ラテンアメリカの解放者シモン・ボリバル (original) (raw)
アルベルト・フジモリが死去したが、日系人とはいえ、この人物をどう評価していいか、日本人は迷ってしまう。
しかしそれはフジモリを日本人の精神で見てしまうからで、フジモリはラテンアメリカ、いやヨーロッパのイタリア、フランスなどのラテン諸国でも、決して珍しい人物ではない。特にラテンアメリカでは、最初改革者として出発しても、後にに権力の強化、国家元首の任期の延長などを主張するようになる傾向が強い。
ベネズエラのウゴ・チャペスもそうだが、このチャペスが尊敬したのが、ラテンアメリカ最大の英雄シモン・ボリバルである。チャペスはボリバルが好きなあまり、ベネズエラをベネズエラ・ボリバル共和国と改名した。
シモン・ボリバルは1783年、スペインの植民地時代の、現在のベネズエラの首藤カラカスで生まれた。
1799年にヨーロッパに渡り遊学する。1802年にスペインで知り合ったマリアという女性と結婚しベネズエラに帰るが、1803年にマリアは病死する。
傷心のまま1804年にヨーロッパに戻り、ナポレオンに仕えたが、やがてベネズエラの独立を志すようになる。
1806年、フランシスコ・デ・ミランダがベネズエラ独立戦争を始め、ボリバルは興味を持ち1807年にベネズエラに再度帰国する。
フランシスコ・デ・ミランダ
ミランダの活躍は隣のコロンビアにも影響を与え、複数の州が独立して連合したヌエバ・グラナダ連合州が成立していた。
1808年、ナポレオンの兄ジョセフ・ボナパルトがスペイン王となると、ボリバルは反王政派となった。
以後、スペインでも半島戦争でスペインの人民が、ゲリラ戦でナポレオンの支配に対抗するようになる。スペインとベネズエラは本国と植民地の関係だが、ナポレオンがスペインを支配している間は、スペインの人民とベネズエラ独立派は利害が一致していた訳だ。
1810年にカラカスに議会が設置され、1811年に議会はベネズエラの独立を宣言した。
しかし1812年3月26日にカラカス地震が発生する。ベネズエラ共和国の支配地域が壊滅的な被害を受けた。
王党派が勢いを盛り返し、ミランダはスペインと休戦協定を締結、国外に逃亡した。
ここがよくわからないのだが、ボリバルはミランダを外患罪に問い、ミランダはスペイン軍に捕らわれた。
ボリバルはミランダに対し、「和平条約をスペイン帝国が気にかけているとミランダが信じているならば、彼は条約通りに動くだろうし、そうでないならば彼は叛逆者となり、軍に殺されるだろう」という解釈をしていた。
このことがスペイン側に伝わると、ミランダは逃亡したというから、双方に疑心暗鬼を起こさせる策略なのだろう。
ボリバルはヌエバ・グラナダのカルタヘナ(スペインのカルタヘナとは別)に向かい、スペインに徹底抗戦するカルタヘナ宣言を発表する。
ヌエバ・グラナダの市民は、ボリバルをベネズエラ解放遠征軍司令官に任命する。
1813年、ボリバルはベネズエラに侵攻し、8月6日にカラカスを奪回しベネズエラ第二共和国を成立させた。
ところが王党派の数は大して減っておらず、王党派はインディオや白人とインディオの混血のメスティーソから兵を集めてカラカスを包囲した。
また1814年には、スペインはナポレオンを追い出していたので、独立派の鎮圧に注力できるようになっていた。王党派はカラカス周辺の白人を虐殺し、迫害を逃れた人々がカラカス市内に難民として流入していた。
その頃コロンビアは、連邦制を主張するヌエバ・グラナダ連合州と中央集権制を目指すクンディナマルカ共和国が対立していた。
ボリバルはクンディナマルカ共和国の首都ボゴタを攻略し、スペイン軍に対抗しようとしたが、カルタヘナでの王党派の蜂起に破れたため、ボリバルはジャマイカに亡命した。
1816年、ボリバルはハイチの援助を受けベネズエラに上陸した。
奴隷制を廃止し、解放した奴隷を軍に組み入れて戦ったが、劣勢になり再びハイチに亡命。
1817年に三たびベネズエラ入りし、ジャネーロ(南米の遊牧民)の頭目を味方につけ、イギリス、スコットランド、アイルランドの義勇兵が参加するようになり、ベネズエラ第三共和国を樹立した。
その間ヌエバ・グラナダがスペイン軍により崩壊させられると、ボリバルはアンデス山脈を越えてヌエバ・グラナダを奇襲し、1819年8月7日、ボヤカの戦いで勝利。12月、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマを合わせた地域がコロンビア共和国(歴史上大コロンビアという)とされ、ボリバルはその大統領兼最高軍司令官となった。しかしベネズエラ、エクアドルのキトなどはまだスペインの支配下にあった。
1821年にボリバルはベネズエラに侵攻し、カラカスを奪回する。
ボリバルは部下のアントニオ・ホセ・デ・スクレをキトに向かわせ占領させる。
アントニオ・ホセ・デ・スクレ
その頃である。ボリバルと並ぶ解放者(リベルタドーレス)サン・マルティンと出会ったのは。
