、痩せて、筋張って、指の節が太く、色が蒼黒くて、薄黒い毛がもじゃもじゃ生えていた。それはエドワード・ハイドの手であった。

私はあまりの驚きで完全に呆然とし、その手を三十秒近くじっと見つめていた。それから、シムバルを打ち合わせる音のように突如として私の胸の中に恐怖が湧きおこった。私は寝床から跳び出して鏡のところへ走って行った。鏡に映った姿を見ると、私はぞっとして血が凍ったような気がした。そうだ、私はヘンリー・ジーキルとして眠りにつき、エドワード・ハイドとして目が覚めたのだ。これはどう説明したらよいだろうか? と私は自分に尋ねた。

それから、また恐怖のために跳び上がりながら、――これはどうして元どおりにしたらよいだろうか? と尋ねた。朝もだいぶ遅くなっていた。召使たちは起きている。私の薬はみな書斎にある、――私がそのとき愕然として突っ立っているところからは、二つの階段を下り、裏手の廊下を通りぬけ、露天の中庭をよぎり、解剖学の階段講堂を通って行く、遠い道程だ。なるほど、顔を覆って行くことはできるかもしれない。

しかし、身長の変化を隠すことができないとすれば、それが何の役に立とう? そのとき、召使たちが私の第二の自我であるハイドの出入りするのに前から慣れていることが思い浮かぶと、たまらないほど嬉しくなって安心した。さっそく私は私自身の身丈の衣服をできるだけうまく身に着けた。そしてすばやく家の中を通りぬけたが、ブラッドショーがそんな時刻にそんな妙な服装をしているハイド氏を見ると眼を円くしてあとしざりした。それから十分もたつと、ジーキル博士は自分の姿にもどっていて、暗い顔色をしながら、朝食を食べるような振りをして着席していた。

食欲はとても少ししかなかった。この説明しがたい出来事は、今までの経験がこのように転倒したことを、壁に現れたあのバビロニアの指のように、私の受けるべき審判の文字を綴っているように思われた。そして、私は、これまでよりも真剣に、自分の二重存在の結果や可能性について考え始めた。私が形態化する力を持っているその分身は、最近非常に体を使い、滋養を与えられて発育していた。この頃は、エドワード・ハイドの身体が身長を増し、以前よりは血液が豊富になったかのように、私には思われた。そして、もしこんなことがずっと続くならば、自分の本性の平衡が永久に失われてしまい、任意に変身する力が失われ、エドワード・ハイドの性格が自分の性格になってしまって、とりかえしがつかなくなるかもしれないという危険に、私は気がつき始めた。

あの薬の効力はいつも一様に現れるという訳ではなかった。私の経歴のごく初めのころ、一度、薬がぜんぜん利かなかったことがあった。そのときから、私は一度ならず量を二倍にしなければならなかったし、一度などは、本当に命がけで量を三倍にしなければならなかった。そして、たまにあるこういう不確実性が、これまでの私の満足な気持に唯一の暗い影を投げていたのであった。

ところが、今、その朝の出来ごとに照らして考えると、初め困難なのはジーキルの体を脱ぎ捨てることであったのに、近ごろはその困難がだんだん明確にその反対の方に移っているということを、認めるようになった。そんな訳で、すべてのことが次のようなことを示しているように思われた。つまり、私は少しずつ自分の本来の善い方の自我を失って、少しずつ自分の第二の悪い方の自我と合体されつつあるということである。

この二者のうち、今こそ私はどちらかを選ばなければならぬのだと感じた。私の二つの本性は記憶力を共通にしているが、他のすべての能力は、両者の間に非常に不平等に分かれていた。ジーキル(混合物であるところの)は、時には非常に過敏な懸念をもって、時には貪るような興味をもって、ハイドの快楽や冒険を計画し、それを一緒にやった。しかし、ハイドはジーキルには無関心だった。

もしかすると、山賊が追跡を免れるために身を隠す洞穴を憶えていると同じくらいにしか彼を覚えていなかった。ジーキルは父親以上の関心を持ち、ハイドは息子以上に無関心であった。私の運命をジーキルと共にすることは、長い間私をこっそり満足させ、最近では耽溺するようになっていた様々な欲望を断ち切ることだった。ハイドと運命を共にすることは、数多の利益や抱負を思い切り、一ぺんに、しかも永久に、人から軽蔑され友だちもなくなることであった。この二つを交換することは、割に合わないように思えるかもしれない。しかし、まだもう一つ秤にかけて考えなければならないことがあった。

というのは、ジーキルの方は禁欲の火の中にあってひどく苦しんでいるのに、ハイドの方は自分が失ったすべてを意識さえもしていない、ということであった。私の事情は不思議なものではあったが、こんな問題は、人間のように古くて、ありふれたものなのだ。これと大体同じ動機や恐怖が、誘惑されて震えおののいている罪人のために運命のサイコロを投じたのである。そして私の場合には、大多数の人々の場合と同様に、自分の善い方を選びはしたが、それを固守する力が足りないことがわかったのである。

そうだ、私は、友人たちに取り囲まれて立派な希望を抱いている中年過ぎの不満な博士の方を選び、ハイドの変装で私が享楽した自由や若さ、軽やかな足取り、躍動する心臓の鼓動、そして秘密の快楽に、きっぱりと別れを告げたのだ。私はこの選択をしたけれども、それにはたぶん無意識のうちに幾らかの保留を残しておいたのであろう。なぜなら、私はソホーの家を引き払おうともしなかったし、またエドワード・ハイドの衣服を放棄しようともせず、それをやはり書斎に用意しておいたからである。

しかし、二カ月の間は、私はその決心に忠実であった。二カ月の間は、私は、それまでになかったほど謹厳な生活を送り、その報償として良心にほめられた。けれども、時が経つにしたがってとうとう私の恐怖はその生々しさがだんだん失われるようになり、良心の賞讃も当たり前のことのようになってきた。私は、自由を求めてもがいているハイドのそれのような苦悶と切望とに悩まされ始めた。そして、とうとう、道徳心の衰えている時に、もう一度あの変身薬を調合して飲んだのである。

大酒家が自分の悪習について自分で理屈をつけるとき、彼がその獣のような肉体的無感覚のためにおかす危険のことを、五百分の一度でも気にかけることがあろうとは、私は思わない。私もまた自分の立場を長いこと考えてはいたけれども、エドワード・ハイドの主要な性格であるところの、完全な道徳的無感覚と、いつでも悪を行おうとする狂暴性とを、十分に考えてみたことがなかった。けれども、私が罰せられたのは、そういう性格によってであったのだ。私の悪魔は久しく閉じこめられていたのだが、それが唸りながら出てきた。私は、その薬を飲んだ時でさえ、これまでよりも一層放縦な、猛烈な悪をなそうとしていることを意識した。

私の不幸な被害者の丁寧な言葉を聞いていた時にあの激しいいらだたしさを私の心の中に起こさせたのは、きっと、それであったに違いない。神さまの前でも、私は少なくとも次のことははっきりと言える。道徳的に健全な人間なら、あんなちょっとしたことに腹を立ててああいう罪を犯すはずがないと。

また、私は病気の子供が玩具を壊すと同じくらいの理性のない気持ちで殴ったのだ。しかし、人間の中の最悪の者でさえもそれによって、いろいろの誘惑の中をある程度しっかり歩み続けるところの、あの平衡を保つ本能をすべて、私は自分から捨てていたのである。それで私の場合には、どんなにちょっとでも誘惑されることは、それに負けることなのであった。

たちまち地獄の悪霊が私のうちに目ざめて荒れ狂った。喜びに有頂天になりながら、私は抵抗しない体をさんざんに殴りつけ、殴るたびに快感を味わった。そして疲れ始めるとようやく、その無我夢中の発作の最中、突然恐怖の戦慄が胸を打った。霧が晴れた。私は自分が死刑にされる運命だと悟った。そして、悪の欲望が満たされ、刺激され、生の愛着がぎりぎりまで脅かされたので、歓びながらも恐れおののき、その暴行の場所から逃げ出した。

私はソホーの家に駆けつけ、念に念を入れるために、自分の書類を焼き捨てた。それから外へ出て、街灯に照らされた街を、二つに分裂した無我夢中の心持ちで通り過ぎ、自分の犯した罪を小気味よく思い、これから先の別の罪をいろいろと気軽に企みながらも、また一方では絶えず足を速め、復讐者の足音が聞こえはしないかと背後に耳を澄ませていた。ハイドはあの薬を調合しながら歌を口ずさみ、それを飲む時にはかの死者のために乾盃した。