サン・マルティンはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放を進めていた。しかしアルト・ペルー(現在のボリビア)に対抗する兵力がなく、さらにペルーもスペイン軍の攻撃により崩壊しかけていた。サン・マルティンはボリバルに協力を求めたのである。
1822年7月末26日、ボリバルとサン・マルティンはグアヤキルで会談した。
2人の英雄の歴史的な会談だったが、会談の内容を記す資料は残っていない。しかし両者の立場の違いは確認された。
ボリバルは共和主義者で、ナポレオンの戴冠によりフランス革命は失敗したと考えていた。
しかしサン・マルティンは君主主義者で、ヨーロッパの王族を連れてきて立憲君主制にしようと考えていた。
サン・マルティンの考えは、ボリバルには到底受け入れることのできないものだった。
サン・マルティンは相当ボリバルに傾倒していたようで、ボリバルに「あなたの部下になりたい」とまで言った。しかしボリバルは、ペルー攻略に失敗しつつあるサン・マルティンを見限った。
サン・マルティンは引退を決意し、1824年、イギリスに亡命した。
1823年、ボリバルはリマに進軍し、ペルーの第8代大統領になった。そして副官のスクレがスペイン軍に大勝してペルーを解放した。
スクレはさらにアルト・ペルーを解放し、ラテンアメリカの解放戦争は終結した。アルト・ペルーはアルゼンチン、チリとの連合を望まず、国名をボリビアとした。
1826年、ボリバルはパナマ議会を開催し、大コロンビア、ペルー、メキシコ、中央アメリカ連邦(グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドル、コスタリカの元になった国)が参加した。
この会議では参加国の相互防衛条約、域内戦争の禁止、市民権の相互承認、奴隷貿易の禁止が可決された。ラテンアメリカ諸国連合である。
しかし、条約を議会が批准したのは大コロンビアだけで、ラテンアメリカ諸国連合は構想のみに終わった。
大コロンビアはペルーやボリビアの戦費負担で疲弊し、また大コロンビアも、ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キトの対立が先鋭化した。
対立は、地域の有力者の対立になる。
ベネズエラではホセ・アントニオ・バエスが、ヌエバ・グラナダではサンタンデールが代表して対立した。
サンタンデールは連邦制、大統領の任期制と再選不可、信教の自由を主張した。バエスは大コロンビアからのベネズエラの分離を画策した。ボリバルは中央集権、大統領の任期は終身、大コロンビア、ラテンアメリカ諸国連合主義、カトリック重視で、サンタンデールとは政治的立場が真逆だった。
1827年、ベネズエラとヌエバ・グラナダの間に内乱が起こると、ボリバルはペルー大統領を辞任し、大コロンビアの立て直しを図った。
内乱に備えて副大統領のサンタンデールに全権を与えながら、反乱を企てたバエスに恩赦を与えサンタンデールを解任するなど、終始一貫しない対応を取った。
ボリバルは独裁権を手に入れるが、サンタンデール派によってボリバルの暗殺計画が立てられ、危機一髪でボリバルは大統領宮殿から逃げ出した。
しかし1829年にはペルーが大コロンビアのグアヤキルに侵攻した。これはスクレが撃退したが、今度はボリバル配下の将軍ホセ・マリア・コルドバが反乱を起こす。
1830年にはベネズエラが、キトとグアヤキルがエクアドルとして大コロンビアから分離独立した。
大コロンビアはこの後いくつかの変遷をへて、1886年にコロンビア共和国となる。
大コロンビアは崩壊したのである。
ヨーロッパに旅立とうとするが、その途中で、ボリバルの右腕だったスクレが、エクアドルの大統領の任に就く際の移動中に暗殺された。ボリバルは深い喪失感に襲われたという。
ボリバルは腸チフスが悪化しヨーロッパ行きを取り止め、12月17日に死去した。
ボリバル家は有数の大富豪だったが、ボリバルは農場も鉱山も売り、奴隷も解放して、全財産を革命戦争に投じたため、資産はほとんど残っていなかった。
しかしボリバルの部下の将軍達の多くはボリバルを裏切り、権力を利用して私財を蓄えを寡頭支配層を形成した。
シモン・ボリバルは、アメリカ建国の父となったワシントンと比べ、ずいぶん違う末路を辿った。
南米は地方の独立性が高く、まとまらない世界だった。アメリカも最初は州の独立性が強かったが、それでもワシントンのバランス感覚でまとめることができたが、南米では権力の集中で解決しようとする傾向がある。
地方分権主義もあるが、その場合地方の腐敗が激しく、それを正すための中央集権も独裁となりやはり腐敗する。自由主義、共産主義、保守主義、はたまた軍事クーデターまで様々な政治が南米にはあるが、理想を高く持つほど権力を集中させようとするパターンが大抵である。
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