引き裂くような変身の苦痛がまだ終わらぬうちに、ヘンリー・ジーキルは、感謝と悔恨との涙を流しながら、ひざまずいて神に向って指を組合わせた手を挙げていた。放縦のヴェールは頭から足の先まで引き裂かれ、私は自分の全生涯を見た。父の手に引かれて歩いていた子供の頃から、自分の職業生活の克己的な労苦を思い浮かべ、最後には、まるで夢のような気持で、その晩のあの呪わしい惨事をいくどもいくども思い出したのであった。私は声を上げて泣きたい気持ちだった。

私は涙を流し神に祈りながら、自分の記憶に集まって自分を責める数々の恐ろしい光景や物音を抑えつけようとした。それでもやはり、その祈りの間から、私の罪悪の醜い顔が私の心の中をじっと睨みつけるのであった。この悔恨の烈しさがだんだん消えかかると、それに続いて喜びの情が湧き起こった。私の行状の問題は解決したのだ。これから後はもうハイドになることができないのだ。否でも応でも、私は今では自分の存在の善い方に限られたのだ。そして、おお、それを考えると私はどんなに喜んだろう! どれほど喜んでつつましやかな気持ちで、私は自然の生活の拘束を新しく受け入れたことだろう! どれほど心から思い切って、これまで何度も出入りしていた戸口の錠を下ろし、その鍵を踵で踏みにじったことだろう!

翌日、その殺人を見下ろしていた者があったこと、ハイドがその犯罪をしたのだということが世間に知れわたっていること、またその被害者が世に重んぜられている人であったことなどの報道がされた。それは単なる犯罪ではなく、悲惨で愚かな行為だった。

私はそれを知ると、喜んだのだと思う。私は、自分の善い方の衝動が処刑台を恐れる心によって、このように支えられて護られていることを、喜んだのだと思う。ジーキルはいまや私の逃避の邑であった。ハイドがちょっとでも顔を出そうものならば、彼を捕えて殺すために、すべての人々の手が挙げられるであろう。

私はこれからの行為によって過去をつぐなおうと決心した。そして、この決心がいくらかの善を生んだということを、偽りなく言うことができる。昨年の終わりの数カ月の間、どんなに熱心に私が人の苦しみを救うために骨折ったかは、君も知っている通りである。

他人のために多くのことをし、自分も平穏に、ほとんど幸福に日を過ごしたということは、君も知っている通りである。そしてまた、私がこの潔白な慈善生活に飽きたと言うのは本当ではない。それどころか、私は一日一日と一層完全にその生活を楽しむようになったと思う。

しかし、私はやはりあの意志の二重性に呪われていた。そして、悔悟の最初の鋭い切先が鈍ると、長い間勝手気ままにされていて、つい近ごろになって鎖で繋がれてしまった、私の下等な部分が自由を求めて唸り始めた。と言っても、私がハイドを復活させようなどと夢にも思ったのではない。そんなことは思っただけでも私は気がふれるほど驚いたであろう。いや、私がもう一度自分の良心を弄ぶように誘惑されたのは、私自身のそのままの体でであった。私がとうとう誘惑の攻撃に負けてしまったのは、普通の罪人としてだったのだ。

すべてのものには、終わりが来る。どんなに大きな桝目でも遂には一杯になる。そして、私が自分の悪い心にちょっとの間でも従ったことは、とうとう私の心の平衡を破ってしまったのである。それでも私はそれに気がつかなかった。

その堕落は、私が、私の発見をまだしなかった昔へ返るようにきわめて自然なことに思われた。美しく晴れた一月のある日のことであった。足の下は霜がとけていて湿っていたが、空には一片の雲もなかった。リージェント公園では冬の鳥の囀りがいたるところにきこえ、春の匂いが甘くただよっていた。私は日向でベンチに腰をかけていた。私のうちの獣性は過去の歓楽を思い出して舌なめずりをしていた。精神的部分は、あとになって悔やむことをわかっていながら、まだ動く気にならずに、うつらうつらしていた。結局、私は自分が隣人たちと同じなのだと考えた。

それから、自分を他の人々と比べ、自分が慈善をして活動していることと、他人が冷酷に無頓着でなまけていることを比べて、微笑した。すると、そういう自惚れたことを思っている最中に、とつぜん気分が悪くなって、怖ろしい嘔き気と烈しい身ぶるいとにおそわれた。それがなくなると、私は気を失った。やがて、その失神も続いてしずまると、私は自分の考え方にある変化が起こり、一層大胆になって、危険を見くびり、義務の束縛が解かれたのに気がつき始めた。

私は下を見た。私の衣服は縮まった手足にだらりと垂れさがり、膝の上に載っている手は筋張って毛だらけだった。私はまたもやエドワード・ハイドになっているのだ。一瞬前までは私は確かにすべての人の尊敬を受けて、富み、愛されていたし、――家の食堂には私のために食事の支度がしてあった。ところが今は、私は狩り立てられていて、家もなく、あらゆる人々からのお尋ね者で、世間に知れ渡った人殺しで、絞首台へ送られる運命の人間なのであった。

私の理性はぐらついた。が、すっかりなくなりはしなかった。私がこれまで何度も気がついていることであるが、私が第二の性格になっている時には、私のいろいろな機能がきわめて鋭くなり、元気は一層弾力性を持つように思われた。そういうわけで、ジーキルなら多分まいってしまうような場合でも、ハイドはその時の急場をしのぐことができるのであった。例の薬は、書斎の戸棚の一つの中にあった。

どうしたらそれを手に入れられるだろうか? それが(こめかみを両手で押しつけながら)私の解きにかかった問題であった。実験室の戸口は私が閉めてしまった。もし私が住居の方から入ろうとすれば、私の召使たちは私(ハイド)を絞首台に引き渡そうとするだろう。私は人手を借りなければならないことを知って、ラニョンのことを考えた。どうしたら彼のもとへ行けるだろうか? どうして彼を説きつけることができようか? 私が街路で捕えられることを免れたとしても、どうして私は彼の前まで行けるだろうか? また、どうして未知の不愉快な訪問者である私が、あの有名な医者を説き伏せて、彼の同僚であるジーキル博士の研究室を探させることができようか? その時、私は自分のいままでの特質の中で、ただ一つの部分だけがそのまま、自分に残っていることを思い出した。私は自分の手で字を書くことができるのだ。そして、一度このぱっと燃えあがる閃きを認めると、私のとるべき道は端から端まで照らし出された。

そこで、私はできるだけよく服装を整え、通りすがりの貸馬車を呼んで、自分が何気なくその名を憶えていたポートランド街のあるホテルに走らせた。私の姿を見ると、馭者は吹き出してしまった。

それは、その衣服がどんな悲惨な運命を包んでいたにしても、実際にはずいぶん滑稽なものであった。私は激しく怒り、馭者に向かって歯ぎしりをした。すると彼の笑いは消えた。――これは彼にとっては仕合わせであったが、――私にとっては尚一層仕合わせであった。なぜなら、もう少しのところで私はきっと彼を馭者台から引きずり下ろしたに違いないからだ。

旅館へ入ると、私は恐ろしい顔であたりを睨み回したので、給仕人たちは震え上がった。彼らは私の目の前では顔を見かわしもしなかった。ただぺこぺこして私の言いつけに従い、私を私室へ案内して、手紙を書くにいる物を持ってきた。生命が危険になっている時のハイドは、私にとっては初めて経験するものであった。

激しい怒りに震え、人を苦しめたくてたまらず、人殺しをやりかねないほど興奮していた。それでもその男はぬけ目がなかった。非常な意志の努力で怒りを抑え、一通はラニョンに、一通はプールに宛てた、二通の重要な手紙を書き上げ、それが投函されたという実証を受け取るために、それを書留にするようにという指図を与えて出した。

そのあとで、彼は一日中旅館の私室の暖炉に向かって、爪を噛みながら腰かけていた。その室にひとりっきりで、恐怖におびやかされながら食事もしたが、給仕は彼の眼の前ではっきりとびくびくしていた。すっかり夜になってしまうと、彼はそこを出て、閉めきった辻馬車の片隅に身をおいて、ロンドンの街路をあちこちと乗り回した。彼、と私は言う、――私、とはどうにも言うことができないのだ。その地獄の子には人間らしいところは少しもなかった。

彼の中に住んでいるのは恐怖と憎悪だけであった。そして、とうとう、彼は馭者が変に思い始めたような気がしたので、馬車を捨てて、例の体に合わない衣服を着て人目につく姿のまま、夜の人通りの中へ思いきって歩いて行ったが、その時、この二つの下等な激情は彼のうちに嵐のように荒れ狂っていた。

彼は恐怖に駆られ、独り言をつぶやきながら、人通りの少ない通りをこっそりと通り、まだ夜の十二時までに何分あるかと数えながら、足早に歩いた。一度などは、一人の女が、マッチを一箱買ってくれというらしく、彼に話しかけた。彼はその女の顔を叩いたので、女は逃げていった。

私がラニョンの家で本当の自分に戻ったとき、その旧友の恐怖を見て、少しは心を動かされたかもしれない。とにかく、その恐怖などは、私がそれまでの数時間のことを思い出す時の恐怖に比べれば、大海の一滴に過ぎなかった。私には一つの変化があった。私を苦しめたのは、もう絞首台の恐怖ではなかった。それはただ、ハイドに変わることへの恐れだった。私はラニョンの非難をなかば夢心地で聞いていた。自分の家へ帰って床についたのもなかば夢心地であった。

私はその日の疲れの後なのでぐっすりと深く眠ったので、私を悩ますあの悪夢でさえその眠りを破ることができなかった。翌朝、目を覚ましてみると、気力もなく、弱っていたが、しかし気分はさわやかになっていた。私は自分の中に眠っている獣性をなおも憎み、恐れていた。もちろん、前日の恐ろしい危険を忘れてはいなかった。だが、私はもう一度家にいるのだ。自分自身の家にいて、自分の薬のすぐ近くにいるのだ。そして、危険をのがれたことに対する感謝がほとんど希望の輝きにも劣らないくらいに、心の中で強く輝いていた。

朝食のあとで、冷たい空気を気持ちよく吸いながら、中庭をゆったりと歩いていると、またもや俄かに変身の前触れであるあの言うに言われぬ感じにおそわれた。そして書斎に逃げ込むか逃げ込まないかに、私はいま一度ハイドの激情で怒りふるえているのであった。この時にはもとの自分に戻るためには二倍の分量の薬が要った。が、悲しいことには! それから六時間後、陰気に炉の火を眺めながら腰かけている時に、例の苦痛が戻ってきて、また薬を用いなければならなかった。

手短に言えば、その日から後は、私がジーキルの姿になっていることができるのは、体操をするような非常な努力によってか、薬の効き目のある間だけのように思われたのであった。昼となく夜となく始終、私はあの変身の前触れの身ぶるいにおそわれるのであった。ことに、私が眠るか、または椅子にかけたままちょっとウトウトしてさえ、目を覚ました時には必ずハイドになっていた。

この絶えず迫っている運命に圧迫され、実際には人間には不可能と思われるほどの不眠に陥っていた。私は自分自身の姿をしていても、興奮のために消耗し尽くされた人間になり、身も心も力なく衰え、ただ自分の分身に対する恐怖だけに心を奪われていた。しかし、眠った時とか、薬の効能が消えてしまった時には、私はいきなり、なんの手数もかけずに(なぜなら変身の苦痛は日々少なくなってきていたので)、恐怖の幻影に充ちた空想と、理由のない憎悪で沸きたつ心と、荒れ狂う生命力とを受け入れるにしてはそう強くもなさそうな体の持ち主になってしまうのであった。

ハイドのいろいろな能力はジーキルが衰弱するのと並行してますます強くなってくるように思われた。そして、確かにいまやこの二人を仲違いさせている憎悪は両方とも同じように強いものであった。ジーキルの場合には、それは生命の本能からくるものであった。彼は今では、意識現象のある部分を自分と共有していて、自分と死を共にしなければならないその人間が、完全に不具であることを理解していた。

そして、この共同所有という絆はそれだけでも彼の悩みのもっとも深刻なものであったが、そのほかに、彼はハイドを、生命力は強いにしても、どこか地獄の鬼のようなところばかりではなく、何となく無機物らしいところのあるものと考えた。その地獄の粘土が叫んだり声を立てたりするように思われること、その定まった形のない土塊が身振りをしたり罪を犯したりすること、死んだ無形のものが生命の働きを奪うということ、これはいかにも恐ろしいことであった。

その反逆的な恐ろしいものが妻よりも身近に、眼よりもぴったりと彼に結びつけられ、彼の肉体の中に閉じ込められ、その中でそれが呟くのが聞こえ、生まれ出ようともがいているのを感じ、いつでも弱っているときや、安心して眠っているときには、彼にうち勝ち、彼の生命を奪ってしまうということも恐ろしいことだった。ハイドのジーキルに対する憎悪は、それとは違った種類のものであった。

彼の絞首台への恐怖は、いつも彼を駆り立てて一時的に自殺させ、一個の人間ではなくてジーキルの一部であるという従属的地位に返らせた。しかし、彼はそんなことをしなければならないのを嫌い、ジーキルが近ごろ元気がなくなっているのを嫌い、自分自身が嫌われているのを怒った。そのために彼はよく私に猿のような悪戯をし、私の書物のページに私自身の手跡で涜神の文句をなぐり書きしたり、手紙を焼き捨てたり、私の父の肖像画を破ったりした。

そして実際、彼が死を恐れなかったなら、彼は私を巻き添えにして死滅させるために、とっくに自殺をしていたであろう。しかし、彼の生に対する愛情は非常に強かった。私はもう一歩進んで言おう。彼のことを思っただけでも胸が悪くなりぞっとする私でも、この卑劣で熱烈な愛着を思い出すとき、また自殺によって彼を切り放すことのできる私の力をどんなに彼が恐れているかを知るとき、彼をあわれむ気持ちが私の心の中に起こるのであった。

これ以上この記述を続けるのは無駄で、時間もない。ただ、これほどの苦しみを受けたものは、まだこれまでに誰一人もないというだけにしておこう。それでも、こういう苦しみにさえ、習慣が――決してそれを軽くしたわけではないが――一種の心の無感覚、一種の絶望的な諦めをもたらしてきた。

そして、この懲罰は、いま私に振りかかっている最後の災難がなかったならば、まだまだ何年も続いたことであろう。ところが、その災難は私自身の顔や性質を私から永久に切り離してしまったのである。私の塩剤の貯えは、初めの実験以来一度も新しく買い入れたことがなかったが、それがだんだんと少なくなってきた。私は新しいのを取り寄せ、薬を調合した。すると沸騰が起こり、第一回の変色はあったが、二回目の変色は起こらなかった。

私はそれを飲んだが、それは効き目がなかった。私がどんなにロンドン中を探し回らせたか、君はプールから聞けばわかるであろう。それも無駄であった。それで、私は、自分の最初に手に入れたのが不純であって、あの薬に効験を与えたのは、その未知の不純性であったのだと、今では確信している。

それからざっと一週間たった。そして私はいま、あの前の散薬の最後の分の効力によってこの陳述書を書き終えようとしているのである。だから、ヘンリー・ジーキルが自分の考えを考え、自分の顔(今はなんとひどく変わってしまったことだろう!)を鏡の中に見ることができるのは、奇跡でも起こらない限り、これが最後だ。それに、この手記を書き終えるのにあまり長く手間取ってはならないのだ。

なぜなら、この手記がこれまで破られなかったとすれば、それは非常な用心と非常な幸運とが結合したためであった。これを書いている最中に変身の苦しみが私を襲えば、ハイドはこれをずたずたに引き裂くだろう。しかし、もし私がこれを片づけてしまってから幾らか時間がたっていたなら、彼の驚くべき利己主義と刹那主義は、多分、その猿のような悪意のいたずらから、今一度これを救うであろう。

それに、実際、我々二人に迫っている最後の運命は、とっくに彼を変え、彼を押しつぶしてしまった。今から半時間も経てば、私は再び、そして永久に、あの憎み嫌われる人間に変わっているだろう。しかし、そのときには、私が椅子に腰かけてどんなに震えて泣いているか、または、どんなに耳をすまして極度に張りつめた恐怖のために無我夢中になり、この室(この世での私の最後の避難所)をあちこちと歩きながら、自分を脅かすすべての物音に耳を傾けているかを、私は知っているのだ。

ハイドは処刑台の上で死ぬのだろうか?それとも、最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるのだろうか?それは神様だけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先に起こることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンを置いてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終わらせるのである。